2018-01-14(Sun)

主の二つの命令 2018年1月14日の礼拝メッセージ

主の二つの命令
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6章4~5節

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


(1)律法についての論争
 主イエスの宣教の内容は、神の国でありましたが、神の国とは神が恵み深い唯一の主であることを信じ、神に従う者たちの中に存在するのです。
 ここに主イエスの宣教の一つのエビソードとして、或る律法学者がイエスに教えを乞うたと、本日の聖書の箇所は伝えています。
 イエスは民衆や弟子たちに神の国について教えられましたが、他方ユダヤ教の指導者たちと議論されました。所で律法学者と一概に言いましても、それぞれの学派があり、主張する内容は様々でした。それぞれの派が自分たちの信仰生活の拠り所としている重要事項を掲げ、他の派と激しく争っていたのです。彼らは極めて切実な問題を携えてきて、イエスに議論を挑みました。
 しかしイエスはどのような学派の問題に対しても、適切な答えを与えられました。それゆえファリサイ派の一人の学者は非常に強い感銘を受けたのです。マルコによる福音書12章28節はその状況を説明しています。
 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」
 そこで、次のように質問しました。「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか。」(12:28)
 聖書では、人間に対する神の意志あるいは命令を掟と言います。掟とは「定め」のことであり、神の掟は旧約聖書の中で、大きく分類しますと、礼拝や祭儀に関する律法と道徳や社会生活に関する律法です。それらは全部で613個あると言われています。
 律法学者たちの公式見解は、613個の律法のすべてが同じように重要であると言うのですが、預言者的な考えをする学派もあり、613個の律法の中で、重要なものとそうでないものとを区別し、どの律法が最も重要であるかが、盛んに議論されていました。この律法学者は自分の最大の関心事について、イエスの考えを尋ねたのです。イエスの答えはこれです。
 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29~31)
 ここで、イエスが引用された第一の戒めの聖句は、申命記6章4~5節です。第二の戒めの聖句は、レビ記19章18節です。
 イエスが最も重要とされた「神と隣人」を愛せよというこの二つの律法のように、人間に畏敬の念と完全な従順とを要求する律法は他に存在しない、と宣言されました。この二つの掟こそ、神の命令である。これらの律法は補足するためにいかなる他の律法も必要としない。この二で互いに補完していると言われたのです。イエスのこの明確な発言と権威ある態度を見て、この律法学者は心から共感しました。
 12章32~33節で、次のように自分の意見を述べました。
 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』と言うことは、どんな焼き尽くす献げ物や生け贄よりも優れています。」
 この答えを聞いて、イエスは仰せになりました。「あなたは、神の国から遠くない。」(12:34)
 なぜならば、神の国に入り、そこで生きるというは、神の命令を受け入れ、命令に従順であることに他ならないからです。この律法学者は二つの律法を神の最大命令とするイエスの律法理解に賛成し、それに従って生きることを自分でも望んでいましたから、彼は神の国から遠くないと言われたのです。
 しかし神の国に入るためには、神に選ばれた旧約の民イスラエルにとって、今なお解決されなければならない重大問題がありました。イエスからあなたは神の国から遠くないと言われたこの律法学者は、確かに、社会生活に関する倫理的律法を重視する預言者的考え方を持っていました。他方、神殿で動物の犠牲の供え物をする礼拝は、儀式的面での律法に違反する罪を贖うために定められているだけで、倫理的律法に違反する罪を贖う効力はなかったのです。
 それゆえこの律法学者は、神殿での儀式を定めた律法は道徳的面での律法と比べるとその重要性は劣っていると、考えていたのでしょう。
 しかしそこには解決すべき重大な問題が未解決でした。それは道徳的面での律法を守るために、悪い人間が果たして正しい行いができるかと言う問題です。
 それに対するユダヤ教の教えは良いことをすれば、悪い人間が良い人間になると言うのです。これがユダヤ教の基本理念です。それでは、ユダヤ教の基本理念をさらに詳しく説明すればどうでしょうか。元々人間は悪い傾向を持っているから、神の権威のもとで正しい行いと悪い行いを律法によって規定し、勧善懲悪の思想を取り入れ、神の祝福と裁きを定めるならば、人間は悪い行いをしなくなり正しい行いをするようになる。その結果、次第に正しい人間になるという人間観です。
 つまり、神的権威とそれに基づく社会的制裁という言わば外からの圧力によって、良いことを行うように強制すれば、人間は正しい人間になることができるという考え方です。
 このことは社会改良や公衆道徳向上に対しては、ある程度効果があります。町を美化するために、ごみ、煙草の吸い殻などを通りに捨てた人は罰金を科せられるという市の条例を作れば効果があるでしょう。         
 
(2)神の国
 それに対して、イエスの人間観は全く異なります。神の命令である二つの掟を守るためには、罪人である悪人が、内的に質的に変えられ、神を信じ、神に従う正しい人間となることが一番初めに必要である。従って、正しい者が神の二つの掟を守ることができると言う見方です。
 イエスは神の律法について教えられた山上の説教の締めくくりの部分で次のように仰せになりました。マタイによる福音書7章17~18節の御言葉です。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」
 従って、神に選ばれても、二つの根本的な神の命令を実行しない頑なで、罪深い民の罪を贖い、神を知り、心から神に従う新しい民とすることが、神国到来のために必要な最大課題です。実に、神の御子イエスの使命はこの課題を果たすことでした。神の国とは、人間一人一人が神との人格的な交わりに入れられて、神の御前に生きる国です。
 そのために、神の永遠の御子が人間となられた「御子イエス」において、神は人間にご自身を究極的に啓示されたのです。御子イエスを見ることにより、人は父なる神ご自身を見ることができるのです。イエスの言葉、行動、性質を見て、神ご自身を知ることができるのです。
 さらに、罪のない御子イエスが、人間の罪を担い、人類のために、人類に代わって、罪に対する神の裁きを受け、十字架の死に至るまで父なる神の裁きに従順であることにより、わたしたちの罪は御子イエスの死によって贖われたのです。因みに、聖書の言う「贖い」という専門用語は罪を犯した者は、その結果罪の力に束縛されるので、そこから罪人を解放すると言う意味です。わたしたち人間を奴隷としている罪の束縛から解放し、罪の誘惑に打ち勝つ力を与えることです。
 言い換えれば、わたしたちの罪は御子イエスの十字架の死による贖いにより、御子イエスの中で、神の御前に取り除かれたのです。その結果、父なる神は御子イエスを復活させ、天地万物の支配者とされました。今や、主イエスの支配の中で、主イエスの義がすべての人間に与えられたのです。
 その結果わたしたちは主イエスの中で既に、「神の子たち」と呼ばれる新しい人間とされました。このことを信じるとき人は新しい人間として生きることができます。言い換えれば悪人が善人になったのです。

(3)神の子たち
 要するに、主イエスを信じる者は、だれでも日毎に自分の罪を赦され、聖なる恵み深い神様との人格的な交わりの中に入れられ、神の御前に生きるのです。この者たちが神の国の民です。
 言い換えれば神の子供と呼ばれる者たちです。主イエスは本来神の御子でありますが、御子イエスの贖いにより、わたしたちは御子イエスの義と命を与えられたことにより、神の子たちとされたのです。
 それに対して、主イエスは唯一の神の御子です。ヨハネによる福音書は主イエスを「神の独り子」と呼んでいます(ヨハネ3:16)。
 他方、わたしたちクリスチャンは主イエスを信じることにより、主イエスの義と復活の生命を与えられた者として、神様との人格的な交わりを与えられ、御前に生きるようにされました。その結果、神の子たちと呼ばれるのです。
 しかしそこにはわたしたちの越えられない一線があります。わたしたちは御子イエスの性質を映し出す者として神の子供たちとされたのですが、あくまでも人間であり、御子イエスのように神ではありません。なぜならば、人間が神になることは絶対にないからです。このような次第で、わたしたちは神の子供たちと呼ばれる新しい人間として、神の御前に生きることができるのです。
 それゆえ、主イエスが「すべての良い木は良い実を結ぶ」と仰せられるように、わたしたちは主イエスとの人格的な交わりの中で、神様の命令を実行することができます。
 具体的に言えば、二つあります。一つは神様が律法によって、禁じておられる「悪い思いと悪い行為」を捨てること。これが神の命令に従うことの第一です。一つはより積極的な命令です。すなわち、神様が律法によって、実行しなさいと命じておられる「良い思いと良い行い」を実行することです。
     
(4)神を愛する
 それでは最後に、神を愛するとはどういうことでしょうか。
 第一にそれは、わたしたちが神に求め、神に祈るということです。失われていた罪人を捜し出し、見つけ、出会ってくださった主に、わたしたちと日々出会ってくださるように祈り求めることです。言い換えれば、主イエスがわたしたちの中に働いて下さることを求めるのです。同時に神が主イエスにおいて与えて下さること以外には何も求めないのです。自分の栄光を求めずひたすら神の栄光を賛美するのです。
 そうすることによって、わたしたちの中で神として働き、わたしたちを導いておられる主イエスの思いと働きを、わたしたちの思いと行為の中で、追体験し、主イエスの恵みを悟るのです。そして神の御名を賛美するのです。
 第二に隣人を愛し、隣人と共に歩み、お互いに信仰者として成長することを喜ぶのです。また隣人の必要としていることを喜んで助けるのです。愛は、自ら進んで労苦を担い、忍耐して良い業を行うのです。
 この積極的行為も主イエスにあって既に与えられている主イエスの義と復活の生命を使用することにより可能です。隣人を愛することを通して神に従い、わたしたちは神を愛するのです。わたしたち人間が神様を愛するとは神に従い神の命令を実行することそれ自体です。

 本日の讃美歌459番4節は次のように主イエスの導きを賛美しています。
 「主よ、いつくしみを 我らに満たし、 今より御旨を なさしめたまえ。我らをあわれむ 御恵みふかし、我らは主のもの、ただ主を愛す。」
 また讃美歌484番4節も次のように賛美しています。
 「わが君イエスよ、われをきよめて、良き働きを なさしめたまえ。
  わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」
 このようにクリスチャンは、主イエスに愛され、主イエスが自分たちの中に働かれるので、自分たちも主イエスを愛し、主の命令を喜んで行い、愛の労苦を通して、良き働きをするのです。しかも自分たちの働きはすべて主の恵みによることを知り、神を賛美するのです。



2018-01-07(Sun)

真の新しさ 2018年1月7日の礼拝メッセージ

真の新しさ
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
イザヤ書43章16~20節


 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙二 5章16~19節


(1)神の御前に生きる意味
 今日のわたしたちはグローバルな世界で、科学技術の進歩の速い世の中に生きています。この世は日進月歩の状態です。この時代の流れに乗っている企業は莫大な利益を得、また株価も最高の値段をつけて、新年を迎えました。他方一般の人たちの生活は景気の恩恵に与らず、好景気であると言われてもその実感はありません。このような貧富の格差が拡大する世の中で、生活に追い詰められ自殺する人々が増加しています。通勤者が利用している各地の交通機関では、毎日のように人身事故が発生しています。
 わたしたちは新年を迎えるに当たって、このような社会状況を考えますと、人は豊かさを求めて、新しい生き方をしていますが、それは人間を生かす「真の新しさ」ではないと思わざるを得ません。
 多くの新しい生き方が出現し、またすぐに過去の出来事となってしまう世の中では、人間を真に生かす普遍的な価値観がないと痛感させられます。産業、生活、政治、教育、文化のすべての方面で、人間としての共通の価値観が欠如していると思います。
 それでは真の価値はどこにあるのでしょうか。人間と世界とは、神がその創造者であり、救済者であるゆえに、生きる真の意味と価値は人間が神の御前に生きるということです。それでは人間はどのように神の御前に生きられるのでしょうか。
 実に、それはクリスマスの出来事の中にあります。つまり、神が人間と世界を愛して、神の愛する独り子を与えられたことによるのです。神が御子をこの世界に遣し、御子を通してご自身を人間に「完全」に示して下さいました。わたしたちは「御子を見る」ことによって、神を具体的に知ることができようになったのです。
 しかも神は御子の十字架の死によって人類の罪を取り去り、罪の力を打ち破り、同時に御子イエスの復活により、御子イエスの中で「人間の救い」を達成されました。このことが最終的な救いの「根拠」です。実にこの根拠によって、復活の主イエスの支配の中で、わたしたちは神の御前に生きることができるのです。
 具体的に言えば、主イエスにより救いの完成に導かれている過程の中で、日々新しく生きるのです。

(2)主イエス・キリストにあって
 それでは、神の御前にわたしたちはどのようにして生きることができるのでしょうか。それは三つの方法によってです。
 第一に、神は人間の救いに関して、先行する恵みを以て行動し、キリストの中で神の御前に生きる「新しい人」を創造されました。
 このことが救いの根拠です。

 コリントの信徒への手紙はこの点を証言しています。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5:17)
 ここで「キリストと結ばれる人」とは、ギリシャ語の本文では「エン クリストー」と言います。これは「キリストにあって」と言う意味です。キリストの中でわたしたちは新しい人間とされたのです。
 第二に、この人智を超えた神の恵みを、神様は福音の言葉によって人に知らせ、神の恵みを信じるようにされました。
 神の救いを知らせる神の言葉を「キリストの福音」と言います。またそれは「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)です。
 第三に、この福音を語るように神が遣わされた人たちが「キリストの使徒たち」です。
 神様は御子イエスの地上の生涯と十字架の死と復活と言う神の救いの「一連の啓示」を通して、「キリストの福音」を語られました。最初に神からキリストの福音を知らされた人たちが使徒たちです。神様は使徒たちに福音の宣教を命じられました。
 従って、わたしたちは使徒たちが語る福音を聞いて信じるとき、神の御前に生きる新しい人間と「なる」のです。
 ここで使徒パウロは「神の子イエス・キリストの福音」を「和解の言葉」と言っています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(コリント二、5:18)、と言っています。神に反抗する自分の罪によって神から離れ去った罪人は、最早自分の力では神の許に帰ることはできません。それゆえ神はそのような罪人を憐れみ、赦し、御自身との人格的な交わりに受け入れられるのです。聖書ではそれを「和解」と言います。
 従って、わたしたちは神から遣わされた使徒たちが語る福音を聞いて信じることが必要なのです。そうすることによって、だれでも「キリストとの人格的な交わりに」入れられるのです。
 またここで、「キリストにあって」というギリシャ語を新共同訳では「キリストと結ばれて」と表現しています。この意味はキリストを信じる者がキリストとの人格的な交わりの中に入れられることを意味しています。つまり、「キリストにあって」とは人間が、「キリストの中」ですでに神の御前に新しい人間として存在していることを意味します。他方、「キリストに結ばれて」とはキリストとの人格的な関係の中で、わたしたちは具体的に神の御前に生きることを意味しています。
 第二次世界大戦中に、ドイツでヒットラーに反対し、殉教しました若い神学者ボンヘッファーが、次のように証しています。
 「自分は常に穏やかな生命に溢れた環境に取り囲まれている。それは自分を教え、また自分の誤りを糺し、自分を常に赦す聖なる環境である。そこから命と希望を与えられて自分は生きている。」と言っています。ちょうど地上で生きるわたしたちが大気に包まれて生活しているように、わたしたちもキリストの支配の霊的領域の中で、新しい人とされ、神の御前に生きています。しかしそれと同時にキリストとの人格的な交わりが与えられています。
 その体験をボンヘッファーは自分が聖なる環境の中で赦され、誤りを糺され、命と希望を与えられて、日々新しく生きていると言うのです。
 但しここで注意が必要です。神はわたしたちの中にではなく、キリストの中にわたしたちの新しい存在を創造されたのです。それゆえ、わたしたちの中に存続する人間は新しい人間ではないのです。
 そこでわたしたちが日々、キリストと出会い、キリストの言葉を聞き、キリストに祈り、キリストの思いと性質を見つめ、キリストに従い、キリストの命令を実行することによって、わたしたちは既にキリストの内に与えられている新しい人間として、日々生きるのです。言い換えればわたしたちは日々新しくなっていくのです。

(3)上にあるものを求める
 次に、コロサイの信徒への手紙は言っています。
 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かないようにしなさい。」(コロサイ3:1~2)
 これはどういうことでしょうか。わたしたちが具体的に地上の生活の中で、神の御前に新しい人間として生きるために、常に復活の主イエスに祈り求め、自分の考えではなく、主イエスの考えを知り、主イエスの命令を実行することによって生きなさいとの勧めです。
 「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と聖書が言っている意味は、わたしたちが死人の中から復活したというのではありません。十字架の死による人類の罪を贖われたキリストが復活し、神の右の座に着かれたとき、キリストはわたしたちを神の御前に連れ出され、わたしたちは御前に立っているという霊的現実です。
 しかしその霊的現実は地上にいるわたしたちの現状ではなく、神がキリストを通してわたしたちをご覧になっている状況です。神はわたしたちがキリストを信じたとき、わたしたちにキリスト義と命を与えられたので、神はわたしたちをすでに新しい人間としてご覧になっているのです。つまり神が今ご覧になっているのは、キリストの支配と導きにより「将来成るべき」わたしたちの姿なのです。それゆえ聖書は「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:3)と言っています。
 従って、わたしたちは地上の生活をしている限り、その姿は依然として古い人間の姿であり、悪い思いと悪い行動が今でも、身にまつわりついています。
 しかし、それにも拘らず、復活の主イエスに求め、主イエスに祈り、主イエスを見つめ、主イエスに従うとことができるのです。実にこれこそ、わたしたちが新しい人間として生きると言うことなのです。なぜならば、わたしたちは主イエスに日々罪を赦され、主イエスとの人格的な交わりに入れられているからです。
 言い換えれば、主イエスを信じて、主イエスの霊である聖霊がわたしたちに与えられているからです。聖霊によって、神様に「父よ」と呼び掛け、祈ることができるからです。聖霊によって、主イエスに主よ、わたしたちの所に来てください、わたしたちと出会って下さい、わたしたちに御言葉を語ってくださいと、祈れるからです。
 そして主の命令を実行するとき、主イエスの命がわたしたちの中に働きますので、わたしたちは完全ではありませんが、少しでも実行することができるのです。そのようにしてわたしたちは日々新しく生きるのです。
 また別の視点から見れば、今や復活の主イエスは神の力を所有し、人間と世界を支配しておられる「栄光の主」でありますので、わたしたちの心と体の中に臨在し、働き、わたしたちを救いの完成へと導いておられるからです。この主の働きによってわたしたちは日々新しく生きることができるからです。
 そこで主イエスに従い、命令を実行することは二つの面があります。このことをコロサイ人への手紙は教えています。
 一つは、わたしたちの身にまつわりついている古い人とその行いを捨て去ることです。悪い欲望、不潔、貪欲、不義、悪意、そしり、その他の類のものを捨て去ることです。このことにより、わたしたちは日々新しい人間として生きるのです。
 もう一つは、積極的な面です。神に愛されている者として、主イエスの義を与えられている新しい人間として、歩むことです。すなわち新しい人間の業をすることです。
 「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。--これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:13~14)
 所で、これらすべては主イエスの性質です。それゆえこれらのことを実行し、身に着けるとは、わたしたちが主イエスの性質を映し出すと言うことです。さらに「愛はすべてを完成させる絆」ですと聖書が言っているのは、愛とは抽象的な概念ではなく、具体的な行為であると言う意味です。ここで列挙されている具体的な行為をすることです。勿論わたしたちが実行する業は極めて不十分ですが、それでも実行することができますので、わたしたちは具体的に神の御前に生きるのです。これは何と言う幸いでしょうか。
 要するに最も重要なことは、主の命令を実行することにより、「日々」新しく生きると言うことです。そのようにして、主イエスの性質を映し出す新しい人間と「なりつつある」のです。
 このことはわたしたちが地上の生活の中で、救いの完成する永遠の神の国の「実」を現在結びつつあると言えます。主にあって実行したわたしたちのすべての行為と姿は人の目には過ぎ去りましても、神の御前に保存されています。救いが完成するとき、わたしたちの姿も現れるのです。
 勿論それらすべては、主がわたしたちの中に働かれた結果です。それゆえ救いは「主の働き」の果実なのです。要するに、救いに至る道は主にあって日々新しく生きることです。
 そのような方として「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)。



2017-12-31(Sun)

自己を越えていく 2017年12月31日の礼拝メッセージ

自己を越えていく
中山弘隆牧師

 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」
エレミヤ書15章18~21節
 

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マルコによる福音書8章31~36節


(1)キリストのもとへ近づく
 人間は交わりを通してお互いに知り合うようになりますが、わたしたちがキリストを知るようになるときも同様です。そこで人がキリストへと導かれる場合にはいくつかの段階が考えられます。
 キリスト教について何らかの印象を持ち、普段はキリスト教について深く考えていない人でも、キリストのことが何となく気になっている人々がいます。例えば、友人の中にクリスチャンがいて、キリスト教はああ言うものかと遠くから眺めていたり、あるいはキリスト教の映画を見たり、讃美歌を聴いたりして、キリスト教について興味を覚えている人々がいます。このような人たちはキリストとの交わりの最初の段階にいると言えます。
 次に友人から教会の礼拝に誘われたり、また自分から礼拝に出席したりする人があります。それは他の人を通してではなく、自分の目と耳を通してキリスト教に触れると言う段階です。こういう段階にある人々のことが、聖書の中にたくさん出てきます。
 まず、聖書の中に登場する群衆は、主イエスの教えを聞いて非常に大きな感銘を受けました。主イエスは神様の意志を実に簡潔明瞭に語られましたので、神様はイエスによって、本当にわたしたちの所に「来られた」のだという畏敬の念を抱きました。
 これはガリラヤの丘の上で、イエスが群衆に教えられたときの様子です。彼らの受けた感銘を聖書は記しています。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29)
 また、イエスが中風で長年苦しんでいる人を癒された時、先ず初めに、中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と語られましたので、人々は非常に驚き、同時に不思議に思いました。なぜならば、罪の赦しは神様だけが与えることのできる神の権能に属する聖なる事柄であるからです。
 そこでイエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられると、不思議にもその通りになったのです。このことを目撃した人々は驚き、「このようなことは、今まで見たことはない」と言って、神を賛美しました(マルコ2:12)。
 このような段階にある人々は、主イエスに直接触れています。しかし、そこでは未だ主イエスを信じていないので、主イエスとの人格的な関係には至っていません。そのためには、さらに一歩踏み出す必要があります。この段階で主イエスは仰せられるのです。
 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34~36)
 これは主イエスの中に神の力が働いていることを知り、また主イエスが語られる神の愛に心を惹かれ、慰められる者は、そのことだけで満足してはならないと言うのです。救われるためには、そして人を神のみ前に生かす真の命が与えられるためには、主イエスにどこまでも従う決意が必要であると言うのです。

(2)生ける神の子イエス・キリスト
 クリスチャンは皆この主イエスの御声を聞いて、従って来た者たちです。自分の救いを主イエスに求めようとする人は、誰でも真剣に聖書を読むとき、聖書に記されているイエスの思いと行動が一層重要さを帯びてきます。しばらく日が経ちますと、聖書の中で語られているイエスの言葉は最早聞き流しにしておくことはできないと思い、御声に応えようと決意するに至ります。
 とりわけ、弟子たちはイエスの御声に聞き従って、イエスにどこまでも付いて来た人たちです。そうするとき弟子たちはイエスの言葉と行動と性質をよく見ることができ、主イエスの人格と出会い、イエスは心の中が本当に「真実」である方、父なる神に対して全く従順な「子なる神」であることが段々と分かって来ました。
 もちろん主イエスは最初から神であり、「神の御子」ですが、マリアから誕生した「真の人間」として、人間の歴史の中に入って来られた方です。そのような方として神を知り、神に対して従順な、「真実な人間」として歩まれました。その姿を目撃した弟子たちはイエスを「神の子」と呼んだのです。
 なぜならば、「子なる神」の本質は、父なる神に対して徹底的に従順であることです。神の御子は自ら進んで喜んで父の御心を実行し、同時にその栄光を自分にではなく、父なる神に帰せられる方です。そのような「真実の人間イエス」を弟子たちはよく見て、イエスを「神の子」と告白しました。
 それゆえ、弟子たちはイエスに対する信仰を次のように告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)
 このとき、イエスは弟子たちの告白を受け入れ、父なる神が弟子たちにイエスに対する信仰を与えられたことを祝福されました。
 他方、イエスは律法学者の偽善を厳しく糾弾されました。なぜならば、「父なる神」に対して徹底的に従順である「神の子」として、人間に命じられた神の命令である「律法」を本当の意味で理解し、それを完全に実行しておられる方なので、律法学者たちの偽善を容認することはできなかったからです。
 律法学者たちは自分の考えによって律法を解釈し、律法の意味を曲げて、人間の様々な規則を作り、しかもその煩雑な規則によって、神の命令の本当の意味を不鮮明にしてしまいました。
 彼らの状態はイエスから見れば、神に対する彼らの不従順と彼らの欺瞞によるものであることが、よく分かったからです。彼らには神に対する信頼と従順という「真実な心」が欠落している点を暴露されました。
 しかし、弟子たちは主イエスこそ、人間に対する神の命令である律法の意味を完全に理解し、完全に実行しておられる方であることが分かりましたので、そのような方として、主イエスこそ本当の意味で人間を生かす「命の源泉」であるであることを悟ったのです。
 他方イエスが「政治的なメシア」であるという期待を抱いて、主イエスに従ってきた多くの人たちは、イエスの行き方が伝統的なユダヤ教の教えとは異なっているので、イエスのもとから立ち去りました。
 そのとき、イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられましたので、シモン・ペテロは弟子たちを代表して次のように申しました。
 「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)
 ここで、ペトロはイエスを「神の聖者」と呼んでいますが、これは「神の御子」と同じ意味です。
 さらに、弟子たちは主イエスに対して「あなたは永遠の命の言葉をもっておられる方です」と告白していますが、つまりこれは主イエスこそ「永遠の命の源」であると言う意味です。

(3)価値観と人生観の転換
 次に、「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)というイエスの命令は何を意味しているのでしょうか。
 それは人が神から与えられる「真の命」に生きる道を歩むために、次の点が必要であることを示しています。
 第一は、根本的な価値観、言い換えれば自分の人生観を転換することです。
 誰でも有意義な人生を歩みたいと欲しています。そのために、将来自分は何をしようかと考え、自分で価値あると思うことを決め、それを実現するため、学校で学び、社会に出てからも努力を続けています。もちろんこの点は社会の中で自立して生きいくに必要不可欠です。しかし、これはこの世界に生を受けた人間の本当の意味を決めることとは別です。
 なぜならば「人生の本当の価値」とは、人間の創造者であり、救い主である神様が決めてくださる事柄です。しかも神様は既にこの価値を「主イエスの中」で実現してくださったのです。さらに詳しく言えば、その価値とは「主イエスご自身」なのです。従って、主イエスをそのような方として信じて、主イエスに従うことです。ここに価値観の転換があります。
 第二に、主イエスの命令を実行することです。そうするならば、わたしたちは決して完全ではありませんが、それでもある程度実行できるのです。これはわたしたちにとって驚きです。その体験により実行できるように主イエスがさせて下さったのだ、神がわたしたちの中に働き、実行させてくださったと言うことが分かります。
 第三に、十字架の死を全うされた方として、主イエスはわたしたちに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せられます。しかし、わたしたちが「自分で負う十字架」は人類の罪を贖うために「ただ一度限り」十字架について死なれた「全く罪のない神の御子」の十字架とは意味が全く異なります。それゆえわたしたちが十字架を負うと言うことは、主イエスに従っていく中で様々な困難やそれに伴う苦しみを必然的に経験するという意味です。
 しかしそれだけではありません。それは高慢な、利己的な自分に対して「否」と言うことを意味します。罪深い自分の様々な思いと行動を捨て去ることです。同時に神の御心に対して、「はい、そうです」と心から賛同し、それを実行することです。
 その際にわたしたちは父なる神に喜んで、自ら進んで従われた神の御子イエスの性質を「自分の心」に抱き、神の命令に従うのです。
 また、自分の安全と楽しみを重要視する自然的な人間の思いを捨て、神の御心を実行するために、言い換えれば、隣人に対する神の愛を実行するために、自分の心と思いと時間と労力を隣人のために費やすことが必要です。言い換えれば、「愛の労苦」は神が与えられる「命に生きる」ことに他なりません。

(4)信仰者の中に働く主イエス
 最後に、わたしたちは生まれながらの人間として罪に束縛され、神に反する低い思いに生きていた者が、これからは主イエスに従うことによって、主イエスの性質を映し出す「新しい人間」として「主イエスの思い」を抱いて生きるのです。
 そのためには主イエスの思いを抱いて、絶えず自己を乗り越えて行くことが必要です。それが主イエスに従うということです。
 このとき人はパウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と言うことができます。
 このことが分かると、キリストに従って、クリスチャンたちが自己を越えていくことは、クリスチャンの中に主イエスが臨在し、働いておられるゆえに可能とされたことが分かります。クリスチャンの中に復活の主イエスが働いておられることが分かるのです。
 実に初代教会のクリスチャンたちは皆この体験を共有し、告白しています。最初のクリスチャンたちの信仰告白は「イエスが神の子である」という告白です。このことは使徒言行録8章35~37節に記されています。但し、37節は使徒言行録の付録に入れられています。そこで「イエス・キリストは神の子であると信じます。」となっています。さらにヨハネの手紙一、4章15節には最初の信仰告白が保存されていると言われています。
 「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまって下さり、その人も神の内に止まります。」
 イエスが神の子であると信じる者の中に、主イエスがそして父なる神が臨在し、働き導かれることを彼らは体験し、賛美しています。



2017-12-24(Sun)

御子の栄光 2017年12月24日クリスマス礼拝メッセージ

御子の栄光
中山弘隆牧師

 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7章14節


 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書1章14~18節


(1)インマヌエル
 本日わたしたちはクリスマスの喜びを共にしながら、礼拝を守っています。クリスマスの人智をはるかに越えた恵みのとは「インマヌエル」であります。
 イエスの誕生を巡ってマリアと婚約していたヨセフは処女マリアの身に起こった不思議な受胎に衝撃を受け、マリアのためを思い、ひそかに離縁しようと決心しました。そのとき天使が告げました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20~21)
 さらにマタイによる福音書はこの出来事こそ預言者イザヤを通して神が語られた「インマヌエル」の成就であると言っています(マタイ1:22~23)。「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味のヘブル語です。
 実に、イエスは本来神である御子がマリアより人間として生まれ、「人間となられた神」なのです。それゆえイエスこそ、「われらと共におられる神」なのです。
 
(2)神である御子が人間となられた恵み
 従いまして、わたしたち人間の存在と性質に深く関わる仕方で神が共にいますという「インマヌエル」は、世界万民の中でただ一人、神の御子であるイエスによって実現しました。
 イエスは地上の生涯を過ごされたとき、神との親密な交わりの中で歩み、神を「自分の固有の父」として自覚し、それゆえご自分についても「父の子である神」として自覚しておられました。実に人智を超えたこの自覚に基づいて、父の意志を知り、父の意志に従って、行動し、人類の救いの使命を果たされた方です。
 このイエスの自覚は真に驚くべき「神秘」です。人間の知恵によっては不可知な神の現実です。しかしイエスのこの自覚とそれに基づく行為が、実にイエスは神であることを啓示しているのです。
 この状況をヨハネによる福音書1章14節は証しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
 「言(ことば)」とは神の意志を表す神の働きです。それは神とは全く異なる被造物であるわたしたち人間に対する神の「自己伝達」なのです。つまり単なる言葉ではなく、神の存在の一つの在り方です。要するに「言(ことば)」とは、「神の独り子」です。それに対して「肉」とは、わたしたち人間のことです。
 従いまして、聖書が「言(ことば)が肉となった」と告げるとき、「神である永遠の御子」が真実の「人間イエス」となったことを証言しているのです。これを「神の言葉」の「受肉」と言います。
 それゆえ、神が人間となられた「御子イエス」は、わたしたちに神を完全に示されました。
 ヨハネによる福音書は言っています。
 「いまだかって、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)
 これはいかなる人も自分の目で神を見ることはできませんが、イエスだけは唯一の例外なのです。父なる神を直接的に見ることができる方なのです。それゆえ、わたしたちは御子イエスを見ることによってのみ、神を知ることができるのです。
 この点について、イエスご自身が証しておられます。
 「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。(ヨハネ5:19~20)
 このように、御子イエスは父なる神と唯一無二の関係の中にある方です。それゆえ、御子イエスは父なる神の性質と意志と行動を、ご自身の人間としての性質と意志と行動によって、完全に示しておられます。
 このイエスの特質を「イエスは神の完全な似姿である」と言います。コロサイの信徒への手紙は言っています。
 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイ1:15)
 この聖書の意味は非常に重要です。なぜならば、コロサイの信徒への手紙は、御子イエスはマリアから生まれる前に、さらに万物が創造される前に、存在し、見えない「神の姿」であったと言っています。イエスは天地万物が創造される以前に父なる神から生まれた方として、神の姿であったと言うのです。その神の姿がマリアから人間として誕生されたのです。
 それゆえ、今や神は御子イエスにおいて、わたしたち人間と出会い、ご自身を示されました。
 そのことをヨハネによる福音書は、先ほど引用しました1章14節で証言しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14前半)
 ところで、言(ことば)、すなわち永遠の御子が人間となられる際に、言(ことば)がそれまで神として持っておられた全知全能の能力を制限し、人間のレベルに降り、その制限の中で、神を知り、神の意志を実行されました。なぜなら、御子イエスの制限の中でのみ、わたしたち人間は神を自分の身近に知ることができるからです。
 他方、この制限の中でイエスはわたしたち人間が聞くべき神の言葉を完全に語り、同時に完全に実行されましたので、イエスは御自身の人格と言動を通して神を「完全」に啓示されたのです。

(3)御子イエスの十字架の死
 それゆえヨハネによる福音書は「神の言(ことば)の受肉の栄光」を証しています。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14後半)
 ここで「恵み」とは「憐れみ」または「無償の恩恵」と言う意味です。すなわち、ご自分に敵対している罪人をそれにも拘らず、神は愛されるのです。それゆえ、恵みとは罪人を救う神の具体的行為です。
 次に、神が人間を救うために、人間の罪の問題を根本的に解決される必要がありました。つまり、神の正しさを人間存在の中に貫徹する必要がありました。そのとき「正しさそれ自体」である神は「ご自身」に対してどこまでも「忠実に行動」されました。この出来事を「神の真理」が現れたとヨハネによる福音書は言っています。
 さらに、そのため神が取られた唯一の手段は、全く罪のない御子イエスにおいて、全人類の罪を最終的に、決定的に、それゆえただ「一回限り」に裁き、すべての罪を取り除かれるためでした。なお、積極的な意味で人間が神のみ前で生きるために必要な「義」を、御子イエスの中で実現されるためでした。
 要するに、御子イエスが人間とご自身を連帯化させ、人間の代理となられ、人間に代わって、罪を裁く父なる神の意志に徹底的に従い、十字架の死の極みまで従順であった「御子イエスの中」で、神の義が確立したのです。
 その結果、わたしたちは、御子イエスと結ばれて、神のみ前に生きる「新しい人間」として、御子イエスの中で創造されたのです。但し、わたしたちの新しい人間はわたしたちの中にではなく、「御子イエスの中」に保存されています。
 それゆえわたしたちが御子イエスを信じ、御子イエスに従うとき、御子イエスの中に保存されている新しい人間として神のみ前に実際に生きるのです。
 さらに重要な点は、御子イエスの十字架の死は、人間の罪だけではなく世界の諸国家の罪を取り除いたのです。そのことによって、諸国家は御子イエスの支配下に置かれました。
 尚ここで一番重要なことは、イエスがすべてのことが自分に与えられた使命であると認識し、「ご自身の意志」を以て、その使命を引き受けられたのです。そして死の極みまで父の意思に従順でした。イエスはそうする中で、「父とご自身が一体」であることを自覚しておられたという点です。正に、イエスは神です。その結果、父は御子イエスを復活させ、御子が受肉する以前に持っておられた神としての働き、すなわち神の主権を御子イエスに与えられました。
 それゆえ今や主イエス・キリストは神の主権を行使する方となり、教会と世界の諸国家の支配者なのです。このことにおいて、御子イエスの限りない栄光が現れています。
 さらに、もう一つ重要なことがあります。それは永遠の神であり、万物の主権者である主イエス・キリストは「神の言葉」として、人間を含めて万物の「創造者」なのです。
 なぜならば、すべてのことは父なる神から出ています。それゆえ父なる神は「唯一の根源」です。御子イエスは父の意思と働きを媒介する「仲保者」です。仲保者としてすなわち「神の自己伝達」として、御子イエスは「神の言葉」なのです。万物は神の言葉によって創造されました。それゆえ、御子イエスは創造者です。
 「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。--万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1~3)
 
(4)わたしたちは何をすべきか
 今や復活の主イエスは人類と万物の創造者であり、同時に人類と世界の救い主です。そのような方としてわたしたちの中に救いの業を前進させ、わたしたちを救いの完成に向かって導いておられます。
 復活の主イエスは聖書の御言葉を以て、日々わたしたちと出会い、罪の赦しを以てご自身を示し、ご自身の真理に基づく神の義を与え、ご自身の霊的生命、復活の命を与え、わたしたちが主イエスの命令を実行することによって、神のみ前に生きるようにして下さいます。実に、この事実こそ、主イエスがわたしたちを愛して下さっていると言うことに他なりません。
 なお重要なことは、復活の主イエスは、地上においてご自身の使命を果たされた御子イエスと同じ方であります。それゆえわたしたちは地上でのイエスの性質と言動を熟慮し、同時に復活の主イエスを見詰めながら主に従うことができるし、またそうすべきです。
 なぜならば、そうすることがご自身をわたしたちに与えられた主に対して、感謝することであるからです。それは次の六つの点です。
 第一に、わたしたちは自分の存在、思いと行為の全部が、創造者であり、救済者である主イエスに知られていることを感謝することです。感謝の一念をもって自分の生涯を生き抜くことです。
 第二に、主イエスに祈ることです。主イエスはわたしたちの祈ることを喜んでくださり、聞き入れて下さいます。
 第三に、祈ったことは実行することです。主イエスはわたしたちの実行が不完全であっても、ともかく実行できたことを喜んでくださいます。
 第四に、自分だけでなく、他の人たちのためにも祈ることです。
 第五に、主イエスの復活の命はわたしたちが自ら進んで苦労を担うことを可能にします。それゆえこの世界の中で逞しく生きることができます。
 第六に、常に主の栄光が現れるために働くことです。
 そうすることによって、創造者であり救い主である主を賛美するのです。
 讃美歌(21)255番の3~4節はインマヌエルを賛美しています。
 3節 とこしえの光、暗き世を照らし、闇に住む民の上に輝けり。
    陰府(よみ)の力、破るため、御子は来たりたもう。
 4節 絶え間なき賛美、み使いは歌う、「聖なる、聖なる、聖なる
    万軍の主」。
    いざ、われらもほめ歌わん。「ハレルヤ、ハレルヤ」。



2017-12-17(Sun)

生涯の献げ物 2017年12月17日の礼拝メッセージ

生涯の献げ物
中山弘隆牧師

 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
ルツ記1章15~19節


 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章41~44節


(1)本当の献げ物
 福音書には、主イエスを感動させた出会いや出来事が幾つか伝えられていますが、本日の聖書の箇所もその一つです。
 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。」(12:41)
 聖書の註解書を見ますと、これはエルサレム神殿の光景です。エルサレム神殿は、一番奥に聖所があり、その前に三つの庭がありました。聖所に近い第一の庭には男性だけが入ることができ、その外側の庭には女性だけが入ることができました。さらに、女性の庭の境はイスラエルの民と異邦人とを区別する壁で囲まれており、異邦人が入ることのできる庭は一番外側にありました。
 人々が献金する場合に賽銭箱に金を入れるのですが、賽銭箱は女性の庭の壁の周りに13個設置されており、金属製の「ラッパの形をした箱」であったといわれています。
 イエスはちょうど神殿の庭や回廊で、律法学者や祭司たちのグループと激しい論争の後、疲れて異邦人の庭に行って静かに座っておられたのでしょう。目の前にラッパの形をした賽銭箱があり、群衆はそこに金を投げ入れていました。
 その献金は神殿の費用に充てられていましたが、これは自発的な献金でしたので、人々は思い思いに献げていたのです。中には多額の献金をする人たちもいました。次のように記されています。
 「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」(12:42~43)
 ここで、イエスが、「弟子たちを呼び寄せて言われた」とありますが、これは主イエスが重大な発言をされるときの様子を表しています。例えば、十二人の弟子たちを選ばれたとき、イエスがご自分で望まれた人たちを呼び寄せられたと書いてあります。
 さらにここで「はっきり言っておく」とイエスは仰せられました。この言葉は非常に強調したイエス特有の言い方です。直訳すれば「わたしが真にあなたがたに言う」という言い方です。とにかくこれはイエスの重大な発言であることを告げています。
 このことを考慮しますと、一人のやもめの献金を見て、イエスは非常に感動され「ここに献金する者の本当の姿がある。」と仰せられたイエスの深い思いが分かります。
 先ほど申しましたように、神殿には13個のラッパの形をした金属製の賽銭箱が置かれており、そこに投げ入れられる硬貨がチャリン、チャリンと派手な音を出すので、この庭は騒がしい空間でした。しかしイエスの耳は最も微かな音に波長を合わせて共鳴したのです。
 レプトン銅貨とは当時流通していた最小の貨幣です。レプトン二枚はローマの貨幣に換算しますと1クァドランスであると説明しています。因みに、これはマルコによる福音書がローマで執筆され、ローマにいる信徒のために書かれたということを暗示しています。
 この献金がイエスの目には、「一番多くの献金」であると映りました。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりも沢山入れた。」と仰せられたのです。その理由をイエスは次のように説明しておられます。
 「皆は有り余る中から入れたが、この人は、貧しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。それはどういう意味でしょうか。
 イエスが仰っている意味は、このやもめの献金は神に対する信頼と愛から出たものであるので、神様が喜んで受け入れてくださると言う意味だとわたしは思います。
 神の目には人の心の中の思いがすべて明らかです。献げ物をする場合に、人がどのような動機でするかを神様はご存知です。不本意な気持ちで仕方なくするのか。あるいは売名や自己宣伝のためにするのか。しかしそうではなく、愛する心から献げるのか。その場合、愛する心でそうせずにはおられないという内から湧き出る気持ちで献げるならば、それは本当の献げ物となるのです。
 神の前では、わたしたちの愛のいかなる献げ物も、数えるには余りにも小さ過ぎるということはありません。また神の前では、人間のいかなる生活も人と分ち合う義務から免れることもあり得ません。
 実に、愛の業によって神の国は前進しているのです。初代教会以来のキリスト教の歴史を顧みますとき、貧しさの中からいかに大きな献げ物が為されて来たかは明らかです。それは金銭だけのことではなく、信仰者たちの生涯の献げ物、職業を通して、神の栄光のために働き、思想や芸術の様々な能力、技術を神に献げることにより、キリスト教会は形成されてきたのです。

(2)愛の労苦
 それでは愛の献げ物とはどのような性質を持っているでしょうか。二つのことが挙げられるのではないかと思います。
 第一は、それは犠牲を伴うということです。本当の愛の業は、自分の持ち物を裂いて与えることですから、与えた後しばらくは苦しい状況が続くでしょう。また献げるために自らの手で働かなければなりません。そこには労働の苦労が伴います。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙一、1章2~3節で、次のように言っています。
 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」
 ここで、パウロはテサロニケ教会の人たちの「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」を常に思い起こし、神に感謝しています。非常に印象的なのは、パウロは「愛の業」と言う代わりに、「愛の労苦」と言い換えている点です。このようにわたしたちが人を愛し、神を愛し、教会に仕えるためには、愛の労苦が必要なのです。
 一般的に言えば、労苦を伴わない愛は存在しません。いつでも喜んで、自発的に労苦するのが愛の特質です。さらに犠牲を伴う献げ物をするには、つねに信仰の働きが必要です。なぜなら、信仰の働きによって愛の行為が可能となるからです。
 さらに神様が自分をいかなる時も守り、支え、必要な物を与えてくださるという確かな信仰が必要です。きっとこの貧しいやもめは、自分の生活費全部を献げても、この後は神様が守っていてくださると信じていたに違いありません。

(3)時を知る愛の業
 第二に、愛の献げ物は時に適っている、愛はその時を知っていると言えます。また、愛はそれを行う機会がただ一回しかないことを知って、その時期を決して逃さないと言えます。
 イエスが十字架につけられる時が近づき、ベタニアのシモンの家で、食事の席に着かれた時、一人の女性が高価なナルドの香油の入った壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。
 その大胆な行為に驚いた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上で売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(マルコ14:4)といって、その女性を非難しました。
 しかし、主イエスは仰せになりました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限りのことをした。前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」マルコ(14:7~9)
 このように一つ一つの愛の業は、最も必要な時に行われています。本当の愛の業は、その時を逃しては実行できないのです。

(4)自分自身を献げる
 次にわたしたちのなす愛の業は、神が主イエスにおいて、わたしたちを愛し、わたしたちにご自身を与えてくださったことに対する感謝の応答です。
 使徒パウロはこの点について、自分の心情を言い表しています。
 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(コリント二、5:14~15)
 聖書はわたしたちにいつも主イエスの人間に対する自己譲与の福音を語ります。自己譲与とは、すべての人の罪の贖いのためにイエスが死んでくださったことが一つ、もう一つはイエスがすべての人のために復活し、信じる者の中で働いてくださることです。
 イエスが復活して下さったことによって、わたしたちはイエスに自分を献げることができるのです。この点を見逃すことはできません。それゆえ、福音が真剣に聞かれる所に、自発的な愛の業が沸き起こります。有名な英国の神学者フォーサイスは「恵みの福音」について、この点を強調しています。
 「先ず、神が罪人をいかに愛してくださったかを語れ。次に、この神の愛に対する人間の回答は信仰であることを語れ。そうすれば信仰から愛は自然と成長する。信仰が人間に愛する力を与えるのでなければ、人間は愛することは不可能である。しかし、信じるならば愛を必ず実行することができる」とフォーサイスは教えています。
 従いまして、わたしたちの生活全体は、この「恵みの福音」に対する感謝の応答としてなされるのです。先ず、主イエスがわたしたちの救いのために、ご自身を与えて下さったことに対するわたしたちの応答の第一が信仰です。次に第二の応答が、愛の実践です。さらに第三の応答が、永遠の救いに入れられると言う希望と確信です。人は忍耐を持って信仰の人生を送り、自己の死を受け入れ、死を越えて、復活させられるのです。
 実に信仰と愛と希望によって、わたしたちは主イエスと結ばれ、主イエスによって神の御前に生きるのです。しかも、信仰と愛と希望は主イエスがわたしたちに与えられる聖霊の働きなのです。
 正にイエスが神の御子として、地上の人生を歩み、十字架の死と復活により、今や主となり、神として、救い主として働いておられるのは、福音を聞いて信じる者たちが主イエスと結ばれて、主イエスに従うことによって、主イエスの義と命に生かされるためです。
 このような者たちとして、わたしたちは礼拝において、主イエスと出会い、主イエスに感謝の応答として、自分の存在と生涯全部を主イエスに献げるのです。その献身は礼拝の中でなされます。それは一週間の生活を信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐の時として送るためです。それでは主イエスはどのような方法で、そのようにして下さるのでしょうか。今やイエスは主となられましたので、神として信仰者の中に働かれるという方法です。
 今や復活の主イエスは地上で歩まれたご自分の人生を、主イエスに従う者たちの中で、ご自身が歩まれた古代の状況とは全く異なる新しい状況の中で繰り返されるからです。どうしてそれが可能かと言えば、主イエスは今や「神と」して働いておられるからです。
 それゆえ、使徒パウロは言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

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三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
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