2017-06-11(Sun)

神に赦された者 2017年6月11日の礼拝メッセージ

神に赦された者
中山弘隆牧師

 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために/わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
イザヤ書57章14~19節


 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書18章9~14節


(1)第三イザヤ
 本日の聖書の箇所でありますイザヤ書57章14~19は、通常第三イザヤの預言である、と見られています。通常、イザヤ書は三人の預言者によって書かれたと言われています。その理由はそのメッセージの内容や文体、また時代の背景の違いによって三つに区分できるからです。
 1章~39章はエルサレムで活躍した預言者イザヤの語った預言です。それはアッシリア帝国がイスラエルとユダに侵入し、イスラエル国家が滅亡し、ユダ国家もアッシリア帝国の属国となった時代です。それは西暦前740年から700年頃までの期間です。
 次ぎに、40章~55章は、通常第二イザヤと呼ばれている偉大な無名の預言者の言葉です。彼が活躍したときの状況は第一イザヤの時代から約200年後の時代を背景としています。すなわちアッシリア帝国の次に登場したバビロニヤ帝国によって、とうとうユダヤ国家は滅び、ユダヤ人はバビロンで捕囚の民とされました。
 しかし古代世界の中心でありましたアラブ諸国の支配が終わり、ペルシャ帝国の時代に突入する世界史的な転換が、西暦前539年に起こりました。第二イザヤはこの世界史的な転換期において、ユダヤ人はペルシャの王クロスによって解放され、バビロンからエルサレムに帰還することを預言しました。彼は捕囚の地、バビロンで活躍し、この預言を語りました。
 但し、それだけではなく、むしろ第二イザヤのメッセージの中心点は、神ご自身が世界を統治されるため、神がこの世界の中に到来されるという預言です。
 最後の56章~66章は第二イザヤの一人の弟子がエルサレムで預言した言葉の収録であると見られています。彼も無名の預言者で、通常、第三イザヤと呼ばれています。彼の預言の特徴や強調点は神の國が一刻も早く到来することへの期待と待望です。

(2)終末論的な生き方
 本日の箇所は、第三イザヤの預言ですが、特に第二イザヤの影響が顕著に表われている箇所です。第三イザヤは彼の先生であった第二イザヤが語った「神の統治」すなわち主権の確立に関するメッセージを受け継いでいます。
 神様が人類の歴史の真ん中に入ってこられ、直接支配されると言う事実はそれまでの旧約聖書の時代にはありませんでした。従ってそのことは全く知られていませんでした。摂理による神の歴史支配ではなく、全く新しい形態の神の支配です。それゆえ、48:6~7で、神はこのように語られています。
 「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと、それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたとお前に言わせないために。」
 このような人間に対する神の直接的支配は、それまで続いた人類の歴史を終わらせることです。それゆえ、終末論的な事柄と言うことができます。それにも拘わらず、それは人類の新しい歴史を創造するのです。これは真に逆説的な真理です。
 しかし、もしわたしたち人間が神の直接的な統治を受けるとすれば、わたしたちの在り方は根本的に変わらざるを得ません。それゆえ、旧約聖書では、神を見た者は非常な恐怖を感じ、自分は死んでしまうと言っています。神を見てなお生きている人はだれもいないというのが、彼らの偽らざる実感でした。
 但し、聖書で言う神への畏れは、全知全能の神の力に対してよりは、むしろ神が道徳的に全く正しい方であるという理由と、神の命令は人間の責任を根底から問うという理解から由来します。
 具体的に、神は御言葉を通して、人間の果たすべき責任を示されました。先ず、それはレビ記19:18の御言葉です。
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 この御言葉の鏡によってわたしたちが自分を反省するならば、自分が利己的な人間であり、隣人を愛することの出来ない罪深い者であることを知ります。
 また、預言者エレミヤが語った言葉、「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ22:3)
 無実の人の血を流すとは、王が不正な裁判をすると言うことです。或いは裁判官の誤審により、無実の人が冤罪によって処刑されると言うことです。そのような場合に、人を裁く王や裁判官も神の前では自己の責任を免れることはないのです。しかし、そのようなことになれば、社会の制度は維持できませんので、裁判官の責任を社会は問わないでありましょう。それでも神の御前では王や裁判官の責任が見逃されるということでは決してないのです。
 従って、これらの御言葉を聞くとき、人は皆、自分は不義なる者、邪悪な者であることを深く自覚するようになります。正にこれは預言者である第一イザヤの体験です。イザヤ書6:5で、イザヤはこのように告白しています。
 「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を見た。」
 ここで、イザヤは生ける神に直面して、自己の存在が危機的状況に陥ったのです。しかしそのとき、神はご自身の恵みの神秘によって、イザヤの罪を赦されました。その結果、さらに驚くべき出来事が起こりました。それは6章8節で説明されています。
 「そのとき、わたしは主のみ声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」
 この簡潔な言葉は、イザヤが自分とは全く性質の異なる聖なる方、主なる神と人格的に出会い自分が罪人であることを心に刻みつけましたが、同時に、神の恵みを受けて罪が赦されたのです。
 恵みとはそれを受けるに全く値しない者に対する神の無償の愛、憐みです。しかも、そうするや否やイザヤは神の御声を聞きました。つまり、正に人間が生ける神の御言葉を聞くこと、これが神の統治の実体です。しかも神の統治は神の赦しに立脚しておりますので、イザヤは自ら進んで、喜んで神の御言葉に応答しました。ここに神の統治は人間を真に生かす力をもっていることが明らかになりました。
 繰り返して説明しますと、イザヤは主の御言葉を聞くことによって、御言葉自身がイザヤを裁き、赦し、そして神に聞き従う者へと変革したのです。神の御言葉こそ実に生ける神ご自身であり、神の御言葉が語られるということは、神が人間と出会い、人の心の中に臨在され、働かれることに他ならないのです。
 それゆえ人は神の御言葉を聞くことによって常に新しい人間となり、御言葉に従うことによって神の御前に生きるのです。
 
(3)主イエスの恵みと聖霊の働き
 それでは、イザヤ書57:14~19はわたしたちに何と呼びかけているのでしょうか。先ず14節は導入の言葉です。
 「主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道から躓きとなる物を除け。」
 これはどう言う意味でしょうか。「道」とは人間が神に従って歩む人生を意味します。道を備えるとは、人が真実に悔い改めるという意味です。
 しかし、ここで注意しなければならない点は、人間の悔い改めに先行する神による人間の罪の贖いがある、と言うことです。この事実に関しても、第二イザヤは41:14で次ぎのように預言しています。
 「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。『恐れるな。虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。』」
 従いまして、神の贖いを人間が信じ、「信仰の従順」によってそれを受け入れること、これが「悔い改め」です。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(57:15)
 この聖句は、聖書的な敬虔さを要約しています。実に、聖なる神は、高い所に存在しておられる方です。言い換えれば神は人間を超越しておられるので、人間の目には見えない方です。
 しかしそれだけではありません。聖なる神は、へりくだる霊の人と共におられます。因みに、「謙る霊」とは人間の霊のことであり、言い換えれば「謙遜な心」を意味しています。ここでいう「霊」とは聖霊のことではありません。
 聖書は人間が「肉と体と霊」の三つの要素から成り立っていると見ています。肉とは生理的な人間の側面、体とは人間が社会的な関連の中で生きている側面、そして霊とは人間存在の最も中心に働いて、人間を主体的に生かしている人格の尊厳です。人間がこの三つの側面を持っていると言うのが、聖書の人間観です。
 要するに聖なる神は、へりくだる霊の人の中に臨在しておられるのです。そして、打ち砕かれた心の人に命を与えられるのです。
 それでは、へりくだる霊の人、打ち砕かれた心の人とは、一体、誰のことでしょうか。
 それは自分が罪人であることを本当に知っていること、自分自身の力に最早寄り頼もうとしない人、自分の功績を主張することを少しも欲しない人、神に赦されている人です。それゆえ神に祈り求める人、神ご自身が自分の中に働いてくださることによって、生きようとする人、つまり神が主イエスを通して、与えてくださる「新しい自分」に生きようとする人です。
 最後に、主イエスは神殿で神に祈った一人のファリサイ主義者と一人の徴税人を対比しておられます。(ルカ18:9~14)
 ファリサイ主義者は、自分の義を誇り、神に感謝しました。他方徴税人は、自分の罪を深く自覚し、神に罪の赦しをひたすら祈りました。主イエスはその祈りが聞き上げられた者は、徴税人であり、ファリサイ派の人ではないとはっきり仰せになっています。
 罪が赦され、義と認められるとは、聖なる神がその人と出会い、その人の中に臨在されるので、その人が神の御心を知り、神の命令を行う新しい人になった、と言うことです。
 他方、ファリサイ主義者の祈りは、自分が神の律法を行っていることを神に感謝しています。しかし、ファリサイ派の人の祈りは神に聞かれなかったのです。なぜなら、神はファリサイ主義者の中に臨在し、彼を通して働かれることはないからです。
 さらに、心が打ち砕かれた者とは、聖なる神が主イエスの贖いの事実に基づき、常に赦しをもって、自分に出会ってくださるという恵みを聖霊によって知らされ信じる人、そして主イエスの恵みの中で生きる人です。それゆえ、クリスチャンの信仰と愛の業は、クリスチャンの中に与えられている「聖霊」の働きなのです。



2017-06-04(Sun)

真理の聖霊 2017年6月4日ペンテコステ礼拝メッセージ

真理の聖霊
中山弘隆牧師

 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と/主は言われる。わたしは神/今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神/主はこう言われる。わたしは、あなたたちのために/バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて外し/カルデア人を歓楽の船から引き下ろす。わたしは主、あなたたちの聖なる神/イスラエルの創造主、あなたたちの王。
イザヤ書43章10~15節


 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
使徒言行録2章36~42節
  

(1)ペンテコステの日の出来事
 本日、わたしたちは聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝を守っています。ペンテコステとはキリストの使徒たちが、聖霊に満たされて、キリストの救いを宣教した最初の日です。
 ところで、旧約聖書では、三つの祭りの日が決められていました。それは「過ぎ越しの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」です。それらの日が近づくと神殿で礼拝をするために、巡礼者が各地からエルサレムに集まって来ました。
 特に、過ぎ越しの祭りは一番大切な祭りで、ちょうどその日はキリストが十字架の死による人類の罪の贖いを全うし、三日目に死人の中から復活された日でした。それゆえ、キリスト教ではその日をイースターと呼び、それ以来一番大切な礼拝の日となりました。
 次に旧約聖書では過ぎ越しの祭りから数えて50日目に当たる七週の祭りがありました。それは小麦の収穫が始まる日の祭りでした。キリスト教ではイースターの日から数えて、50日目に相当しますので、その日をペンテコステと呼んでいます。ペンテコステとは50日目という意味です。正に、その日が聖霊降臨日なのです。
 ちょうど七週の祭りのためエルサレムに集まっていた多くの巡礼者たちは、使徒言行録2章に記されていますように、使徒たちがキリストの救いを聖霊の力をもって宣教しているのを聞いたのです。
 使徒たちを代表して、ペトロは説教しています。そこで先ず聖霊降臨の事実を指摘しました。続いてペトロは神の御子イエス・キリストの生涯と特に十字架の死と復活、そしてキリストが神の右の座に着かれたことにより、神の救いが達成されたと語りました。その結果、聖霊が教会に与えられたと告げました。使徒言行録2:32~33で次のように言っています。
 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今そのことを見聞きしているのです。」
 さらに2:36で、神は十字架の死と復活によって人類の救いを実現された御子イエスを「主」とし、同時に人類の「救い主」とされたと宣言しました。
 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主(万物の主権者)とし、またメシア(救い主・キリスト)となさったのです。」
 ここで非常に重大なことは、ペトロが先ず神はイエスを主とされたと言っている点です。つまり、イエスが父なる神の主権を委任されて、主となられた結果、イエスはメシアに任命されたと言っている点です。
 それゆえ、ペトロは福音の説教の締めくくりとして、悔い改めて、キリストを信じ、洗礼を受けなさいと勧めています。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(2:38~39)
 この時、福音の言葉を信じ、洗礼を受けて、約3千人の人たちがキリスト教会に加わりました。これがペンテコステの日に起こった出来事です。ここで、「わたしたちの神である主が招いてくださる者なら」とありますので、この出来事の真相は、救い主である主イエス・キリストご自身が使徒たちの語る福音の宣教を通して、信じる者をご自身の民として招かれたのであると言えます。さらに主は聖霊を与え、聖霊によって、主を信じる信仰を与えられるのです。
 ところで、ペンテコステの日は小麦の収穫の始まりでありますが、救い主であるキリストがご自身の地上の生涯と十字架の死と、復活により、実現された救いの「収穫」が開始した日なのです。
 つまり、地上の生涯と十字架の死による贖いから成り立っている主イエスの働きの収穫が、聖霊によって開始したのです。

(2)使徒たちと使徒的教会
 次に、御子イエス・キリストが選ばれた使徒たちの使命について、聖書はこのように語っています。先ずマルコによる福音書3:13~16に記されています。
 「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
 使徒と言う名称は、「遣わされた者」という意味です。何の目的で遣わされるかと言えば、それは彼らが御子イエスの生涯において実現した神の救いを証言するためです。さらに彼らの証言を通して、復活の主イエスご自身が使徒たちの証言を聴く人たちと出会い、聞く者たちの心に信仰を与え、救いを与えられるためです。
 従いまして、使徒たちに与えられた使命は、御子イエスの傍に絶えずいて、イエスと行動を共にし、イエスの言葉と行いをしっかりと記憶すること、神がイエスを通して働かれること、さらにイエスが誰であるかを知ることでした。
 なぜならば、人類に救いを与える神の行為は、御子が人間となって、この世界に派遣され、父なる神の意志に徹底的に従い、十字架の死によって人類の罪を贖うことであったからです。この神の救いの行為は御子イエスの地上における一回限りの出来事であります。 
 それゆえ、一回限りの出来事が、神の言葉として語られなければならないのです。新約聖書の内容は、使徒たちが御子イエスの証人として語った言葉が中心的部分を占めています。もちろん他の新約聖書の内容は徒たちの働きによって形成された使徒的教会の証言が新約聖書の内容となっています。ともかく新約聖書が神の言葉として完結している理由は使徒たちの証言と使徒的な教会の証言が完結しているからです。
 他方、福音書を読めばよく分かりますが、御子イエスに選ばれた使徒たちや他の信仰者たちは、イエスが語り、教え、行動されたその深い意味、そしてイエスと共に神が働かれたことの本当の意味をまだ十分には理解していませんでした。
 最後にそれが分かったのは、御子イエスが復活されたときです。もっと正確に言えば、復活のイエスが天に上り、神の右に坐せられたとき、聖霊が使徒たちに与えられ、聖霊によって主イエスの救いの意味を理解することができたのです。
 ところで、聖霊の所有者は先ず、父なる神と御子が人間となったイエスです。イエスが神の権威をもって罪の赦しを語られたとき、病気に悩んでいた人の罪が赦され、同時に長年の病気が癒されました。そのことによってイエスが聖霊の所有者であることが示されました。
 このようにイエスと聖霊の働きは不可分離に結びついています。最後の晩餐のとき、弟子たちと話された御子イエスの教えはこの点を明らかにしています。

(3)聖霊の働きと教会
 それはヨハネによる福音書16章に記されているイエスの談話として伝えられています。ヨハネによる福音書16章12~13節で御子イエスは次のように仰せられました。
 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる。」
 ここで御子イエスは、聖霊を「弁護者」または「真理の霊」と呼び、ご自身が復活し、神の右の座に着かれたとき、父のもとから聖霊を使徒たちに、そして教会に送る、と仰せられました。
 弁護者とは「助ける者」、「励ます者」という意味です。また聖霊は「真理の霊」と呼ばれています。その意味は神が主イエスにおいて実現された「救いの真理」を聖霊が知らせるからです。
 ここで御子イエスは、地上でのご自身の思いと行動の本当の意味を聖霊が使徒たちに知らせられると言われました。そして御子イエスを通して父なる神が達成された救いが何であるかの認識を、聖霊が与えられると言われました。
 さらに16章14節で、「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」と仰せられました。 
 このイエスの言葉から、聖霊は御子イエスが救いについてやり残された仕事を受け継いで、救いを完成させられる第二の救い主であるというのでは決してないことが分かります。そうではなく、聖霊は復活の主イエスの協力者なのです。
 なぜならば、復活の主イエスは今や神として、すべての所におられ、人間の中に臨在し、信じる者を救いの完成する永遠の国へ導いておられるのです。主イエスは神として働いておられるので、人間の目には見えません。実にその働きを認識させる方こそ聖霊です。
 さらに主イエスの命令は単なる命令ではなく、命令を実行する生命を伴った命令です。従って、主イエスの命が聖霊によって主イエスに従う者の中に注がれるのです。わたしたちが主イエスを信じ、主の命令を実行し、主に従っていくためには、聖霊が主イエスに対する信仰をわたしたちに与え、聖霊が主イエスの命を与え、聖霊が主イエスにおいて現された神の愛をわたしたちの心に注がれるので、わたしたちは神の愛を実行することができるのです。
 それゆえ、聖霊はわたしたち人間が主イエスの救いと働きを信じて、主イエスに応答させるようにさせて下さいます。先ず十字架について人類の救いの為に死に、三日目に復活して、父なる神の主権を委任された主イエスを信じることは、人間の力によるのではなく、専ら聖霊の働きによるのです。従って、信仰と愛の業と希望は聖霊の働きなのです。
 使徒パウロは原始キリス教会に与えられた聖霊の賜物の中で、信仰と愛と希望を永続的な賜物と言っています。コリントの信徒への手紙一、13章13で、「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と言っています。
 それにしても、信仰・希望・愛はクリスチャンに与えられた単なる賜物、すなわち霊的カリスマではありません。それこそ、信仰・希望・愛はクリスチャンに与えられている「新しい人間」の生き方なのです。
 それゆえ、聖霊は主イエス・キリストの救い、支配、恵みに対して、人間が応答するようにわたしたちを促す方です。聖霊による信仰と愛と希望はわたしたちが主イエスの救いに応答することです。従って、クリスチャンは自ら喜んで主イエスを信じ、自ら進んで主イエスに従い、主イエスの救いの完成の希望を最後まで堅持するのです。新しい人間とは聖霊が与えられている人間です。
 従いまして、新しい人間の全体像は人智を超えています。つまり主イエスの中に保存され、隠されています。その全体像は主イエス・キリストが再臨されるとき、わたしたちに与えられている聖霊によって、わたしたちが復活するとき、現れるのです。
 このことを考えますと、クリスチャンは聖霊が与えられているので、地上の生活をしながら、主イエス・キリストによって創造された新しい人間の生き方を日々体験している者たちです。
 他方、主イエスを信じない人達は未だ聖霊が与えられていないので、新しい人間の生き方を未だ体験していません。
 それにしても、主イエスの十字架の贖いは例外なくすべての人に与えられています。それゆえ主イエスの再臨の日に聖霊がすべての人に与えられ、万人が共に復活し、神の御前で永遠に生きるのです。
 以上のことを考えますと、聖霊は主イエスと同じ性質、同じ思いを持った方です。聖霊はわたしたちを促し、応答させ、主イエスの救いをわたしたちの中に働かせる務めを担っておられます。
 そのような方として、聖霊は父なる神と主イエス・キリストから出て、わたしたち人間のもとに遣わされているのです。



2017-05-28(Sun)

わたしは命のパン 2017年5月28日の礼拝メッセージ

わたしは命のパン
中山弘隆牧師

 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
出エジプト記16章13~16節


 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ヨハネによる福音書6章41~51節


(1)人間にとって不可欠な神との関係
 わたしたち人間が生きるために、最も必要なものは何でしょうか。
 健康でしょうか。能力でしょうか。金でしょうか。社会的地位でしょうか。様々な商品を製造している会社、或いはそれを販売している多くの会社はこれまでの利益を確保することは困難な時代になりました。競争の激しい時代に以前通用したことを守っているだけでは、会社の経営状態も悪化し、倒産することにもなりかねません。従いまして、就職しても、それで将来が保証されているから安心できるとは言えなくなっています。
 このように社会の在り方が大きく変わる時代にこそ、人間とは何であるかをしっかりと認識して、自分の人生を逞しく生きることが最も必要です。そのために、人々は人間としての幸福とは何かを考え、各々が自分の人生観を持つことが必要であると言えます。
 それにしても、そこでは人生を見る視点が何よりも重要です。具体的に言えば人間は縦と横との関係の中で存在しています。人間は誰でも縦と横の関係の交点の中に立っています。縦の関係とは、社会の中での、上司と部下の関係ではなく、神と自分との関係です。そして、横の関係とは自分と他の人々との関係であり、人間社会のすべての関係は横の関係なのです。従って人間同士の関係と神と人間との関係を混同することはできません。すべての人間同士の関係の中心には神がおられ、神との縦の関係が確立されているときに初めて、人間の横の関係が健全に保たれるのです。なぜならば、神様だけが全知全能であり、人類の歴史におけるご自身の目的を実現される恵み深い支配者であるからです。それゆえ、人間は神との関係を第一とすべきなのです。
 しかし、どうして人間が神との関係を第一にすることができるのでしょうか。人間が自分の知恵と力で出来るのでしょうか。それは不可能です。神様だけが、ご自身と人間の関係を創り出してくださったからです。言い換えれば、神様が人間を愛し、人間を選び、主イエスを通して、人間との関係を創設されたのです。
 このような方として、神は御子・主イエスを人間の歴史の中に派遣し、主イエスを通して、人間にご自身を示し、人間の神に対する不信仰と神に敵対している人間の罪を取り去り、人間を神と和解させ、人間を神との人格的関係に入れてくださいました。これこそ、罪の中にある人間を救う神の行為です。実にそれは地上における主イエスのただ一回限りの生涯を通して実現したのです。
 しかし、その一回限りで創設された神と人間との関係がどうして永遠の関係になったのでしょうか。その根拠は人類の罪を贖うためにただ一度、十字架の死を引き受けられた神の御子イエスが、死人の中から復活し、最早死ぬことなく神の主権をもって、すべての人の救いの為に働いておられるからです。実にこれこそ神と人との人格的関係が永遠に存続する理由です。
 同時に、神の御子イエス・キリストが人類の救い主として達成して下さった永遠の事実は、常に神の言葉として、福音として、宣べ伝えられなければならないのです。常に語られる神の言葉を通して、人間の神との関係及び人間同士の関係が確立するのです。
 
(2)ユダヤ人のイエスに対する誤解
 本日の聖書の箇所でありますヨハネ6章26~27で、主イエスはこのように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
 群衆は主イエスが五千人の大衆に食べ物を与えられたとき、非常に感動し、主イエスを来るべき大預言者であるとして、主イエスを自分たちの王にしようとしました。生活に一番必要なパンを与える者を自分たちの王・救い主メシアにしようとしたのです。
 しかし、イエスは彼らの期待に応えてメシアになることを拒否されました。なぜならばイエスは本当の意味で父なる神の主権を委任された天地万物の支配者であり、人類の救い主メシアであったからです。
 ところで、民衆が期待したメシアとは、超自然的な力を働かせ、人間の生活を守り、生活を豊かにする神的なカリスマを持った指導者でありました。このような民衆の考え方からすれば、「いつまでもなくならないで、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさい」というイエスの言葉を誤解し、イエスが与えてくれる食べ物は、どれだけ食べても尽きることのない不思議な食べ物であると思い込み、そのような食べ物を与えられるようにと願ったのです。
 その理由は、6章に記されているように、イエスがガリラヤの湖の対岸にある山に登り、5000人の人々に食べ物を供給されたからです。これはイエスが五つのパンと二匹の魚の干物を小さく引き裂いて、弟子たちに配らせられたとき、イエスの中に働く神の力によって、奇跡が起りました。
 それでは、どうしてイエスがそのような給食の奇跡を行なわれたのでしょうか。それはイエスの神の国の宣教活動を通して、今や神の救いが到来していることを示すためでありました。今やイエスを通して開始している神の国が完成する暁に、すべての人間が神の国で、神様が最終的に与えられる救いとその宴会を象徴するためでした。
 言い換えれば、人類の救いが完成する終わりの日に、すべての人間が神の国に入り、永遠の命を受け、神を賛美する救いの饗宴を象徴するために、5000人の給食の奇跡を行なわれたのです。
 それゆえ、給食の奇跡は民衆が誤解したように、この地上の生活を保証する食料と豊かな物資を与えるためでは決してありませんでした。
 この地上で始まっている神の国の中で生きるための、永遠の霊的命を主イエスは授与されることを象徴し、証するためでした。

(3)御言葉と聖餐式を通して
 ここで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6:51)
 「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば----。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(6:61~63)
 「人の子」とは主イエスがご自身を呼ぶときに、用いられた独特の名称です。この名称は、ご自分が真の神であり、真の人間である方として、人間に神を啓示し、人間に神の性質を完全に現す方として、神と人間との「仲保者」であること表しています。
 「永遠の生命」は父なる神の本質的な所有物です。この永遠の生命を父なる神が御子イエスに与えられました。そこで、御子イエスの生命は完全に父なる神に依存しています。このことについては、57節で説明されています。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6:57)
 ここで、御子が父なる神によって生きる仕方は御子が父なる神の内に内住することによってです。他方父なる神も御子の中に内住しておられます。このことについても他の箇所で説明しておられます。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」(14:10)
 それゆえ、信仰者が「人の子」の中に働いている永遠の命を受けるためには、父と御子との存在的な関係と同じような関係が、すなわち「人の子」と「信仰者」との間に設立されることが必要なのです。
 主イエスは問題の核心をズバリと次のように仰せられました。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)。ところで、この御言葉の要点は二つあります。
 一つは主イエスがその人の内におられ、その人が主イエスの内にいるという主イエスと信仰者との相互内住の関係です。新共同訳聖書では、このことを信仰者が「主イエスと結ばれる」と表現しています。
 もう一つは、相互内住の関係を通して与えられる永遠の命とは、人の子の「肉」と「血」なのです。
 言い換えれば主イエスの「人間性」です。実にそれは御子イエスが、地上の全生涯を通して、父なる神に従われた従順を意味しています。特に、十字架の死に至るまで従順であった御子の人間性それ自体が、人間の受けるべき永遠の命なのです。
 ここで、イエスが人の子が「もといた所に上るのを見るならば」と説明されていますが、この発言はイエスが十字架の死を全うして、復活された霊的な力強い現実を指摘しています。それゆえに、今や人の子イエスご自身が地上で達成された永遠の命の所有者として、人の子を信じる者にご自身の永遠の生命を与える、と約束されたのです。
 「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば、--。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(6:62、63)
 ここに至って、主イエスを信じる信仰者が食べなければならない肉とは、地上におられた主イエスの肉ではなく、「復活の主イエスの人間性」です。
 さらに「わたしがあなたがたに話した言葉が霊であり、命である。」と仰せられました。これはイエスの言葉が、「霊」であり、「命」であるという意味です。これは復活された主イエスが、地上におられたときの御言葉を通して、信仰者と出会い、聖霊を与え、聖霊を通して信仰者の中にご自身の永遠の生命を与えられるという意味です。
 つまり、復活の主イエスは礼拝の中に臨在され、御言葉と聖餐式を通して、ご自身の永遠の生命を授与されるということです。クリスチャンが主の御言葉を実践して、主に従うとき、主が共におられ、クリスチャンの中に働き、導いておられることが分かる、という状況です。
 さらに、主イエスご自身が、聖霊を人間に授与される方であることも同時に説明されました。従って、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」との意味は復活し、主となられた主イエスの地上で語られたすべての言葉が霊であり命であるということです。
 ここに至って、今や命を与える「言葉」と、命を与える主イエスの「肉」とは決して対立し、矛盾するものではありません。肉は何の役にも立たないと仰せられたのは、地上での主イエスの姿を見て、主イエスをこの世的考え方で判断したユダヤ人の見方は何の役にも立たないと言う意味です。
 主イエスの肉こそ、神の創造された真の人間であり、真の人間性です。従って、主イエスの御言葉は「主イエスの人間性」が達成した「歴史的であり、しかも霊的な事実」を説明するものです。
 しかし、他方肉とは有限な過ぎ行く存在です。そういう意味で、クリスチャンは有限な人生の中で、永遠の神の国につながる霊的な実を結びつつある存在です。使徒パウロはこのように言っています。
 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(コリント二、4:16)
 外なる人とは、生まれながらの人間の体です。クリスチャンはこの体を使って、信仰と愛と希望の人生を送るために奉仕し、苦労しています。その奉仕は必然的に体の衰えを伴います。
 それゆえパウロは「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父なる神の御前で心に留めているのです。」(テサロニケ一、1:3)と言います。このように信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐をする体は有限であり、その奉仕によって必然的に消耗します。
 しかし、わたしたちの存在の最も深い所で、主イエスはご自身の復活の生命を絶えず供給して下さいます。それゆえ感謝と喜びと霊的力に溢れて、わたしたちは主イエスに従い、信仰と愛と希望の労苦を喜んで担うことができるのです。
 実にこの生き方こそ、クリスチャンが主イエスの贖いによって、主イエスの中に既に与えられている「新しい人間」、「内なる人」、「真の自分」として生きることです。



2017-05-21(Sun)

新しく生まれる 2017年5月21費の礼拝メッセージ

新しく生まれる
中山弘隆牧師

 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。
イザヤ書44章1~5節


 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
ヨハネによる福音書3章1~8節
 

(1)神の国の秘密と新生
 ここにニコデモと言うユダヤ人の指導者が、イエスのもとに来たときの状況が説明されています。3章2節に、「ある夜、イエスのもとに来て言った。」と記されていますが、彼は人目をはばかって夜こっそり一人で訪ねてきました。彼はイエスの弟子になりたいと言う切なる願いを持っていたと思われますが、いろいろな事情で弟子になることを公表せず、いわば隠れた弟子でありたいと考えていたのでしょう。ところでニコデモはイエスを訪ねたとき、言いました。
 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」(3:2)
 このようにイエスに対する彼なりの信仰を言い表しました。イエスは彼の信仰の表明をそのまま受け入れ、さらに一歩踏み込んで彼に仰せられました。
 「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)
 これはニコデモの最大の関心が「神の国」であったことを示しています。と言いますのは、イエスによる神の国の宣教に先立って、洗礼者ヨハネが活躍しており、イスラエルの人々の間では神の国到来に対する期待が非常に高まっていたのです。
 言い換えれば、旧約聖書が約束している「神の救い」が実現する新しい時代の到来です。しかし新しい時代と言いましても、歴史の中で絶えず繰り返される種類の新しさではなく、これまでの歴史全体を根底から新しくする終末論的な視点を持っています。
 終末論的という特殊な言葉は、これまでの歴史全体を終わらせ、もはやそれを越えていく新しさは存在しない永遠の新しさであります。それが聖書の語る神の国の開始です。
 イエスの教えと業はこれまでの教師や預言者の場合とは異なり、「神の業」そのものであると言わざるを得ない力強い霊的現実でした。事実、イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と仰せになっています。
 この終末論的状況がイエスとニコデモの会話の背景になっています。このようにイエスは、「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われたのです。それはまた、「あなたはわたしを神から遣わされた者と言うのか。それならば、あなたがわたしを本当に理解し、わたしの居るところにあなたも居るためには、あなたは新しく生まれなければならないのだ。」と言う意味が含まれています。
 しかし、この言葉はニコデモを大変驚かせました。なぜなら神の国が到来すると言うのは、人間の住んでいる社会環境や政治体制が変革され、そのような領域に神が直接介入されることであると彼は考えていたからです。それに対して、イエスがあなたは神の国がわたしの宣教と共に始まっているのを見ることができるために、あなた「自身が新しく」生まれなければならない、と言われたのです。
 特に7節の「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。」と言う表現は非常に強調した言い方です。ギリシャ語の「--しなければならない」と言う表現は、絶対に必要であると言う響きを持っています。
 イエスのこの重大な発言を聞いて、ニコデモは肝がつぶれるほど驚き、「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論しています。
 しかしここで「新しく生まれる」と言うイエスの言葉は、「上から生まれる」と言う意味も含まれているのです。むしろここでは「上から生まれる」と言う意味でイエスは使用されています。
 なぜならば5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ」とイエスは言っておられます。
 水とは洗礼式の水のことです。霊とは洗礼を受けるときに与えられる聖霊のことです。イエスが新しく生まれると仰せになった意味は、ここに至って極めて明瞭になっています。それは主イエスが救い主であると信じて洗礼を受けるとき、聖霊が与えられることです。その聖霊によって、イエスと結ばれることによって人は新しい人間となるのです。
 神の御子イエスが、地上の生活によって達成された人類の罪の贖いにより、イエスを信じる者は罪を赦され、さらに神の意志を実行するために、イエスの義と聖が与えられるのです。すなわち、聖霊を通して、復活のイエスの命が与えられるのです。
 このことをキリスト教では「新生」といいます。そもそもクリスチャンとはキリストを信じる信仰による信仰義認、新生、聖化、そして復活の希望の人生を歩むことによって、地上の生活を続けながら神の御前に生きる者たちです。但し、信仰義認と新生とは結びついています。
 わたくしは未だ伝道師として、木更津教会で伝道牧会していましたとき、長年牧会して引退されました村上先生を特別伝道礼拝にお呼びしたことがあります。先生の親戚の村上さんの家族が教会の古くからの会員でありましたので先生に来てもらいました。
 その時、先生は「福音の中心はいうなれば人間の魂の入れ替えです」と力強く語られた言葉を覚えています。しかし、魂の入れ替えとは、その人が全く別人になってしまうことではありません。
 そうではなく、生まれながらの個性はそのままでも、自分の存在の中心が入れ替わり、もはや自分の中にではなく、主イエスの中に自分の中心が移されること、そして神様が主イエスの中で与えて下さっている「本当の自分」を発見することです。
 そのような者として神様が自分に計画し、歩ませようと欲しておられる人生を歩み始めること、これが新生です。

(2)人の子と永遠の生命
 次に、イエスはご自身を「人の子」と呼んでおられます。
 「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。--人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の生命を得るためである。」(3:13~15)
 イエスはご自身について「人の子」と言う神秘的な呼び方をされました。マルコによる福音書では、人の子とは終末論的な人間であり、神の主権を委ねられ、黙示文学的な描写によれば、終わりの日に天の雲に乗って地上に現れ、すべての人間を裁く「審判者」です。
 同時に、その人の子は人類を罪から解放するために、十字架の死を引き受け、三日目に復活して「贖い主」の使命を果たすために来たと仰せられました。
 さらにイエスは「メシア」としての使命を果たされましたが、ご自身がメシアであると公言されたことは一度もありませんでした。従いまして、人の子は謎に満ちた神秘的人物でした。
 しかし、イエスにとっては、ご自身が父なる神から与えられた使命とご自身が神の独り子であるというご自身の人格に対する自覚をメシアではなく「人の子」として表明されたのです。
 それでは人の子とはどういう意味でしょうか。端的に言えば、それは「天的な人間」「神的な人間」と言う意味です。そして神がこの世界と人間を創造される前から、神の御前に神と共にあった人間と言う意味です。
 従って、それは単なる人間ではなく、神との人格的な交わりの中にあった人間、人間としての性質の中に神の性質を完全に反映させている人間です。従って、神であり同時に人間である方、言い換えれば人間となられた神の御子なのです。そのような方として、人間となられた神の御子は、この世界と人類が造られる前から、神の御前に存在していたのです。
 しかし、未だ「受肉」して、他の人間たちのもとで一人の人間として生きるために、人類の歴史の中には遣わされていませんでした。
 従って、神は最初の人間アダムを神の性質を映し出す人間とする目的で、土からアダムを創造されました。しかしアダムは自分が神のような知恵と力を持って、この世界を支配しようとして、神に反抗したために、堕落し、神との交わりを失ってしまいました。そのアダムによって罪が人類に広まったのです。それにも拘らず、神は憐み深い方ですから人類を救うため、人の子を遣わされたのです。
 それゆえ、神の独り子であり人間である「人の子イエス」が自分は天から降って来た者であると、次のように仰せになっています。
 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」(3:13)
 明らかにここで、イエスは御自分が「父なる神のもとから、神に反抗している罪深い人間のもとに遣わされている者である」と仰せになっています。言い換えれば、父なる神と共にいる天的な人間としての地位を捨てて、低い弱い人間の所に降って来た方です。
 しかも、罪深い人間の弱さと苦悩のどん底まで下り、すべての人間の罪を担い、贖うために自分の命を与える使命を果たさなければならないと、仰せられました。これが人の子イエスの自覚なのです。
 しかし、その使命を果たすとき、父なる神は人の子を復活させ、ご自身の右に座らせ、父なる神の主権を人の子に委任されることもまた認識し、自覚しておられました。それゆえ、次のように、ニコデモに仰せになっています。
 「人の子は上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(3:14~15)
 しかも人の子イエスは、ご自身が父によって、父の右に上げられると仰せになっているその道が、十字架を通って行く道なのです。
 人類の罪を贖うために、人類に代わって、人類の代表として、十字架の苦しみと死を全うする道を行くのです。しかし、ここに人間の到底考えられないことがあります。天に上げられた人の子の主権と十字架の苦難を受ける苦難の僕とはどうして結びつくのでしょうか。二つの使命が結びつくことは人間の考えでは全く不可能です。
 それを可能とするのは、神の独り子である人の子イエスの自覚と信仰だけです。その結合はイエスの心の中の最も神聖な領域で起こっているのです。ここに人間を救う人の子の力の源泉があります。

(3)復活の主イエスの働き
 最後に、そのような人類の救い主として、使徒パウロは「主は命を与える霊」であると言っています。
 「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」(コリント一、15:45)
 ここでパウロが「最後のアダム」と言っているのは、「人の子」のことです。パウロは人類の始祖アダムと人の子主イエスとを対比しています。アダムは土から創られ、再び土に帰った。それに対して、人の子主イエス・キリストは人間が神の御前に生きる「永遠の生命」を与える方となったと言っています。
 しかも主イエス・キリストは「霊」であると言っています。その意味は、今や主イエス・キリストは復活し、主権者なり、神として人間の上に、人間を貫き、人間の中に働いておられる救い主であると言うことです。その働きを指して、パウロは「主イエス・キリストは霊である」と言うのです。言い換えれば主イエス・キリストは父なる神の主権を委任されている方として、人間に聖霊を与える方なのです。そして聖霊は主イエスの霊なのです。
 その聖霊によって、主イエスはご自身の意志と働きを信仰者に理解させ、信仰者をご自身と結び合わせ、主イエスに従わせられるのです。それゆえ、聖霊は主イエスの救いを信仰者の中で前進させる方として、主イエスの救いの協力者なのです。これほど大きな救いは他にはありません。
 わたしたちはこのことを心から感謝し、確信し、救いの完成を待ち望み、どこまでも主イエスに従う人生を歩む者たちです。



2017-05-14(Sun)

神のものは神に 2017年5月14日の礼拝メッセージ

神のものは神に
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6章4~5節
 

 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12章13~17節


(1)当時の社会状況
 今日世界のどこの国でも税金は難しい問題です。聖書の時代におきましても、税金は重大問題でした。
 イスラエル民族にとりまして、時の支配者であるローマ政府に税金を納めるべきか、それとも反対するかの問題が民衆の注目の的であり、それぞれ意見が分かれていたのです。熱心党と呼ばれていた国粋主義者たちはローマ政府に税金を絶対納めるべきでないと主張し、他方でサドカイ派と呼ばれていた祭司たちの上流階級は税金を納めるのは当然であると考えていました。しかし、ローマ政府に妥協するサドカイ派は民衆の間で人気がありませんでした。
 とうとうユダヤ人は紀元66年から70に渡って反乱を起こし、その結果エルサレムはローマの軍隊により徹底的に破壊されてしまったのです。こうした歴史を考えてみますと、イエスの時代に税金は極めて大きな危険をはらむ政治問題であったと思われます。
 イエスに敵対する者たちは、この状況を巧みに利用してイエスを罠に掛けようと企てていたのです。ところで、すべてのユダヤ人が納めなければならない税金は「人頭税」と呼ばれおり、所得の多い少ないに関係しない均等割りの住民税のようなものでした。それは決して重税と言うほどのものではなかったのですが、税金を支払うために用いる貨幣がイスラエル民衆の感情を刺激したのです。なぜなら、その貨幣にはローマ皇帝のカイザルの顔が浮き彫りにされていたからです。

(2)イエスに対する罠
 「さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)
 ここで、普段は犬猿の間柄であるファリサイ派とヘロデ派がどうして行動を共にしたかはまことに不思議です。しかし、イエスに反対するという一点では両者の利害が一致したのです。彼らはイエスのもとに来て、次のように言いました。
 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)
 実は、この質問に巧妙な罠が仕掛けられていました。もしイエスが人頭税を払わなくてもよいと言えば、それはカイザルに対する反乱であり、イエスは即刻に死刑となります。他方イエスが人頭税を支払わなければならないと言えば、イエスは民衆の支持を忽ち失うことになり、彼らがイエスを逮捕するのに都合よくなります。
 どちらの答えを選ぶにしても、イエスは窮地に陥るはずです。しかし、イエスは彼らの策略を見抜き、彼らの知恵を上回る方法を取られました。
 「なぜわたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(12:15)
 先ほど申しましたように、デナリオンとは税金を支払うときに使用しなければならない銀貨でした。普段は銅貨が使用されていて、ユダヤ人をあまり刺激しないようなオリブの木、または棕梠の木のデザインが施されていたのです。そこでイエスは質問されました。
 「これは、誰の肖像と銘か」(12:16)
 ここで、イエスと彼らの立場は明らかに逆転し、今度はイエスが問い、彼らが答えなければならなくなりました。彼らは「皇帝のものです」というと、イエスは仰せになったのです。

(3)絶対的な関係と相対的な関係
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(12:17)
 ここに至って、イエスはファリサイ派やヘロデ派の仕掛けた罠から逃れられただけでなく、イエスご自身の答えを出しておられます。すなわち、イエスは税金を支払うべきであると仰せになりました。
 しかし、イエスの答えはそこに留まってはいません。イエスの重点はむしろ次の言葉に置かれています。すなわち、「神のものは神に返しなさい」という言葉です。この挑戦はいかなる人も無視することも、言い逃れることもできない重い意味を持っています。
 なぜなら、神のものを神に返すと言うことこそ、人間が生きるために最も必要な課題であるからです。人間がどのような難しい状況の中にありましょうとも、神のものは神に返すことが必要です。実にそうすることによってのみ、人間は本当の意味で生きるのです。
 それでは、神のものを神に返すとは、どういうことでありましょうか。それは神を第一とする生き方です。そして神以外のものはすべて第二とする生き方です。神以外のものを決して第一にしないことです。人は第一と、第二との区別を正しくつけなければ、自分の人生が狂ってしいます。
 しかし神を第一とすると言うことは、頭の中で分かっていましても、実際問題としてそれぞれの生き方が問われるのです。最早この点は誰しも回避できません。聖書の神は、生ける神であり、わたしたちに御言葉を語りかけ、わたしたちに生きる意味と力とを与えられる神です。
 神はイスラエルの民に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4~5)と仰せられました。
 神はこのように神の民イスラエルに対して、全存在をもって神を信じ、神に求め、神の御言葉に聞き、神に従うように命じられました。実に神はわたしたちに対して「あなたの全存在をもってわたしに依存し、わたしに従うことによって生きよ」と仰せになります。それゆえ神との関係は人間の全存在にかかわる絶対的関係です。この関係の中で生きることが「神を神とする」ことです。
 他方人間は生きていくために、国家、職業、地域、親子、友人、隣人との関係、その他様々な関係が必要です。しかしそれらはすべて相対的関係です。あくまでもその意義と範囲は限定されています。それゆえ、神に対する絶対的な関係と、神以外のものと関わる相対的関係は区別すべきなのです。
 なぜならば、神様は人間一人一人に神様を信じ、神様に依存し、神様に従って生きることを要求されますが、神様だけが人間をすべての面で生きるようにされる力と知恵を持っておられるからです。そのことを聖書は神が「恵み深い唯一の主権者」であると告白しているのです。従って、「主権者に相応しい力と真理と命」を持って働いておられる唯一の神に対して、人間も国家もさらに他の宗教の神々もそのような力を持っていません。
 それゆえ社会や国家など様々な相対的関係は神との絶対的関係が保たれている中で、初めてその機能を果たすことができのだと、言えます。

(4)ルターの生き方
 宗教改革者マルティン・ルターは1521年4月17日と18日にヴォルムスの国会に召喚されました。当時のヨーロッパは神聖ローマ帝国と呼ばれており、皇帝と教皇が支配していました。ヴォルムスの国会には皇帝、選帝公、教皇の使節、司教、公爵、その他多くの高官が、教会と国家を代表して、参加していました。
 彼らの前で、ルターは尋問されたのです。皇帝の名によって、ヨハン・ホン・エック博士が二つのことを確かめました。まず、ベンチの上に置かれた25冊の書物がルターのものであるか否かの尋問です。その時、ルターは直ちにそれを承認しました。
 次に、これらの書物を撤回する意志があるか否かについて尋問されました。するとルターは謙遜にもう一度熟慮するためにしばらく時間の猶予を願いました。なぜならば、それは勇気の欠如ではなく、自分の発言に対する責任の大きさを感じたからです。魂の救いと神の言葉の真理に関することでありますから、ルターはもう一度考える余裕を要望しました。皇帝は寛大な処置を取り、尋問を一日延期したのです。
 翌日再び議会に立って、ルターは次のように弁明しました。
 「わたしは聖書の証言によって論駁されるのでなければ、自分の引用した聖書によって征服され、わたしの良心は神の言葉に拘束されているので、これらのどの書物も撤回することはできないし、することを欲しない。なぜならば、良心に反することをするのは安全ではないし、危険であるからである。」

 そのとき、聴衆の興奮と混乱の続く中で、ルターは押し潰されそうになりましたが、すべての人の記憶に残る言葉を発しました。
 「わたしはここに立っている。わたしは他のことをすることはできない。神よ、わたしを助けてください。アーメン」

 ヴォルムスの国会においては、ローマ教皇の側が勝利し、ルターは異端者として破門され、ルターの書物は発行を禁止されました。しかし、ルターの証言は世界史的に見て、その効果を遠くまで及ぼす出来事でした。それは神の言葉に照らされ、導かれ、確信を与えられた「良心の声」が、伝統や宗教的権威や国家権力に打ち勝つことを実証したのです。
 破門されたルターは匿われた城のタワー・ルームで聖書の翻訳をしました。350年後に、その小さな部屋に入った英国人トーマス・カーライルは、「あの部屋にわたしが立った時、ここはわたしがこれまで見た世界の中で最も聖なる地点であると感じた。わたしは今でもそう思っている。」と、その時の感激を語っています。
 本当に人が神の言葉を聞き、そして「神のものを神に返し」、それによって自分の人生を確信しつつ歩むことは、永遠の価値を持っています。

(5)神が備えられた道を歩む
 神との関係は、神に全面的に依存することと、神に全面的に従うことで、二つは不可分離です。このことを考えますとき、わたしたち一人一人にとって、神を第一とし、神の言葉に聞き従うことがどれほど重い意味と力を持っているかを痛感します。
 神は主イエスの十字架の死により、人類を罪の支配とこの世の諸々の霊力より解放し、人間が神に従う道を備えて下さいました。そのような方として、主イエスは天地万物の主権者となられました。
 それゆえ、主イエスの十字架の死と復活により、神がわたしたちに歩ませようと欲しておられる人生こそ、わたしたちが感謝して生き得る最高の人生なのです。
 今日の重要問題は、国家が自己の権威と力を絶対化して、国民の良心を無視して、国家の政策に従わせることです。また、信仰の弱いクリスチャンは国家の絶対的権威と力を恐れ、主イエスに従わないことです。戦前と戦時中の日本国家は天皇を神とし、日本人を天皇の臣民とし、国民を天皇に従わせました。その結果、日本国家は近隣諸国に対する侵略戦争を行い、連合国を相手にして戦いましたが、国家の破滅をもたらしました。このようにして天皇の権威を絶対化した大日本帝国は敗戦によってその歴史を閉じたのです。これは神でないものを神とし、真の神を神としない人間の罪の必然的な結果であると言えます。
 日本基督教団では、教会が戦時中に犯した罪を告白し、悔い改めて、主イエスの主権を告白し、主イエスに従うために、戦後22年を経て、1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」をしました。
 
しかし、この問題は教会だけでなく、人類全体の問題であります。人類が共存と平和を維持する唯一の土台は、神を神とすることです。「神のものは神に返す」ということです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR