2017-10-08(Sun)

神に栄光を帰す 2017年10月8日の礼拝メッセージ

神に栄光を帰す
中山弘隆牧師

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
エゼキエル書36章22~24節


 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙4章13~25節


(1)生ける神を信じる
 聖書では、アブラハムは信仰の父と呼ばれています。それでは、アブラハムの信仰とはいかなる信仰でありましょうか。本日の聖書の箇所で次のように記されています。
 「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてある通りです。死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」(ローマ4:17)
 ここでアブラハムが多くの民の父と定められたとは、彼の子孫のことではなく、彼の信仰を受け継いだ「神を信じる多くの民」の父となったと言う意味です。すなわち、ユダヤ人だけでなく、世界の諸民族の父と定められた、と言う意味です。
 それではアブラハムは神をどのような方として信じたのでしょうか。実に、アブラハムは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じました。これは真に大変なことです。神を信じるとは自分の都合の良いように中途半端な気持ちで信じているのではありません。神を「神」として、神を「聖なる方」として、真剣に信じることです。
 世の中にはご利益を求めて神仏に祈る人が多くいますが、自分が存在していることは当然のこととして、自分の欲しい物が与えられるように祈っています。しかし、自分の存在そのものが、実は神によって造られ、保たれていると信じている人は余り多くいません。
 それに対して、聖書の神は人間の存在そのものを呼び出される方、無から有を呼び出される方、それゆえ、しかも御言葉をもって語りかけ、御言葉を通してご自身を示し、人間と出会われる神です。実に、御言葉を聞くわたしたちに応答を求められる神です。
 それゆえ神ご自身の存在から発せられる御言葉を人は聞き流したり、無視したりはできません。御言葉には神の無限の力が秘められているからです。さらに人間に御言葉が語られるとき、わたしたちは良心に目覚めるからです。
 他方、自分は神様の言葉を本当に聞いたのだろうか。それは自分の錯覚に過ぎないのではないか。そのような思いが交差する中で、わたしたち人間は祈るより他ありません。
 熱心に祈ることによって初めて神の言葉が段々と確かになります。アブラハムは神の御言葉を自分の心の中で繰り返し考え、神が確かに語っておられることを知り、応答しました。そのようにしてアブラハムは生ける神と出会ったのです。
 聖書はアブラハムが「その御前でわたしたちの父となった」と言っていますが、「御前」とは神が臨在される場で「神に直面して」と言う意味で、つまり生ける神と出会っていることを「意識」しつつ、神を信じたのです。それゆえ神を信じるすべての者の父となりました。
  
(2)御言葉に応答する
 次に、聖書は創世記12章でアブラハムは神からどのように呼びかけられたかを述べています。
 「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。----』アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラハムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(創世記12:1~4)
 このように彼は神の大いなる約束の言葉を聞きました。そのとき彼は信仰をもって、応答せざるを得ませんでした。
 その理由は神が人間に御言葉を語られるとき、そしてわたしたちが神の御言葉を真剣に聞くとき、神は「わたしたちの心の中」に臨在されるからです。それゆえ、わたしたちは他のいかなるものも媒介にせず、神と直接に出会うのです。
 もちろん神は人間や他の被造物とは異なり、目に見える神ではありません。しかし、わたしたちが御言葉に聞こうとするとき、御言葉を語っておられる神が目の前に存在し、働いておられることが分かります。実に生ける神が自分に対して人格的に出会っておられることを知って、神を信じることが聖書の信仰です。
 それ以外に信仰の確かさはありません。もし信仰の確かさを求めて、御言葉以外に奇跡や予期せぬ何か幸いの「しるし」を欲しがるならば、それは神が求められる信仰ではありません。
 しかし、御言葉を通して真の生ける神が自分に直面しておられることを知ると、人は自ら進んで信じ、喜んで神の言葉を受け入れ、御言葉に従います。
 主イエスは弟子たちに天国の譬え話を多くされましたが、わたしたちの心を強く打つ譬えがあります。それは畑に隠された宝を発見した農夫が取った行動です。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)
 畑に隠されている宝とは、主イエスを通して神の国が到来しているという霊的な無尽蔵の宝です。それは人の目に隠された形で到来しているのですが、主イエスの言動を良く注意し、主イエスの御言葉に応答する人は、主イエスの中に与えられている霊的な宝を発見します。ここで、宝を見つけた人は、隠された宝をそのまま隠しておき、畑を買う行動を起しましたが、それは自分がその畑の所有者になるまで、人に発見されないように隠しておいたというのではありません。
 そうではなく発見した宝はその性質上、いつまでも人の目に隠されていることを説明しています。それゆえ、隠された宝が既に与えられていることを知り、人はあらゆるものを犠牲にしても、喜び勇んで主イエスに従う人生を歩みます。これがクリスチャンの信仰であり、心が熱く燃える信仰です。
 さらに、神の恵みを約束する御言葉は、同時に命令を伴っています。アブラハムに対する命令は「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」という内容です。
 古代世界では、自分が属している部族から離れて遠くに行くならば、いつ生命と財産が奪われるかもしれないという大きな危険が待ち構えていました。それにも拘らず、神がそのように命じられたのは、そのことを通して、神の創造的な力が働くためです。
 信仰とは、御言葉をもって語られる神の意志に従うことです。アブラハムは行く先がどのようになっているのか皆目見当がつかないまま、遠い旅に出発しました。実に、この態度は神の呼びかけに心底から応答したことを示しています。
 従って、彼の生涯は山あり、谷ありの険しい道を歩むことでした。まず、彼が神の命令に従って、新しい土地に来て分かったことは、既に土地を所有している民族がいるという厳しい現実でした。明らかにそれはアブラハムの期待に反することでした。
 それにも拘らず、信仰は弱まりませんでした。神は歴史を貫く長い時間を経て必ず約束を実現されると考え直して、そこに滞在したのです。アブラハムはそのような信仰者として、神を礼拝しました。
 「アブラハムは、そこからベテルの東の山に移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」(創世記12:8)
 新しい土地に来て先住民族の間で、寄留者としての生活を余儀なくされたアブラハムは、主のために祭壇を築き、御名を呼ぶことを生活の中心に据えました。それは礼拝を中心とする生活です。 実に、アブラハムは礼拝をして神の意思を知り、神に祈り、神に従うために、呼び出されたのです。
 それはこの世的な繁栄ではなく、歴史を支配しておられる神を礼拝し、神の恵みと導きの中で、霊的な豊かさを経験し、神を知り、崇め、賛美することがアブラハムに与えられた祝福であるからです。
 
(3)神に栄光を帰す信仰
 しかし、アブラハムの人生で遭遇した最大の試練は、自分の財産を相続させる嫡子が与えられないという危機でした。妻サラはもう子を産むことは不可能であると言う状況の中では、神がアブラハムに与えられた約束の実現はすでに不可能になっていると思われたのです。
 絶望の淵に陥りそうなとき、それにも拘わらす、アブラハムは神の約束を信じたのです。使徒パウロは言っています。
 「そのころ彼は、おおよそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、しかも妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱りはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:19~21)
 アブラハムは自分も妻サラも全く無力で、人間的には神の約束実現は不可能であると言う極限状態の中で、神は真実な方であり、約束されたことを必ず実行される。人間は不可能であっても神には可能である。神は実に死んでいる者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる方であると信じたのです。
 そのように神に栄光を帰したのです。実にアブラハムの信仰は神に栄光を帰す信仰でした。それゆえ創世記は言います。
 「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)。
 使徒パウロも同じように言っています。「だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」(ローマ4:22)
 このように神はアブラハムの信仰を御前に有効な義と認められました。その結果、神は年老いた不妊の妻サラが一人息子のイサクを産むことができるようにして下さいました。
 それゆえアブラハムに対する神の約束が実現したのです。言い換えれば、人類を救おうとする神の計画が前進しました。
 それに対して、新約聖書では神がアブラハムに約束された人類の救いは、今や神の御子イエス・キリストにより成就しました。それゆえ、この世界に存在するすべての人が、神の救いを受け、神のみ前に生きる神の民となるためには、神に栄光を帰す信仰によって、神から義と認められることが必要なのです。この点に関して、使徒パウロは言います。
 「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるさめに復活させられたのです。」(4:24)
 パウロは十字架につけられて死なれたイエスを父なる神が復活させられたと信じることが神に対する本当の信仰であると言っています。アブラハムが人間的には全く不可能な事態に直面しながら、神に栄光を帰する信仰が彼の義とされたことは、クリスチャンの場合にも相通じています。神に栄光を帰す信仰により、義とされるとは、「神との正しい関係」に入れられ、救われることです。
 イエスが人間の救いのために必要な人類の罪を贖うために十字架につけられて死なれたことは、人間にとって万事休すと言う絶望的状況です。それにも拘らず、父なる神はイエスを死人の中から復活させ、「十字架の死において達成された救い」をすべての人間に与えるために、神はイエスを復活させ、すべての人間の救い主、支配者、すなわち主(父なる神と同じ主権者)とされました。
 この神の救いを信じることによって、人は「義とされ」、「神との正しい関係の中に入れられ」、神のみ前に生きるのです。人間に不可能と思われることを、神は達成されたのです。このことを信じることが神に栄光を帰す信仰です。



2017-10-01(Sun)

わたしはある 2017年10月1日の礼拝メッセージ

わたしはある
中山弘隆牧師

 わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
イザヤ書43章10~11節


 そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
ヨハネによる福音書8章21~28節


(1)人間にとって最も必要なもの
 わたしたち人間が生きるために、最も必要なものは何でしょうか。
健康でしょうか。能力でしょうか。金でしょうか。職業でしょうか。社会的地位でしょうか。今日のグローバルの世界は、競争が激しく、変化が速い時代であり、自分の将来がどうなるかは極めて不確定であります。このような時代にこそ、人間は何であるかをしっかりと認識し、自分の人生を逞しく生きることが最も必要です。
 しかし、そのために人生を見る視点が何よりも重要です。具体的に言えば、人間は縦と横との関係の中で存在しています。
 税金のことで主イエスを罠にかけようとしたファリサイ派やヘロデ派の人たちに対して、主イエスは仰せになりました。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)。この言葉は人間が神との縦の関係と、皇帝も含めて人間との横の関係の交差点に立っていることを示しています。
 人は誰でも先ず縦の関係を第一とすることによって、横の関係も正常に保たれるという意味です。
 神は万物の創造者であり、支配者でありますから、神だけが全知全能なのです。それゆえ、人間は神との関係を第一とすべきです。

(2)人間を求められる神
 ただそれだけではありません。神との関係は人間が創り出したのではなく、神が人間を選び、主イエスを通して、神ご自身が人間との関係を創設されたのです。
 先ず、神が人間を愛し、御子を人間に与え、御子によって人間を罪の束縛から解放されたと、聖書は言っています。ヨハネによる福音書は、次のように言っています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)
 さらに神が御子を人間に与えられたことを具体的に説明するために、次のように言っています。
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
 ここで「言」とは、神であり、父・子・聖霊の三位一体の神である「御子」のことです。さらに「神の言葉」である御子は天地が創造されたとき、父の意思に従って、天地万物を創造された神なのです。
 その御子が人間の救いのために、父なる神によって人間の世界に遣わされ、処女マリアより生まれ歴史的な人間となられました。
 ここで、「肉」とは単なる肉体ではなく、人間性を意味しています。それは御子が「真の神・真の人間」となられたことを意味しています。
 従って、真の神・真の人間である御子によって、神は人間を救う神となり、人間は神を知り、神に従う神の民となったのです。
 このことをヨハネによる福音書は証し、御子は「恵みと真理」とに満ちていた、わたしたちはその栄光を見たと、証言しています。ここで、「恵み」とはそれを受けるに全く値しない者に対する人知を超えた神の好意です。それゆえ「憐れみ」とも言えます。
 他方、「真理」は「救いの真理」です。救いは神が罪人である人間を救う際に、「神の性質」に全く一致した方法で対処されたということです。その結果、神は人間に神ご自身を「完全に啓示」されました。
 その神がご自身を人間に示された啓示の最高峰と完成とは、御子イエスの十字架による死と復活であります。人類の罪を全く罪のない御子イエスが代わって背負い、人類に代わって御子イエスが裁かれたのです。その神の裁きに死の極みまで従順であった御子イエスによって、人類の罪は御子イエスの中で取り去られました。その結果、人類は「罪の束縛」から解放されました。それゆえ父なる神は御子イエスを復活させ、御子イエスを主イエス・キリストとされました。そして復活の「イエス・キリストの中」に、神に従う「新しい人間」、すなわち「主イエスの義と復活の命」を与えられた新しい人間を創造されたのです。つまり、復活の主イエス・キリストは天に上げられ、天地万物の主となり、すべての人間の救い主となられました。その結果として、聖霊が神の民である教会に与えられたのです。
 言い換えれば、わたしたち人間は「主イエス」において、「聖霊」を通して、神を礼拝し、神の言葉を聞き、祈り、神の言葉を実行することができるのです。つまり、神のみ前に生きるのです。

(3)仲保者である御子イエス
 次に、主イエス・キリストは、御自分について仰せになりました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25~26)
 従いまして、人間を神の御前に生かす永遠の命とは、主イエス・キリストの復活の命です。正確に言えば、復活のイエス・キリストご自身が永遠の命なのです。聖霊を媒介として、人は主キリストとつながるとき、永遠の命を受けるのです。
 また、次のように仰せになりました。
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)
 「命の光」とは命を与える光という意味です。光とは人間の心を照らす神の啓示です。正にその方として、主イエス・キリストは真の神・真の人なのです。
 神はイエス・キリストによって、人間との関係を創設されました。言い換えれば、主イエスは神と人とをつなぐ「仲保者」なのです。
 旧約聖書の時代に、神は御自身を御言葉によって預言者たちに示しされました。ヘブライ人の手紙は冒頭で、次のように教えています。
 「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。――御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです。」(ヘブライ1:1、3)
 今や神の言葉は御子イエス・キリストによって、明瞭に究極的に語られたのです。この点につて、イエスに反対するユダヤ人たちに対して、次のように仰せになっています。
 「あなたがたはその方(わたしの父)(あなたがたの神)を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知り、その言葉を守っている。」(ヨハネ8:54~55)と言われました。
 どうしてそうなのでしょうか。その秘密はイエスの人格にあります。
真の神・真の人であるイエスは父なる神との直接的な交わりを持ち、父がイエスの中に、イエスが父の中に、互いに内住しておられるので、イエスはご自身の心と知性よって父を知っておられるのです。この点が預言者たちとは異なるイエスの特異性です。

 他方、イエスが真の人間となられた神の御子でありますので、父・子の交わりは、信仰を媒介として成り立っています。この点では預言者たちも同じです。しかし「預言者たちは人間」です。「神」ではありません。心に聖霊が与えられ、信仰を通して神の意思を知り、神の言葉を聞いた人たちです。それゆえ彼らの神認識は「不十分」でした。
 それに比べて、「真の神である人間イエス」は信仰を通して、自分の心と知性によって、直接父なる神を認識し、その認識は完全でした。ここに「イエスの特異性」があります。
 また、イエスと父なる神との交わりは、「御子」と「父」との交わりであるゆえに、イエスは「父の栄光」を求め、ご自身の栄光を求められませんでした。これが「御子の特性質」であり、「イエスの真理」なのです。この点を証しておられます。
 「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(ヨハネ5:41~43)
 それゆえ、イエスが神の言葉を語られることは、そこで神の啓示が生起しているのです。この霊的現実を弟子の一人であるフィリポに仰せになっています。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」(ヨハネ14:10)
 このように、イエスが語り、行動された時、イエスの言葉を通して、父なる神が語り、行動されたのです。この神の現実が、人を救い、生かすのです。それゆえ、「歴史的なイエス」の言動を通して、神の啓示が生起しました。この点が無限に大切なのです。
 この神の現実の標識は、イエスがわたしは父から遣わされた者であり、父の栄光を求め、自分の栄光を求めないと仰せになっていることです。そのとき、イエスの言葉と行動が、父の意思と行動に「完全に一致している」のです。それゆえイエスが神の究極的啓示です。最早これ以上はないのです。
 さらに、神の啓示の完結とは、人類の罪の贖いであるイエス・キリストの十字架の犠牲の死と、死人からの復活です。

(4)霊的なキリストの働き
 「そこでイエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、“わたしはある”ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたことを話していることが分かるだろう。』」(ヨハネ8:28)
 「人の子」とは、本来的に神である御子が、人間となってこの地上に来られた「歴史的イエス」に対する名称です。同時に人の子とは、神の権威をもって行動する「天に属する人間」「天から遣わされた人間」と言う意味も兼ねていました。ここでイエスは十字架の死を全うするとき、「わたしはある」という者であることが、判明すると仰せになっています。
 「わたしはある」という言葉は旧約聖書では、「わたしは主である」、「わたしは神である」という意味であり、神の民イスラエルに対してなされた「神の自己宣言」なのです。それは神が「永遠に生きて働く」主権者であると言う意味です。
 このイエスの自己宣言によって、今や教会は主イエス・キリストは神として働いておられることが分かりました。今や主権者となられた主イエス・キリストはこの言葉によって、「神」として教会の中に、そしてクリスチャン一人一人の中に臨在し、働いておられます。
 「わたしはある」と仰せられるイエス・キリストは、神であると同時に今や「天的人間」として、クリスチャンの中に働き、救いの完成へと導いておられるのです。それゆえ、「永遠の羊飼い」としてわたしたちを救いの完成へと導いておられるのです。
 わたしたちはイエスが神として働いておられるとすれば、もう地上にはおられないのではないかと考えますが、それは大いなる誤解です。神であればこそ、地上のどこにでも、いつでも、だれに対しても臨在し、出会い、対面し、同時にその人の中に働かれるのです。それゆえ、イエスは仰せになりました。
 「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない。あなたがたの所に戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:18~19)
 それは地上で弟子たちを導かれた羊飼いの働きが、今や全く新しい形で、人間の目には見えない神的な形で、それゆえ命と力に溢れた方法でなされているのです。
 「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊も導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。」(ヨハネ10:16) この霊的な羊飼いである復活のキリストの働きをクリスチャンに認識させ、キリストの命をクリスチャンに注入される方が聖霊です。



2017-09-24(Sun)

聞かれる祈り 2017年9月24日の礼拝メッセージ

聞かれる祈り
中山弘隆牧師

 エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい雨の音が聞こえる。」アハブは飲み食いするために上って行き、エリヤはカルメルの頂上に上って行った。エリヤは地にうずくまり、顔を膝の間にうずめた。「上って来て、海の方をよく見なさい」と彼は従者に言った。従者は上って来て、よく見てから、「何もありません」と答えた。エリヤは、「もう一度」と命じ、それを七度繰り返した。七度目に、従者は言った。「御覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます。」エリヤは言った。「アハブのところに上って行き、激しい雨に閉じ込められないうちに、馬を車につないで下って行くように伝えなさい。」そうするうちに、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になった。アハブは車に乗ってイズレエルに向かった。主の御手がエリヤに臨んだので、エリヤは裾をからげてイズレエルの境までアハブの先を走って行った。
列王記上18章41~46節
 

 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書11章20~24節


(1)祈りの力
 わたしたちが主イエスを信じて、クリスチャンとなり、教会に連なる信仰生活を送っている中で、一番幸いなことは、神様に祈ることができると言うことです。自分のために、教会のために、家族のために、信仰の友のために、地域の人々のために、祈ることです。
 神は主イエス・キリストによってわたしたちに対して、恵み深い父となってくださいましたので、わたしたちの祈りを聞いてくださるのです。祈りは神様との交わりの時です。
 わたしたちは朝目覚めるときに、先ず神様に挨拶をします。神様、今日も主イエスの義と命と使命を与えて下さり有難うございます。どうか、神様に従い、御心を実行し、神様の栄光を現す一日であるようしてください、と祈ってその日を始めます。
 また、夜寝る前には、今日わたしは神様の御心を少ししか行わず、御心に反することが多くありましたが、すべてを御手に委ねます。御心がなりますようにと祈って安心して休みます。
 神はわたしたちが祈る前に、わたしたちの所に来られ、祈るのを待っておられるのです。主イエスは神を信じて祈ることによって、わたしたちの為す一日の働きは神が共にいて導いてくださると、仰せになっています。
 「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカによる福音書11:9)
 この御言葉は実に深い意味がありますが、わたしは主イエスを信じ、主イエスを通して神様に祈るならば、神様が祈りに応えて、わたしたちを導いてくださると教えておられるのだと、思います。
 これはもうだいぶ前の話ですが、わたしは東京教区の西南地区の委員をしていましたとき、中高生のワークキャンプで、浜松にある聖隷社会福祉事業団に属する浜松十字の園に行ったことがあります。「十字の園」は日本で最初に設立された特別養護老人ホームです。そこには120名の病気を持つ高齢の方々が入居されていました。脳卒中の後遺症、動脈硬化症、脳軟化症、老人性痴呆症などのために半身不随、言語障害などに苦しみ、常時介護を必要とする人たちです。入居しておられる方々は介護、診療、看護、リハビリテーションを通して、職員との温かい人間関係の中で、とても明るく過ごしておられます。
 わたしたちは廊下のワックスがけや庭の草取り、ごみ置き場の掃除などの作業をしながら、入居しておられる方々と交わりの時が与えられ貴重な体験をさせていただきました。
 また信仰にしっかりと立って、事業を推進しておられる人たちから、創立者たちの熱い祈りと深い愛について教えられましたので、非常に大きな感銘を受けました。
 ドイツの「母の家」から日本に派遣されたデアコニッセであるハニ・ウォルフさんが、近所の寝たきり老人の訪問看護を続けておられて、ホームの必要性を痛感されました。当時、聖隷福祉事業団の理事長であった長谷川保先生に、「これからは神様がホームを造るように命令しておられるのです。さあやりましょう」と決意を促されたことがその発端でした。そのために祈り、ハニ・ウォルフさんはドイツに行って献金を集め、聖隷福祉事業団は土地を無償で提供して、ホームが建設されました。その後、福祉関係の人たちが十字の園を見学に訪れ、日本でも方々にホームが造られるようになり、ようやく法律も整備されたのです。
 このような開拓者たちの献身と努力は、まことに神の愛に押し出されたものであり、祈りの力の現れです。
 十字の園の入り口には、「夕暮れになっても光がある」と刻んだ石が庭に置いてあります。これは口語訳聖書の旧約聖書ゼカリヤ書14章7節に「そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これは昼もなく、夜もない。夕暮れになっても、光があるからである。」という御言葉の引用です。実に人生の夕暮れを迎えても、神の永遠の恵みの中で、明るい希望をもって過ごすことができると言う意味で、この御言葉はホームが存在する意義を語っています。
 このように神の愛を知り、神を信じて祈るとき、その祈りを共にしている人たちの協同と奉仕を通して、神の御心が行われることを、十字の園の歴史が証しています。

(2)神に対する信頼と従順の祈り
 主イエスは弟子たちにこのように言われました。
 「神を信じなさい。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコによる福音書11:22~24)
 このように自分の祈りが叶えられると確信して、祈ることが大切であると言われますと、わたしたちはどうのように考えるでしょうか。何が何でも自分の祈りが叶えられると強引に思い込むのでしょうか。主イエスは決してそんな意味でこのように仰せになっているのではありません。
 主イエスは小さい時から、神は自分の恵み深い父であるということを信じ、そのことを自覚して祈っておられました。従って、イエスは神様に自分の父として、「アッバ」と祈りにおいて呼び掛けられました。これは幼子が父にパパと呼び掛ける仕方です。神に対する単純な信仰と単純は信頼を表す言葉です。
 この祈りの中で、イエスは万物の創造者であり、万人の救い主であり、全ての良き物の所有者である神が、ご自身をイエスに示し、イエスの中に働かれることを体験し、神はご自身をイエスに日々与えられる方であると知り、神をご自身の父として自覚されました。
 その事によって、イエスはご自身を「神の御子」として自覚されるようになったのです。しかも、イエスと父との関係は、他の人間にはない特別の関係であることを知り、自分が神の唯一の子であることを認識されました。
 この自覚により、イエスの父に対する態度は、父に従うと言うことが唯一の在り方となっていました。この点に、父と御子イエスとの関係の特徴があると言えます。
 そのような御子イエスが全人類の救い主としての公生涯を開始されたのは洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられた時です。洗礼を受け、川から岸に上がられたとき、天が開けて父なる神の御声が聞こえて来ました。それはマルコによる福音書1章11節に記されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」
 「わたしの愛する子」とは、わたしの独り子と言う意味です。「わたしの心に適う者」とは、神に喜ばれる者と言う意味です。その理由は御子イエスが父に常に従順であるので、父に喜ばれているからです。これは御子イエスの心の中にある神聖な神秘です。
 またこれは御子イエスが自分の思うこと、語ること、行動することのすべてにおいて、父なる神の意志と行動に完全に一致しているという自覚です。それゆえ、御子の従順に対する父の喜びが、父と子の交わりの特質です。
 実に、イエスは御子として悪魔の誘惑に敢然と抵抗されました。
 イエスの受洗後、悪魔はイエスを幻の中で、エルサレムの神殿の屋根の端に立たせて、言いました。
 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4:6)
 このように悪魔は、神の唯一の子であるというイエスの自覚に訴えて、飛び降りるように誘惑したのです。しかも、旧約聖書の言葉(詩編91:11~12)を引用して、神の子の独り子を神は天使によって守られるのであるから、飛び降りてみよと促したのです。
 イエスはこの誘惑をきっぱり拒否されました。それはたとえ聖書に書いてあるとしても、そうすることは父の御心でないから、父の意思に反する行動を取ることはできないと拒否されたのです。
 このようにイエスにとって一切の行動の基準は父の御心に対する従順です。従って、イエスの祈りの目的は、自分が父への従順を全うするためでした。
 その他、イエスに対する悪魔の誘惑は、ギリシャ的な神の子たちが奇跡を行なったようにイエスも奇跡を行うように促したことです。また、ユダヤ人が期待している政治的なメシヤのように、イエスを全世界の支配者にすることでした。しかしイエスは断固として拒否されました。その理由は正にイエスが神の御子であるからです。
 このことを考慮しますと、イエスが神から与えられた使命に対して従順であるときにだけ、神の奇跡的な力をイエスは頼りできたことが分かります。
 それゆえ、イエスは病める者、苦しめる者に神の愛をもって、罪を赦し、病を癒す奇跡を行なわれましたのは、正に神の意志と行動にイエスの意志と行動とが全く一致していたからなのです。
 それゆえ、罪の赦しと病の癒しは、イエスの「人格の内部にある神秘」から生じた「神的な出来事」となり、同時に「神の啓示」となりました。この神の栄光の現れは、御子イエスの地上における神の国の宣教活動の中で、多く見られました。
 例えば、マルコ福音書2章1~12節の「中風の人を癒された」イエスの行為がその一つです。ここで、イエスは中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と仰せられました(2:5)。「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」と言って、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(2:11)と命じられると、その通りに病人は癒されたのです。
 正に、この癒しは御子イエスが父なる神の命令に従順であるゆえに、生起した神の働きです。この奇跡は父に対して従順であったゆえに、御子イエスによってなされたのです。
 しかし、この癒しは必然的に不信仰との戦いを伴いました。事実、イエスを信じない者たちは、この時からイエスを殺害する計画を立てたのでした(3:6)。
 
(3)主イエス・キリストの御名によって
 最後に、わたしたちが神に祈ることができ、神がその祈りを喜んで聞き上げられるのは、主イエス・キリストを通して、わたしたちが祈るからです。なぜならば、罪深いわたしたちに対して、主イエス・キリストの十字架の死と復活により、主イエスの固有の「父」である神が「わたしたちの父なる神」となって下さったからです。
 実に御子イエスの死に至るまでの従順によって、わたしたちの罪は神との交わりの中で既に取り去られています。御子イエスがわたしたちのために達成された神の義がわたしたちの神との交わりの中で既に与えられています。同時にそれはわたしたちが主イエスを信じ、主イエスと結ばれていることによって、現実のものとなります。
 言い換えれば、神との交わりの中でわたしたちを日々新たに生かすため、神は主イエスを与えて下さったのです。それは十字架の死による御子イエスの犠牲を通してです。これほど大きな犠牲を払ってくださったのは、わたしたちに対する神の愛がどれほど大きいかを示しています。
 この愛は神が良き賜物をわたしたちに与えてくださると言う程度の愛ではなく、実に無限の愛です。つまり、神がご自身をわたしたちに与え、主イエスを通して、わたしたちの存在と心と行為の中で働いてくださることです。
 それゆえ、神はわたしたちの祈りを必ず聞き上げてくださるのです。祈りが聞かれるのは、決して自分たちの功績によるのではありません。主イエスがわたしたちの中に臨在しておられるからです。
 父なる神は、主イエスを通して、「求めなさい。そうすれば、与えられる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)と仰せられるから、その命令に従って父なる神に祈るのです。



2017-09-17(Sun)

キリストの思い 2017年9月17日の礼拝メッセージ

キリストの思い
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42章1~4節


 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章10~16節


(1)神を知る唯一の道
 わたしたちの信仰生活が、常に喜びと力に満ちているためには、何が必要であるかを日ごろから心得ていなければなりません。例えば、神様を頭で理解しているだけでは、まだ神様の恵みを体験しているとは言えません。また、神様は天地万物の創造者なる唯一の神である。そして人間は神様の恵みの対象として人格を持つ者として創造されている。それゆえすべての人間は神の前で平等である、と信じているだけではまだ不十分です。
 それでは神を知るということはどういう状況でしょうか。それは神が恵み深い主権者であることを、自分の生き方を通して体験し、知っていることです。なぜならば、主イエス・キリストを通して与えられる神の救いを信じ、主イエスの恵みの中で生きることによって、人格的な神を知ることができるからです。
 言い換えれば、神様がわたしたち人間にご自身を完全に示されたのは、神の御子が人間となってこの世界の中に来られた主イエスを通してであります。それゆえ、神の御子イエス・キリストを抜きにしては、人間は神を知ることはできません。この最も大切な点について、神の御子イエスは仰せになっています。マタイによる福音書11:25~27は、その御言葉です。
 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 ここで、神の御子イエスは父なる神を知ることは、すべてご自分に委ねられていると、仰せになっています。なぜならば、子を知る者は、ただ父だけであるからです。
 第一に父と子との関係は真に神秘で、深い真理です。御子イエスが父との出会いの中で、お互いに知り、知られているという事実は、人智を超えた神の神秘です。わたしたちの近寄りがたい神秘です。実にイエスが神の御子であると言う自覚は、この神秘の中にあります。

 それゆえイエスは神を「わたし自身の父」と呼ばれました。他方わたしたちクリスチャンが父なる神様に祈るときには、「わたしたちの父」と呼ぶように教えられました。これが教会の礼拝でのクリスチャンの祈りです。注目すべきことは、イエスは父なる神様に向かって、クリスチャンのように「わたしたちの父よ」と言って祈られることは全くありません。ここに御子イエスの特徴、特異性が現れています。
 第二に、それゆえわたしたち人間が神を知ることができるのは、御子イエスがわたしたちに「ご自身の父」を現わしてくださるからです。
 ところで、神から遣わされた救い主である主イエスの尊い姿は、人類の罪の贖いのためにご自身を犠牲とされた十字架の死において現れました。しかし、生まれながらの人間はイエスのこの姿の本当の意味を理解することができません。これを見た群衆は異口同音に主イエスを嘲笑しました。
 「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(マルコ15:29)と侮辱しました。
 また、イエスに敵対していた祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったように、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15:29~32)と、嘲笑の言葉をイエスに投げかけました。
 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一、1:18節で言っています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 これはどういう意味かと説明致しますと、主イエスの十字架の死は人類を罪の束縛から解放するために、正に神ご自身が実行してくださった神の行為です。それゆえ十字架の言葉は、主イエスの十字架の深い真理を告げ知らせている神の言葉です。
 聖書では、神の救いを知らせる言葉を「福音」(喜びにあふれた知らせ)と言いますが、その中心は「十字架の言葉」なのです。御子イエスは生前にご自身の使命である十字架の死の意味を弟子たちに教えられました。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)。つまり、人類の罪を贖うために、御子イエスは人類の罪をご自身の上に担い、人類に代わって、人類の罪に対する神の裁きを受けられたのです。この深い真理を十字架の言葉が語っているのです。
 従いまして、イエスの在世当時は、イエスが弟子たちに教えられた十字架の死の意味を弟子たちはまだ理解できませんでした。しかし、イエスが死人の中から復活されたとき、復活の主から再び十字架の意味を教えられたのです(ルカ24:25~27)。同時に、復活の主イエスは弟子たちに聖霊を与えられました(ヨハネ20:22~23)。
 それゆえ、復活の主イエスの栄光の光の中で、主イエスの十字架の苦難が理解されたのです。今や主イエス・キリストの十字架の死と、復活の証人であるキリストの使徒たちが、キリストの福音、すなわちキリストの十字架の言葉の宣教を全世界に向かって開始したのです。
 ところで、十字架の言葉は、聖霊を受けなければ、人は理解できません。聖霊によらなければ信じられないのです。しかし、福音が語られるところには、復活の主イエスが共にいますので、聖霊を与えて下さいます。それゆえ福音を信じることができるのです。
 このことにつきまして、コリントの信徒への手紙一、2:11は次のように教えています。
 「人の内にある霊以外には、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神を知る者はいません。」
 ここにある人がいると致しますと、その人を人格として完全に知っている者はその人の内にある霊だけです。その人の心の奥深くまで知ることのできる者はその人の霊以外にはありません。同じように、神様を知ることのできる者は、神の霊すなわち聖霊だけであります。因みに、聖霊は父なる神の霊であると同時に、御子である主イエス・キリストの霊なのです。聖霊は父と子とから出るのです。これを神学的に表現すれば「流出する」と言います。
 人間が理性を働かせて、なぜ自分は世界の中に存在しているかを思索し、人間を存在させている神を推理しましても、それによって実在する唯一の神に到達することは不可能です。なぜならばそれは人間の理性が考え出した有神論や唯一神論などの神概念であり、本当の生ける神様ではありません。
 要するに、御子イエスの地上における神の国宣教活動を通して、神の救いの事業が開始しました。その間、御子イエスの教えと、力ある業を通して、罪人に対する罪の赦しと、罪の束縛からの解放による病の癒しが与えられ、神を信じ、神に従う「神のみ前に生きる新しい人間」の生き方が開始しました。
 言い換えれば、神の救いは、御子イエスの十字架の死と復活の出来事を通して、主イエスご自身の中で実現したのです。そしてわたしたちの救いは主イエスの中に保存されているのです。その結果、神様はわたしたち人間の罪を常に赦し、わたしたちと出会って下さるのです。
 それゆえ、次のように言うことができます。死人の中から復活された主イエス・キリストが今や神として、信仰者一人一人の中に、臨在し、働いてくださるようになりました。同時に、主イエスによって聖霊が与えられました。そして聖霊は神としての復活の主イエスの働きを信仰者一人一人が理解できるようにされるのです。
 尚、その上に聖霊は復活の主イエスの霊的生命と神の愛を信仰者の心に注がれますので、クリスチャンは主にどこまでも従って行く生き方が可能になりました。その結果、復活の主イエスはわたしたちを日々罪から清め、日々新しく生かし、救いの完成へと導かれるのです。

(2)キリストの思いを抱く者
 以上のように、わたしたちを日々新たに生かす神の恵みは、父・子・聖霊の「共同の働き」であり、神様がわたしたち人間にご自身を与えられることです。もちろん、わたしたちがこのように神に愛され、神の子たちと呼ばれましても、依然としてわたしたちは人間であり、神になる訳でありません。そうではなく、わたしたちの中に復活の主イエス・キリストが臨在され、同時に聖霊を媒介として、わたしたちをキリストと結び合わせ、キリストとの人格的な交わりの中に永遠に保ってくださるのです。それゆえわたしたちは死によってもキリストから切り離されることは最早ないのです。
 そのように生き、また死ぬクリスチャンの価値は、地上においても、天国においても、主イエスとの人格的な交わりの中で、自分の中に主イエスの働きを受け、聖霊の促しを受け、神の愛の働きである善い行を実行し、他の者を赦し、共に生きるために、共に重荷を担うのです。この生き方を通して、わたしたちは主イエスの性質を映し出すのです。
 このような者としてわたしたちは、自分の心の中心に神の御子・主イエスを迎え入れ、わたしたちの思うこと、語ること、なすことのすべてを主イエスが支配され、わたしたちの思いと言葉と行動が変えられ、清められ、高められて行くのです。このことをパウロは「キリストの思い」を抱いている(コリント一、2:16)と、説明しています。
 そのように復活の主イエスご自身がわたしたちの中に働いておられるので、同時にわたしたちに与えられている聖霊の内的促しにより、主に従って行くのです。これこそ神が与えられる「自分の本当」の人生を歩むことです。

(3)聖霊によって主イエスを見つめて
 最後に、全生涯に渡って主イエスに従い、主イエスに結ばれて、主の命令を実行し、主の業を行なった使徒パウロが自分の中に働かれる主イエスの性質と姿を注視しながら、愛とは何かをコリントの信徒への手紙一、13:4~7で語っています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 生ける復活の主は「情け深く、忍耐強い」方です。罪深い者、信仰の成長の遅い者に対して、主は期待を持って、忍耐して待っておられるのです。
 なぜなら、自身の十字架の贖いにより、どんな罪人に対しても、罪の束縛から自由になり、神の愛に応える新しい生き方を可能にされているからです。たとえ信仰の成長が遅くとも、必ず神の御心に沿う正しい業をするようになる日の来ることを確信しておられるからです。
 他方、罪深い人間は何よりもまず、「利己的な人間」であり、「自分の利益や名誉」を求める者です。そして、「ねたんだり」「自慢したり」「高ぶったりします」。パウロは自分と対面しておられる主イエスの心には、そのような思いや態度は一片のかけらもないことを知らされています。罪人のそういう思いや、態度に対して、主イエスははっきり「ノー」と言われます。なぜならば、人は誰でも主イエスの十字架の死によって、イエスと共に死に、罪に束縛されている古い自分、生まれながらの自分に死んでいるからです。
 しかし、だれでも自分自身を顧みれば、古い自分は依然として自分の中に残っています。それにも拘らず、わたしたちは罪に束縛されている古い自分を後ろに投げ捨てることができます。
 それはわたしたちの中に与えられている聖霊の促しによるのです。この世の誘惑が襲う度に、何度でも古い自分に背を向け、キリストの中に与えられている新しい自分に顔を向けて前進するように、聖霊が促すからです。
 つまり、わたしたちの中に与えられている聖霊の働きは、主イエスの恵みに答えて、自ら進んで主イエスに従う信仰者の「新しい主体」の働きとなっています。わたしたちは愛の業を完全には実行できなくても、常に実行するようになるのが、聖霊の働きです。
 最後にパウロが言うすべてに「耐える」という言葉は、「しっかりとしていて困難や試練に動揺されない芯の強さ」「堅忍不抜」という意味です。それこそ、聖霊による愛の働きです。



2017-09-10(Sun)

あふれ出る愛 2017年9月10日の礼拝メッセージ

あふれ出る愛
中山弘隆牧師

 その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。
ゼカリア書14章8~9節


 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章25~37節


 今日の日本を取り巻く国際状況の中で、平和を維持することが、緊急の課題となっています。特に、北朝鮮が核武装を完成する時が間近に迫っていると予想されるので、米国と日本と韓国は北朝鮮の核武装を未然に防ぐため、経済と軍事の両面の圧力を強化する政策を取っています。これは一つ間違えば戦争になりかねません。
 しかし、わたしたち信仰者には歴史の難題に対処する唯一の視点が与えられています。それは主イエスの主権が結局は歴史の流れを支配するということです。
 それゆえ、信仰的視点に立って平和を維持するため、近隣諸国とどう付き合えばよいかについて考えなければなりません。

(1)では、わたしの隣人とは誰かですか
 本日の聖書の箇所で、主イエスはわたしたちに隣人とは誰であるかを教えられました。ここでユダヤ教のある律法学者が、神の定められた律法をどのように解釈するかについてイエスに論争を仕掛けたことが記るされています。
 先ず、律法学者はイエスに向かって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と議論の火蓋を切りました。イエスはそれを受けて立ち、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といって、問いを相手に返されました。これは律法の神髄は何か。律法の根本目的は何かという問いであります。
 それに答えて、律法学者は律法全体を二つの戒めによって、要約しています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と律法に書いてある、と答えました(ルカ10:27)。
 この第一の戒めは、敬虔なユダヤ教徒たちが毎日唱和している信仰告白、すなわち申命記6章4~5節に含まれています。
 「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
 また第二の戒めである「隣人を自分自身のように愛しなさい」という聖句は、レビ記19章18節からの引用です。
 このように律法全体はこの二つの戒めの上に立脚していると答えた律法学者に対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:28)と仰せられました。
 このイエスの言葉から分かりますことは、永遠の生命は「神と隣人とを愛する」ことに他なりません。但し、ここで神を愛するとは「神に従う」ということであり、隣人を愛するとは、「神の愛」をもって隣人を愛することです。実に神と隣人とを愛する者は、終末において到来する神の国の生命に、今この地上の生活においてすでに、その先取りとして生きるのであるとイエスは仰せられました。
 しかし、律法学者は隣人に対する愛について、条件を付けることによって実質的に隣人愛を拒もうとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたのです。
 ここには隣人愛の対象を制限することによって、隣人愛の義務を軽減しようという意図が明瞭です。あからさまに言えば、隣人愛を自分たちの仲間だけに限定しようとしています。そして最小限に縮小すれば、律法学者やファリサイ派の人たちが自分の隣人です。しかし、彼の意図は律法を与えられた神様の意志に反しています。

(2)溢れ出る愛
 これに対して、主イエスは善きサマリヤ人の譬え話をされました。しかしこの譬え話は、例話でありますので、人がその通りに実行すべき性質の物語です。従いまして、イエスがここで示された隣人愛は、民族の枠を越えて働く愛です。「あなたの助けを必要としている者は、どの民族に属していようとも、あなたの隣人である」と言われたのです。
 要するに、イエスは「与えられた時と場所で、活きて働く愛をもって、あなたが助けることのできる者は、誰であっても、あなたの隣人なのだ」と教えられています。
 30節で、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」と話されました。
 この種の事件は当時頻繁に起こっていました。エルサレムの町からエリコの町までは、約30キロの急な下り坂道です。徒歩で約8時間も掛かかる長い坂道です。しかも岩ばかりの荒涼とした道がどこまでも続いており、追い剥ぎが出没する悪名高き道路でした。それでも幹線道路でありましたので、人々は危険を冒してもそこを通らねばなりませんでした。
 31節、32節で祭司とレビ人が登場してきます。彼らは神殿での当番が終わり、次の当番までの間、郷里に住むためエルサレムから下っていったのだと思われます。ちょうどその時、追い剥ぎに襲われて、半殺しになって倒れている同胞の側を通りました。
 祭司は神殿で民衆に律法を教える立場にある宗教家です。それゆえ隣人の災難には誰よりも同情心があるだろうから、自分を必ず助けてくれるに違いないと重症の被害者は期待しました。それにも拘わらず祭司は見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎていきました。
 彼は自分の身にも危険が迫ってくることを恐れ、足早に立ち去ったのです。また、神殿に仕えているレビ人も同じように、そこを通り過ぎてしまいました。もしわたしたちだったらどうするでしょうか。身の危険を感じてとっさに立ち去るでしょうか。それとも途中で思い返して、気の毒な旅人を助けるために引き返すでしょうか。
 その後、サマリヤ人の旅人が近づいてきました。彼は商人でエリコからエルサレムへ上る途中でした。残念ながら強盗に襲われたユダヤ人にすれば、サマリヤ人から助けを期待することはできません。
 なぜならば、サマリヤ人はユダヤ人がバビロンに捕囚されていた時期に、祖国に残ったユダヤの貧民階級で、彼らはその期間に他民族と混血してしまったからです。その後、バビロニヤ帝国に代わって覇権を掌握したペルシャ帝国がユダヤ人を解放しましたので、彼らは祖国に帰還しました。そのとき、帰還したユダヤ教の律法学者エズラによって、サマリヤ人は純粋のユダヤ人でないという理由で、ユダヤ教から追放されたのです。それ以来、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲で、彼らは互いに敵対していたのです。
 ところが、このサマリヤ人は普段自分たちを軽蔑し、差別しているユダヤ人が瀕死の状態で倒れているのを見ると、人ごとのように思わず、あふれでる深い同情の念に突き動かされました。
 「ところが、旅をしていたサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(10:33~34)
 「憐れに思い」というギリシャ語は、実に深い意味があります。それは「心の一番奥から出る思いと感情」に突き動かされ、行動することです。人の災難を自分自身の災難のように同情し、助けることです。しかもその人を助けようと「自分で決心する」ことです。そして直ちに実行することです。
 これは人間の行う最も高貴な決断であり、本心から出た行為なのです。サマリヤ人はこのように堅く決心して、これまで全く面識の無い人を、宿屋に連れて行って、介抱し、まるで身内の者のように世話をしました。
 さらに、翌日宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚をわたし、介抱してくれるように頼みました。この額は数日分の宿屋の料金に相当すると言われています。そして、もし余分に掛かった費用は自分がエルサレムを出発するときに支払いますと約束しました。
 考えてみればこのサマリヤ人の献身ぶりは、並大抵の親切ではありません。実に溢れ出る愛であります。法外とも言うべき親切であり、しかも無償の愛です。出し惜しみする施しではありませんし、ひも付きの援助でもありません。心の中から溢れ出る豊かな愛です。
 そこには主イエスが山上の説教の中で、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:40~41)と教えられたその積極性があります。言い換えれば自ら喜んで与えようとする自発性が、このサマリヤ人の親切な行為の中で働いています。
 それでは、人はなぜそのような愛を実行できるのでしょうか。それは決して単なる義務感から実行しているのではありません。神様がわたしたちを愛して下さっていることを知っているからです。
 クリスチャンは主イエスがわたしたちを救うために、十字架について死に、ご自身の尊い命をわたしたちに与えて下さったことを、知っているからです。さらに神様は聖霊を通して、「復活の主イエス」の命と「神の愛」をわたしたちの心に注いで下さるからです。

(3)発想の転換
 次ぎに、「わたしの隣人とは誰であるか」という律法学者の発想に対して、善きサマリヤ人の譬え話をされたイエスは、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(10:36)と問いかけ、「その人を助けた人です」(10:37)と律法学者が答えますと、イエスはこう命じられました。
 「行って、あなたも同じようにしなさい」。実に、イエスの発想は「助けを必要としている人の隣人になる」ということです。
 ここに発想の転換があります。「わたしの隣人はだれか」という視点から、「わたしが隣人となる」という視点への発想の変換です。
 わたしはこの譬え話を読んで大いに感じますことは、平和を守るためには、すなわち戦争を防止するためには、わが国が中国や韓国、北朝鮮、ロシアや東アジア諸国の隣人となることの必要性です。
 戦時中の日本の天皇は明治政府により神として祭られ、国民は天皇の臣民として生きることが誇りであり、他方、他民族を蔑視しました。それは他の民族、国家に対して隣人、隣国という考え方の欠如の現れです。それは日本の天皇が本当の神ではなかったからです。
 今や真の神であり、世界万民の主権者となられた主イエス・キリストは、すべての民族が互いに隣人であると仰せられました。つまり、神のあふれ出る愛に生きる民族にとって、自分たちの助けを必要としている民族が自分たちの隣人であると仰せになりました。
 この観点に立つならば、わたしたちは他の民族や他の諸国家との共存の道を自ら選び、切り開くために、神から与えられる英知を働かせることができます。
 日本は米国の核の傘によって、近隣諸国の攻撃から自国を防衛しようと言う政策を平和維持の基本方針にしていますが、それは甚だ認識不足です。なぜならば、もし核戦争になったら最新式の核兵器を持っている米国が勝利すると一般的に考えられているのは、多分本当でしょう。しかし、米国自身も甚大な被害を受け、米国と軍事同盟を結んでいる日本もその巻沿いになり、日本の国家はこれまでにない大きな被害を受け、国家存亡の危機に直面します。
 しかし、わたしたちは絶望することはありません。万民の主権者である主イエスは人類の歴史の中に、これまでも、今後も神のあふれ出る愛を注ぎ、破滅の道を回避するようにして下さるからです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

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