2018-05-13(Sun)

ペトロの告白 2018年5月13日の礼拝メッセージ

ペトロの告白
中山弘隆牧師

 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
イザヤ書53章6~11節


 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8章27~35節


(1)ガリラヤ地方での宣教
 本日の聖書の箇所は、イエスの神の国宣教の前期と後期の転換点に位置する非常に重要な個所です。
 イエスは公生涯の初めに、洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けられました。その時ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言ってイエスの受洗を止めようとしたのですが、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです。」(マタイ3:15)と言われて、洗礼を受けられたのです。洗礼者ヨハネの活動も神の国の宣教であり、彼は「悔い改めよ、神の国は近づいた」(マタイ3:2)と語りました。
 同時に、近づいている神の国に入るために、すべての人間は自分の罪を告白し、神に立ち帰ることが必要であると力説し、そのための洗礼を授けたのです。マルコによる福音書はヨハネのこの運動を「罪の赦しを与える悔い改めの洗礼」と呼んでいます(マルコ1:4)。
 ところで、洗礼者ヨハネはどうして罪のない神の御子イエスが洗礼を受けられるのか理解できなかったのですが、正に罪の赦しの洗礼が「有効」となるために、罪のない御子イエスが悔い改めの洗礼を受けなければならなかったのです。それは神の意志であります。
 それゆえ父なる神は洗礼を受けられたイエスに対して、天からの声をもって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語られました(マルコ1:11)。
 この御声はイエスが「神の愛する御子」であり、そのような方として、イエスは「救い主である」と父なる神が直接イエスに語られたのです。このときからイエスは公生涯に入られました。
 しばらくは活動の時期を待っておられましたが、ヨハネがヘロデ王に捕らえられたことにより、いよいよその時が到来したのです。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14~15)。
 これはイエスの宣教もヨハネの宣教と同一の線上にありますが、イエスの神の国はヨハネの神の国よりも一層積極的な、より具体的な内容をもっており、それが「神の子イエスの福音」であります。
 つまり、イエスは神の国の福音を語ると同時に、イエスの言動が福音の内容と密接に繋がっていることを示されました。この点が福音の積極的な意義です。
 イエスはガリラヤ湖の周囲の町々や村々を巡回して、福音を語り、罪の赦しを与え、様々な病気や悪霊に悩まされている多くの人々を神の力を働かせて癒されました。
 また神の国について多くの譬え話を作って教えられました。同時に神の国における信仰者の生き方、道徳的であり、神の愛を実行する善い業について教えられました。中でも神から罪を赦された者として、自分に対して悪を行う者の罪を赦すことが、神の国に生きる者の基本的態度であることを強調されました。
 また、神に祈り、求めることが罪を赦され、神の子とされた者たちの特徴であることも強調されました。同時に、神は恵み深い父であり、信仰者の存在と生活全体に対する支配者であるので、人間の目には見えない神の力と働きによって、信仰者を守っておられることを自覚していなさい。常に神を信頼して、一切の思い煩いを止め、どこまでも神に従い、御心を実行するようにと命じられました。
 これまで様々な悪を行い、心に平安と本当の喜びを知らなかった罪人が、イエスの教えと態度に接して、神の赦しと神の愛を経験したのです。そして神のもとに立ち帰ることができたのです。これは真に驚くべき出来事であります。
 他方、このようなイエスの言動は選民イスラエルの最良のグループであると自負していた人々の反感と敵対を引き起こしました。それはファリサイ派の人々であり、律法学者たちです。彼らはイエスが神である事実に躓いたのです。彼らは神が人間になることは絶対にないと信じています。他方、旧約聖書が約束する神の救いとは、聖霊が人間に与えられ、聖霊を通して、人間の中に霊的生命が働かくことでした。この点、イザヤ44章3節で、聖霊がイスラエルの民に与えられることを預言しています。
 「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。」
 しかし、聖霊が人間に本格的に与えられるためには、神の御子イエスの到来が必要だったのです。それにも拘らず、彼らはイエスが神であることを信じませんでした。
 その理由は、イエスが罪人の友となり、罪人と食事を共にしておられるのを見て大いに憤慨したからです。なぜならば、彼らは神の戒めを忠実に守り、清い道徳的生活をしている自分たちにこそ、神の救いが与えられるという強い自信を持っていたからです。
 それに対して、イエスは彼らに高ぶる者は低くされ、自分を低くする者は高められる、先の者は後になり、後の者が先になると仰せられました。なぜならば、実に神の与えられる救いは神の愛による無償の救いであるからです。
 それにしても、このよう状況の中で、イエスはガリラヤ地方の会堂では拒絶され、ユダヤ教徒の不信仰に驚かれました。結局このようにしてイエスのガリラヤでの神の国の宣教活動は終了したのです。

(2)フィリポ・カイザリア地方で
 この時期にイエスは救い主として果たさなければならない自分の使命が人類の罪の贖いのための犠牲であることを改めて確信され、十字架の死が近付いていることを察知しておられたのです。
 イエスを殺そうと計画している陣営は、一つがユダヤ教であり、ユダヤ教の指導者たちはイエスが神を冒涜していると断罪し、イエスを殺そうとしていました。もう一つはローマ帝国とヘロデ王でした。彼らはイスラエルの民衆がイエスを政治的なメシアと考え、イエスが民衆と共にローマと戦うことを一番警戒していたのです。歴史的にこの二つの方面から、イエスの死の時期が近づいていました。
 一方はユダヤ教の霊的権威をもった指導者、もう一方は世俗的権力あるローマの総督とヘロデ王、この二つの陣営が待ち構えているエルサレムがイエスにとって、救い主としての働きの最も重要な場所となったのです。
 しかしそこに行く前に、弟子たちを教えなければなりません。そのため弟子たちを一旦イスラエルの民衆から切り離す必要があり、ガリラヤから離れたフィリポ・カイザリア地方に行かれました。この地方はガリラヤと異教徒の地域との境になっています。
 この旅行の途中で、イエスは弟子たちに次の質問をされました。
 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)と尋ねられました。
 そこで、弟子たちは『洗礼者ヨハネだ』と言っている人々と、『エリヤだ』と言っている人々と、『預言者の一人だ』と言う人々もいます、と答えています。
 洗礼者ヨハネはヘロデ王に斬首されましたが復活し、イエスは復活したヨハネだと思っている人たちがいたのです。また旧約聖書でエリヤは生きたまま天に上ったと言われていますので、エリヤが天から降ってきたのがイエスだと思っている人たちもいました。民衆はこのようにイエスが神の力を持っている偉大な預言者であると見ており、イエスが政治的なメシアになることを期待していました。  
 そこでイエスは弟子たちに尋ねられました。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マルコ8:29)その問いに対して、ペトロは弟子たちを代表して次のように答えました。「あなたはメシアです。」(8:29)

 しかし、ペトロの告白に対して、イエスは肯定も、否定もされませんでした。それだけでなく、イエスがメシアであることは、人に絶対に話してはいけないと厳しく命じられました。
 ここで弟子たちがイエスを「メシアである」と告白したことは、本当の意味でイエスはメシアでありますから、イエスの宣教の一つの成果と言えます。しかし、重大な問題は彼らが考えているメシアは当時のユダヤ人が考えている政治的なメシアであり、父なる神がイエスに与えられたメシアの「本当の使命」ではなかったのです。
 そこで、このときからイエスは弟子たちに対して明瞭にメシアの使命を語り始められました。聖書は言っています。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」(8:31~32)
 確かに、地上におられた間は、イエスは御自分を「メシア」ではなく、「人の子」と呼んでおられました。それはご自身が「神の御子」であるという自覚からご自身を「人の子」と呼ばれるとき、人類の罪を贖うために自己を犠牲にする「苦難の僕」であり、同時に「神の主権」を授与される唯一の人という両方の意味で使用されていました。
 これまでも人の子が神の力と権威を行使されたことは、弟子たちも承知していましたが、人の子が十字架につくとは毛頭考えていませんでした。当然ユダヤ人として到底考えられなかったのです。
 それゆえ、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めたのです。そんな考えはとんでもありません、よしてください、と言ったのです。このときイエスはペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)と仰せられました。
 イエスはペトロを「サタン」と呼ばれたのです。「サタン、引き下がれ」と命じられました。何と厳しい命令でしょうか。これはイエスにとってペトロの言葉は非常に大きな誘惑であったからです。
 同時にイエスの断固とした態度は、イエスが今や父の御心を明瞭に理解し、御心に従う御子イエスの意志は父なる神の意志と完全に一つに、なっていることを表しています。
 「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」と言うイザヤ書53章11節で預言されている「主の僕」の使命は、人類の罪を贖うために人類の代表となり、代理となり、罪の裁きを受け死ぬことであります。イエスはこれが父から与えられた使命であることをこの聖句から読み取っておられました。
 同時に御子イエスは父なる神から、神の主権を授与されるために必要な御自分の使命を果たすことをここで決意されたのです。エルサレムはご自身の受難と死の場所であることを確認されたのです。
 
(3)父なる神の啓示
 この六日の後、イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。ちょうどその時は、旧約聖書で定められている三大祭りの一つである「仮庵祭」の期間でした(レビ記23:34)。そのときイエスはエルサレムに上らず、ヒリポ・カイザリアに行かれたのです。しかし、その山でイエスの御姿が変貌し、光り輝き、同時に「モーセ」と「エリヤ」が現れ、イエスとその使命につて語り合っているのが見えました。ペトロが一つはイエスのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのために「仮小屋を三つ建てましょう。」と言い出したのは、イスラエルの三大祭りの一つである仮庵祭の期間であったからです(レビ記23:34)。
 その時、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から御声がしました。
 「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(8:7)

 弟子たちはこの御声を聞きいたとき、モーセとエリヤは消え去り、イエスだけが元の姿で三人の弟子と共におられるのに気付いたのです。この神の啓示は、弟子たちに示されたものです。
 神の御声はイエスが御子であることと、メシアの使命である犠牲の死について、三人の弟子に分からせるため、神が語られたのです。
 同時にこの御声は、イエスの決意を父なる神が承認されたことを意味し、父がイエスと行動を共にしておられることを示したのです。



2018-05-06(Sun)

摂理の御手 2018年5月6日の礼拝メッセージ

摂理の御手
中山弘隆牧師

 主は泉を湧き上がらせて川とし/山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み/野ろばの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き/草木の中から声をあげる。主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ/地から糧を引き出そうと働く人間のために/さまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち/そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり/森の獣は皆、忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ/神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き/それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
詩編104篇10~24節


 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6章27~33節


(1)神によって創造された世界
 詩編104篇は詩編の中でも最も素晴らしい賛美の歌です。
 「わたしの魂よ、主をたたえよ。」で始まり、「わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。」で終わっています。
 この詩の主題は、神によって創造された世界の中に現された神の栄光と知恵であります。
 この詩人は宇宙万物を創造し、人間が生きていく上で必要な地上のすべての環境を保持し、わたしたちの生活を成り立たせておられることの中に、神の偉大な働きを生き生きと感じ取っています。
 写真家の白川義員さんがある対談の中で、感動の時を持つことが人間には非常に大切であると言っておられました。白川さんが写真家になられた契機は、ある新聞社の取材旅行をしておられた時、ヨーロッパ・アルプスのマッターホルンが日の出の太陽に照らされて真っ赤に輝き、頂上あたりのレンズ雲が黄金色に染まって、湖の水面に逆三角形の姿で映ったのを見られたことです。
 それは一瞬の光景でしたが、正に彼岸の世界のように思え、あまりの美しさに写真を撮ることさえ忘れておられました。その体験を境にして人生観がすっかり変わり、写真家になられたとのことです。
 また対談の中で、例えばアメリカのデス・バレーの砂丘では、太陽と風が砂を24時間動かし続けています。そこに生じる波紋はどの一瞬をとって見ても完璧で精緻を極めています。そのような自然の営みを見ていると、その背後にある偉大な精神の存在を感じると言っておられました。
 この詩人も宇宙と地球の生成、そして自然の中の生命の誕生について、そこに働いている聖なる神の意志を実に生き生きと感知しています。
 「主は地をその基の上に据えられた。地は世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散っていき、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を越え、谷を下り、あなたが彼らのために設けられたところに向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」(104:5~9)
 これは人間の住む地球がどのようにして誕生したかを説明している古代の世界像に基づいています。それに対して、現代の宇宙観は宇宙飛行士たちの感激です。
 宇宙飛行士たちが、月面に立って地球を見たとき、生命のオワシスである地球が、暗い宇宙空間の中で、青いガラス球のようにひときわ美しく輝いている不思議さに感動しました。それは広大無辺の宇宙空間に一枚の紙のように見える非常に薄い大気圏だけに、生命が存在していることが、正に神の啓示に思えたからです。
 次にこの詩人は水を「生命の泉」として重視しています。
 「主は泉を湧きあがらせて川とし、山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み、野ロバの渇きも潤される。水のほとりに空の鳥は住み着き、草木の中から声をあげる。」(104:10~12)
 ここで詩人は里山が人間の住む環境として与えられていることを洞察し、その環境を守り、生命がそこで調和を保って存続できるようにすることが、神から与えられた人間の使命であることに注意を喚起しています。

(2)神の摂理に基づく人間の働き
 さらに人間の労働がどのように可能となり、維持されるかについて考察しています。
 「主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。家畜のために牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のために、様々な草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」(104:13~15)
 人間社会を築き、文化を生み出す源は、人間の労働であります。しかし、その労働は神の恵みによってだけ可能です。もし今日栽培されている稲や麦の祖先にあたる植物がこの自然界に自生していなかったならば、人間は稲や麦を手に入れることはなかったでありましょう。人間のできることは自然界にあった食物の品種を改良することです。今後どれほどバイオテクノロジーが進歩しましても、遺伝因子の組み換えでなく、人工的な遺伝因子によって全く新しい食料をつくりだすことはできません。
 神様が人間の活動と社会形成に必要な自然環境を何十億年と言う時の経過を経て整えてくださった神の偉大な目的と知恵を思うときに、人間が自分たちの利益を優先させ、短絡的な思考によって、自然環境を破壊していることは非常に深刻な今日の問題です。

(3)神の創造と摂理
 このように神の創造の業は、神様が人間に対してご自身を創造者として啓示しておられるのです。さらに、神の創造の業を見ながら神を信じない罪深い人間が神を知ることができるように、ご自身を救済者として啓示されました。
 従って創造における啓示と、救済における啓示は内的に深い関連があり、二つは互いに補完して一つの神の啓示を構成しています。
 そう言う訳で、使徒パウロはローマの信徒への手紙1章20節で、神の創造における啓示を語っています。
 「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」
 この神の啓示を人は信仰を以て理解するとき、神に祈り、神の御心を知り、神に従って生きる生き方をするようになります。なぜならば、神様は創造された世界と人間をただ天からご覧になるだけで、人間と世界に対して何もされないと言うのではないからです。神は人間と世界を愛し、神の御心に従って人間が生きために、今日もなお世界の秩序を保っておられます。その神の働きが摂理なのです。
 この点に関しても使徒パウロはコロサイの信徒への手紙1章16~17節で、言っています。
 「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
 このように、御子によって創造された万物は、それ以後は御子の働きと力によって支えられているのです。言い換えれば万物は御子の摂理の御手によって支えられているので存続しています。
 もし摂理の御手がなければこの世界万物は直ちに消滅してしまいます。何と神の摂理は偉大であり、恵み深いことでありましょうか。

(4)人間と世界の主権者としての神
 神様は人間にこの世界を管理する責任を与えられましたが、この世界を人間の知恵で管理することを委ねられたのでは決してありません。神様は人類の歴史の唯一の支配者であり、人間社会の恵み深い主権者であります。
 神は万国の預言者エレミヤを通して、次のように仰せられました。
 「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、このことを誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、この事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ書9:22~23)
 要するに神が人間とその国家、社会に求められる正義、公平、憐みを実行することこそ肝要であり、神はそうすることを命じておられます。この神の命令に反した人類の歴史、諸国家、諸社会に対して、神は主権者として厳しい審判を下されるのです。
 そのために、これまで多くの国家が滅び、多くの人が犠牲になりました。しかし、神の審判により、人類が滅んでしまったのではなく、神の裁きはまた神の救いであり、人類は存続し、新しい国家と社会が、古い国家と社会に入れ替わったのです。
 正にこのことが神の主権による摂理の働きです。
 
(5)神の摂理と信仰者
 神は以上のような遠大な目的と、人間の知恵を越えた神の知恵と力により、摂理の御手をもって、世界中の人々を支配し、導いておられます。従って、神の摂理がどのように働いているかに関しては、人間にすべてのことが分かると言うのではありません、しかしクリスチャンは祈るならば神様が危機の中で最善の道を開き、その試練に耐える力を与えて下さいます。
 旧約聖書の信仰者はそのようにして幾多の試練を乗り越えることができました。例えば詩編107篇は、このような個人的な救いの経験を通して、恵み深い神を賛美しています。
 「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」(詩編107篇28~31)
 ここで、摂理とは「恵み深い神」の現在行われている支配のことです。この神の摂理は一人一人に対する支配と、国家や社会に対する支配の二つの面があります。
 第一に、個人的な面での神の摂理の働きについて、主イエスは仰せになっています。
 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:29~31)
 罪人を愛し、ご自身の十字架の死によって、罪の束縛から贖い出し、神の御前に生きるようにして下さった神の御子である主イエス・キリストは、神がこのように一人一人のすべてをご存知で、守り、導いておられると仰せられます。
 それゆえ、わたしはどんな困難や厳しい状況になろうとも、自分は守られている、すべての人と共に究極的には救われると、いう心の平安と確信が与えられます。それは自分の願い通りになるということではなく、神の恵み深い摂理の御手の中で、神の御心が実現すると言う確信であり、すべてを神の御手に委ね切ることから来る平安と確信です。
 勿論、摂理の御手に自分のすべてを委ねると言うことは、主の御心に従って歩む自分の責任を一層強く感じることでもあります。
 それゆえ、わたしは毎日、祈っています。
 「神様、わたしたちの生活を守り、必要なものを与え、心に平安を与え、隣人と共に生きるようにして下さい。この世に蔓延している様々な誘惑、偽り、不正、非人間的な闇の勢力からお守りください。そして御心に従って、隣人を愛し、赦しと寛容と忍耐と勇気をもって、互いに理解し協力するために、神の愛をわたしたちの心に働かせ、霊的生命をお与え下さい。そしてわたしたちが神を崇め、御心を知り、神に従い、神を賛美する者とさせて下さい。」
 第二に、摂理の御手を信じる者は、現代の世界と諸国家に対して、主イエスの主権を告白し、神の御心が行われるように祈ることが大切です。主イエスの主権に従って、政治、経済、文化等、社会の各方面で人々が自分たちの良心と見識と信念に従って互いに連帯し、行動することが必要です。
 核兵器は人道に反するゆえに、廃絶しなければならないという見識と信念を以て、核廃絶のために祈ることが大切です。日本は広島や長崎で、核の被害を受けたにもかかわらず、自国の安全保障のために、アメリカの核の傘に入って、核廃絶に反対していることは最も罪深い人間の考えと行動です。主の主権を信じて核廃絶を祈るならば、神の摂理の御手は必ず核廃絶の道を開いてくださいます。



2018-04-29(Sun)

神の言葉 2018年4月29日の礼拝メッセージ

神の言葉
中山弘隆牧師

 主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
エレミヤ書20章7~9節


 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
ヨハネによる福音書5章31~39節


(1)イスラエルを選ばれた神の目的
 聖書の信仰は神が人類の歴史を支配しておられることを信じることから始まっています。
 テオドール・ロビンソンという旧約学者は、イスラエルが出エジプトという歴史的な大事業を成し遂げることできたのは、モーセが神の言葉に聞き従ったからである、と言っています。実際は出エジプト記と民数記に書いてありますように、その過程では信仰と不信仰との激しい戦いがあり、その一連の出来事を通して神が働き、勝利を収められました。
 なぜならば、神の言葉は神ご自身の働きの啓示であるので、神の言葉は信仰を要求するからです。
 次に、神は、イスラエルが神の御心に従って生きるために、律法を与えられました。
 モーセは申命記5章32節で、「あなたたちは、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。…そうすれば、あなたたちは命と幸いとを得ることができる」と教えています。ここで神の命令を要約しますと、二つの事柄になります。
 第一は唯一の神を礼拝し、人は神にのみ依存し、神にのみ祈り求め、同時に、神の意志に従うことであります。つまり、御言葉を実行する生活をすることです。
 第二は、人がお互いに愛し合うことであり、そして愛とは何かを教えています。

 それは親を敬い、隣人を人格として尊重し、善意と謙遜をもって接し、社会的な正義を行い、偽りと悪と貪欲を捨て、自分の身体を汚さない清い公明な生活をするということです。
    
(2)歴史の中で露わにされた人間の内面
 次に、神の与えられた律法によって、イスラエルの民は、命と幸いを実際に得ることができたのでしょうか。確かに、一部分の人たちはある程度できたのですが、大部分の人たちは不可能でした。
 しかし、神はイスラエルの中で律法を忠実に守っている者は、誰一人としていないと仰せられ、民の罪に対して歴史的審判を降そうと計画しておられました。従って、神の語られる言葉を聞いた預言者たちは、選民としてのイスラエルの責任を厳しく告発しています。
 特にエレミヤは神から万国の預言者として立てられました。エレミヤは言っています。
 「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』(エレミヤ1:4~5)
 それゆえ預言者エレミヤは神に従わない選民イスラエルの滅亡を預言し、他方滅亡を回避するため悔い改めを熱心に勧めました。既にイスラエル国家は滅び、残ったユダ国家もバビロニア帝国によって正に征服されようとしている最大の危機と苦難との中にありました。
 なぜならば、聖書の神は信仰者一人一人の恵み深い支配者であると同時に、全世界の恵み深い唯一の支配者であるからです。実に神は万国の民の主権者であることをエレミヤに示されました。
 しかしイスラエルとユダの民は安易な平安を語る偽預言者の言葉を信頼し、神の審判を語るエレミヤを国家の敵と見なし、エレミヤを殺害しようとしたのです。それにも拘わらず、エレミヤはイスラエル(ユダ)の民を愛し、彼らの罪がもたらす悲惨な現状を見て、断腸の思いで神に執り成しの祈りをしていました。
 預言者として神とイスラエルの板挟みになったエレミヤは苦しい自分の立場を記録しています。
 「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じこめられて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(20:8~9)。
 このような預言者としての厳しい戦いの中で、エレミヤは自分自身もイスラエルの民と同様に罪人であることを深く知るようになったのです。遂に、彼は絶望の叫びを上げています。
 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(17:9)。
 しかし、まことに不思議なことですがエレミヤは自分自身の暗黒の渕を覗き込んだとき、神の救いの言葉を聞きました。それは終末的な救いです。言い換えれば、人間を根本から新しくする神の救いです。それは恵み深い神の主権による救いです。
 その救いによるイスラエルと神との新しい関係をエレミヤは「新しい契約」と呼んでいます。エレミヤ書31章33節の有名な言葉です。
 「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
 これはどういう意味でありましょうか。今までイスラエルの民は律法を文字として知っていただけ、実は本当の意味が分っていなかったので、それを実行することができませんでした。しかし神が一度人の心の中に神の律法を記されるならば、人は律法の真意を理解し、従って実行することができると言う意味です。これは神様ご自身が人間の心の中に働かれると言う人智を超えた大きな恵みです。
 これは正に人間の存在と行動の全体が神ご自身の働きにより、根本的に変革され、全く新しい人間となるということです。ところで、この新しい人間の創造こそ、神が御子イエス・キリストによって達成されるのです。そういう意味で、新しい契約の預言はキリストの到来を約束しています。
 確かに、キリストの到来の約束はアブラハムの時代から与えられていましたが、その必要性を内面的に捉え、信仰者の存在の問題として理解したのは、エレミヤです。イスラエルの民の不信仰との戦いの中で、否エレミヤ自身の内面的な戦いの中で、人間は根本的に新しくされ、神を理解し、神に従う人間となることの必要性を知りました。
 そういう意味で、エレミヤの新しい契約の預言は、人間を罪の束縛から解放するキリストの救いの預言となっています。
 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」(31:31~32)
 それでは神様はどうして古い契約を更新し、新しい契約を設立される必要があったのでしょうか。その理由は古い契約は、神様が歴史の支配者としてイスラエルの民をエジプトの王ファラオの圧制から解放して、イスラエルの民に独立国家を与えられたことです。しかしそれによってイスラエルの問題は解決されませんでした。
 それゆえ、民が神の律法を実行するために、人間を束縛している人間の罪から、民を解放する必要があったのです。正にそのため神の御子の死による人類の罪の贖いが必要なのです。この点で、主イエスによる罪の贖いによって設立さる新しい契約の預言こそ、実にキリスト到来の神の約束です。

(3)キリスト証言としての旧約聖書
 次に、このような旧約聖書における神の言葉を総括して、ヨハネによる福音書5章39節で、主イエス・キリストは次のように仰せられました。
 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」
 主イエスはここで、「旧約聖書の中に永遠の命がある」と言うユダヤ教の考え方は間違っている、と言われました。「旧約聖書はあくまでわたしについて証しするものだ」と仰せになりました。
 つまりこれは旧約聖書において神が約束された永遠の命は「わたし」を通して与えられると仰せになっているのです。なぜならば、主イエスご自身が永遠の命であるからです。
 さらに主イエスがここで仰せになった意義は、旧約聖書に記録されている神の言葉は「主イエス」を通して、本当の意味で「生ける神の言葉」となるのだ、という主イエスの宣言にあります。
 それゆえ、主イエスは旧約聖書の律法を神の言葉として具体的に説明しておられます。マタイによる福音書の5章に記されている山上の説教の中で、「人を殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、貪ってはならない。」と言う律法は、外面的な行為そのものだけでなく、人間の内面も問題にしている。なぜならば、神は人間の外と内の両方を見ておられる方であるから、神の命令はわたしたちの存在全体に関わっている、と仰せになりました。そして外面的な行為だけでなく、行為に至る前段階の心の中に潜んでいる意図と計画を見ておられる神様の前で、一人一人の思いが正されなければならないとして、心の中の思いを重要視されました。
 さらに、主イエスはそのように神の言葉を語られただけでなく、ご自身で実行されました。それゆえ、人はご自身の教えを実行された主イエスと出会い、主イエスに従う生活の中で、主イエスを直視することによって、神の言葉の本当の意味が分かるのです。
 尚、わたしたちは主イエスと出会うとき、主イエスは聖霊をわたしたちに与えて下さり、聖霊を通して、ご自身の命と自由を与えて下さいます。そのようにして、わたしたちは神の命令である律法を実行することができるのです。これこそ主イエスによってクリスチャンに与えられた自由です。
 さらにもう一つ重要な点は、主イエスの到来によって、特に主イエスの十字架の死と復活によって、主イエスを信じる者は真の神を礼拝することができるということです。つまり、神に近づく自由が与えられたのです。
 実に、新約聖書の時代では、主イエス・キリストを通して、生ける父なる神の御前に出て、礼拝することが可能となりました。主イエスを信じて、主イエスに祈り、主イエスの十字架の死による贖いに基づく罪の赦しと主イエスの義を与えられ、生ける神の御前に立ち、主イエスを通してご自身を現わされる父なる神を礼拝するのです。
 礼拝において、主イエスとの交わりが与えられ、主イエスの御言葉と人格、行動、性質を知らされて、同時に主イエスの命と自由が与えられ、主イエスの命令を聞き、そこから命令を実行するため生活の場に送り出されて、そこで主イエスに従うのです。このようにして信仰者は神の御前に生きることができます。
 
(4)神の言葉である主イエス・キリスト
 最後に重要な点は、神様が旧約聖書以来、そして今日も、明日も永遠に人間に向かって語られる神の言葉は、主イエス・キリストであると言うことです。ヨハネによる福音書は冒頭で宣言しています。
 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)
 この意味は神の言は世界と人間に対する「神の自己伝達」なのです。それゆえ「神の言」は神であり同時に人間なのです。実に「主イエス」は神の言葉として天地が創造される前に存在していました。主イエスは天地が創造される前に、神の言として先在し、神による天地万物の創造の業に、神と共に働かれたということです。
 正にそのような神の言が「一人の実在する」人間イエスとなって地上で自ら語り、実行したことが、神の唯一の啓示であり、永遠に働く神の言葉なのです。それゆえ主イエス御自身が永遠の命です。
 そのような方として主イエスこそ、神の言葉そのものなのです。



2018-04-22(Sun)

生ける希望 2018年4月22日の礼拝メッセージ

生ける希望
中山弘隆牧師

 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。
イザヤ書44章1~5節


 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
ペトロの手紙一 1章1~9節


(1)礼拝において主と出会う
 クリスチャンについて先ずいえることは、主イエスと結ばれて、神から自分が愛されていることを知っている者たちです。新共同訳聖書では、「主イエスと結ばれて」と表現されている元の言葉は、「キリストにあって」という意味ですが、これはキリストと存在的な深い関係で結ばれていることを表しています。
 ペトロの手紙一の1章8節で、使徒ペトロはクリスチャンについて次のように言っています。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
 ここで、クリスチャンが言葉では言い尽くせない喜び、素晴らしい喜びに満ち溢れているとは、神の栄光を反映させる輝かしい喜びを抱いているというのです。それは主イエスを信じることによって、魂の救いを与えられているからであるとペテロは説明しています。
 旧約聖書で魂とは「身体的な命」という意味でありますが、ここでは「自分自身」「人格」「人の一番奥にある存在」という意味です。自分の振る舞いや理解の点ではキリストの救いはまだ十分に現れていなくても、その人自身は救われているという意味です。
 人間としての存在の一番内部で救われているという霊的な現実は、主イエスに愛され、自分も主イエスを愛しているということです。
 但し、聖書でクリスチャンが主イエスを愛するというのは、自分の思いと力で愛するのではなく、主イエスに全面的に依存し、心から主に従っていることです。主イエスに対する従順、これこそクリスチャンが主を愛することです。
 その時、主イエスの愛が心から溢れ出て、周囲の人々に向かって、隣人愛として働きます。このことを宗教改革者ルターは溢れ出る主の愛と呼び、絶えずそのことを経験していました。従って、クリスチャンが主イエスに愛されているということは、クリスチャンが自分の中に働いている神の愛を以て隣人を愛することです。
 このような神の愛とは、神の御子イエスが全人類を罪の束縛から解放するために、ご自身を十字架の死において全人類に与えられた贖罪愛です。今やイエスは復活し、主となられました。その結果イエスの愛がクリスチャンの心の中から溢れ出るようになったのです。
 それは父なる神が御自身の主権を復活された御子イエスに譲与されたからです。「主」とは全知全能の神の名称であり、天地万物の支配者と言う意味です。勿論イエスは最初から神でした。つまり、人間となられた神でした。しかし、神の主権がイエスに授与されたのは、父なる神がイエスを復活させ、イエスを神の右の座に着かせられたからです。
 このことによって、御子イエスが地上の生涯において人類の罪を贖い、ご自身の義と聖と命を人類に与えることによって、人類の救いを達成された客観的な救いが、イエスが主となられたことにより、一人一人の人間の中で、有効に働くようになったのです。
 それゆえ、御子イエスが主となられたことは、御子イエスの地位と働きの決定的転換点となりました。この転換点を、使徒ペトロはペンテコステ(聖霊降臨日)の日に行った福音宣教の中で力強く告知しています。それは使徒言行録2章36節です。
 「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 正に、このことを信じるのが信仰です。そして人は信仰によって救われるのです。それゆえ、主イエスは今や神の全権を委任されて、いつでも、どこにでも働き、信仰者の中に臨在し、信仰者を導いておられます。但し、今や主イエスの姿は神としての働きに隠れているので、人間の目には見えません。
 それでも神として出会われる「主イエス」は地上におられた「イエス」と同一人格です。正にこのことが救いの根拠です。それゆえ目に見えない主イエスの働きを信じる者は、主イエスと人格的に出会うことが体験できるのです。この体験がクリスチャンの喜びです。
 従って、今や神の主権をもって働いておられる主イエスは仰せになっています。マタイによる福音書18章20節の御言葉です。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 さらに重要なことは、クリスチャンが自分一人ではなく、皆で集まるところに主は来られ、共におられ、語り、恵みを与え、実行すべきことを命令されるのです。このようにして、クリスチャンは主イエスに従う人生を日々、新たに歩みます。
 ところで、初代教会のクリスチャンは礼拝に集まって、マラナ・タ(主よ、来てください)と祈りました。その時主イエスは来られて、ご自身を示し、クリスチャンの中に働き、彼らを導かれました。同時に彼らが実行すべき御言葉を命じられました。勿論、主イエスの臨在と働きは人間の目には見えませんが、確かにそこに「出来事」として生起しています。この神の働きを信じ、体験し、理解することが、初期キリスト教の礼拝の最高の喜びでした。
 それでは、わたしたちが礼拝において、主イエスと出会うとき、何が起こるのでしょうか。使徒パウロは次のように教えています。
 「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄(いけにえ)として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)
 ここで体とは身体という意味ではなく、現実に人間として生きている「生身の自分」という意味です。自分の思いは手足を使うことによって、実行できます。また行為が自分の思いから出ているときに、その行為は自分を表しています。そういう意味でパウロは自分のすべてを神に献げなさい、それが礼拝であると教えています。
 従いましてわたしたちは礼拝の中で、この世の思いに染まっている自分が、主イエスの思いと行動と性質に見習うことにより、自分が新しく変革されて、自分の全体を神に献げることが礼拝です。
 ここから、主の命令に従い、御心の実践へと遣わされます。従って、礼拝が生活とつながっていなければ、礼拝の意味は分かりません。繋がっていれば、クリスチャンを導き、クリスチャンの心の中に働いておられる主イエスが分かるのです。
 同時に、そのような認識は、聖霊の働きによるものです。主は礼拝の中に臨在し、同時に聖霊を与え、聖霊によって主の働きが分かるようにして下さる方です。
 それゆえ、わたしたちは喜んで礼拝に集まるのです。喜んで熱心に祈るのです。わたしたちは主よ、来て下さい。わたしたちに主の御心を教えて下さい。主よ、わたしたちに命令を実行させてくださいと祈り、そして喜んで実行するのです。
 そのとき十分でなくても実行できたことを感謝し、神の恵みを一層深く知り、神の愛がわたしたちの中に働いていることを知り、神を賛美するのです。これが復活の主イエスと結ばれているクリスチャンの喜びです。ペテロの言い方をすれば魂が救われているのです。

(2)主イエスに対する告白と従順
 次に、主イエスはクリスチャンの心と生活の中に働き、心と行動を支配しておられる方です。この点が主イエスの働きの第一の点です。しかし、それだけでなく、神の主権を譲与された主イエスは、この世界と諸国家の主です。これが主イエスの働きの第二の点です。実にこの二つの支配が初代教会のクリスチャンの確信であり、信仰の試練の中で、彼らの大きな慰めと力の源泉でした。
 と言うのは、クリスチャンはローマ皇帝カイザルを拝まず、主イエスを礼拝しました。ローマ帝国は当時の世界を統一し、支配していましたので、ローマ帝国に属する諸民族が元来持っていた宗教に対して寛容な政策を取っていました。但し、諸民族が礼拝する諸々の主に対して、カイザルはそれらすべての主の上に立つ主であることを認める限り、寛容でした。それに対して、キリスト教だけが、絶対にカイザルを主と告白せず、カイザルを礼拝しませんでした。そのため、多くのクリスチャンが殉教したのです。
 西暦155年に、異教徒からも尊敬されていた小アジアのスミルナ教会の監督ポリカルプスは86歳で殉教しました。彼は使徒ヨハネの弟子であり、ヨハネと20数年の交わりを持っていました。彼を処刑したローマの総督は愛に満ち、有徳のポリカルプスを大いに尊敬しておりましたので、彼を助けるために言いました。
 「この際、カイザルは主であるというだけで、どうしいて悪いことなのか。」と、ポリカルプスに尋ねました。ポリカルプスは「わたしがこれまで仕えてきた主イエスから体験したことは恵みと憐れみ以外の何物でもありませんでした。わたしは主イエスを裏切ることはできません。」と言って死に赴いたのです。
 彼は喜んで火刑に処せられ、燃え盛る炎のなかで、主はわたしを主の苦難に与るに相応しい者と見做してくださったことを感謝します。「聖霊」によって「主」はわたしを復活させられます。と言って神を賛美して死にました。このように初代のキリスト教徒は主の主権を信じ、証ししたのです。
 それに対して、明治以来、日本のクリスチャンはイエスの主権を本当の意味で告白しませんでした。勿論天皇が神でないことを知っており、天皇を礼拝することはなかったのですが、国家が強制する儀礼的な宮城遥拝を、教会の礼拝において行いました。そのことによって、教会に集うクリスチャンは「非国民」という非難を免れましたが、これは主の主権を理解していなかったからです。
 主の主権の範囲は二つの同心円です。内部の円が教会であり、外部の大きな円が国家なのです。教会は救いの秩序の中で、主の主権が行われている信仰共同体です。国家は神の創造の秩序の中で、主の主権が行われている社会的共同体です。
 主イエスの十字架の贖いにより、国家の中に働いている可視的及び不可視的な神に反抗する諸勢力は打ち破られ、その支配権を既に失いました。但し、諸勢力はまだ国家の中に残っています。それにも拘わらず、既に主イエスの支配下に置かれています。
 それゆえ、教会は国家が創造の秩序の中で、神から与えられている使命を果たすように祈り、主の主権を証しなければなりません。

(3)クリスチャンの希望を証する
 最後に、ペトロはローマの迫害が迫る中で、クリスチャンに勧めています。それは3章15~16節の言葉です。
 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」
 この世の人々は、自分の目的を果たし、自己実現したことを誇り満足していますが、死によって終わる人生の厳しい現実の前で、自分が空しいと感じています。
 それは永遠の世界に生きる希望がないからです。それに対して、主を信じ、主に従っている者は極めて明確な希望を持っています。
 終わりの日に神によって復活させられ、主イエスと出会い、主イエスを目の前に見る希望です。同時にその希望は万民が主イエスの救いを受けて、神の御前に永遠に生きるということです。
 さらに国家や社会、すなわち創造の秩序のもとで人間が労苦した業も清められ、神への感謝の献げ物となって、永遠に存在するということです。黙示録の21章24節はこの点を証言しています。
 「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。」
 要するにすべての人間の真の希望は自分たちの思いと力による達成ではなく、神が人間の中で働き、人間の思いと行動を支配されることによって、完成する救です。すべての人間が主イエスの義と命に満たされて、神の栄光を賛美すること、これが救いの完成です。
 つまり、キリスト教は死を越えた未来に開かれた宗教であり、その絶対的未来とは主イエスであり、神ご自身です。


2018-04-15(Sun)

新しく生まれる 2018年4月15日の礼拝メッセージ

新しく生まれる
中山弘隆牧師

 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
詩編51篇7~14節


 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3章3~15節


(1)新しく生まれる必要
 ここに、ニコデモと言うユダヤ人の指導者がイエスのもとに来たときのことが記されています。
 3章2節に「ある夜、イエスのもとに来た。」とありますが、彼は人目をはばかって夜こっそりと訪ねてきました。彼はイエスの弟子になりたいという願いを持っていましたが、ユダヤでは統治権をもつ議会の議員の一人でありましたので、公表を差し控えておりました。彼はいわばイエスの隠れた弟子でした。しかしイエス様が十字架の死を遂げられたときには、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共にローマの総督ピラトの所に行って、イエス様の死体を引き取り、新しい墓にイエス様の死体を納めました。
 「ラビ、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
 このように彼なりにイエスに対する信仰を表明しました。イエスはこの表明を一応受け入れた上で、さらに一歩進めて次のように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 これはニコデモの最大の関心が「神の国の到来」であったことを表しています。と言いますのは、イエスの神の国宣教に先立って、洗礼者ヨハネによる「悔い改めの洗礼」が宣教され、イスラエルの人々の間に、今の世界を終わらせる新しい世界すなわち神の国の到来に対する期待が非常に高まっていたからです。この状況がニコデモとイエスの会話の背景になっています。
 そこでイエス様は、「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。その言葉には、「あなたはわたしが神から遣わされた者と言うのか。それではあなたがわたしを本当に理解し、わたしの居るところにあなたも居るためにあなたは新しく生まれなければならないのだ。」と言う意味が含まれています。
 イエス様のこの言葉を聞いて、ニコデモは大変驚きました。なぜならば、彼は神の国が到来するということは、人間の住んでいる社会環境や政治体制が改革され、そのような領域に神が介入されることであると考えていたからです。
 それに対して、イエスは「神の国がわたしの宣教と共に始まっているのを「見る」ことができるためには、あなたを取り巻く環境が新しくなることではなく、あなた自身が新しく生まれなければならない。」と言われたのです。
 イエス様はこの点を強調して三度も繰り返されています。特に7節はこのことを強調しています。
 「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。」(3:7)
 この「新たに生まれなければならない」と言うギリシャ語の表現は「絶対に必要である」という意味の「必然性」を現しています。
 ニコデモはイエスのこの発言を聞いて、ますます驚き、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論しています。
 しかし、ここで「新しく生まれる」というイエスの言葉には、「上から生まれる」と「再び生まれる」の両方の意味が含まれていますので、イエス様は「上から生まれる」と言う意味で使用されています。上から生まれるとは、「神によって生まれる」と言う意味です。

(2)聖霊の働き
 5節で、「だれでも水と霊とによって生まれなければ」とイエス様は言っておられますが、水は「洗礼の水」を意味し、霊とは洗礼を受けるときに与えられる「聖霊」を意味しています。
 従いまして、イエス様が新しく生まれると仰せになった意味は、人が聖霊を受けることによって神から生まれると、言う意味であることが分かります。
 それゆえ、人は聖霊を受けることによって新しく生まれるならば、神の国を見ることができると、仰せになりました。ここで、「見る」と言う言葉は、目で見るという意味と、気づく、理解する、経験するという意味の両方がありますので、イエスは「理解する」、「経験する」という意味で使用されています。
 それでは、人は聖霊を受けることによってどのよう仕方で、神の御前で新しく生きるのでしょうか。聖霊とは父・子・聖霊の三位一体の神でありますから、人は聖霊の働きを自分の目で確かめることは不可能です。8節でイエス様は次のように言っておられます。
 「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」(3:8)
 風は吹いてくる場合、その通り道を見ることができませんが、風の作用を人間は自分の体に受け、風の効果を体で体験することができます。そのように、聖霊が人間に与えられることによって、人は新しい命を受けるのです。
 この点について、英国の詩人ワーズワースが、詩の一節で次のように歌っています。
 「天から快い息がわたしの体に吹いてきたとき
 内側ではそれに対応する、穏やかな、創造的なそよ風を
 わたしは感じた。
 自らが創造したものを越えて、優しく渡りくる
 命に満ちたそよ風を。
 それは被造物を悩ませる 有り余る活力の大嵐となった。
 知られずにはおかれない偉大な力。
 長く続いた氷結を破り、春の希望と約束をもたらす嵐。
 活発な日々、品位と思慮、名誉な分野での手腕
 清い情熱、美徳、知識と喜び
 音楽と詩歌との聖なる人生を、約束し希望をもたらす。」
 この詩は、そよ風がわたしたちの頬に吹いてくる様子は、わたしたちの内側で、聖霊の風が吹いてきていることを象徴しています。頬にそよ風を受けて、命が蘇生するように、聖霊がわたしたちの中に与えられるとき、わたしたちは聖霊を通して自由と生命の働きを経験し、人生に希望と喜びが湧いてくる体験を歌っています。
 ワーズワースは、春を呼ぶ嵐が氷に閉ざされた長い冬を終わらせ、生命の活動を開始させるように、聖霊がわたしたちの中に吹いてくるとき、長く続いた罪による束縛と歪みと闇からわたしたちを解放し、わたしたちの人生に春のような希望をもたらすと歌っています。
 氷結により閉ざされた人生とは、人間が神から離れ、自分の中に閉じこもり、自分の思いに支配されていることを意味しています。自分の思いと衝動に駆られて自由奔放に生きることは、正に不自由な人生です。その人生は過ぎ行く人生であり、暫定的であり、無に向かう人生です。
 それに対して、神との交わりの中で、神の義と命と光を受けて、人間が行動することは、人間に与えられた本当に自由の働きです。そしてその働きの実は永遠に存続するのです。
 このことを主イエスは次のように仰せられました。
 「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(3:6)
 肉は過ぎゆく影のような存在であり、そこに将来性はないのです。それに対して霊は永遠に存続し、真に生ける存在です。
 肉とは肉体と言う意味ではなく、生まれながら人間です。つまり、アダムの子孫としての人間です。霊とは神の御子イエス・キリストを信じることにより、主イエス・キリストの中に自分の存在と生き方が与えられている新しい人間です。

(3)新しい人間の三つの根拠
 つまり、わたしたちが生まれながらの人間として生きている限り、わたしたちは罪に支配され、死に向って行く人生を歩みます。従って、生まれながらの人間が住んでいる世界は過ぎ行く世界で、その世界の終局は破滅です。それゆえ、義と命と自由に満たされた永遠の世界に生きるために、人は新しく生まれなければならないと、イエスは仰せられました。新しく生まれることの根拠は三つあります。
 第一の根拠は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事の中で、わたしたち人間は、主イエスの義と贖いと命と聖を与えられた新しい人間、罪を赦されて神との人格的な交わりの中に入れられた人間、すなわち神の子と呼ばれる人間にされていると言うことです。
 さらにその新しい人間は主イエスの中に保存され、人の目には隠されていると言うことです。つまり、わたしたちの新しい存在は、神が主イエスの中で創造し、保存されていると言うことです。わたしたちの新しい存在は主イエスの中にあると言うことです。
 第二の根拠は、主イエスを信じることによって与えられる聖霊の働きにより、わたしたちは主イエスと結ばれ、主イエスの中に保存されている新しい人間として、神の御前に日々生きると言うことです。このことはわたしたちが新しく生まれたことに他なりません。
 わたしたちの一回目の誕生は肉的な人間の誕生です、それに対して主イエス・キリストを聖霊の働きによる信仰を以て、信じることにより、人は霊的な人間として誕生するのです。この二回目の誕生が霊的な人間の誕生です。
 第三の根拠は、主イエスは日毎にわたしたちに出会い、御言葉を通して、わたしたちのなすべきことを命令されます。またわたしたちの方でも日毎に祈るとき、主イエスは出会って下さいますので、主イエスの命令を実行することによって、主イエスの命が聖霊を通してわたしたちの中に働き、わたしたちは実行できるのです。
 勿論わたしたちの実行は極めて不十分でありますが、それでも実行できることにより、神のみ前に生きることを体験します。そして感謝と喜びに満たされます。
 その体験を通して、わたしたちは復活の主イエスに導かれているのです。それゆえ、わたしたちはこの地上の生活の中で、既に永遠の神の国の中で生きています。しかし、それらの良き業、愛の業は再び主イエスの中に保存され、わたしたちの中には蓄積されません。わたしたち自身はいつまでたっても富むことのない貧しい者です。
 結論として次のように言えます。この世界で生きている限りは、わたしたちの中に罪の思いと力が働いております。それはアダムの子孫としてのわたしたちの実情です。わたしたちの中に働く罪と闇の力に対して、わたしたちは神に祈り求めることによって、主イエスの義と命を受けて、戦い、克服し、後ろに投げ捨てながら、主イエスに従って行くことによって、神の御前に生きるのです。
 それゆえ、わたしたち人間はだれでも過ぎ行く世界と、いつまでも存続する世界の両方の中にいます。わたしたちは地上で生活している限り、二つの世界に属しています。それゆえ、わたしたちは、「既に」霊的世界の中で生きていることと「未だ」霊的な世界で生きていないと言う緊張関係の中で生きています。
 この緊張関係は、わたしたちの新しい存在は自分の中ではなく、主イエスの中にあると言うことから由来しています。言い換えれば、わたしたちの新しい存在は自分自身の中にはないと言うことです。常に自分自身は貧しい者であると言うことです。常に祈り、主イエスに求めなければならないと言うことです。
 そのようにして、復活の主イエスに導かれ、またわたしたちの側で主イエスに従っている生き方が、わたしたちは霊的に生きている、神の御前で生きていると言うことです。わたしたちは主イエスが再臨されるときに、わたしたちが復活されることによって、主イエスの中に保存されている新しい自分が現れるのです。これが救いの完成です。そしてこの希望は聖霊による希望です。
要するに主イエスと結ばれている者は、日々復活の主イエスと出会うことによって、この地上の生活の中で神の国の命に生きるのです。これは最終的に到来する神の国の先取りとして生きることです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

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