2018-03-18(Sun)

主の呼びかけ 2018年3月18日の礼拝メッセージ

主の呼びかけ
中山弘隆牧師

 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
サムエル記上3章1~10節


 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書3章31~36節


(1)神と対面した預言者たち
 今日わたしたちは聖書が神の言葉であると告白していますが、その根拠はどこにあるでしょうか。それは神様が旧約聖書の時代に預言者たちを選び、また新約聖書の時代には使徒たちを選び、彼らに神の言葉を語られたからです。それだけでなく彼らが聞いた御言葉を民に語れと命じられたからです。
 その御言葉は、先ず神の民の礼拝の中で語られて来ました。さらに他の様々な機会にも神の教えとして語られて来ました。そのようにして神の言葉は、民の信仰生活を導き、支えて来たのです。従って、神の言葉は人類の長い歴史を貫いて伝承され、伝承の最後の段階で、聖書の中に保存されるようになりました。
 特に、旧約聖書は預言者たちの語った言葉だけでなく、信仰生活に関する様々な教え、イスラエルの歴史の記録と解釈、そしてイスラエル文化の記録から構成されています。
 そのように、旧約聖書の長い歴史を通して多くの預言者が立てられました。従って、預言者たちの召命はそれぞれ異なっています。
 イザヤの場合に、彼は神殿の礼拝に出席していたとき、神殿の奥にある至聖所を垣間見て、神聖と荘厳さの中に存在される神のビジョンを見ました。
 このビジョンは聖霊の働きによるのです。このため、イザヤは御言葉をもってご自身を現される神を「聖なる神」と呼んでいます。 預言者エレミヤの場合は、青年エレミヤが自分の心の中に働く神から出る道徳的で内的な力に促されて、背信の民イスラエルに向かって神の言葉を語りました。
 またエレミヤを促し、神の言葉を語らせたのは聖霊の働きです。
 
(2)サムエルの召命
 一方サムエルの場合には、彼がまだ少年であった頃に預言者として召命を受けました。それまで彼は一度も神の言葉を聞いたことはありませんでしたが、御言葉に仕えるための教育を祭司エリから受けていたのです。もちろんサムエルは幼くても神に対する信仰を持っていました。
 サムエルは信仰の篤い母ハンナによって、乳離れした時から神殿に連れて来られ、祭司エリのもとで、礼拝の務めについて学んでいたのです。神について学び、イスラエルをご自身の民として選ばれた神様の恵みに応答するには、民はどのような生活をしなければならないかを教えられていました。つまり、少年サムエルは、神との人格的な交わりに入るための準備期間を過ごしていたのです。
 ついにその時が来ました。それはサムエルが何歳のときであったかは定かではありませんが、たぶん12歳頃であったと思われます。聖書はこのように語っています。
 「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」(3:3)
 当時シロの神殿に、神と民との「契約の箱」が安置されていました。それはアカシヤ材で造られ、金の膜で覆われている箱です。後の時代になって、エルサレムに移されたのです。特にその箱の蓋は、純金で造られており、イスラエルの罪を贖う「贖罪所」と呼ばれています。それはイスラエルの神である主ヤーウェの王座と見なされており、主がそこに臨在されると信じられていました。
 しかし、神様は万物の創造者でありますから、自ら欲せられる場所には、どこにでもおられる活ける神です。そして御言葉によって、人間との関係を造り出し、その関係を通して人間を生かす命を与えられる方です。
 ここでサムエルに神の御声が聞こえてきたのは、契約の箱の蓋で「贖罪所」と呼ばれている場所です。彼はたった一人で契約の箱が安置されている神殿で寝ていました。その時刻は神殿を照らす灯がまだ消えない内でしたので、多分夜明けが近づいていた頃でした。
 「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走っていき、『お呼びになったので参りました。』と言った。」(3:4~5)
 このとき、主はサムエルに御言葉をもって呼びかけられましたが、サムエルは自分が主から呼ばれたとは理解できず、日頃から身の回りの世話をしていた年老いた祭司エリが呼んだのだと思いました。
 祭司エリは目が悪く、殆ど見えない状態でしたので、自分に助けを求めていると考え、風のように素早く行動し、彼の部屋に行きました。他方、祭司エリの方では、少年サムエルが夢を見て、エリに呼ばれたと勘違いして、走って来たのだと考えて、次のように言いました。
 「わたしは呼んでいない。自分の部屋に戻ってお休みなさい。」(3:6)と優しく諭しました。
 不思議にもこのようなことが三度続け様に起こりましたので、ようやく祭司エリは事の重大さに気づき、主がサムエルを呼ばれたのだと悟ったのです。そこで、神の言葉に応答する仕方をサムエルに教えました。
 「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております。』と言いなさい。」(3:9)と教えました。
 このようにしてサムエルは神と出会ったのです。その時の様子を聖書は次のように記しています。
 「主は来て、そこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』」(3:10)
 神がサムエルの名を呼ばれたということは、神がサムエルの所に来られ、「人格的」に「出会って」おられることを意味します。聖書は主がサムエルのところに来て、そこに立たれたと説明しています。
 神は天地の創造者であり、万物を超えた方であります。それゆえ人間の目には見えない方です。同時に、人間の耳にも神の声は聞こえません。なぜなら、神と人間との間には、絶対に越えられない無限の隔たりがあるからです。
 しかし、神は御自身の神としての威力によって、無限の隔たりを超え、人の心に直接、御言葉を語られるので、人は御言葉を理解できるのです。これは神から出る「聖霊の働き」によるのです。さらに聖霊もまた神ご自身です。活ける神はそのように御言葉を語り、人と人格的交わりを持たれる方です。
 また預言者イザヤが見たビジョンは、聖なる神が人間と他の被造を超えた神であり、無限に高い天に住まわれる方ですが、同時に天から下って来て、人間の心の中に臨在し、語り、働かれる方であることを示しました。イザヤ書57:15はこの点を強調しています。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)
 さらに、聖書はまた次のように言っています。
 「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行なう者はいない。」(詩編53:2)
 なぜならば、見えない神はもともと存在しないのだと高慢な不信仰な人間は考えるものです。しかし、神様は「神性の力」によって、人間の心の中に臨在し、人格的に出会われることがおできになります。それは最早否定することのできない確かさで、人の心にはっきりとわかるのです。
 世界で初めて宇宙船で月面に着陸したアーウイン飛行士は、そのとき神の臨在を身近に感じたと言っています。彼はふと足元の石を見たとき、それが彼の求めていた岩石で地球が発生した時代の様子を伝えている貴重な岩石であったからです。
 サムエルの場合には神が語られる言葉があまりにも彼の心に明らかでしたので、祭司エリが呼びかけていると勘違いしたほどでした。
 さらにこのように人間と出会われる神様は、そこにおいて人間が信仰をもって応答することを要求されます。サムエルは祭司エリから教えられた通りに、神の呼びかけに答えて、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(3:10)と言いました。そのとき、神様はこれから祭司エリとイスラエルの民全体に下そうとしておられる神の審判を語られたのです。
 次に、サムエルは自分に語られた神の言葉が祭司エリの二人の息子に対する審判でしたので、それを祭司エリに伝えるのを恐れていました。しかしエリはサムエルに隠さずに語るよう要請しました。
 エリはこのとき既にサムエルに語られた神の言葉を信じようと心で決めていたと思われます。それゆえ、神の御言葉が自分の二人の息子たちに対する審判であっても、謙遜に受け入れたのです。次のように告白しております。
 「それを話されたのは主だ。主が御目に適うとおりに行われるように。」(3:18)
 ここに祭司エリの神に対する従順と信仰者としての高貴さが現されています。彼は神に背いている自分の二人の息子を今までに何度も訓戒してきましたが、息子たちが祭司としての務めを忠実に果たすようにすることは不可能でした。息子たちが余りにも悪過ぎたからです。しかし「自分の思いではなく、神の御心が行われますように」と神の審判に謙遜に服従した祭司エリの信仰は本物です。
 なぜなら、神が審判において、ご自身の正しさを貫徹されることによって、審判の向こう側に必ず人間の救いがあるのです。このことを信じるのが聖書の信仰の特徴です。

(3)御言葉を聞く姿勢
 次に、わたしたちが心に留めなければならない点は、神はサムエルに呼びかけ、神の言葉を語らうと計画しておられましたが、そのためにはサムエルの側で答える態度を身に着ける必要があったということです。そのために一定の訓練の期間が必要であったのです。この点わたしたちの場合も同じです。
 人は教会に来て礼拝に参加しなければ、神の言葉を聞くことはできません。しかし教会に行っても自分の願っていることが何も得られないので、自分はもう教会に行くのを止めようと思う人が残念ながらいます。それはまだ神と出会っていないので神との交わりの中で自分の人生を生きることの幸いがまだ分っていないからです。
 それゆえ神の言葉を聞き、それに応答することができるためには、或る期間に予備的な体験を経なければなりません。偉大な音楽を理解するためには、長い期間に亘って音楽を学び、音楽の素晴らしさを体験する必要があります。
 信仰の場合にも、神の言葉を聞くためには、礼拝を続けて守っていますと、そのあいだに神の恵みを体験し、いつの間にか神の言葉を聞く態度が身に着くようになります。
 サムエルの場合には、神様がサムエルの名前を呼ばれました。この聖書の記事を読んだ人は、もし神様が自分の名前を呼んでくださるならば、神様と対面していることが分かるのだろうと想像するかもしれません。
 しかし、わたしたちの場合は、自分の名前を呼ばれなくても、神様は自分のことを全部知っておられると思うとき、それは自分の名前を呼ばれていることと同じ内容なのです。
 人は孤独の中で悩んでいるとき、本当に自分を理解してくれる人がいたらどれほど慰められるだろうかと想像するものですが、神様はわたしたちを一番よく理解しておられる方なのです。このことに気づくとき、わたしたちは信仰に近づいています。
 神様が主イエスを通してわたしたちに直面しておられるという霊的現実こそ、わたしたちが自分の人生を生きる上で、一番頼りになる基盤であることに気づくこと、まさにこれが信仰です。
 そしてこの神の確かさをわたしたちの心に「銘記する方」は、聖霊なる神です。聖霊の働きはわたしたちに主イエスを信じる信仰を与えます。聖霊の働きである「信仰」によってわたしたちは主イエスの語られる御言葉を理解するのです。さらに主イエスの語られる御言葉を実行するための力である「主イエスの命」は、聖霊を通してわたしたちの中に働くのです。



2018-03-11(Sun)

主の訓練 2018年3月11日の礼拝メッセージ

主の訓練
中山弘隆牧師

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
出エジプト記17章1~7節


 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
ヘブライ人への手紙12章1~7節


(1)信仰のレース
 本日の聖書の箇所は、主イエスに従っていく信仰生活を具体的に印象深く教えています。聖書の神様は実に生ける神であり活動的な方です。決して怠惰な神様ではありません。わたしたちの信じる神は、わたしたちの信仰を鍛え、わたしたちが永遠の命に益々豊かに生きるように、そして主イエスの性質をわたしたちが一層鮮明に映し出すように働きかけられる力強い方です。
 それゆえヘブライ人への手紙は、わたしたち信仰者を信仰のレースを走る選手に譬えています。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(12:1)
 ここで言われている競争とは、「マラソン・レース」のことです。正月の恒例行事として首都圏にある大学の駅伝が行われます。今年、優勝したのは青山学院でした。最近、青山学院は強くなりましたが以前は長年に亘って下位でした。その試練の時期を乗り越えて最強のチームになることができたのです。このような事情を知るとまた駅伝は一層興味を感じさせます。テレビの画面には、全精力を走ることに集中させているランナーの姿と、その沿道で声援を送る人たちが一つに繋がっている熱気が映し出されます。
 それに対して、聖書の言うレースは、神の人類救済の歴史を通して行われていますので、観衆とは単なる見物人ではなく既にレースを走り終えた信仰の証人たちです。そこに一層連帯感があります。
 ここで信仰のレースを走るのに邪魔になるものを「重荷」といっています。障害物という意味です。言い換えれば、わたしたちの体に染みついている罪であり、聖書はそれを「絡み付く罪」と呼んでいます。それゆえわたしたちが主イエスに従っていく過程で障害になるものは、どれほど心惹かれ、絶ちがたく思えても、思い切って捨て去り、前向きに人生を考え、しかも忍耐と希望を持って、何処までも主イエスに従うことが大切です。
 それでは信仰の出発点はどこにあるのでしょうか。それはわたしたちが自分の人生について考える時です。わたしたちが自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを知ろうとすること、これが信仰の始まりです。求道者は聖書に導かれて、人生の根本問題の解決を見つけようとしているのですから、すでにその時点で信仰の多くの証人に見守られながら、信仰の人生に向かって行くのです。
 このようにして人は生きる意味を探求する中で、主イエスと出会うことによって、決定的な転機を迎えます。自分が今まで気づかずに求めていたものがここにあることを発見します。つまりそれは自分の創り主であり、救い主であり、しかも自分を探し求めておられた神様と出会うことです。
 ここから信仰生活のレースが始まります。そのレースの創始者は主イエスです。そしてレースの終着点は人間が神と共にいる永遠の御国です。さらにレースの導き手は主イエスです。
 それゆえ、信仰のレースに招かれたクリスチャンとは、アダムに属する古い人間として生きるのではなく、主イエスの救いの中に入れられ、主イエスに属する新しい人間として生きるために、信仰のレースを走るのです。
 このことの発端は、神様は人類を愛し、人類を神様との交わりの中で、神の性質に似た人間にしようと欲し、アダムを神の似姿を持つ人間に創造されました。しかし、アダムは自分が神と等しい者になろうと欲して、神との交わりから追放され、与えられた神の似姿も失い、罪に支配される人間となってしまったのです。それにも拘らず、神は人間を愛し続け、御子によって人間を罪から贖い、神との人格的な交わりの中で永遠に生かすために、御子の創設された信仰の人生に招かれるのです。
 人間にはこういう事情がありましたので、わたしたちはクリスチャンになる前は、アダムの子孫として滅亡に向かって歩んでいました。そのようなわたしたちを、「神の完全な似姿」である主イエスが救い出してくださり、わたしたちも主イエスの性質を映し出す者となるため、主イエスが創設されたレースの中に入れたのです。
 そういう意味でクリスチャンは主イエスと結ばれて、すでに神から愛されている神の子供たちと呼ばれています。しかし、それは御子イエスが神様であるように、クリスチャンも神となるという意味では決してありません。
 わたしたちはあくまで人間ですが、復活の主イエスがわたしたちの中に働かれるので、わたしたちは益々主イエスに似る者となり、神の性質を映し出す新しい人間に成長して行くという意味です。
 それゆえ主イエスの犠牲の死は、単なる人間イエスの死ではなく、神の御子イエスの死であります。つまり、御子としての「永遠の霊」の働きによって、イエスの死は人類の罪を贖う力を持っています。
 言い換えれば、ご自身の十字架の死によって人類の罪を贖うことが、父の意思であることを知り、御子イエスは徹底的に父に従順であることにより、十字架の死を全うされました。それゆえにイエスの死は人類を罪から贖う神の力を発揮したのです。
       
(2)信仰の創始者であり完成者であるイエス
 次に、聖書は主イエスを見つめながら、自分に与えられた信仰の人生を最後まで完走しようではないかと勧めています。
 「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥もいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)
 ここで聖書はわたしたちの救い主イエス・キリストを信仰の創設者であり、完成者と呼んでいます。なぜならば信仰のレースのゴールは天にいます神の御前にあるからです。
 そもそも信仰と祈りは神に造られた人間が持つべき最も大切な働きです。つまり人は信仰と祈りによって、神を知り、神に従う生活をするように造られています。しかし、旧約聖書の時代の信仰と祈りは確かに神から認められていますが、未だ完成しておらず、未だゴールには至っていなかったのです。
 それゆえ人間の中に信仰と祈りが正しく機能するために、わたしたちの救い主である神の御子イエスは、わたしたちと全く同じ弱い存在となって、地上の生涯の中で、信仰と祈りを全うして下さいました。このことをヘブライ人への手紙は次のように言っています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです。」(5:7~9)
 正に人間としての弱さの中で、わたしたちと同じ誘惑と試練を受け、それに打ち勝ち、父なる神に従われたのです。その試練はわたしたちが受ける試練と同じ性質です。しかしその激しさの点では最高の試練でした。マタイによる福音書は言っています。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕をする所もない。」(マタイ8:20)
 「人の子」とはイエスがご自身の名称として用いられた言葉です。この言葉の含蓄は人類の罪の贖いのために「自己を犠牲」にする使命が父から与えられている者、同時に将来天地の支配者としての「主権」が与えられる者という二つの意味があります。
 このような使命を御子イエスは試練の連続の中で、果たされました。実に、それはイエスが神の御子として持っておられる「父に対する」ご自身の「愛と従順」、「信仰と祈り」によってです。
 すなわち、イエスの信仰と祈りは神の御子としての働きです。言い換えれば、「神である御子の霊」による信仰の働きです。神は何でもできるという信仰による確信です。
 聖書はこの点を強調しています。
 「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(マルコ10:27)。
 このような父なる神への絶対的信頼による、信仰と祈りを持って、イエスはすべての誘惑と試練に打ち勝ち、父の御心を実行し、自分に与えられた使命を果たされました。
 しかも、そのような歩みの中で、イエスの神への従順と信仰が完成したのは、人類の罪を贖うために、十字架の死を全うされた「時」です。これこそ、第一にイエスが神の「独り子」として、父に対する愛による従順を果たされたことです。第二にイエスは全人類を愛し、ご自身を十字架の死によって人類に与えられたことです。
 ヘブライ人への手紙9章14節で次のように言っています。
 「永遠の霊によって、ご自身を疵(きず)のない者として神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
 ここで明らかに聖書は主イエス・キリストは「永遠の霊」によって、罪を贖うことのできる完全な犠牲を献げられたと言っています。
 永遠の霊とは、主イエスが神の独り子として持っておられる「神としての性質と力」を意味しています。このようにして、実にイエスは信仰の創設者、完成者となられました。
 
(3)主イエスを見つめる
 次に、わたしたちが信仰の人生を歩むことがでるのは、信仰の創設者であり、完成者である主イエス・キリストを信じることによるのです。しかし、それだけでなく、聖書は「イエスを見つめながら、競争を走り抜こうではないか」と勧めています。
 つまり、主イエスは日々わたしたちに呼びかけ、わたしたちと出会ってくださる方ですから、わたしたちもイエスと出会い、イエスを見つめることが必要です。見つめるとは信仰による心の目で復活の主イエスを見ることです。
 それゆえ、イエスは「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と仰せになりました。また「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:23)とも仰せられました。それゆえわたしたちの心が聖霊によって照らされ、絶えず明るくなっていることが必要なのです。
 聖霊による清い心の目で、復活の主イエスの姿と働きを見つめることにより、日々わたしたちは生ける神の霊的な現実に直面し、困難と試練の中で、主イエスに従い、主イエスの御言葉を実行し、主イエスの性質に似る者へと清められ、高められるのです。
 そのときわたしたちは主イエスの命と力を受けるので、アダムの子孫として常に自分の中に残っている罪の思いと業とに対して戦い、それらを捨て去ることができます。この体験を日々繰り返すとき、復活の主イエスはわたしたちの中に働き、わたしたちを導いておられることが分かります。
 ドストエフスキーが、あるとき政治犯として逮捕され、投獄されました。そのとき独房の小さな窓が夜毎に開かれ、「兄弟よ、勇気を出しなさい。われらもまた苦しんでいる」という神秘的なささやきが聞こえて来たということです。信仰者は孤独の中でも主イエスの御声を聞いて勇気が与えられます。
 このことをヘブライ人への手紙は、「信仰の訓練」と言っています。訓練を受けることは神様がクリスチャンを神の子たちとして取り扱っておられる証拠であると言っています。御子イエスが今や復活して、わたしたちを導き、訓練されるのです。
 わたしたちが様々な試練と困難に直面するとき、主イエスご自身が共に歩み、わたしたちの試練と困難の中で働き、わたしたちに勝利を与えられるのです。この主イエスの臨在と働きとその御姿をわたしたちは信仰の目を以て見るのです。つまり聖霊の働きを通して見るのです。聖霊は主イエスと共に働かれる神であり、主イエスの救いの「協力者」なのです。



2018-03-04(Sun)

人を赦す者 2018年3月4日の礼拝メッセージ

人を赦す者
中山弘隆牧師

 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ/わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ/あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
詩編32篇1~7節


 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21~35節


(1)神の国の福音
 キリスト教会が宣べ伝えている福音とは、神の救いを告げる喜ばしい知らせです。人間の救いはすでに主イエスの中で実現している。それゆえ人は主イエスを信じるときに、主イエスによって救いを受ける、つまり主イエスにより救いに導かれると告げる言葉です。
 マルコによる福音書は、イエスによって語られた福音を「神の国の福音」と言っています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14~15)
 「時が満ち、神の国が近づいた。」という意味は、旧約聖書の預言が実現し、「今や神の国が開始しつつある。」ということです。
 言うまでもなく、これは主イエスご自身を通して、神の国が開始しているという意味です。神は旧約聖書の長い歴史の中で、人間に対する恵み深いご自身の目的を示し、それを実現するために働いて来られました。預言者たちを通して、救いの約束が与えられてから、それが実現したのは実に700年から500年後です。このことを考えますと、神の真実とその働きがいかに人知を超えた偉大なものであるかが分かります。
 人間は自分の物差しで時間の経過を計りますので、神の息の長い仕方が理解できず、神を疑い、神なんかいないと思うのです。そのような人間の反応をものともせず神は御自身の目的を堅持し、約束を実現される時が来ました。それが神の御子イエスの到来です。
 従って、イエスは人間の思いを越えた神の国の開始について、人々の目を開く必要がありました。そこでイエスが取られた方法は、譬話を用いて神の国について、また父なる神について教え、さらにご自身の行動をもってその霊的現実を示されることでした。
 この主イエスの行動の中心は、罪人に対して罪の赦しを与えることであり、神の赦しの印として多くの病人を癒すことでした。

 長年中風で苦しんでいる人を癒されましたが、癒しの中心は罪の赦しの宣言でした。これはマルコによる福音書2:1~12に記されています。「『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)
 実にこれは驚くべき言葉です。罪の赦しは神様だけがお与えになる神聖な事柄です。それなのに罪の赦しが、主イエスのこの言葉と同時に与えられると仰せになったのです。
 これを目撃した律法学者たちは、イエスが人間でありながら、自分を神と等しい者としている。それゆえ神を冒涜していると、激しく非難しました。しかしイエスの宣言は神の事実であり、その結果として中風の人は癒されたのです。
 このように、イエスは神による罪の赦しの宣言と共に今や開始している神の国を、ご自身の言動をもって示されたのです。そして神の恵みと神の愛を信じるように、人々の心に訴えられました。
 もう一つは、譬話を用いて神の国について、例えば、神の国を畑に隠された宝として語られました。この譬はマタイによる福音書13:44に記されています。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」
 天の国、すなわち神の国は畑に隠された宝のようなものであると教えられました。畑に隠された宝物は、人間の目には見えないのですが、宝が畑の中にあることは確かです。同様に神の国は人の目には隠されていますから、手に取って直接に見ることはできません。しかし、そこにある霊的な宝は無限の価値があります。それは人間を真に生かし、真に幸いな生涯を歩ませる永遠の生命です。
 その事実に一旦、心の目が開かれるなら、人は隠された宝を得るため、どんな犠牲でも喜んで払うであろう、と教えられました。実にこの隠れた宝とは御子イエスの中にある霊的現実です。この事実を「信じる心」を持つようにと、イエスは人々に呼びかけられたのです。
 次に、神の国において、人間が出会い、仰ぐべき神は恵み深い父であると教えられました。神は御自身とは全く異なる人間を愛し、人間の父となっていてくださる、と教えられました。この神の愛は実に罪人を赦す愛、贖罪愛であると仰せになりました。
 そこで神の愛を明らかにするため、有名な放蕩息子の譬話をされたのです。ルカ福音書15:11~32に記されています。放蕩の挙句、落ちぶれて父の家に帰ってきた息子を喜んで迎え入れた父の話です。放蕩息子が帰ってきたことを喜び、父はこのように語りました。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24)
 この譬話は悔い改めた息子のことを表すよりも、放蕩な生活をするために家を出て行った息子を父はなお愛し続け、彼が悔い改めて帰ってきたことを何よりも喜んだ父の愛を示しています。この譬話の主人公は、実に神の性質を現しているのです。
 ここでイエス様は神が人間を贖罪の愛をもって愛しておられると仰せになっています。ところで贖罪愛とは人間の罪を神の御前に取り去る神ご自身の行為です。本日の聖書の箇所は次のように言っています。
 「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」(詩編32:1)
 旧約聖書では年に一度、贖罪日に大祭司が犠牲の動物の血を携えて、神殿の一番奥にある至聖所に入り、「贖いの座」の上に血を注ぐことによって、イスラエルの民の罪が神の前に覆われ、民の罪は取り去られるので、赦しが与えられるのです。
 新約聖書では神の御子イエスが十字架の上で流された血により、すべての人間の罪が神の御前に取り去られ、罪が赦されるのです。この神の行為が贖罪愛です。
 神の贖罪愛の行為の中で、人は恵み深い神を発見するとき、悔い改めて神のもとへ立ち帰ることができるのです。

(2)悔い改めとは何か
 次に、悔い改めて神の国の福音を信じなさい、と主イエスが仰せになったのは、罪を犯す生活をしていた者が、過去の過ちを悲しみ、単に後悔するというだけのことではありません。それは自分の心を入れ替えることです。自分の性格を根本から変えることなのです。
 これと関連して、イエスは罪とは人間が犯す個々の悪い行為、神の戒めに反する個々の行為そのものではなく、もっと深い人間の心の状態として洞察しておられます。この状態をマルコによる福音書7:20~23で、次のように分析しておられます。
 「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」
 従って、人の悪い行為は、先ず心の中で悪いことを考え、それを実行に移そうと計画する段階から始まります。それゆえ、古代のキリスト教の教父テルトリアヌスは、神の国の福音を弁明しています。
 「クリスチャンは悪を行なう前に、主イエスの御言葉に照らされて心の中の悪い思いを発見した段階で、主イエスの霊的力を受けてそれを取り去ることができる。従って、牢屋の中には一人のクリスチャンもいない。」と福音を異教徒に弁明しています。
 しかし、この状況を実はユダヤ教の律法学者たちも知っており、人間の悪い思いを行動に移させないために、悪い行いに対する神の厳しい罰を強調し、他方、善い行いに対する神の祝福を約束することによって、悪い行いを防ごうとしました。しかしこのような方法は、病人から病気の原因を取り去る治療をしないで、病気が引き起こす様々な苦痛を緩和する対症療法と同じです。
 それに対して、主イエスは確かに、マルコ7:22~23で心の中に生じる様々な悪い思いを分析し、心が病んでいる状態を罪とされましたが、それだけでなくそれらの罪の根源にメスを入れて、「罪の根源」を取り去ることが、イエスの言われる「神の赦し」であり、またそれに応答する人間の態度が「悔い改め」なのです。
 それでは心の中にある罪の根源は何かと言いますと、それこそ人間の「利己主義」です。これが「罪の根源」です。
 人の心の中心に座を占めるべきものは、「神を愛することと隣人を愛する愛」です。ところで、神を愛するとは「神に絶対的に依存し、神に祈り求め、同時に神の御心に従い、御心を実行する」ことです。
 隣人を愛することは、そこから必然的に由来します。隣人を愛することは、神を愛することから生じるのです。
 そこで問題は、人はどうすれば心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛することができるか。そして、隣人を自分自身のように愛することができるかであります。さらに
神を愛し、隣人を愛するという問題は人が外から強制されて実行する事柄ではありません。あくまでも本人が自ら進んで、喜んで愛する自発的な愛でなければなりません。従って、それが可能となる方法はただ一つです。
 それこそ、神が恵み深い父であり、自分を愛してくださっている父なる神であることを、一人一人が発見することです。つまり神はイエスが譬話によって示してくださった通りの父なる神であると、またイエスがご自分の存在と言動をもって示された通りの父なる神であると「信じる」ことです。
 しかし、そのような人間の信仰と洞察、そして献身と信頼だけではありません。神様が罪人に対する「赦し」をもって、わたしたちの心の中に臨在し、ご自身の思いと行動を示し、聖霊を通してわたしたちの心の中に神の愛を注がれますから、わたしたちは神様から愛されていることが分かるのです。
 あるクリスチャンが言われたことには、わたしは復活の主イエスのことがなかなか分かりません。でも神様が主イエスを通して、わたしを愛して下さっていることは分かりますと、言われました。
 まさにそれが聖霊の働きです。その聖霊の働きは同時に復活の主イエスを信じることと表裏一体をなしています。このことが分かりますと、わたしたちは自分の全存在を神に献げ、神の思いを第一とし、神様の思いに従がって行動するようになります。そのとき初めてわたしたちは隣人を愛することができるのです。
 
(3)主イエスの思いに生きる者の特徴
 次に、主イエスの思いを持った神の子と呼ばれるクリスチャンの特質は何でしょうか。ペトロがイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とイエスに尋ねたとき、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられたのです。
 要するに、イエス様の答えは「イエスの心」を持った者は誰でも、「兄弟を常に赦す者」であると、仰せられたのです。なぜならば、神に愛されている者は、神から赦されている者であるゆえに、他の者を赦すのである。また他の者を赦す者は神から愛されているのだ、という主旨です。
 この点を明らかにするために、この譬話の中で、ペトロや他の弟子たちに向かって、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようにされるであろう。」と警告されました。
 しかしこれは神から罪を赦されるために、友の罪を赦すという、いわば神と取引をするという意味では決してありません。そうではなく、わたしたちの中に主イエスが赦しによって、臨在し、働いておられる限り、どのような経緯があろうとも、クリスチャンは結局人を赦すだろう。なぜばら、主イエスを信じる者には、それ以外に生き方はないからである、と仰せられたのです。
 それゆえわたしたちは隣人の誤りを赦すと言うことを通して、わたしたちの中に主イエスの贖罪愛が働くのです。



2018-02-25(Sun)

十字架に向かって 2018年2月25日の礼拝メッセージ

十字架に向かって
中山弘隆牧師

 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
イザヤ書53章7~12節


 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章43~45節


(1)レントにおいて
 わたしたちは今レントの期間を過ごしています。この時期に、十字架に向かうイエス様の姿を思い、信仰が一層強められますよう願う者であります。ここには、エルサレムに向かって進んで行かれた主イエスの姿が描き出されています。
 「一行がエルサレムへと上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と、10章32節に書いてあります。
 この非常に簡潔な表現は、主イエスの決意がただならぬものであったことをよく示しています。そこには不退転の決意がみなぎっていました。主イエスの体全体から出る雰囲気がその決意を感じさせたのです。それは主イエスの深い確信から出ており、ご自分の人生の必然的な終局を悟った方の力を感じさせました。
 弟子たちは長い間イエスに従い、神がイエスを通してなされた力ある業を数多く目撃しました。その度に彼らは驚き、強い感銘を受けたのですが、今回ほど恐れを感じたことはありませんでした。
 世の多くの人々は生きるために死を避けようとします。しかしそれによってかえって生きる意味を見失ってしまいます。人は死を避けず、死に向かって進んでいくときに本当の意味で生きられるのです。主イエスの生涯はまさにそのような歩みでした。救い主としてのイエスの前半の活動は、必然的に後半の活動をもたらし、そこにおいて救い主としての死を全うする決定的な時が到来したのです。  
 ここに「神である人間」イエスの必然性が現わされています。イエス様はわたしたち人間と違って、真の人間でありながら、神は「自分の父」であり、自分は「神の御子」であると言う自覚を生まれながらにして持っておられ、父なる神と親密な人格的交わりの中で、わたしたち人間に神として語り、神として行動されました。
 罪人に対して神の赦しをもって親しく交わり、自らを誇る高慢な気持ちの毛頭ない神であり、罪人を愛し、自分の善きものを惜しみなく与えられた神でありました。
 それゆえ、罪人ザアカイは神の愛と赦しを知って、自分の利己的で貪欲な心を捨て、これまで自分が一生懸命に働いて蓄えた全財産の半分を喜んで貧しい人々に施しますと、主イエスに申しました。また罪の女は主イエスの赦しの言葉と愛によって罪の束縛から救われ、感謝の涙と共に自分を主イエスに献げました。
 このような「神である人間」イエスの必然的帰結は、人類を罪から贖うために、ご自身を十字架の犠牲に献げることでありました。

(2)弟子たちに対するイエスの意図
 この時、イエスは弟子たちを御許に呼び寄せて、次のように仰せになりました。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
 ここで、主イエスは明らかに弟子たちにご自身の死の意味を教えようとしておられます。そのことが起こる前に、弟子たちにご自身の死の意味を理解させようとしておられます。
 この点マルコによる福音書は主イエスの意図をよく示しています。
なぜならば、マルコによる福音書では、主イエスの救い主としての活動が、前半と後半との二つの部分に明瞭に区分されているからです。前半では、主イエスはイスラエル全土を巡回して、人々に神の国について教えられました。神の国がイエスの宣教を通して開始していることを言葉と行為をもって示し、また神の国での信仰者の生き方について多くのことを教えられました。
 それに対して、後半ではできるだけ民衆との接触を避け、専ら弟子たちに教えようとされたのです。そこに深い理由がありました。すなわち十字架の死に向かって進んで行かれるご自身の歩みに、弟子たちも共に与らせ、そこにおいて主イエスの十字架の死と復活の意味を弟子たちに教えようとされたのです。
 もし主イエスが生前に弟子たちに十字架の死と復活について教えられなかったとしたら、弟子たちはそのことが実際に起こっても、真の意味を理解することは到底できなかったでありましょう。
 しかし、弟子たちはこの時点では、まだ理解していなかったのです。否、彼らの理解は全く異なっていました。

(3)弟子たちの無理解
 「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』(10:37)
 これはイエスが神の国の支配者として、栄光の座にお着きになるとき、ヤコブとヨハネは自分たちだけが、弟子としての最高の地位に就くことを先約して頂きたいという申し出です。
 何とこれは弟子たちの無理解を示していることでありましょうか。彼らは今や実現する神の国を非常に利己的にしか理解していません。他の弟子たちを出し抜いて自分たちが高い地位に就きたいという野望丸出しです。当然それを見た他の弟子たちは二人に対して非常に憤慨しました。
 この有様をご覧になった主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と仰せになりました。
 わたしたちは弟子たちのこの振る舞いを見て、彼らの思いは主イエスの思いと何とかけ離れていることかと驚きを感じます。弟子たちはどうして主イエスの心中を察することができないのだろうかと思います。彼らの心の感性は何と鈍いのだろうかと思います。
 しかし弟子たちの姿は実はわたしたちの姿に他ならないのです。わたしたちは信仰が与えられていましても、依然として利己的な欲望を持っています。その点ではヤコブやヨハネの甚だ利己的な姿とわたしたちの姿は、ちょうど二重写しになっています。

(4)主イエスの思い
 そこで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「あなたたちも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)
 ここには、主イエスによってもたらされた神の国の性質が非常に明瞭にされています。それはこの世の性質とは根本的に異なります。この世では支配する人、権力を振るう人が、偉い人であり立派な人として尊敬されています。それに対して神の国においては価値ある行為は人に仕えることであり、信頼される人は皆に仕える人です。
 このような相違は価値観の逆転ではなく、全く異質な価値観であると言えます。神の国の価値観は、神の愛を根本とする価値観です。従って、罪人を愛する神の救いを受けた者たちの価値観であり、神に感謝し、喜んで神に従うことを根本とする価値観です。つまりそれは、主イエスが神として人間を愛し、人間の救いのために人間に仕えられた主イエスの思いを知って、自分たちもまた人に仕えることを尊ぶのです。
 実に、主イエスの生涯は神として人間に自己を与えること、すなわち人間の救いのために人に仕えるという思いで貫かれており、それを完成する行為が十字架の死でありました。このことは次の言葉ではっきりと表明されています。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)
 ここに、主イエスが十字架の死を父なる神からご自分に与えられた最大の使命であると自覚しておられたことが現れています。
 ここで「人の子」とは単に人間と言う意味ではなく、もっと深い意味を持った言葉です。イエスは神がご自分の父であり、自分が父なる神の子である、すなわち神の御子であると言う自覚を持っておられましたが、それはご自身の心の奥にある秘密でありましたので、特別の場合でなければ「御子」という呼び方をされませんでした。
 他方普段は、イエスは御自身を「人の子」と呼んでおられたのです。しかし、また人の子とは実に謎めいた不思議な名称です。端的に言えば人の子とは「神的な人間」、「神である人」と言う意味です。
 旧約聖書によれば、神はアダムを創造されたとき、アダムを「神の形」として創造されました(創世記1:27)。言い換えれば、アダムを「神の性質を映し出した人間」として創造されました。ところが、アダムは神から与えられた人間として最高の使命に満足せず、「神と等しい者」になろうと欲し、神に対して最大の罪を犯しましたので、自分に与えられた「神の形」を失ってしまったのです。
 それとは対照的に、神はアダムを地上に創造される以前に、「神の真の形」である「人の子」を創造され、人の子は「神的な人間」として、天に存在していたのです。従ってまた「天的な人間」とも言われています。
 この人の子は、旧約聖書のダニエル書の預言によれば、全人類を裁き、神の救いと神の国を実現するために、終わりの日に神の主権を以て地上に現れると言われていました。
 旧約聖書のダニエル書7章13~14節の預言は次の通りです。
 「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、威厳、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸国語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
 今や神の時が満ちて、この天的な人間である人の子がダニエルの預言とは異なり、真の人間となって地上に現れました。言い換えれば天的な人間が「受肉」して、地上にいる人類の中の一人、すなわち「人間イエス」となったのです。このことは、真の神の似姿であった「神的な人間」がこの世界の中の一人の人間となるために、どれほど大きな犠牲を払われたことでしょうか。
 それこそ神的な栄光をすべて捨て去り、限りなくご自身を低め、貧しい人間となられたのです。そのような人間となって、さらに十字架の犠牲により、すべての人間の僕となられたのです。実にその目的は人間の罪を贖い、人間を神との交わりの中で、神の性質を反映させる人間として、神の御前で生きるようにするためです。
 ここで「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と仰せになっています。「来た」と言う言葉は天から、父なる神のもとから下って来たと言う意味です。「多くの人の身代金」とはイザヤ書53書の預言の内容を要約しています。身代金とは一般的には捕虜になった者を解放するために支払う金のことですが、ここでは全人類を罪の束縛から解放する手段を意味しています。
 御子イエスはそのためにご自分の命を与えられました。人類の罪を一身に担い、死と虚無の渕に呑み込まれたのです。そのようにして人類の罪を贖う父なる神の意志に従順を全うされました。
 また、その行為はイエスが明確な認識をもって、自ら進んで実行された自発的行為です。人格的で自発的な愛によるイエスの「霊的連帯性」によって人類の罪は贖われたのです。従って、神の御子イエスは、主権者としての「人の子の使命」と人類の罪を贖うために自分の命を犠牲にする「主の僕の使命」を結び合わせて、御自分の使命とされました。御子イエスは主権者でありながら、御自分を最低の境遇まで低めて、自己の栄光を放棄し、人類を罪から救うために、自己を与え尽くされたのです。
 実にその犠牲は人類を罪から贖う父なる神の意志に徹底的に従順であったから可能となったのです。その結果、神の真理と恵みがイエスの中で貫徹しました。同時にイエスの連帯性によって、人間は罪を贖われ、罪を赦され、神の御前に生きる「神の子たち」と呼ばれる「新しい人間」とされたのです。
 わたしたちは今、御子イエスの犠牲の愛、神の愛と赦しに対して、ただ感謝あるのみです。それゆえ、わたしたちの生きる道は、主イエスに自分を献げ、主に従う他にはありえません。



2018-02-18(Sun)

神の贖罪愛 2018年2月18日の礼拝メッセージ

神の贖罪愛
中山弘隆牧師

 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
エゼキエル書33章7~11節


 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15章11~24節


(1)神への帰還の根拠
 本日の聖書の箇所の小見出しに、「放蕩息子のたとえ」と記されています。この話は皆様が良くご存知です。しかし、この話は何回読みましても新鮮であり、そこに尽きない神の愛と恵みが溢れていることをわたしたちは知らされます。なぜなら、この譬え話を作られた主イエスの思いと内的生命がこの中に込められているからであり、この譬え話は今も生きて働いておられる主イエスと不可分離です。
 実にこの話は非常に簡潔に述べられていますが、そこに神と人間の実際の姿が現わされています。この点をわたしたちは熟読玩味することが大切です。
 この親にしてこの子ありと言われるように、親の良い感化を身に受けて、頼もしい社会人になる青年もいますし、どうしてこの親からこのような不出来な者が育ったのかと首をかしげる青年もいます。
 この譬え話の青年は前者ではなく後者です。彼は甚だ利己的であり自分の欲望に駆られて、長年父に育てられたにもかかわらず、父のことが全く分かっていませんでした。子に対する父の深い愛情だけでなく、父がいかに正しく、公平であり、真実な尊敬すべき人であるかが分かっていなかったのです。多くの雇人に対する父の態度と処遇の仕方の善い面を見ようとはせず学ぼうともしませんでした。
 この息子は、楽しく過ごすことだけを欲し、地味に働くことの喜びを知ろうともせず、享楽的な夢を追い求め、心の底まで世の誘惑に染まっていました。そのため、自分に将来貰うようになっている財産を早く欲しいとねだって分けてもらい、家を出て親の目の届かない地方に行ってしまいました。
 そこで自分のしたい放題のことをし、遊女や悪友と楽しく、可笑しく過ごすうちに、親から貰った財産を食い潰してしまいました。しかも悪いことは重なるもので、その地方にひどい飢饉が起こり、忽ち彼は路頭に迷うようになったのです。
 その町にいる或る人のところに行って雇ってもらいましたが、その人は彼に豚を飼育する仕事を与え農場に送りました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、豚の飼育に携わることは最も大きな屈辱なので、彼は自分の哀れさが身に染みるように感じました。
 さらに、その雇い主は無情な人で彼に賃金も食料も一切与えませんでした。それでもだれも自分を助けてくれませんでしたので、このままでは自分は飢え死にしてしまうと直感しました。
 この恐ろしさの中で、彼は初めて「われに返った」のです。父の家では多くの雇人が有り余るほどのパンを得ている。それと比べると、自分の雇主は何も与えず、自分は只働きを強いられていることに気付きました。そのとき彼の父に対する見方が一変したのです。
 まことに父は正しい、公平な、情け深い人である。また我が侭で無知な自分に対してもどれほど寛容であったことか、利己心に凝り固まっていた悪い息子にも良くしてくれた。この父の愛を自分は裏切ったのだ、と今やっと気付いたのです。
 同時に、もう息子と呼ばれる資格は自分には全くないが、父に対して罪を犯したことをどうしても告白したい。そして父の憐れみと真実さに寄り頼み、息子としてではなく、雇人の一人にしていただきたいと、願ったのです。これは父が正しく、愛と憐み深い人であることが今や本当に分かったので、心の底から父に信頼し、自分の願いを申し上げたいと思ったのです。
 これが悔い改めるということです。この青年は自分の罪がいかに深いかを知りましたが、それでも絶望しませんでした。なぜなら、希望の唯一の支えは父がどういう方であるかに、すべてがかかっていると気づいたからです。
 もし彼がこの期に及んでまだ自分を言い張るとすれば、死の外には何もないという絶望の中で、自殺するより他に方法はありません。或いは自殺できないときは、他の人を殺して自分も死のうと考えるのです。しかしそれでは自分の罪を悔い改めたことにはなりません。なぜなら絶望と悔い改めとは正反対であるからです。
 それゆえ、この放蕩息子が悔い改めることができたのは、専ら正しい、真実な憐み深い父が存在するからです。彼は最早自己を主張せず、自分に頼らず、父に対して犯した自分の罪を告白し、赦しを乞い求め、父の憐みにより、召使いとして置いてもらいたいという一心で、即座に立ち上がり、家に帰ってきました。
 その途上でも、この思いを反復しながら歩きましたので、体は痩せ衰えていましたが不思議な力が働き、帰郷できたのです。

(2)神の贖罪愛
 他方、父親は家を出て行った息子に対する愛情を放棄することはありませんでした。息子は自分の罪に束縛されて、闇の中に消え去り、自分の前から失われてしまった。今はもう死んだのも同然であると思いながら、なお息子を憐れみ、息子が滅びてしまうことを望まなかったのです。
 自分はお前を赦している。息子よ、家に帰れと、自分の一番奥の心が叫ぶのです。これは裏切られても変わらない愛であり、憐みであり、「贖罪愛」であります。それゆえ、息子が帰ってくることを父親は期待し、待っていました。
 ある日に遠くを見ていると、こちらに向かって近づいてくる息子の姿が見えるではありませんか。とっさに父親は深い憐みの情に突き動かされ、走り寄り、息子の首を抱いて、接吻しました。
 その場で、息子は跪き、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)と言いました。これが息子の罪の告白と悔い改めです。
 そこで、息子の気持ちを父は即座に理解し、喜びが全身から沸き起こり、息子を受け入れ、自分のもとに置き、新しい人生を生きるために必要なものすべてを、しかも即座に与えました。それが晴着を着せることであり、指に指輪をはめることでした。
 ここで、「晴着」は息子の更生を意味しています。死んでいた者が生き返ったことを意味しています。言い換えれば「救い」を意味しています。「指輪」は「養子」にしたことを意味しています。
 父親は今や、帰ってきた息子を見て、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:24)と言って喜び、祝いの宴会を開きました。肥えた子牛の上等の肉を料理し、上等のぶどう酒を出し、歌を歌い、ダンスをして、皆で喜びました。この父親の喜びを、悔い改めた息子はもちろんのこと、同席した人たちも共にしたのです。
 ところで、この祝会の主役は、悔い改めた息子ではなく、慈愛深い父親です。それゆえ悔い改めて、救われ、新生し、新しい人生を始めた息子は脇役なのです。ここで父の気持ち、そして悔い改めた息子の気持ちを、心に手が届くほど鮮明に、具体的に描写しておられる主イエスは「父なる神」について、語っておられるのです。
 父なる神は罪人が神のもとに立ち帰ることを何よりも欲しておられます。神は預言者エゼキエルを通して、呼びかけられました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)。
 そして神様は「立ち帰る道」を備えられました。それが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いであり、罪人に対する罪の赦しです。さらに信じる者に、キリストの復活により達成されました「神の義」を無償で授与することであり、キリストの中に「神の御前に立ち帰った新しい人間」を創造されたことです。
 従って、罪人が罪を赦されて、神の御前に新しく生きるための客観的な根拠として、神様は主イエス・キリストの十字架の死と復活により、キリストの中に新しい人間を創造されたのです。
 さらに罪人が新しい人間として生きる具体的な方法は、主イエス・キリストが復活して、すべての人間の主権者、救い主となられたことです。
 その主イエスが罪人と出会い、罪を赦し、主イエスを信じる信仰を与え、主イエスの命令を与え、命令を実行する霊的生命を与えて、新しい人間として生きるように導いて下さるのです。 

(3)主イエスの支配の中で
 それでは、ここで示されている悔い改めを実行し、父のもとへ立ち帰った者とは誰でしょうか。それこそ、わたしたちクリスチャンです。クリスチャンとは、主イエス・キリストを信じることによって罪を赦され、本心から悔い改めた者です。神から失われていた者を神様が主イエス・キリストによって見つけ出してくださったのです。死んでいた者を生き返らせらせてくださったのです。そのことを神様は何よりも喜ばれるのです。
 この神の喜びを身に受けて、クリスチャンは悔い改めたのです。ここにクリスチャンの喜びがあります。この譬え話の眼目は正に「神の喜び」です。同時に悔い改めて、神の許に立ち帰り、神との人格的な交わりの中に入れられた者の限りない「感謝」です。
 従って、悔い改めとは人間の生き方、心の向きを逆転させることです。それは最早自分が自分の主人公ではなく、自分の主人公を主イエスとして、主イエスに従うことです。神のもとから離れる方向に歩んでいた者が、神のもとへ向かって歩み出すことです。
 なぜならば罪のない神の御子イエスが人類の罪を背負い、人類に代わって神から裁かれ、罪の責任である死を全うされました。この神の究極的な一回限りの裁きによって、人間のすべての罪は御前に取り去られましたので、神は人間の罪を赦されるのです。人間がどれほど罪を繰り返しても、神は常に赦されるのです。
 さらに人間が神の御前に生きるに必要な義を、主イエスは神の裁きを受け入れ、死に至るまで従順であったことにより達成さいました。そして主イエスは御自身の義を信仰者に無償で授与されます。
 従って、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による義の授与により、信仰者は神の御前に立ち帰り、主イエスの命令を実行することによって、御前に生きるのです。
 従って、神様は主イエスの十字架の死によって人類の罪を究極的にしかもただ一回限り裁かれましたので、わたしたちの自己中心的な生き方には最早将来性はないという判決を下し、あなたは自分自身に寄り頼んで生きてはならないと命じられたのです。
 さらに、神様は人間の救い主として与えられた主イエスに寄り頼み、あなたは主イエスに従い、その命令を聞いて実行しなさい。そこに「あなたの未来」が開けているのだと、仰せられたのです。
 この恵みの霊的現実を別の角度から表現すれば、復活し、人間の主権者となり、生きて働いておられる主イエスは、信仰者の中に働き、信仰者を導いておられるのです。それゆえ主イエスに従うことが新しい将来に向かって生きることです。
 このように神との人格的な交わりに入れられたクリスチャンは、「神と和解させられた人間」です。従ってクリスチャンは最早「罪のない人間」となったのでは決してありません。常に罪を犯す弱い者です。それにも拘らず、罪を赦され「神の子たち」とされており、神の子たちとして歩むことが可能です。この可能性の根拠は主イエスによって生起した「贖罪の出来事」です。
 それゆえ、クリスチャンは古い人間と罪を自分の背後に背負っている人間です。最早自分自身に頼ることは禁じられている人間です。常に主イエスによって神を見つめ、神に向かって生きることが新しい人間、神の子たちとされているクリスチャンの行動です。
 しかし問題は復活の主は今や神として、信仰者の中に働いておられますから、肉眼には見えない方です。その御声は人の耳には聞こえません。それにも拘らず復活の生ける主イエスを人は「信仰」を通して確信できるのです。
 正にその信仰は主イエスが与えて下さる聖霊による信仰のです。さらに、主イエスの十字架の死において啓示された神の「贖罪愛」は、聖霊を通してクリスチャンの心に常に注ぎ込まれているのです。



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