2017-05-14(Sun)

神のものは神に 2017年5月14日の礼拝メッセージ

神のものは神に
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6章4~5節
 

 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
マルコによる福音書12章13~17節


(1)当時の社会状況
 今日世界のどこの国でも税金は難しい問題です。聖書の時代におきましても、税金は重大問題でした。
 イスラエル民族にとりまして、時の支配者であるローマ政府に税金を納めるべきか、それとも反対するかの問題が民衆の注目の的であり、それぞれ意見が分かれていたのです。熱心党と呼ばれていた国粋主義者たちはローマ政府に税金を絶対納めるべきでないと主張し、他方でサドカイ派と呼ばれていた祭司たちの上流階級は税金を納めるのは当然であると考えていました。しかし、ローマ政府に妥協するサドカイ派は民衆の間で人気がありませんでした。
 とうとうユダヤ人は紀元66年から70に渡って反乱を起こし、その結果エルサレムはローマの軍隊により徹底的に破壊されてしまったのです。こうした歴史を考えてみますと、イエスの時代に税金は極めて大きな危険をはらむ政治問題であったと思われます。
 イエスに敵対する者たちは、この状況を巧みに利用してイエスを罠に掛けようと企てていたのです。ところで、すべてのユダヤ人が納めなければならない税金は「人頭税」と呼ばれおり、所得の多い少ないに関係しない均等割りの住民税のようなものでした。それは決して重税と言うほどのものではなかったのですが、税金を支払うために用いる貨幣がイスラエル民衆の感情を刺激したのです。なぜなら、その貨幣にはローマ皇帝のカイザルの顔が浮き彫りにされていたからです。

(2)イエスに対する罠
 「さて、人々は、イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)
 ここで、普段は犬猿の間柄であるファリサイ派とヘロデ派がどうして行動を共にしたかはまことに不思議です。しかし、イエスに反対するという一点では両者の利害が一致したのです。彼らはイエスのもとに来て、次のように言いました。
 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(マルコ12:14)
 実は、この質問に巧妙な罠が仕掛けられていました。もしイエスが人頭税を払わなくてもよいと言えば、それはカイザルに対する反乱であり、イエスは即刻に死刑となります。他方イエスが人頭税を支払わなければならないと言えば、イエスは民衆の支持を忽ち失うことになり、彼らがイエスを逮捕するのに都合よくなります。
 どちらの答えを選ぶにしても、イエスは窮地に陥るはずです。しかし、イエスは彼らの策略を見抜き、彼らの知恵を上回る方法を取られました。
 「なぜわたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(12:15)
 先ほど申しましたように、デナリオンとは税金を支払うときに使用しなければならない銀貨でした。普段は銅貨が使用されていて、ユダヤ人をあまり刺激しないようなオリブの木、または棕梠の木のデザインが施されていたのです。そこでイエスは質問されました。
 「これは、誰の肖像と銘か」(12:16)
 ここで、イエスと彼らの立場は明らかに逆転し、今度はイエスが問い、彼らが答えなければならなくなりました。彼らは「皇帝のものです」というと、イエスは仰せになったのです。

(3)絶対的な関係と相対的な関係
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(12:17)
 ここに至って、イエスはファリサイ派やヘロデ派の仕掛けた罠から逃れられただけでなく、イエスご自身の答えを出しておられます。すなわち、イエスは税金を支払うべきであると仰せになりました。
 しかし、イエスの答えはそこに留まってはいません。イエスの重点はむしろ次の言葉に置かれています。すなわち、「神のものは神に返しなさい」という言葉です。この挑戦はいかなる人も無視することも、言い逃れることもできない重い意味を持っています。
 なぜなら、神のものを神に返すと言うことこそ、人間が生きるために最も必要な課題であるからです。人間がどのような難しい状況の中にありましょうとも、神のものは神に返すことが必要です。実にそうすることによってのみ、人間は本当の意味で生きるのです。
 それでは、神のものを神に返すとは、どういうことでありましょうか。それは神を第一とする生き方です。そして神以外のものはすべて第二とする生き方です。神以外のものを決して第一にしないことです。人は第一と、第二との区別を正しくつけなければ、自分の人生が狂ってしいます。
 しかし神を第一とすると言うことは、頭の中で分かっていましても、実際問題としてそれぞれの生き方が問われるのです。最早この点は誰しも回避できません。聖書の神は、生ける神であり、わたしたちに御言葉を語りかけ、わたしたちに生きる意味と力とを与えられる神です。
 神はイスラエルの民に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4~5)と仰せられました。
 神はこのように神の民イスラエルに対して、全存在をもって神を信じ、神に求め、神の御言葉に聞き、神に従うように命じられました。実に神はわたしたちに対して「あなたの全存在をもってわたしに依存し、わたしに従うことによって生きよ」と仰せになります。それゆえ神との関係は人間の全存在にかかわる絶対的関係です。この関係の中で生きることが「神を神とする」ことです。
 他方人間は生きていくために、国家、職業、地域、親子、友人、隣人との関係、その他様々な関係が必要です。しかしそれらはすべて相対的関係です。あくまでもその意義と範囲は限定されています。それゆえ、神に対する絶対的な関係と、神以外のものと関わる相対的関係は区別すべきなのです。
 なぜならば、神様は人間一人一人に神様を信じ、神様に依存し、神様に従って生きることを要求されますが、神様だけが人間をすべての面で生きるようにされる力と知恵を持っておられるからです。そのことを聖書は神が「恵み深い唯一の主権者」であると告白しているのです。従って、「主権者に相応しい力と真理と命」を持って働いておられる唯一の神に対して、人間も国家もさらに他の宗教の神々もそのような力を持っていません。
 それゆえ社会や国家など様々な相対的関係は神との絶対的関係が保たれている中で、初めてその機能を果たすことができのだと、言えます。

(4)ルターの生き方
 宗教改革者マルティン・ルターは1521年4月17日と18日にヴォルムスの国会に召喚されました。当時のヨーロッパは神聖ローマ帝国と呼ばれており、皇帝と教皇が支配していました。ヴォルムスの国会には皇帝、選帝公、教皇の使節、司教、公爵、その他多くの高官が、教会と国家を代表して、参加していました。
 彼らの前で、ルターは尋問されたのです。皇帝の名によって、ヨハン・ホン・エック博士が二つのことを確かめました。まず、ベンチの上に置かれた25冊の書物がルターのものであるか否かの尋問です。その時、ルターは直ちにそれを承認しました。
 次に、これらの書物を撤回する意志があるか否かについて尋問されました。するとルターは謙遜にもう一度熟慮するためにしばらく時間の猶予を願いました。なぜならば、それは勇気の欠如ではなく、自分の発言に対する責任の大きさを感じたからです。魂の救いと神の言葉の真理に関することでありますから、ルターはもう一度考える余裕を要望しました。皇帝は寛大な処置を取り、尋問を一日延期したのです。
 翌日再び議会に立って、ルターは次のように弁明しました。
 「わたしは聖書の証言によって論駁されるのでなければ、自分の引用した聖書によって征服され、わたしの良心は神の言葉に拘束されているので、これらのどの書物も撤回することはできないし、することを欲しない。なぜならば、良心に反することをするのは安全ではないし、危険であるからである。」

 そのとき、聴衆の興奮と混乱の続く中で、ルターは押し潰されそうになりましたが、すべての人の記憶に残る言葉を発しました。
 「わたしはここに立っている。わたしは他のことをすることはできない。神よ、わたしを助けてください。アーメン」

 ヴォルムスの国会においては、ローマ教皇の側が勝利し、ルターは異端者として破門され、ルターの書物は発行を禁止されました。しかし、ルターの証言は世界史的に見て、その効果を遠くまで及ぼす出来事でした。それは神の言葉に照らされ、導かれ、確信を与えられた「良心の声」が、伝統や宗教的権威や国家権力に打ち勝つことを実証したのです。
 破門されたルターは匿われた城のタワー・ルームで聖書の翻訳をしました。350年後に、その小さな部屋に入った英国人トーマス・カーライルは、「あの部屋にわたしが立った時、ここはわたしがこれまで見た世界の中で最も聖なる地点であると感じた。わたしは今でもそう思っている。」と、その時の感激を語っています。
 本当に人が神の言葉を聞き、そして「神のものを神に返し」、それによって自分の人生を確信しつつ歩むことは、永遠の価値を持っています。

(5)神が備えられた道を歩む
 神との関係は、神に全面的に依存することと、神に全面的に従うことで、二つは不可分離です。このことを考えますとき、わたしたち一人一人にとって、神を第一とし、神の言葉に聞き従うことがどれほど重い意味と力を持っているかを痛感します。
 神は主イエスの十字架の死により、人類を罪の支配とこの世の諸々の霊力より解放し、人間が神に従う道を備えて下さいました。そのような方として、主イエスは天地万物の主権者となられました。
 それゆえ、主イエスの十字架の死と復活により、神がわたしたちに歩ませようと欲しておられる人生こそ、わたしたちが感謝して生き得る最高の人生なのです。
 今日の重要問題は、国家が自己の権威と力を絶対化して、国民の良心を無視して、国家の政策に従わせることです。また、信仰の弱いクリスチャンは国家の絶対的権威と力を恐れ、主イエスに従わないことです。戦前と戦時中の日本国家は天皇を神とし、日本人を天皇の臣民とし、国民を天皇に従わせました。その結果、日本国家は近隣諸国に対する侵略戦争を行い、連合国を相手にして戦いましたが、国家の破滅をもたらしました。このようにして天皇の権威を絶対化した大日本帝国は敗戦によってその歴史を閉じたのです。これは神でないものを神とし、真の神を神としない人間の罪の必然的な結果であると言えます。
 日本基督教団では、教会が戦時中に犯した罪を告白し、悔い改めて、主イエスの主権を告白し、主イエスに従うために、戦後22年を経て、1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」をしました。
 
しかし、この問題は教会だけでなく、人類全体の問題であります。人類が共存と平和を維持する唯一の土台は、神を神とすることです。「神のものは神に返す」ということです。



2017-05-07(Sun)

心の平安 2017年5月7日の礼拝メッセージ

心の平安
中山弘隆牧師

 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16篇5~11節
 

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章25~33節


(1)何よりも必要な心の平安
 本日の聖書の箇所は、主イエスの次の言葉です。ヨハネによる福音書16章33で、主イエスはこのように弟子たちに約束されました。
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しない。わたしは既に世に勝っている。」
 だれでも平穏無事な人生を過ごしたいと思っています。しかし、現実の生活には様々な困難と悩みがあります。それは突然に襲ってくる困難に打ち勝ち、苦境を乗り越えて行く力が自分にないからです。従いまして、言葉で勇気を出しなさい、頑張りなさいと励まされても、もしその困難を解決する力を与えてくれるのでなければ、その言葉は空しく感じられます。
 しかし、主イエスの場合には、主イエスの言葉がわたしたちに力を与えます。それゆえ困難の嵐が襲うときにも心に平安が与えられ、嵐が去るまで耐えることができるのです。なぜならば、主イエスは「既に世に勝っている」お方であるからです。
 わたしは約55年前に、わたしは未だ神学生でありましたが、岐阜県の恵那市から電車でいく田舎の田瀬教会を訪問したことがあります。そのわけはわたしの出身教会であります名古屋の金城教会の牧師が田瀬教会の牧師と親しく、また田瀬教会の方々も金城教会と深い関係がありましたので、牧師に連れられて、夕方家庭集会に出席し、その晩は田瀬教会に一泊させてもらいました。
 その日、家庭集会のために場所を提供してくださいました糸魚川さんと言う夫人の話を伺うことができました。もうその時に教会の会堂もできていたのですが、戦後の開拓伝道で出来た教会です。東京から移住して、地域の中学の英語の教師になられた牧師が、校長先生に連れられて、村の人々に挨拶に回られました。
 その挨拶の中で、わたしは英語の教師を務めることになりましたが、元々牧師でもありますので、聖書の御言葉を自己紹介とさせていただきますと言われ、ヨハネによる福音書に記されているイエスの言葉を語り、皆様の心に主イエスの平安をお伝えしたいと願っていますので、よろしくお願いします、と挨拶をされました。
 この話を聞いて、糸魚川さんは自分に心の平安が是非欲しいと思い、舅さんに教会へ行かせてくださいと頼まれました。ところが舅さんは一家の主人である息子が徴兵で戦地に行き、残された嫁が一人で稲作をしている農家なので、嫁の健康を心配し、日曜日に教会へ行くことを反対されました。しかし、糸魚川さんは、わたしに一番必要なのは心の平安でありますので、教会へ行かせてくださいと頼むと、舅さんも分かって下さり、忙しい農繁期でも、教会の礼拝を一度も休むことなく出席し、クリスチャンになられました。そして二人の息子さんもクリスチャンになられました。
 糸魚川さんのご主人は戦地に行かれたまま、通知がなかったのですが、戦死され、とうとう帰って来られませんでした。村では戦地から帰ってこられる方々がおられるのに、ご主人が帰って来られないので、毎日田んぼの片隅で泣いておられたそうです。しかし、教会に出席するようになり、心の平安が与えられ、家業の農業を守り、当時中学生であった二人の息子さんを立派に育てられました。その後、兄は家業を継ぎ、弟は大学を出て東京に就職し、教会の役員をしておられるとのことを田瀬教会の牧師から聞きました。
 あるとき、兄さんがお母さんを手伝って、田んぼの仕事をしているとき、近くで遊んでいた弟さんが何気なく投げた石が、運悪く兄に当たり、兄が怒って二人は掴み合いの喧嘩となりました。糸魚川さんはどうしてよいか分からず、黙って一生懸命に祈っておられましたが、二人は反省して喧嘩が治まったことを家庭集会で話されました。わたしは大いに感銘を受けたことを思い出します。
 さらに田瀬教会の二人の男性は、仕事の面でも協力し、農業水を確保するため山間の谷間に貯水池を完成されました。お二人に案内されて現場を見せていただきました。
 このように、主イエスによって与えられる心の平安と神の愛は、どのような困難や試練の中でも、その人の生活全体を包み、支え、その存在そのものを生かす霊的な力を持っています。

(2)生ける主イエスとの人格的な交わり
 次に、主イエスが与えてくださる心の平安とは、死人の中から復活し、全人類の救い主となられた主イエスとの生ける人格的な交わりの中に働くのです。
 十字架につき、人類を罪の責任と罪の束縛から解放するために、人類の罪をご自分の上に担い、人類に代わって死なれたイエスを父なる神は死人の中から復活させて、「名実ともに」全人類の救い主とされました。その方が、主イエス・キリストです。それゆえ、主イエス・キリストは二度と死ぬことのない永遠の命の保持者であり、つねに生きて働いておられ方です。
 この主イエス・キリストは神の御言葉、とくにキリストの福音の言葉を通して、わたしたちと日々出会われる方です。困窮に直面し不安と迷いの中に閉ざされてしまったわたしたちを主イエスの方から探し出し、出会ってくださいます。
 そしてご自身を示し、ご自身を通して父なる神が人類のために達成してくださった救いの恵みを示されます。そのことを通して、神がいかに恵み深い、正しい、無限の力を持っておられる方であるかを示してくださいます。このようにして、主イエスは生ける救い主として、わたしたちと出会ってくださるお方です。
 主イエスは十字架の死が目前に迫っているときに、弟子たちに次のように仰せになりました。
 「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。(16:19)
 「見なくなる」とはイエスが十字架の死によって、この世界を去られるという意味です。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とは、死人の中から復活された主イエス・キリストは弟子たちと出会われると言う意味です。
 しかし、復活の主は十字架について死なれた身体ではなく、復活し永遠に生きている身体を持っておられますので、その身体はわたしたちの目で見ることはできません。神の救いが完成するときに、人は皆、死人の中から復活させられます。そのとき初めて主イエスの姿をわたしたちは自分の目で見ることができるのです。
 それにも拘らず、復活の主イエスは神の力によってわたしたちと出会って下さいます。ご自身のうちに永遠の命を持っておられる救い主として、ご自身が生きておられることの「確かさ」を示されます。それはわたしたち人間を新しく生かす「最も確かな霊的現実」であると言うことができます。
 わたしたちの目に見えないけれども、生ける主イエス・キリストがわたしたちに直面し、わたしたちと出会っておられることを信じるならば、わたしたちは神との「正しい関係」の中に入れられるのです。
 神は御子イエスの十字架の死によって、わたしたちの罪を御前から取り去り、十字架の死によってわたしたち人間のために達成してくださったイエスの義をわたしたちに与えて下さるのです。そしてわたしたちが神の子として、生きるための新しい存在と命とが主イエスの中において、すでに与えて下さっているのです。
 このことを信じるとき、人は誰であっても、神との正しい関係に入れられ、主イエスの中に存在する新しい人間として、言い換えれば神の子たちとしての人生を歩み始めるのです。
 使徒パウロはこの点に関してローマの信徒への手紙10章9節で、このように言っています。
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:9~10)
 しかもその新しい歩みの到着点は、救いの完成した神の国であり、永遠の御国です。このことを信じるとき、心に平安と喜びが沸き起こります。
 「しかし、わたしが再びあなたがたと出会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(16:22)
 神はこの世界と人間の創造者であり、救済者です。これが聖書の示す真の神です。この自然は初めからあったのではありません。神は御自身の目的をもって、人間が神との人格的な交わりの中で永遠に生きる「神の国」を実現するために働いておられる方です。そういう方として神は世界と人間の創造者であり、救済者です。このことが絶対的な真理なのです。人間の知るべき真理はこの真理以外には何もありません。
 それゆえ、キリストの使徒パウロは、弱肉強食、あるいは永劫回帰の中に閉じ込められている自然界の呻きを聞き取っています。しかし彼はそれを悲観せず、肯定的に捉え、自然界が新しい霊的な自然に生まれ変わるための「産みの苦しみ」であると言うのです。
 なぜならば、自然界は人間の始祖であるアダムの堕落によって、虚無に従属するものとなりました。しかしキリストの救いが完成する暁には、人間だけでなく、自然界も神の恵みと栄光を反映する不滅の自然界に変貌する希望が自然界に与えられているからです。これが聖書の信仰であり、聖書の人間観と世界観です。
 このような恵み深い、真理と力の源泉である人格的な神の働きを信じて、神との正しい関係に入れられるとき、わたしたちは今後どのようなことが起ころうとも、自分の人生と存在は「もうこれで大丈夫だ」という確信が与えられます。
 次に、神との正しい関係の中で、神がすでに主イエスの中に備えておられるイエスの義と真理と命を与えて下さり、主イエスに従い、主イエスの命令を実行するとき、わたしたちは主イエスに似る者へと段々と聖化されて行きます。
 また、主イエスとの交わりの中で、自分自身で気が付いている罪の思いと行為を捨て去ることができます。そのとき、わたしたちはこの世の様々な誘惑と悪に打ち勝つことができるのです。
 次に、そうすることにより、わたしたちは友人や社会生活の中で出会う人々と、共に生きることのできるのです。主イエスがわたしたち人間同士の関係の中心に来られ、主イエスの思いが実行さるときに、わたしたちは仲間や相手の人と互いに理解し、相手を人格の尊厳と自由を持つ者として互いに尊敬し合い、協力することができるようになります。
 それゆえ、主イエスを抜きにしては、わたしたち人間は利己的で、自分中心的な考えに捕らわれておりますので、相手と人格的に出会い、お互いに自由であるという幸いを体験することは不可能です。

(3)神の愛の働きのチャンネル
 最後にクリスチャンの幸いは自分たちが神の愛の働きのチャンネルとされることです。
 人間の利己的な愛の働きは、死をもたらします。それは有限であり、虚しいものです。しかし、神の愛は真実であり、永遠であり、価値あるものを造り出す創造的な力を持っています。
 但し、このような神の愛は、決して人間の所有物ではなく、神の賜物であり、人間は神の愛が働くチャンネルとなることによって、神の愛に生かされ、神の愛を実行することができるのです。
 実に愛こそ神の本質であります。ヨハネの手紙一、4章8節は「神は愛である」と言っています。この神の愛は、神の御子イエス・キリストが十字架の死を遂げて下さいましたことの中で永遠に啓示されました。さらに、主イエス・キリストの復活により、聖霊が教会に与えられ、教会に属するクリスチャンに与えられました。
 その聖霊を通して、今や神の愛がクリスチャンの中に働くようになりました。この事実こそ、心の平安であり、わたしたちクリスチャンの尽きることのない喜びと感謝です。



2017-04-30(Sun)

主よ、語りたまえ 2017年4月30日の礼拝メッセージ

主よ、語りたまえ
中山弘隆牧師

 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
サムエル記上3章6~13節


 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
ヨハネによる福音書6章6~13節


(1)神と対面した預言者たち
 今日わたしたちは聖書が神の言葉であると告白していますが、その根拠はどこにあるでしょうか。それは神様が旧約聖書の時代に預言者たちを選び、また新約聖書の時代になって使徒たちを選び、彼らに神の言葉を語られたからです。それだけでなく彼らが聞いた御言葉を民に語れと命じられたからです。
 その御言葉は、先ず神の民の礼拝の中で語られて来ました。さらに他の様々な機会にも神の教えとして語られて来ました。そのようにして神の言葉は、民の信仰生活を導いて来ました。従って、神の言葉は信仰の歴史の中で伝承され、伝承の最後の段階で、聖書の中に保存されるようになったのです。
 特に、旧約聖書は預言者たちの語った言葉だけでなく、信仰生活に関する様々な教え、イスラエルの歴史の記録と解釈、そしてイスラエル文化の記録から構成されています。そのように、旧約聖書の長い歴史を通して多くの預言者が立てられました。従って、預言者たちの召命はそれぞれ異なっています。
 イザヤの場合に、彼は神殿の礼拝に出席していたとき、神殿の奥にある至聖所を垣間見て、神聖と荘厳さの中に存在される神のビジョンを見ました。このため、イザヤは御言葉をもってご自身を現される神を「聖なる神」と呼んでいます。
 預言者エレミヤの場合は、青年エレミヤが神から来る道徳的で、彼の心の中に働く内的な力に促されて、背信の民イスラエルに向かって神の言葉を語る使命が与えられました。
 
(2)サムエルの召命
 一方サムエルの場合には、彼がまだ少年であった頃に預言者として召命を受けました。それまで彼は一度も神の言葉を聞いたことはありませんでしたが、御言葉に仕えるための教育を祭司エリから受けていたのです。もちろんサムエルは幼くても神に対する信仰を持っていました。
 サムエルは信仰の篤い母ハンナによって、乳離れした時から神殿に連れて来られ、祭司エリのもとで、礼拝の務めについて学んでいたのです。神について学び、イスラエルをご自身の民として選ばれた神様の恵みに応答するには、民はどのような生活をしなければならないかを教えられていました。つまり、少年サムエルは、神との人格的な交わりに入るための準備期間を過ごしていたのです。
 ついにその時が来ました。それはサムエルが何歳のときであったかは定かではありませんが、たぶん12歳頃であったと思われます。聖書はこのように語っています。
 「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」(3:3)
 神殿の中に神と民との契約の箱が安置されています。その契約の箱は、イスラエルの神である主ヤーウェの王座と見なされ、特に契約の箱の「蓋」がイスラエルの罪を贖う「贖罪所」と呼ばれ、そこに主が臨在されると信じられていました。
 しかし、神様は人間や他の被造物とは違って、万物の創造者でありますから、自ら欲せられる場所に、どこでもおられ、働いておられる生ける神です。そして、御言葉を通して、神様は直接に人間と関係を造り出し、その関係において人に命を与えられるのです。
 サムエルに神の御声が聞こえてきたのは、至聖所に安置されている契約の箱の蓋、すなわち神が臨在される神の贖罪所からです。彼はたった一人で契約の箱が置いてある部屋に寝ていました。その時刻は神殿を照らす灯がまだ消えない内でしたので、多分夜明けが近づいていた頃でした。
 「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走っていき、『お呼びになったので参りました。』と言った。」(3:4~5)
 このとき、主はサムエルに御言葉をもって呼びかけられましたが、サムエルは自分が主から呼ばれたとは理解できず、日頃から身の回りの世話をしていた年老いた祭司エリが呼んだのだと思いました。祭司エリは目が悪く、殆ど見えない状態でしたので、自分に助けを求めていると思い、急いで彼の部屋に走って来ました。他方、祭司エリの方では、少年サムエルが夢を見て、エリに呼ばれたと勘違いして、自分の所に来たのだと考えて、次のように言いました。
 「わたしは呼んでいない。自分の部屋に戻ってお休みなさい。」(3:6)と優しく諭しました。
 不思議にもこのようなことが三度続けて繰り返されましたので、さすがに祭司エリはようやく事の重大さに気づき、主がサムエルを呼ばれたのに違いないと悟ったのです。そこで、神の言葉に応答する仕方をサムエルに教えました。
 「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております。』と言いなさい。」(3:9)と教えました。
 このようにしてサムエルは神と出会ったのです。その時の様子を聖書は次のように記しています。
 「主は来て、そこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』」(3:10)
 神がサムエルの名を呼ばれたということは、神がサムエルの所に来られ、人格的に出会っておられることを意味します。聖書は主がサムエルのところに来て、そこに立たれた、と説明しています。
 神は天地の創造者であり、創造者として万物を超えた方であります。それゆえ人間の目には見えない方です。同時に、人間の耳にも神の声は聞こえません。なぜなら、神と人間との間には、絶対に越えられない無限の隔たりがあるからです。
 しかし、神は御自身の神としての威力によって、無限の隔たりを超え、人間の心に直接、御言葉を語り、人間と人格的交わりを持つことがおできになる方です。
 また預言者イザヤが見たビジョンは、聖なる神は人間と他の被造を超えた神であり、無限に高い天に住まわれる方でありますが、同時に、天から下って来て、人間の心の中に臨在される方でもありました。従いまして、イザヤ書57:15はこの点を強調しています。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)
 また主イエスもルカによる福音書で仰せになっています。
 「だれでも高ぶる者は、低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)
 聖書はまた次のように言っています。
 「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行なう者はいない。」(詩編53:2)なぜならば、見えない神はもともと存在しないのだと高慢な不信仰な人間は考えるからです。しかし、神様はご自身の力によって、人間の心の中に住み、臨在し、人格的に出会われることがおできになります。そのとき神は御言葉によって、人の心に直接語られます。
 それは最早否定することのできない確かさで、人間の心にはっきりと分かります。サムエルの場合、神が語られる言葉があまりにも彼の心に明らかでしたので、祭司エリが呼びかけていると勘違いしたほど直接的に分かったのです。
 このように人間と出会い人格的な交わりを与えられる神は、そこにおいて人間が信仰をもって応答することを要求されます。サムエルは祭司エリから教えられた通りに、神の呼びかけに答えて、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(3:10)と言いました。
 そのとき、神様はこれから祭司エリとイスラエルの民全体に下そうとしておられる神の審判を語られたのです。
 次に、サムエルは自分に語られた神の言葉が祭司エリの二人の息子に対する審判でしたので、それを祭司エリに語るのを恐れていました。しかしエリはサムエルに隠さずに語るよう要請しました。
 エリはこのとき既にサムエルに語られた神の言葉を信じようと心で決めていました。それゆえ、神の御言葉が自分の二人の息子たちに対する審判であっても、謙遜に受け入れたのです。次のように告白しております。
 「それを話されたのは主だ。主が御目に適うとおりに行われるように。」(3:18)
 ここに祭司エリの神に対する従順と信仰者としての高貴さが現されています。彼は神に背いている自分の二人の息子を今までに何度も訓戒してきましたが、祭司としての務めを忠実に果たすようにすることはできませんでした。息子たちが余りにも悪過ぎたからです。しかし神の審判に謙遜に服従するというエリの信仰は本物です。
 なぜなら、神が審判において、ご自身の正しさを貫徹されることによって、審判の向こう側に必ず人間の救いがあるのです。このことを信じるのが聖書の信仰の特徴であるからです。

(3)御言葉を聞く姿勢
 次にわたしたちが心に留めなければならない点は、神はサムエルに呼びかけ、神の言葉を語らうと計画しておられましたが、そのためにはサムエルの側で答える態度を取る必要があったということです。そのために訓練の一定の期間を過ごさなければならなかったのです。この点わたしたちの場合も同じです。
 人は教会に来て礼拝に参加しなければ、神の言葉を聞くことはできません。しかし教会に行っても自分の願っていることが何も得られないので、自分はもう教会に行くのを止めようと思う人が多くいます。それはまだ神と出会っていないので、神との交わりの中で自分の人生を生きることの幸いがまだ分っていないからです。
 それゆえ神の言葉を聞き、それに応答することが分かるためには、或る期間に予備的な体験を経なければなりません。偉大な音楽を理解するためには、長い期間に音楽を学び、音楽の素晴らしさを体験する必要があります。
 信仰の場合にも、神の言葉を聞くためには、礼拝を続けて守っていますと、そのあいだに神の恵みを体験し、いつの間にか神の言葉を聞く態度が身に着くようになります。
 サムエルの場合には、神様がサムエルの名前を呼ばれました。この聖書の記事を読んだ人は、もし神様が自分の名前を呼んでくださるならば、神様と対面していることが分かるのだろうと想像するかもしれません。
 しかし、わたしたちの場合は、自分の名前を呼ばれなくても、神様は自分のことを全部知っておられると思うとき、それは自分の名前を呼ばれていることと同じなのです。
 人は孤独の中で悩んでいるとき、本当に自分を理解してくれる人がいたらどれほど慰められるだろうかと想像するのですが、神様はわたしたちを一番よく理解しておられる方なのです。このことに気づくとき、わたしたちは信仰に近づいています。
 神様が主イエスを通して、わたしたちに直面しておられるという霊的な現実が、わたしたちが自分の人生を生きる上で、一番頼りになる現実であるということに気づくのが信仰なのです。
 この神の確かさをわたしたちの心に認識させる方は、聖霊なる神なのです。さらに聖霊の働きはわたしたちに信仰を与え、わたしたちが信仰を持って神の言葉を聞き、信仰を持って神に従うようにするのです。つまり、主イエスを通して、わたしたちは神の御前に正しい者とされ、神との人格的交わりに入れられて、御心を自発的に行い、感謝と喜びの新しい命に生きることができるのです。
 神様は主イエスを通して、わたしたちに日々「汝よ」と呼び掛けて下さります。「はい、僕はここにおります。主よ、お語り下さい」と応答するときに、わたしたちは御言葉を聞き、御心を実行することによって、共に神の御前生きるのです。
 このことこそ、わたしたちに与えられた人生の意味であり、神の大いなる恵みであります。



2017-04-23(Sun)

新しい人間として 2017年4月23日の礼拝メッセージ

新しい人間として
中山弘隆牧師

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書36章25~27節 


 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章1~10節


(1)神の愛の対象としての人間
 本日の聖書の箇所を通して、わたしたちは神がわたしたち人間に対していかに深い愛と大きな恵みをもって、行動し、判決を下し、人間が神の御前に、神と共に生きる道を備えてくださったかを改めて知らされたいと願います。そして全身全霊をもって神の恵みに応答する者でありたいと思います。
 ところで、人間は他の被造物とは異なり、自分自身が何であるかを知ることのできる唯一の被造物です。この点で、人間は「神の似姿」に創造されたと聖書は言っています。
 「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)
 しかし、人間は自己中心的な生き方をしたために、神を見失い、自分の中にあった神の性質に似た面が失われ、闇と孤独の中をさ迷っています。その結果、人は誰も自分を認めてくれない、温かく接してくれない。自分は見捨てられた人間で、何の価値もないのだと思い詰めるようになり、自殺したいと思う危機に直面します。
 それでも、このような危険性は、神様の目から見れば、特別の人だけではなく、すべての人が持っています。それゆえ人間に対する神様の愛は絶対的愛であり、罪人を愛する贖罪愛です。孤独の辛さに耐えられなくなっている者と出会い、受け入れ、愛し、神の御前に生きる道を主イエス・キリストを通して、与えられています。
 このことが分かりますと、わたしたちは互いに善い点も、欠点もある有りのままの人間として、相手を互いに認め尊重し、共に生きることが可能となります。自分も他の人々も共に、神様から愛されていると思うこの一点により、心に平安と希望が与えられるのです。
 また、この平安と希望こそ自分の全生涯を支えるのです。エフェソの信徒への手紙1章4~5節で、神様は人間に対する永遠の目的を主イエス・キリストの救いを通して啓示されたと言っています。
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛し、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(1:4~5)
 人は生まれる前から両親や家族に期待され、喜ばれて誕生します。それに比べますと、神様はこの世界と人間について、創造以前から、人間を愛し、御心に適う人間となることを意図し、その目的を実現するため、働いて来られたのです。従いまして、この世界に人間が出現したと言うそのこと自体が、人間は神様から愛されていると言う証拠なのです。
 しかも、神様が人間を愛された目的は、人間をイエス・キリストによって、神の子たちにすることでした。ところで、ここで人間を「神の子」とするということは、人間がイエス・キリストのような神となるのではありません。そうではなく、人間は神とは異なり、あくまでも人間です。しかし人間でありながら、神の性質を映し出した人間となる、と言うのです。ここで神様はわたしたち人間を御心に適う「聖なる人間」にしようと欲し、かつイエス・キリストにおいて、そのようになるこことを既に、決定されたのだと聖書は言っています。
 但し、このような認識は主イエスの救いの光の中で、過去を振り返り、世界と人類創造の原点に立ち帰ることにより分るのです。
 要するに、創造の当初から神様の目的は、人間を罪と汚れのない御心に適う人間すなわち「聖なる人間」とし、ご自身との交わりの相手とされることであったと、言うことが分かります。

(2)神との和解
 次に、そのような神の愛と永遠の目的による人類の救いは、神の御子イエス・キリスト、すなわち真の神であり、真の人間である方を通して実現した神との和解の中で、現実的に開始しています。但し、神の設定された永遠の目的は、この世界の秩序が永遠の秩序へ変貌する終末になって実現するのです。それでも、実質的な面から見れば、神の救いは今や人間に与えられた「神との和解」により、この歴史の中で、開始し、前進し、霊的な実を結びつつあります。 
 この点、エフェソの信徒への手紙2章16節は語っています。
 「(キリストは)十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(2:16)
 この聖句はイエス・キリストが人類を神と和解させられたことにより、人類の中で最も深刻に対立していたユダヤ人と異邦人とが和解し、両者が共に神の民すなわち「クリスチャン」とされたことを強調しています。
 この発言は、救いの歴史に関係しています。すなわち、救いの歴史は旧約聖書の時代に始まり、新約聖書の時代に成就しました。つまり神と民との関係について言えば、旧約聖書の時代は律法による古い契約に基づく関係であり、それは神とユダヤ人の関係でした。新約聖書の時代はキリストによる「神と人類との和解」に基づく新しい契約の関係であり、それは「神とキリスト教会」の関係です。
 それゆえ、聖書は異邦人であるギリシャ人に対して、2章13節で次のように言っています。
 「あなたがたは、以前は(神から)遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって(神に)近い者となったのです。」(2:13)
 これは、キリストの十字架の死と復活を通して、人間が神と和解させて頂いたことにより、キリストを信じるとき、だれでも「神との人格的な交わり」の中で生きることを意味しています。それゆえ「神に近い者」とは神を礼拝し、神と出会い、神の恵みの中で、神に従う新しい生き方をしている者たちです。
 他方、イエス・キリストの十字架と復活による罪の贖いは、ユダヤ人と異邦人の両方に対して有効です。それゆえ、ユダヤ人もイエス・キリストを信じることにより、神と和解させられたのです。そういう意味で、今やユダヤ人と異邦人との区別は神の御前では、撤回されていると言うのです。

(3)死から命へ
 次に、聖書はキリストによって人間に与えられた神との和解の内容を「死から命への移行」という視点から語っています。
 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。--(2節省略)わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(2:1~3)
 ここで使徒パウロは自分がユダヤ人であるので、ユダヤ人のクリスチャンについて、「わたしたち」と言っています。それに対して異邦人のクリスチャンについて「あなたがた」といっています。
 それにしても、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャンもイエス・キリストを信じる前は、共に「神の怒り」の対象でありました。神の怒りとは神の愛の反作用で、焼き尽くす愛の火を意味しています。それは神との交わりから締め出された状態です。人間は自己中心的で高慢な者となったため、神との交わりを失い、自分の欲望のままに振る舞い、さまよっている状態を意味しています。
 これは人間の「肉体的な死」ではなく、「精神的な死」を意味しています。言い換えれば「利己的な思いに従って」行動することです。因みに、パウロが言う「肉」とは肉体ではなく、「神に反する人間の思いと振る舞い」を意味しています。悪い考えと行動です。
 しかし、救いは人間の中から来たのではなく、神の方から与えられました。実に神が主イエスの十字架の死と復活によって、人間の罪を贖い、人類を神と和解させられたことがその救いなのです。
 エフェソ人への手紙は2章4~5節でこのように言っています。
 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かれました。―あなたがたが救われたのは恵みによるのです-。」(2:4~5)
 御子イエス・キリストが「神・人」として、人類と連帯化し、人類の罪を負い、人類に代わって神の裁きを受けられ、御子イエスにおいて人類に対する神の裁きが完全に執行されました。その結果、神の御前で人間の罪は取り去られました。さらに、ご自身の真理と義を貫徹される神の裁きに対して、死に至るまで従順であった御子イエス・キリストによって、神の御前に生きる人間の義と聖と命が達成されました。
 その結果、神は御子イエス・キリストを復活させ、天地万物の主とされました。同時に神は御前に生きる「新しい人間の存在」を主イエス・キリストの中に創造し、「保存」されているのです。新しい人間とは、つまり主イエスの義と聖と命を与えられた人間です。
 なお留意すべき点は、イエス・キリストの十字架の死によって、確かに神の御前でわたしたちの罪は取り去られていますが、生まれながらのわたしたちの中には依然として罪が残っているという現実です。それにも拘らず、神はイエス・キリストの中でわたしたちを既に新しい人間として創造されましたので、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストに結ばれて、新しく生きることができるのです。これこそ神の与えられた和解の特徴です。
 その結果、主イエスを信じる者は、罪に束縛され死と滅びに向かって歩んでいた道から、方向転換をして神の御前に帰る道を歩むのです。これこそ正に神との和解の中で生きる人生の意味です。
 神様はこのようにわたしたちを愛していてくださいます。それゆえ、これまでのことを総括しますと、わたしたちがこの神の愛に答えて、神の命令に従うとき、わたしたちは主の命に生かされ、神の御前で生きているのです。これこそ、「死から命へ」移されていると言うことに他なりません。
 最後に、わたしたちクリスチャンにとりまして、主イエス・キリストは、他の何人にも比較できないほど、わたしたち自身に近い方、親密な方です。主は罪深いわたしたちを常に赦し、日々わたしたちと出会い、常に交わりを与えて下さっています。
 しかも主イエスが常に示されるわたしたちへの親密さは、わたしたちの新しい存在が主イエスの中に与えられ、保存されていると言う存在的な関係から由来するものです。このことこそ、わたしたちが主に愛されていることの根拠です。
 同時に、主イエスはわたしたちと全く異質であり、わたしたち人間とは絶対的に異なる方です。主イエスは神です。しかも今や復活し、神の右の座に着き、父なる神と等しい主権を行使しておられる神です。このことに対して、わたしたちは常に畏敬の念を覚える、畏れ多い方です。
 しかし正に神の力と働きによって、今や主はわたしたちの人格と行為の中に臨在し、働き、ご自身の働きとわたしたちの働きを結び合わせ、わたしたちを導き、わたしたちが主の命令を実行するようにしておられるのです。
 この神としての主イエスの働きこそ、わたしたちの救いの根拠であります。またわたしたちの確信です。このことが分かり、わたしたちは心を尽くし、力を尽くし、すべてを献げて、主に従うときに、それが極めて不十分であり、部分的であっても、ともかく実行できるのです。このことを体験するときに、わたしたちは神の御前に、主の復活の命で生かされていることが分かります。
 また、わたしたちが兄弟と隣人を愛すると言いましても、自分の力で愛するのではありません。主イエス・キリストと通して現わされた神の愛が、聖霊によって、わたしたちの中に働くから可能です。
 これらすべては神が主イエス・キリストによって備えられているのです。最後に2章10節の御言葉を読みます。
 「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです。」(2:10)



2017-04-16(Sun)

復活の主と出会う 2017年4月16日イースター礼拝メッセージ

復活の主と出会う
中山弘隆牧師

 ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
士師記6章19~24節


 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書28章16~20節


(1)イースターを迎えるに当たって
 本日、わたしたちは主イエス・キリストが人類の罪の贖いのために十字架について死なれ、三日目に復活されたイースターの日を覚えて、礼拝を守っています。
 イースターは実に人類の歴史の分水嶺と呼ぶべき偉大な出来事です。イースターの出来事は、それ以来人類の歴史の中に、神についての無知を霊的な洞察へと、この世的な野心を真実な兄弟愛へと、死に対する不安を復活の希望へと、臆病を勇気へと変革する霊的力を注いできました。
 主イエスは十字架の死と言う恥と苦難を受けられたにもかかわらず救い主であると言うのではなく、正に十字架の死を遂げられたからこそ、人類の救い主なのです。なぜならば、主イエスの十字架の死によって、人類の罪が贖われ、罪人である者たちが神の御前に出て、神を仰ぎ、神に従う新しい道が開かれたからです。
 それにしても、主イエスの十字架の死と復活は不可分離に結びついています。なぜなら十字架について死なれたイエスが復活されなかったとすれば、十字架の死によって主イエスが達成された人類の救いは、働かなくなってしまうからです。神の愛をもって人間を愛し、教えと行動とご自身の人格を通して、強烈な感化を弟子たちに与えられた主イエスでも、復活されなかったとすれば、その影響は今日までは及ぶことはありません。
 実に、十字架によって達成された主イエスの救いは、今や復活の主イエスを通して有効に働いているのです。
 今から約150年前、英国で活躍したプロテスタントの有名な伝道者で神学者のデイルは、イースターの前夜、礼拝の説教の準備をしながら、部屋の中を歩きながら思索していました。突然彼は足を止め、「キリストは生きている。キリストは生きて働いている。キリストは生きている。」と叫びました。このようにして、彼は復活のキリストと出会ったのです。

(2)空虚な墓
 本日の聖書の箇所はイースターの早朝に何が起こったのかを知らせています。
 「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」(28:1)
 ここで安息日とはユダヤ教で言う安息日であり、土曜日のことです。そして週の初めの日とは、日曜日のことです。但し、キリスト教ではキリストが復活された日曜日を安息日と呼んでいます。
 マリアと呼ばれている二人の女性は、日曜日の朝まだ日が昇らない暗いうちに、イエスを慕う熱い思いから、せめてもイエスの死体のそばにいることによって、イエスを失った精神的苦痛を癒されたいと願い、墓に来ました。そのとき、彼女らの思いを根底から揺り動かす激震に見舞わたのです。激震とは地震の大きな揺れではなく、むしろ墓の中に横たえられていたイエスの死体がもうそこにはなかったと言う現実です。
 イエスの死体がもう墓の中に無いという現実は、過去との大きな断絶を意味します。わたしたちはこれまで慣れ親しんでいた物事は、今自分たちが直面している新しい状況には、もはや通用しないと言う驚きと恐れです。
 「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活されたのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』(28:6)
 このようにイエスの墓は空虚になっていたのです。しかし、それだけではイエスがどこにおられるのかと言う積極的な答えにはなりません。それゆえ、天使は復活に関する積極的なメッセージを知らせ、次のように命じました。
 「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(28:7)
 ここで、天使が告げた言葉は、イエスが復活されたという事実を知るために、生けるイエスを「見る」ことを、弟子たちに約束したのです。

(3)世界万民の主であるイエス
 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(28:16~17)
 この時、弟子たちはイエスに出会ったのです。イエスを「見た」のです。復活のイエスの証人たちは皆イエスを見た人たちです。しかし、そこでイエスの身体は以前の肉的な身体ではなく、霊的身体でした。それでも明らかに身体をもっておられましたので、復活されたイエスは三日前まで自分たちが良く知っていたお方であることが分かりました。
 このことはイエスの復活において非常に重要な点です。なぜならば、彼女たちが出会ったイエスが体を持っていないとすれば、それは単なる幻に過ぎないからです。復活のイエスが霊的な身体を持っておられたからこそ、そこにイエスの人格の実体があり、復活された方は、地上におられたあのイエスと同一人格であることが分かったのです。
 他方、今やイエスが持っておられる身体は霊的な身体であり、これまでの身体とは根本的に変わっていました。実にそこにイエスを死人の中から復活させられた父なる神の絶大な力が現われているのです。実にこの世界と人間とを再創造する神の力が現れたのです。それゆえに、復活の主イエスは最早死ぬことはなく、永遠に生きて働いておられます。肉的身体はいつまでも生きることはできません。
 同様にわたしたちも救われて神様の御前に永遠に生きるようになるために、終わりの時に主イエスが再臨され、わたしたちも復活し、霊的身体が与えられます。
 そのような人智を超えた恵みの根拠と保証はイエスが復活され、霊的身体を持っておられると言う事実なのです。
 しかし、イエスの身に起こった出来事は、それだけではありません。同時に復活のイエスは今や「神」としての権威と力を発揮しておられます。確かに、地上で救い主の使命を果たされたイエスは、単なる人間ではなく、神の御子でありました。言い換えればイエスは神であったのです。
 但し、地上におられたイエスはその神の力を制限して、人間の働きの中で、父なる神の性質を示し、父なる神の意志に従って、語り、行動されましたので、イエスを通して罪の赦しと霊的な生命が働いていたのです。それにしても、イエスの行動はあくまでも人間としての制限の中にありました。
 今や、神の御子イエスは十字架の死によって人類の罪を贖うために必要な死を全うされましたので、すなわち死に至るまで父なる神の意志に従順であったことにより、父なる神と等しい権限がイエスに与えられました。それゆえ今やイエスは全能の神として臨在し、働き、救いの業の前進のため、神の国の支配者となられたのです。
 従いまして、弟子たちは神として働いておられるイエスの御前にひれ伏しました。この点がイースターにおいて生起した全く新しい状況です。イースター以前には、弟子たちはイエスに助けを求めましたが、イエスに祈ったことはありませんでした。イエスを先生と呼んでいましたが、イエスを主と呼ぶことはなかったのです。
 主とは旧約聖書の時代に唯一の神に対する呼び名でした。今や御子イエスは父なる神とその権限と働きにおいて、全く等しい方となられましたので、主イエス・キリストと呼ばれています。それゆえ弟子たちは主イエス・キリストを礼拝したのです。
 ところで、イエスは地上で生活し、神の国の福音を宣教されましたときにイエスの働きと人格の中で、イエスの人間性が前面に出ていましたが、それでもイエスの言葉と行為の中に、神の権限と力が働いていました。それゆえ、イエスは人間であり、同時に隠れた神であったのです。
 今やその関係が逆転し、復活されたイエスの働きの中では、イエスが神であることが前面に出ています。それでもイエスが霊的身体を持っておられることが示しているように、イエスは隠れた人間であり、同時に神なのです。
 ここで注目すべきことは、聖書が復活の主イエスを見ても「疑う者がいた」と言っている点です。それはイエスの復活の身体は弟子たちが慣れ親しんでいたこれまでの肉的身体とは別種類の身体であるからでしょう。しかしそれだけではありません。今や主イエスは神として弟子たちに出会っておられるからです。
 それゆえ神である主イエスに出会うためには、主イエスに対する信仰が必要なのです。
 「イエスは近寄ってきて、言われた。『わたしは天と地の一切の権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことすべてを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』(28:18~20)
 このように使徒たちは皆、主イエスの復活を信じた人たちです。

(4)同伴者
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と復活の主イエスは仰せられます。
 ここで主イエスは「わたしは」と特に強調した言い方をされています。そして「いつも」あなたがたと共にいる、と約束されました。この「いつも」とは「すべての日々に」と言う意味です。
 わたしたちが過ごしています日々の中で、その一日が何をもたらすかをわたしたちはあらかじめ予想することはできません。信仰的な確信に満ちた日、失敗して悲しむ日、子どもの誕生が喜びをもたらす日、親しい人の死が悲痛を与える日、平和の日、戦争の日、生活が歌となる日、絶望が濃い霧のようにわたしたちを覆う日もあるでしょう。しかし、これらすべての日々に、主イエスはわたしたちと共におられるのです。
 さらに、「わたしは常に共にいる」と言う主イエスの約束は、復活の主イエスが神としての全能の力によって、わたしたちと共におられることです。わたしたちを超越して、わたしたちの上におられ、わたしたちを貫いて働き、わたしたちの中に住んでおられるのです。 そのような主イエスとわたしたちは結ばれて、主イエスの義と命を受け、主イエスの命令を実行し、神の御前に日々生きているのです。さらにわたしたちの救いは主イエスの中に保存されています。
 旧約聖書の時代の信仰者の拠り所は、神は真に生きて働いておられると言う確信でありました。新約聖書のクリスチャンにとっての拠り所は、主イエスは本当に生きて働いておられると言う確信です。それだけでなく、実にわたしたちの救いは主イエスの中に保存されていると言う確信です。
 それゆえ、主イエスはすべての人々に次のように仰せになっているのです。「わたしを信じて、洗礼を受け、わたしが命じたすべてのことを守りなさい。」
 なぜならば、主イエスのこの命令に聞き従い、実行することにより、すべての人々は主イエスと結ばれ、神の御前に生きる新しい人生を歩むことができるのです。具体的に説明すれば、わたしたちは自分のすべてのことにおいて、主イエスに信頼し、主イエスに祈り、主イエスの御心を知り、自分の思いではなく、主イエスの御心が実現することを第一の願いとし、主イエスに従うこと、このことによって、主イエスが共にいますことが分かるのです。これほど大きな幸いはありません。
 それゆえ、クリスチャンは集まるときに常に神を賛美するのです。賛美することによって、主イエスの究極的な勝利を共に喜ぶのです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

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定例集会案内
●主日礼拝
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