2018-01-14(Sun)

主の二つの命令 2018年1月14日の礼拝メッセージ

主の二つの命令
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記6章4~5節

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


(1)律法についての論争
 主イエスの宣教の内容は、神の国でありましたが、神の国とは神が恵み深い唯一の主であることを信じ、神に従う者たちの中に存在するのです。
 ここに主イエスの宣教の一つのエビソードとして、或る律法学者がイエスに教えを乞うたと、本日の聖書の箇所は伝えています。
 イエスは民衆や弟子たちに神の国について教えられましたが、他方ユダヤ教の指導者たちと議論されました。所で律法学者と一概に言いましても、それぞれの学派があり、主張する内容は様々でした。それぞれの派が自分たちの信仰生活の拠り所としている重要事項を掲げ、他の派と激しく争っていたのです。彼らは極めて切実な問題を携えてきて、イエスに議論を挑みました。
 しかしイエスはどのような学派の問題に対しても、適切な答えを与えられました。それゆえファリサイ派の一人の学者は非常に強い感銘を受けたのです。マルコによる福音書12章28節はその状況を説明しています。
 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」
 そこで、次のように質問しました。「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか。」(12:28)
 聖書では、人間に対する神の意志あるいは命令を掟と言います。掟とは「定め」のことであり、神の掟は旧約聖書の中で、大きく分類しますと、礼拝や祭儀に関する律法と道徳や社会生活に関する律法です。それらは全部で613個あると言われています。
 律法学者たちの公式見解は、613個の律法のすべてが同じように重要であると言うのですが、預言者的な考えをする学派もあり、613個の律法の中で、重要なものとそうでないものとを区別し、どの律法が最も重要であるかが、盛んに議論されていました。この律法学者は自分の最大の関心事について、イエスの考えを尋ねたのです。イエスの答えはこれです。
 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29~31)
 ここで、イエスが引用された第一の戒めの聖句は、申命記6章4~5節です。第二の戒めの聖句は、レビ記19章18節です。
 イエスが最も重要とされた「神と隣人」を愛せよというこの二つの律法のように、人間に畏敬の念と完全な従順とを要求する律法は他に存在しない、と宣言されました。この二つの掟こそ、神の命令である。これらの律法は補足するためにいかなる他の律法も必要としない。この二で互いに補完していると言われたのです。イエスのこの明確な発言と権威ある態度を見て、この律法学者は心から共感しました。
 12章32~33節で、次のように自分の意見を述べました。
 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』と言うことは、どんな焼き尽くす献げ物や生け贄よりも優れています。」
 この答えを聞いて、イエスは仰せになりました。「あなたは、神の国から遠くない。」(12:34)
 なぜならば、神の国に入り、そこで生きるというは、神の命令を受け入れ、命令に従順であることに他ならないからです。この律法学者は二つの律法を神の最大命令とするイエスの律法理解に賛成し、それに従って生きることを自分でも望んでいましたから、彼は神の国から遠くないと言われたのです。
 しかし神の国に入るためには、神に選ばれた旧約の民イスラエルにとって、今なお解決されなければならない重大問題がありました。イエスからあなたは神の国から遠くないと言われたこの律法学者は、確かに、社会生活に関する倫理的律法を重視する預言者的考え方を持っていました。他方、神殿で動物の犠牲の供え物をする礼拝は、儀式的面での律法に違反する罪を贖うために定められているだけで、倫理的律法に違反する罪を贖う効力はなかったのです。
 それゆえこの律法学者は、神殿での儀式を定めた律法は道徳的面での律法と比べるとその重要性は劣っていると、考えていたのでしょう。
 しかしそこには解決すべき重大な問題が未解決でした。それは道徳的面での律法を守るために、悪い人間が果たして正しい行いができるかと言う問題です。
 それに対するユダヤ教の教えは良いことをすれば、悪い人間が良い人間になると言うのです。これがユダヤ教の基本理念です。それでは、ユダヤ教の基本理念をさらに詳しく説明すればどうでしょうか。元々人間は悪い傾向を持っているから、神の権威のもとで正しい行いと悪い行いを律法によって規定し、勧善懲悪の思想を取り入れ、神の祝福と裁きを定めるならば、人間は悪い行いをしなくなり正しい行いをするようになる。その結果、次第に正しい人間になるという人間観です。
 つまり、神的権威とそれに基づく社会的制裁という言わば外からの圧力によって、良いことを行うように強制すれば、人間は正しい人間になることができるという考え方です。
 このことは社会改良や公衆道徳向上に対しては、ある程度効果があります。町を美化するために、ごみ、煙草の吸い殻などを通りに捨てた人は罰金を科せられるという市の条例を作れば効果があるでしょう。         
 
(2)神の国
 それに対して、イエスの人間観は全く異なります。神の命令である二つの掟を守るためには、罪人である悪人が、内的に質的に変えられ、神を信じ、神に従う正しい人間となることが一番初めに必要である。従って、正しい者が神の二つの掟を守ることができると言う見方です。
 イエスは神の律法について教えられた山上の説教の締めくくりの部分で次のように仰せになりました。マタイによる福音書7章17~18節の御言葉です。
 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」
 従って、神に選ばれても、二つの根本的な神の命令を実行しない頑なで、罪深い民の罪を贖い、神を知り、心から神に従う新しい民とすることが、神国到来のために必要な最大課題です。実に、神の御子イエスの使命はこの課題を果たすことでした。神の国とは、人間一人一人が神との人格的な交わりに入れられて、神の御前に生きる国です。
 そのために、神の永遠の御子が人間となられた「御子イエス」において、神は人間にご自身を究極的に啓示されたのです。御子イエスを見ることにより、人は父なる神ご自身を見ることができるのです。イエスの言葉、行動、性質を見て、神ご自身を知ることができるのです。
 さらに、罪のない御子イエスが、人間の罪を担い、人類のために、人類に代わって、罪に対する神の裁きを受け、十字架の死に至るまで父なる神の裁きに従順であることにより、わたしたちの罪は御子イエスの死によって贖われたのです。因みに、聖書の言う「贖い」という専門用語は罪を犯した者は、その結果罪の力に束縛されるので、そこから罪人を解放すると言う意味です。わたしたち人間を奴隷としている罪の束縛から解放し、罪の誘惑に打ち勝つ力を与えることです。
 言い換えれば、わたしたちの罪は御子イエスの十字架の死による贖いにより、御子イエスの中で、神の御前に取り除かれたのです。その結果、父なる神は御子イエスを復活させ、天地万物の支配者とされました。今や、主イエスの支配の中で、主イエスの義がすべての人間に与えられたのです。
 その結果わたしたちは主イエスの中で既に、「神の子たち」と呼ばれる新しい人間とされました。このことを信じるとき人は新しい人間として生きることができます。言い換えれば悪人が善人になったのです。

(3)神の子たち
 要するに、主イエスを信じる者は、だれでも日毎に自分の罪を赦され、聖なる恵み深い神様との人格的な交わりの中に入れられ、神の御前に生きるのです。この者たちが神の国の民です。
 言い換えれば神の子供と呼ばれる者たちです。主イエスは本来神の御子でありますが、御子イエスの贖いにより、わたしたちは御子イエスの義と命を与えられたことにより、神の子たちとされたのです。
 それに対して、主イエスは唯一の神の御子です。ヨハネによる福音書は主イエスを「神の独り子」と呼んでいます(ヨハネ3:16)。
 他方、わたしたちクリスチャンは主イエスを信じることにより、主イエスの義と復活の生命を与えられた者として、神様との人格的な交わりを与えられ、御前に生きるようにされました。その結果、神の子たちと呼ばれるのです。
 しかしそこにはわたしたちの越えられない一線があります。わたしたちは御子イエスの性質を映し出す者として神の子供たちとされたのですが、あくまでも人間であり、御子イエスのように神ではありません。なぜならば、人間が神になることは絶対にないからです。このような次第で、わたしたちは神の子供たちと呼ばれる新しい人間として、神の御前に生きることができるのです。
 それゆえ、主イエスが「すべての良い木は良い実を結ぶ」と仰せられるように、わたしたちは主イエスとの人格的な交わりの中で、神様の命令を実行することができます。
 具体的に言えば、二つあります。一つは神様が律法によって、禁じておられる「悪い思いと悪い行為」を捨てること。これが神の命令に従うことの第一です。一つはより積極的な命令です。すなわち、神様が律法によって、実行しなさいと命じておられる「良い思いと良い行い」を実行することです。
     
(4)神を愛する
 それでは最後に、神を愛するとはどういうことでしょうか。
 第一にそれは、わたしたちが神に求め、神に祈るということです。失われていた罪人を捜し出し、見つけ、出会ってくださった主に、わたしたちと日々出会ってくださるように祈り求めることです。言い換えれば、主イエスがわたしたちの中に働いて下さることを求めるのです。同時に神が主イエスにおいて与えて下さること以外には何も求めないのです。自分の栄光を求めずひたすら神の栄光を賛美するのです。
 そうすることによって、わたしたちの中で神として働き、わたしたちを導いておられる主イエスの思いと働きを、わたしたちの思いと行為の中で、追体験し、主イエスの恵みを悟るのです。そして神の御名を賛美するのです。
 第二に隣人を愛し、隣人と共に歩み、お互いに信仰者として成長することを喜ぶのです。また隣人の必要としていることを喜んで助けるのです。愛は、自ら進んで労苦を担い、忍耐して良い業を行うのです。
 この積極的行為も主イエスにあって既に与えられている主イエスの義と復活の生命を使用することにより可能です。隣人を愛することを通して神に従い、わたしたちは神を愛するのです。わたしたち人間が神様を愛するとは神に従い神の命令を実行することそれ自体です。

 本日の讃美歌459番4節は次のように主イエスの導きを賛美しています。
 「主よ、いつくしみを 我らに満たし、 今より御旨を なさしめたまえ。我らをあわれむ 御恵みふかし、我らは主のもの、ただ主を愛す。」
 また讃美歌484番4節も次のように賛美しています。
 「わが君イエスよ、われをきよめて、良き働きを なさしめたまえ。
  わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」
 このようにクリスチャンは、主イエスに愛され、主イエスが自分たちの中に働かれるので、自分たちも主イエスを愛し、主の命令を喜んで行い、愛の労苦を通して、良き働きをするのです。しかも自分たちの働きはすべて主の恵みによることを知り、神を賛美するのです。



2018-01-07(Sun)

真の新しさ 2018年1月7日の礼拝メッセージ

真の新しさ
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。海の中に道を通し/恐るべき水の中に通路を開かれた方/戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し/彼らを倒して再び立つことを許さず/灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。
イザヤ書43章16~20節


 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
コリントの信徒への手紙二 5章16~19節


(1)神の御前に生きる意味
 今日のわたしたちはグローバルな世界で、科学技術の進歩の速い世の中に生きています。この世は日進月歩の状態です。この時代の流れに乗っている企業は莫大な利益を得、また株価も最高の値段をつけて、新年を迎えました。他方一般の人たちの生活は景気の恩恵に与らず、好景気であると言われてもその実感はありません。このような貧富の格差が拡大する世の中で、生活に追い詰められ自殺する人々が増加しています。通勤者が利用している各地の交通機関では、毎日のように人身事故が発生しています。
 わたしたちは新年を迎えるに当たって、このような社会状況を考えますと、人は豊かさを求めて、新しい生き方をしていますが、それは人間を生かす「真の新しさ」ではないと思わざるを得ません。
 多くの新しい生き方が出現し、またすぐに過去の出来事となってしまう世の中では、人間を真に生かす普遍的な価値観がないと痛感させられます。産業、生活、政治、教育、文化のすべての方面で、人間としての共通の価値観が欠如していると思います。
 それでは真の価値はどこにあるのでしょうか。人間と世界とは、神がその創造者であり、救済者であるゆえに、生きる真の意味と価値は人間が神の御前に生きるということです。それでは人間はどのように神の御前に生きられるのでしょうか。
 実に、それはクリスマスの出来事の中にあります。つまり、神が人間と世界を愛して、神の愛する独り子を与えられたことによるのです。神が御子をこの世界に遣し、御子を通してご自身を人間に「完全」に示して下さいました。わたしたちは「御子を見る」ことによって、神を具体的に知ることができようになったのです。
 しかも神は御子の十字架の死によって人類の罪を取り去り、罪の力を打ち破り、同時に御子イエスの復活により、御子イエスの中で「人間の救い」を達成されました。このことが最終的な救いの「根拠」です。実にこの根拠によって、復活の主イエスの支配の中で、わたしたちは神の御前に生きることができるのです。
 具体的に言えば、主イエスにより救いの完成に導かれている過程の中で、日々新しく生きるのです。

(2)主イエス・キリストにあって
 それでは、神の御前にわたしたちはどのようにして生きることができるのでしょうか。それは三つの方法によってです。
 第一に、神は人間の救いに関して、先行する恵みを以て行動し、キリストの中で神の御前に生きる「新しい人」を創造されました。
 このことが救いの根拠です。

 コリントの信徒への手紙はこの点を証言しています。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント二、5:17)
 ここで「キリストと結ばれる人」とは、ギリシャ語の本文では「エン クリストー」と言います。これは「キリストにあって」と言う意味です。キリストの中でわたしたちは新しい人間とされたのです。
 第二に、この人智を超えた神の恵みを、神様は福音の言葉によって人に知らせ、神の恵みを信じるようにされました。
 神の救いを知らせる神の言葉を「キリストの福音」と言います。またそれは「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1:1)です。
 第三に、この福音を語るように神が遣わされた人たちが「キリストの使徒たち」です。
 神様は御子イエスの地上の生涯と十字架の死と復活と言う神の救いの「一連の啓示」を通して、「キリストの福音」を語られました。最初に神からキリストの福音を知らされた人たちが使徒たちです。神様は使徒たちに福音の宣教を命じられました。
 従って、わたしたちは使徒たちが語る福音を聞いて信じるとき、神の御前に生きる新しい人間と「なる」のです。
 ここで使徒パウロは「神の子イエス・キリストの福音」を「和解の言葉」と言っています。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(コリント二、5:18)、と言っています。神に反抗する自分の罪によって神から離れ去った罪人は、最早自分の力では神の許に帰ることはできません。それゆえ神はそのような罪人を憐れみ、赦し、御自身との人格的な交わりに受け入れられるのです。聖書ではそれを「和解」と言います。
 従って、わたしたちは神から遣わされた使徒たちが語る福音を聞いて信じることが必要なのです。そうすることによって、だれでも「キリストとの人格的な交わりに」入れられるのです。
 またここで、「キリストにあって」というギリシャ語を新共同訳では「キリストと結ばれて」と表現しています。この意味はキリストを信じる者がキリストとの人格的な交わりの中に入れられることを意味しています。つまり、「キリストにあって」とは人間が、「キリストの中」ですでに神の御前に新しい人間として存在していることを意味します。他方、「キリストに結ばれて」とはキリストとの人格的な関係の中で、わたしたちは具体的に神の御前に生きることを意味しています。
 第二次世界大戦中に、ドイツでヒットラーに反対し、殉教しました若い神学者ボンヘッファーが、次のように証しています。
 「自分は常に穏やかな生命に溢れた環境に取り囲まれている。それは自分を教え、また自分の誤りを糺し、自分を常に赦す聖なる環境である。そこから命と希望を与えられて自分は生きている。」と言っています。ちょうど地上で生きるわたしたちが大気に包まれて生活しているように、わたしたちもキリストの支配の霊的領域の中で、新しい人とされ、神の御前に生きています。しかしそれと同時にキリストとの人格的な交わりが与えられています。
 その体験をボンヘッファーは自分が聖なる環境の中で赦され、誤りを糺され、命と希望を与えられて、日々新しく生きていると言うのです。
 但しここで注意が必要です。神はわたしたちの中にではなく、キリストの中にわたしたちの新しい存在を創造されたのです。それゆえ、わたしたちの中に存続する人間は新しい人間ではないのです。
 そこでわたしたちが日々、キリストと出会い、キリストの言葉を聞き、キリストに祈り、キリストの思いと性質を見つめ、キリストに従い、キリストの命令を実行することによって、わたしたちは既にキリストの内に与えられている新しい人間として、日々生きるのです。言い換えればわたしたちは日々新しくなっていくのです。

(3)上にあるものを求める
 次に、コロサイの信徒への手紙は言っています。
 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かないようにしなさい。」(コロサイ3:1~2)
 これはどういうことでしょうか。わたしたちが具体的に地上の生活の中で、神の御前に新しい人間として生きるために、常に復活の主イエスに祈り求め、自分の考えではなく、主イエスの考えを知り、主イエスの命令を実行することによって生きなさいとの勧めです。
 「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」と聖書が言っている意味は、わたしたちが死人の中から復活したというのではありません。十字架の死による人類の罪を贖われたキリストが復活し、神の右の座に着かれたとき、キリストはわたしたちを神の御前に連れ出され、わたしたちは御前に立っているという霊的現実です。
 しかしその霊的現実は地上にいるわたしたちの現状ではなく、神がキリストを通してわたしたちをご覧になっている状況です。神はわたしたちがキリストを信じたとき、わたしたちにキリスト義と命を与えられたので、神はわたしたちをすでに新しい人間としてご覧になっているのです。つまり神が今ご覧になっているのは、キリストの支配と導きにより「将来成るべき」わたしたちの姿なのです。それゆえ聖書は「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:3)と言っています。
 従って、わたしたちは地上の生活をしている限り、その姿は依然として古い人間の姿であり、悪い思いと悪い行動が今でも、身にまつわりついています。
 しかし、それにも拘らず、復活の主イエスに求め、主イエスに祈り、主イエスを見つめ、主イエスに従うとことができるのです。実にこれこそ、わたしたちが新しい人間として生きると言うことなのです。なぜならば、わたしたちは主イエスに日々罪を赦され、主イエスとの人格的な交わりに入れられているからです。
 言い換えれば、主イエスを信じて、主イエスの霊である聖霊がわたしたちに与えられているからです。聖霊によって、神様に「父よ」と呼び掛け、祈ることができるからです。聖霊によって、主イエスに主よ、わたしたちの所に来てください、わたしたちと出会って下さい、わたしたちに御言葉を語ってくださいと、祈れるからです。
 そして主の命令を実行するとき、主イエスの命がわたしたちの中に働きますので、わたしたちは完全ではありませんが、少しでも実行することができるのです。そのようにしてわたしたちは日々新しく生きるのです。
 また別の視点から見れば、今や復活の主イエスは神の力を所有し、人間と世界を支配しておられる「栄光の主」でありますので、わたしたちの心と体の中に臨在し、働き、わたしたちを救いの完成へと導いておられるからです。この主の働きによってわたしたちは日々新しく生きることができるからです。
 そこで主イエスに従い、命令を実行することは二つの面があります。このことをコロサイ人への手紙は教えています。
 一つは、わたしたちの身にまつわりついている古い人とその行いを捨て去ることです。悪い欲望、不潔、貪欲、不義、悪意、そしり、その他の類のものを捨て去ることです。このことにより、わたしたちは日々新しい人間として生きるのです。
 もう一つは、積極的な面です。神に愛されている者として、主イエスの義を与えられている新しい人間として、歩むことです。すなわち新しい人間の業をすることです。
 「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。--これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3:13~14)
 所で、これらすべては主イエスの性質です。それゆえこれらのことを実行し、身に着けるとは、わたしたちが主イエスの性質を映し出すと言うことです。さらに「愛はすべてを完成させる絆」ですと聖書が言っているのは、愛とは抽象的な概念ではなく、具体的な行為であると言う意味です。ここで列挙されている具体的な行為をすることです。勿論わたしたちが実行する業は極めて不十分ですが、それでも実行することができますので、わたしたちは具体的に神の御前に生きるのです。これは何と言う幸いでしょうか。
 要するに最も重要なことは、主の命令を実行することにより、「日々」新しく生きると言うことです。そのようにして、主イエスの性質を映し出す新しい人間と「なりつつある」のです。
 このことはわたしたちが地上の生活の中で、救いの完成する永遠の神の国の「実」を現在結びつつあると言えます。主にあって実行したわたしたちのすべての行為と姿は人の目には過ぎ去りましても、神の御前に保存されています。救いが完成するとき、わたしたちの姿も現れるのです。
 勿論それらすべては、主がわたしたちの中に働かれた結果です。それゆえ救いは「主の働き」の果実なのです。要するに、救いに至る道は主にあって日々新しく生きることです。
 そのような方として「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)。



2017-12-31(Sun)

自己を越えていく 2017年12月31日の礼拝メッセージ

自己を越えていく
中山弘隆牧師

 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」
エレミヤ書15章18~21節
 

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マルコによる福音書8章31~36節


(1)キリストのもとへ近づく
 人間は交わりを通してお互いに知り合うようになりますが、わたしたちがキリストを知るようになるときも同様です。そこで人がキリストへと導かれる場合にはいくつかの段階が考えられます。
 キリスト教について何らかの印象を持ち、普段はキリスト教について深く考えていない人でも、キリストのことが何となく気になっている人々がいます。例えば、友人の中にクリスチャンがいて、キリスト教はああ言うものかと遠くから眺めていたり、あるいはキリスト教の映画を見たり、讃美歌を聴いたりして、キリスト教について興味を覚えている人々がいます。このような人たちはキリストとの交わりの最初の段階にいると言えます。
 次に友人から教会の礼拝に誘われたり、また自分から礼拝に出席したりする人があります。それは他の人を通してではなく、自分の目と耳を通してキリスト教に触れると言う段階です。こういう段階にある人々のことが、聖書の中にたくさん出てきます。
 まず、聖書の中に登場する群衆は、主イエスの教えを聞いて非常に大きな感銘を受けました。主イエスは神様の意志を実に簡潔明瞭に語られましたので、神様はイエスによって、本当にわたしたちの所に「来られた」のだという畏敬の念を抱きました。
 これはガリラヤの丘の上で、イエスが群衆に教えられたときの様子です。彼らの受けた感銘を聖書は記しています。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29)
 また、イエスが中風で長年苦しんでいる人を癒された時、先ず初めに、中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と語られましたので、人々は非常に驚き、同時に不思議に思いました。なぜならば、罪の赦しは神様だけが与えることのできる神の権能に属する聖なる事柄であるからです。
 そこでイエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられると、不思議にもその通りになったのです。このことを目撃した人々は驚き、「このようなことは、今まで見たことはない」と言って、神を賛美しました(マルコ2:12)。
 このような段階にある人々は、主イエスに直接触れています。しかし、そこでは未だ主イエスを信じていないので、主イエスとの人格的な関係には至っていません。そのためには、さらに一歩踏み出す必要があります。この段階で主イエスは仰せられるのです。
 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34~36)
 これは主イエスの中に神の力が働いていることを知り、また主イエスが語られる神の愛に心を惹かれ、慰められる者は、そのことだけで満足してはならないと言うのです。救われるためには、そして人を神のみ前に生かす真の命が与えられるためには、主イエスにどこまでも従う決意が必要であると言うのです。

(2)生ける神の子イエス・キリスト
 クリスチャンは皆この主イエスの御声を聞いて、従って来た者たちです。自分の救いを主イエスに求めようとする人は、誰でも真剣に聖書を読むとき、聖書に記されているイエスの思いと行動が一層重要さを帯びてきます。しばらく日が経ちますと、聖書の中で語られているイエスの言葉は最早聞き流しにしておくことはできないと思い、御声に応えようと決意するに至ります。
 とりわけ、弟子たちはイエスの御声に聞き従って、イエスにどこまでも付いて来た人たちです。そうするとき弟子たちはイエスの言葉と行動と性質をよく見ることができ、主イエスの人格と出会い、イエスは心の中が本当に「真実」である方、父なる神に対して全く従順な「子なる神」であることが段々と分かって来ました。
 もちろん主イエスは最初から神であり、「神の御子」ですが、マリアから誕生した「真の人間」として、人間の歴史の中に入って来られた方です。そのような方として神を知り、神に対して従順な、「真実な人間」として歩まれました。その姿を目撃した弟子たちはイエスを「神の子」と呼んだのです。
 なぜならば、「子なる神」の本質は、父なる神に対して徹底的に従順であることです。神の御子は自ら進んで喜んで父の御心を実行し、同時にその栄光を自分にではなく、父なる神に帰せられる方です。そのような「真実の人間イエス」を弟子たちはよく見て、イエスを「神の子」と告白しました。
 それゆえ、弟子たちはイエスに対する信仰を次のように告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)
 このとき、イエスは弟子たちの告白を受け入れ、父なる神が弟子たちにイエスに対する信仰を与えられたことを祝福されました。
 他方、イエスは律法学者の偽善を厳しく糾弾されました。なぜならば、「父なる神」に対して徹底的に従順である「神の子」として、人間に命じられた神の命令である「律法」を本当の意味で理解し、それを完全に実行しておられる方なので、律法学者たちの偽善を容認することはできなかったからです。
 律法学者たちは自分の考えによって律法を解釈し、律法の意味を曲げて、人間の様々な規則を作り、しかもその煩雑な規則によって、神の命令の本当の意味を不鮮明にしてしまいました。
 彼らの状態はイエスから見れば、神に対する彼らの不従順と彼らの欺瞞によるものであることが、よく分かったからです。彼らには神に対する信頼と従順という「真実な心」が欠落している点を暴露されました。
 しかし、弟子たちは主イエスこそ、人間に対する神の命令である律法の意味を完全に理解し、完全に実行しておられる方であることが分かりましたので、そのような方として、主イエスこそ本当の意味で人間を生かす「命の源泉」であるであることを悟ったのです。
 他方イエスが「政治的なメシア」であるという期待を抱いて、主イエスに従ってきた多くの人たちは、イエスの行き方が伝統的なユダヤ教の教えとは異なっているので、イエスのもとから立ち去りました。
 そのとき、イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられましたので、シモン・ペテロは弟子たちを代表して次のように申しました。
 「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)
 ここで、ペトロはイエスを「神の聖者」と呼んでいますが、これは「神の御子」と同じ意味です。
 さらに、弟子たちは主イエスに対して「あなたは永遠の命の言葉をもっておられる方です」と告白していますが、つまりこれは主イエスこそ「永遠の命の源」であると言う意味です。

(3)価値観と人生観の転換
 次に、「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)というイエスの命令は何を意味しているのでしょうか。
 それは人が神から与えられる「真の命」に生きる道を歩むために、次の点が必要であることを示しています。
 第一は、根本的な価値観、言い換えれば自分の人生観を転換することです。
 誰でも有意義な人生を歩みたいと欲しています。そのために、将来自分は何をしようかと考え、自分で価値あると思うことを決め、それを実現するため、学校で学び、社会に出てからも努力を続けています。もちろんこの点は社会の中で自立して生きいくに必要不可欠です。しかし、これはこの世界に生を受けた人間の本当の意味を決めることとは別です。
 なぜならば「人生の本当の価値」とは、人間の創造者であり、救い主である神様が決めてくださる事柄です。しかも神様は既にこの価値を「主イエスの中」で実現してくださったのです。さらに詳しく言えば、その価値とは「主イエスご自身」なのです。従って、主イエスをそのような方として信じて、主イエスに従うことです。ここに価値観の転換があります。
 第二に、主イエスの命令を実行することです。そうするならば、わたしたちは決して完全ではありませんが、それでもある程度実行できるのです。これはわたしたちにとって驚きです。その体験により実行できるように主イエスがさせて下さったのだ、神がわたしたちの中に働き、実行させてくださったと言うことが分かります。
 第三に、十字架の死を全うされた方として、主イエスはわたしたちに「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せられます。しかし、わたしたちが「自分で負う十字架」は人類の罪を贖うために「ただ一度限り」十字架について死なれた「全く罪のない神の御子」の十字架とは意味が全く異なります。それゆえわたしたちが十字架を負うと言うことは、主イエスに従っていく中で様々な困難やそれに伴う苦しみを必然的に経験するという意味です。
 しかしそれだけではありません。それは高慢な、利己的な自分に対して「否」と言うことを意味します。罪深い自分の様々な思いと行動を捨て去ることです。同時に神の御心に対して、「はい、そうです」と心から賛同し、それを実行することです。
 その際にわたしたちは父なる神に喜んで、自ら進んで従われた神の御子イエスの性質を「自分の心」に抱き、神の命令に従うのです。
 また、自分の安全と楽しみを重要視する自然的な人間の思いを捨て、神の御心を実行するために、言い換えれば、隣人に対する神の愛を実行するために、自分の心と思いと時間と労力を隣人のために費やすことが必要です。言い換えれば、「愛の労苦」は神が与えられる「命に生きる」ことに他なりません。

(4)信仰者の中に働く主イエス
 最後に、わたしたちは生まれながらの人間として罪に束縛され、神に反する低い思いに生きていた者が、これからは主イエスに従うことによって、主イエスの性質を映し出す「新しい人間」として「主イエスの思い」を抱いて生きるのです。
 そのためには主イエスの思いを抱いて、絶えず自己を乗り越えて行くことが必要です。それが主イエスに従うということです。
 このとき人はパウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と言うことができます。
 このことが分かると、キリストに従って、クリスチャンたちが自己を越えていくことは、クリスチャンの中に主イエスが臨在し、働いておられるゆえに可能とされたことが分かります。クリスチャンの中に復活の主イエスが働いておられることが分かるのです。
 実に初代教会のクリスチャンたちは皆この体験を共有し、告白しています。最初のクリスチャンたちの信仰告白は「イエスが神の子である」という告白です。このことは使徒言行録8章35~37節に記されています。但し、37節は使徒言行録の付録に入れられています。そこで「イエス・キリストは神の子であると信じます。」となっています。さらにヨハネの手紙一、4章15節には最初の信仰告白が保存されていると言われています。
 「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまって下さり、その人も神の内に止まります。」
 イエスが神の子であると信じる者の中に、主イエスがそして父なる神が臨在し、働き導かれることを彼らは体験し、賛美しています。



2017-12-24(Sun)

御子の栄光 2017年12月24日クリスマス礼拝メッセージ

御子の栄光
中山弘隆牧師

 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7章14節


 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書1章14~18節


(1)インマヌエル
 本日わたしたちはクリスマスの喜びを共にしながら、礼拝を守っています。クリスマスの人智をはるかに越えた恵みのとは「インマヌエル」であります。
 イエスの誕生を巡ってマリアと婚約していたヨセフは処女マリアの身に起こった不思議な受胎に衝撃を受け、マリアのためを思い、ひそかに離縁しようと決心しました。そのとき天使が告げました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20~21)
 さらにマタイによる福音書はこの出来事こそ預言者イザヤを通して神が語られた「インマヌエル」の成就であると言っています(マタイ1:22~23)。「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味のヘブル語です。
 実に、イエスは本来神である御子がマリアより人間として生まれ、「人間となられた神」なのです。それゆえイエスこそ、「われらと共におられる神」なのです。
 
(2)神である御子が人間となられた恵み
 従いまして、わたしたち人間の存在と性質に深く関わる仕方で神が共にいますという「インマヌエル」は、世界万民の中でただ一人、神の御子であるイエスによって実現しました。
 イエスは地上の生涯を過ごされたとき、神との親密な交わりの中で歩み、神を「自分の固有の父」として自覚し、それゆえご自分についても「父の子である神」として自覚しておられました。実に人智を超えたこの自覚に基づいて、父の意志を知り、父の意志に従って、行動し、人類の救いの使命を果たされた方です。
 このイエスの自覚は真に驚くべき「神秘」です。人間の知恵によっては不可知な神の現実です。しかしイエスのこの自覚とそれに基づく行為が、実にイエスは神であることを啓示しているのです。
 この状況をヨハネによる福音書1章14節は証しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
 「言(ことば)」とは神の意志を表す神の働きです。それは神とは全く異なる被造物であるわたしたち人間に対する神の「自己伝達」なのです。つまり単なる言葉ではなく、神の存在の一つの在り方です。要するに「言(ことば)」とは、「神の独り子」です。それに対して「肉」とは、わたしたち人間のことです。
 従いまして、聖書が「言(ことば)が肉となった」と告げるとき、「神である永遠の御子」が真実の「人間イエス」となったことを証言しているのです。これを「神の言葉」の「受肉」と言います。
 それゆえ、神が人間となられた「御子イエス」は、わたしたちに神を完全に示されました。
 ヨハネによる福音書は言っています。
 「いまだかって、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)
 これはいかなる人も自分の目で神を見ることはできませんが、イエスだけは唯一の例外なのです。父なる神を直接的に見ることができる方なのです。それゆえ、わたしたちは御子イエスを見ることによってのみ、神を知ることができるのです。
 この点について、イエスご自身が証しておられます。
 「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。(ヨハネ5:19~20)
 このように、御子イエスは父なる神と唯一無二の関係の中にある方です。それゆえ、御子イエスは父なる神の性質と意志と行動を、ご自身の人間としての性質と意志と行動によって、完全に示しておられます。
 このイエスの特質を「イエスは神の完全な似姿である」と言います。コロサイの信徒への手紙は言っています。
 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイ1:15)
 この聖書の意味は非常に重要です。なぜならば、コロサイの信徒への手紙は、御子イエスはマリアから生まれる前に、さらに万物が創造される前に、存在し、見えない「神の姿」であったと言っています。イエスは天地万物が創造される以前に父なる神から生まれた方として、神の姿であったと言うのです。その神の姿がマリアから人間として誕生されたのです。
 それゆえ、今や神は御子イエスにおいて、わたしたち人間と出会い、ご自身を示されました。
 そのことをヨハネによる福音書は、先ほど引用しました1章14節で証言しています。
 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14前半)
 ところで、言(ことば)、すなわち永遠の御子が人間となられる際に、言(ことば)がそれまで神として持っておられた全知全能の能力を制限し、人間のレベルに降り、その制限の中で、神を知り、神の意志を実行されました。なぜなら、御子イエスの制限の中でのみ、わたしたち人間は神を自分の身近に知ることができるからです。
 他方、この制限の中でイエスはわたしたち人間が聞くべき神の言葉を完全に語り、同時に完全に実行されましたので、イエスは御自身の人格と言動を通して神を「完全」に啓示されたのです。

(3)御子イエスの十字架の死
 それゆえヨハネによる福音書は「神の言(ことば)の受肉の栄光」を証しています。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14後半)
 ここで「恵み」とは「憐れみ」または「無償の恩恵」と言う意味です。すなわち、ご自分に敵対している罪人をそれにも拘らず、神は愛されるのです。それゆえ、恵みとは罪人を救う神の具体的行為です。
 次に、神が人間を救うために、人間の罪の問題を根本的に解決される必要がありました。つまり、神の正しさを人間存在の中に貫徹する必要がありました。そのとき「正しさそれ自体」である神は「ご自身」に対してどこまでも「忠実に行動」されました。この出来事を「神の真理」が現れたとヨハネによる福音書は言っています。
 さらに、そのため神が取られた唯一の手段は、全く罪のない御子イエスにおいて、全人類の罪を最終的に、決定的に、それゆえただ「一回限り」に裁き、すべての罪を取り除かれるためでした。なお、積極的な意味で人間が神のみ前で生きるために必要な「義」を、御子イエスの中で実現されるためでした。
 要するに、御子イエスが人間とご自身を連帯化させ、人間の代理となられ、人間に代わって、罪を裁く父なる神の意志に徹底的に従い、十字架の死の極みまで従順であった「御子イエスの中」で、神の義が確立したのです。
 その結果、わたしたちは、御子イエスと結ばれて、神のみ前に生きる「新しい人間」として、御子イエスの中で創造されたのです。但し、わたしたちの新しい人間はわたしたちの中にではなく、「御子イエスの中」に保存されています。
 それゆえわたしたちが御子イエスを信じ、御子イエスに従うとき、御子イエスの中に保存されている新しい人間として神のみ前に実際に生きるのです。
 さらに重要な点は、御子イエスの十字架の死は、人間の罪だけではなく世界の諸国家の罪を取り除いたのです。そのことによって、諸国家は御子イエスの支配下に置かれました。
 尚ここで一番重要なことは、イエスがすべてのことが自分に与えられた使命であると認識し、「ご自身の意志」を以て、その使命を引き受けられたのです。そして死の極みまで父の意思に従順でした。イエスはそうする中で、「父とご自身が一体」であることを自覚しておられたという点です。正に、イエスは神です。その結果、父は御子イエスを復活させ、御子が受肉する以前に持っておられた神としての働き、すなわち神の主権を御子イエスに与えられました。
 それゆえ今や主イエス・キリストは神の主権を行使する方となり、教会と世界の諸国家の支配者なのです。このことにおいて、御子イエスの限りない栄光が現れています。
 さらに、もう一つ重要なことがあります。それは永遠の神であり、万物の主権者である主イエス・キリストは「神の言葉」として、人間を含めて万物の「創造者」なのです。
 なぜならば、すべてのことは父なる神から出ています。それゆえ父なる神は「唯一の根源」です。御子イエスは父の意思と働きを媒介する「仲保者」です。仲保者としてすなわち「神の自己伝達」として、御子イエスは「神の言葉」なのです。万物は神の言葉によって創造されました。それゆえ、御子イエスは創造者です。
 「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。--万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1~3)
 
(4)わたしたちは何をすべきか
 今や復活の主イエスは人類と万物の創造者であり、同時に人類と世界の救い主です。そのような方としてわたしたちの中に救いの業を前進させ、わたしたちを救いの完成に向かって導いておられます。
 復活の主イエスは聖書の御言葉を以て、日々わたしたちと出会い、罪の赦しを以てご自身を示し、ご自身の真理に基づく神の義を与え、ご自身の霊的生命、復活の命を与え、わたしたちが主イエスの命令を実行することによって、神のみ前に生きるようにして下さいます。実に、この事実こそ、主イエスがわたしたちを愛して下さっていると言うことに他なりません。
 なお重要なことは、復活の主イエスは、地上においてご自身の使命を果たされた御子イエスと同じ方であります。それゆえわたしたちは地上でのイエスの性質と言動を熟慮し、同時に復活の主イエスを見詰めながら主に従うことができるし、またそうすべきです。
 なぜならば、そうすることがご自身をわたしたちに与えられた主に対して、感謝することであるからです。それは次の六つの点です。
 第一に、わたしたちは自分の存在、思いと行為の全部が、創造者であり、救済者である主イエスに知られていることを感謝することです。感謝の一念をもって自分の生涯を生き抜くことです。
 第二に、主イエスに祈ることです。主イエスはわたしたちの祈ることを喜んでくださり、聞き入れて下さいます。
 第三に、祈ったことは実行することです。主イエスはわたしたちの実行が不完全であっても、ともかく実行できたことを喜んでくださいます。
 第四に、自分だけでなく、他の人たちのためにも祈ることです。
 第五に、主イエスの復活の命はわたしたちが自ら進んで苦労を担うことを可能にします。それゆえこの世界の中で逞しく生きることができます。
 第六に、常に主の栄光が現れるために働くことです。
 そうすることによって、創造者であり救い主である主を賛美するのです。
 讃美歌(21)255番の3~4節はインマヌエルを賛美しています。
 3節 とこしえの光、暗き世を照らし、闇に住む民の上に輝けり。
    陰府(よみ)の力、破るため、御子は来たりたもう。
 4節 絶え間なき賛美、み使いは歌う、「聖なる、聖なる、聖なる
    万軍の主」。
    いざ、われらもほめ歌わん。「ハレルヤ、ハレルヤ」。



2017-12-10(Sun)

新しい契約 2017年12月10日の礼拝メッセージ

新しい契約
中山弘隆牧師

 見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31章27~34節


 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
コリントの信徒への手紙二 3章4~11節


(1)旧約聖書と新約聖書の関係
 今わたしたちはアドベントの期間を過ごしておりますので、旧約聖書と新約聖書の関係を心にしっかりと受け止めたいと思います。 と言いますのは、旧約聖書は神が預言者を通して語たれた神の言葉と神の行為の記録です。それゆえ旧約聖書は書かれた神の言葉です。しかし、単なる文字ではなく、今日わたしたちが主イエスと結ばれて、旧約聖書を読むならば、活ける神が旧約聖書の御言葉を通してわたしたちと出会って下さいます。
 それにしても、旧約聖書は神の言葉として、それだけで完結していません。なぜなら旧約聖書の言葉は神の救いの約束の言葉でありますので、救いが実現するときに神が語り、行動されたことを伝えている新約聖書の言葉と本質的に結びついており、不可分離です。
 旧約聖書は救い主イエス・キリストの到来を預言しています。新約聖書は救い主イエス・キリストの到来を語っています。つまり、旧約聖書は神と民との古い契約です。新約聖書は神と民との新しい契約なのです。

(2)聖書における神と人との関係
 次に、一般に契約とは、人間が経済的な物品の取引や、金の貸し借りするとき、双方が約束することに対する責任を明記し、責任を果たすために、契約を結ぶのです。それに対して、神と人間とは本来決して対等の立場ではありません。それなのに契約が結べるのだろうかという疑問が当然起こります。確かに神と人とは対等の関係ではありません。
 それゆえ神様がご自身の御心により、無限の愛を以て人間を愛し、人間を神のみ前に生かそうと決意されたことから始まっています。あくまでも神様がイニシャティブを取って契約を結ばれたのです。それゆえ契約は先行する神の人間に対する溢れる愛と恵みに基づく契約です。
 それでは契約の内容は何でしょうか。それは神様が人間をご自身の交わりの相手として選び、「神の民」とされることです。それゆえに神様は御自分が選ばれた「神の民に対して真実」であることを約束されたのです。他方、民の側では「神を神として」信じ、礼拝し、全面的に神にのみ依存し、「神の命令に従う」という責任を受け入れること、そして神のみ前で「誓約する」ことによって、神と民との契約が成立しました。
 元々、契約と言う概念は、イスラエルを含めて遊牧民族にとり、双方の民族の「堅い連帯性」を表しています。聖書は神と人との関係をその連帯性で表現し、神の責任と民と責任を契約の中に銘記しています。神の責任とは「神が神である」ことによって、永遠に「民に対して神の真実」を保持されることです。人間の側の責任は「神に対する人間の信仰と従順」を保持することです。
 それゆえ神と民との交わりを実現するために、民の生き方を神様が「具体的に」示されるのです。それが神の命令(律法)として与えられました。その命令は次の二つに要約されます。
 申命記6章は次のように命じています。
 「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力をつくして、あなたの神を愛さなければならない。」(申命記6:4~5)
 さらにレビ記19:18は次のように命じています。
 「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」

(3)イスラエルの背信と神の真実
 以上のようにイスラエルの民は神との契約に基づいて、人類の歴史の中を歩み、遊牧民の社会から、土地を取得して、農業を主な産業とする12部族社会を形成し、さらに近隣諸国からイスラエル部族を守るために、王国を設立しました。
 それはイスラエル民族がエジプトの王パラオの奴隷となっていたとき、神によって解放され、シナイ半島の荒れ野に滞在中に神との契約を結ばれたときが西暦前1250頃であり、ダビデ王朝が設立されたのが、西暦前1000頃です。しかし、西暦前936になると、ダビデ王朝はソロモン王の死後、北イスラエル王国とユダ王国に分裂しました。
 この時代の国家と民族の危機は、神の民の神への背信によってもたらされました。背信に対する神の審判を預言者たちは語り、神への悔い改めと神の命令を実行するように勧告しました。当時活躍した預言者はエリア、アモス、ホセアです。
 それでもなお、イスラエルの背信と不法な行為が益々ひどくなり、神は預言者アモスを北イスラエル王国に遣わされました。彼が語った神の言葉は、神の民に対する審判の言葉です。
 「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け、―わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して-地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪ゆえに罰する。」(アモス3:1~2)
 それにも拘らず、悔い改めないイスラエル国家はアッシリア帝国の侵略により、西暦前721年に滅びました。生き残ったユダ国家はアッシリアの属国となり、その運命は風前の灯のような状態となったのです。この時期に活躍した預言者たちがイザヤ、ミカ、エレミヤです。
 その後も、神は預言者第二イザヤ、エゼキエル、ハガイ、ゼカリヤ、マラキを背信の民ユダ国家に遣わされました。この間に、ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、それ以来イスラエル民族は自分の国家を持つことはできなくなりました。
 次にペルシャ帝国が世界の覇権を掌握したとき、寛容な政策を取りましたので、イスラエル民族は祖国に帰還することが許されました。しかしイスラエルは国家としてではなく、民族共同体として存続するようになったのです。
 本日の聖書はユダ国家がバビロニア帝国により滅ぼされる危機の最中に、預言者エレミヤが語った言葉です。彼はユダ国家の王を初めとして、すべての指導者たちに向かって、彼らの神への反逆を叱責しました。
 「あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行なったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ、わたしを知ることではないかと、主は言われる。
 それなのにあなたの目も心も不当な利益を追い求め、無実の人の血を流し、虐げと圧制を行なっている。それゆえ、ユダの王、ヨシアの子ヨヤキムについて、主はこう言われる。だれひとり、『ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹』と言って、彼の死を悼み、『ああ、主よ、ああ陛下よ』と言って、痛む者はない。」(エレミヤ22:15~18)
 エレミヤはイスラエルの民を愛し、そのために祈り、ユダ国家の存続を願いましたが、神は彼の願いを認めず、審判の言葉を語らせられたのです。その結果、エレミヤは同胞から憎まれ、排斥され、彼の繊細な心は引き裂かれ、彼は深い嘆きと悲しみの淵に陥りました。その告白がエレミヤ書に記されています。
 「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉ゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレミヤ20:8~9)
 このようにエレミヤは神の圧倒的な力により、審判の言葉を語り、悔い改めを勧め続けたのです。しかし民の心は頑なで、悔い改めようとはしません。反対に、彼らは神との契約を盾にして、神はイスラエル国家を侵略から守られると主張し、礼拝を熱心に行いました。さらに偽預言者がイスラエルに神の平安を語り、エレミヤとは正反対の預言をしました。これはイスラエルが、自分たちの貪欲と様々な不正を実現するために、他の民族が偶像を礼拝する如く、神の民イスラエルは契約の神を礼拝したのです。
 これこそイスラエルが神を信ぜず、実質的に偶像を信じることなのです。これが民の神に対する背信の極点です。つまり、民は自分たちの神を全く知らないのです。その結果、契約を破ったのです。
 しかしこの状況下で、エレミヤの唯一の希望はイスラエルの民と契約を結ばれた神の真実です。神は契約を破り、契約を自ら放棄した民に審判を下されたのは、決して民を捨てられたのではありません。契約を破り、形式的には神を礼拝していても、実質的に偶像を礼拝している全く無知な民を捨て去らず、なお民の神であり続ける真実な神です。それゆえ神は民の罪を裁かれるのです。その理由は審判を通して、民に救いを与えるためです。言い換えれば、民が神を知る民となるためです。それが新しい契約の預言です。

(4)新しい契約
 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。--しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:31~34)
 ここで、唯一の神である主はエレミヤと出会い、イスラエルの民と「新しい契約を結ぶ」と語られました。そして、契約の内容を主は語られました。
 「わたしの律法(命令)を彼らの心」に記すと語られました。それゆえ、すべての人が神を知るようになる、と主は語られました。それゆえ、唯一の神である主はすべての人の罪が赦されると語られました。それゆえ、主は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と宣言されました。
 これまで背信の民イスラエルは、律法を与えられても、それを実行しませんでした。むしろ、できませんでした。それは律法が文字としての律法でしたので、民はその意味を理解せず、律法を実行する力を神から与えられることを知らなかったのです。
 しかし、新しい契約が与えられ、神の律法が心の中に記されるとは、神ご自身が民の心の中に臨在し、聖霊が与えられ、聖霊を通して、律法の意味が理解され、聖霊を通して、律法を実行する霊的力が与えられることなのです。その時、民は大から小に至るまで、「すべて」の人間が神を知ることができるのです。
 この新しい契約はエレミヤが預言してから約590年経過して、「神の時が満ちて」与えられたのです。神の御子イエスの降誕と地上の生涯と十字架の死と復活により、新しい契約が実現したのです。
 古い契約は、イスラエルがエジプトの王ファラオの奴隷として酷使されていた圧制から解放されることによって、与えられました。 新しい契約は、罪を犯し、罪の力に束縛されている民を神が解放され、民の心を支配していた闇の勢力から解放されることによって、与えられました。
 今や神に全く無知であった民が、自分たちを選び、救って下さった神の思いと性質と行動を知り、神の先行する愛と救いの業を感謝し、自ら喜んで神に従い、神のみ前に生きる民となったのです。
 キリスト教の礼拝は御言葉と聖餐式が礼拝を構成する中心要素となっています。聖餐式は、そこにおいて、復活のキリストが臨在し、キリストの体と永遠の命を聖餐式のパンとぶどう酒の「しるし」によって、同時に聖霊の働きを通して、聖餐に与る会衆(神の民)に与えられ、そこに信仰共同体が形成されるのです。
 聖餐式は、新しい契約がキリストの犠牲に基づいていることを、神の民が常に想起する機会なのです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

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