2011-09-11(Sun)

決断の必要 2011年9月11日の礼拝メッセージ

決断の必要
中山弘隆牧師

 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。
ヨシュア記24章14~15節


 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
ルカによる福音書9章57~62節



(1)信仰とは
 今日のように科学技術が発達した時代では、信仰とは何か時代遅れのように感じている多くの人々がいます。その理由は科学的な真理はすべての人の目に明らかにされるという実証性を持っているのに対して、信仰はその人が自分でそのように考えているだけの概念で、主観的な心理作用に過ぎない、と見なしているからです。
他方、信仰に意味を認めている人たちは、信仰は人類文化の一つの営みであり、精神文化の一部門と見做しています。
 しかしこれらの見方はいずれも極めて表面的であって、信仰の実態を理解していない、と言えます。最近のハイテクが生命科学を開拓しつつありますが、もしそこで人間の手で生命を創りだすことができるとしましたら、人間社会と世界全体に大きな混乱をもたらすことは目に見えています。科学がそこまで発達する前に、人間とは何かという究極的な問いに答えを出す必要があります。

 信仰とは正に、人間とは何かという問いに答えを与えるものです。「人間は考える葦である。」という有名なパスカルの言葉がありますが、それは河原に生い茂り、風になびいている葦のように、人間は極めて弱い存在ですが、同時に自己の人生の意義について考える存在であると言うのです。それに対して人間が創りだしたロボットは自己の存在の目的について考えることはしません。人間だけが人生の目的と存在の意義について思索するのです。
 旧約聖書のコヘレトの教えには、このような言葉があります。
 「神はまた永遠を思う心を人に与えられる。」(3:11)
 ここで「永遠」とはいつまでも続くことを意味していますが、ただそれだけではなく、時間空間とは異ならう次元であり、人間の人生を有限なものとして自覚させる視点であります。しかし心は人間の機能の一部です。その一部分に過ぎない心の働きが、どうして人生全体を展望し、その意義を問うことができるのでしょうか。ここに永遠者である神と直面する信仰の働きがあります。
 また、人間存在の意義を問う視点は、別の言い方をすれば、一人の人間の責任を全体的に映し出す鏡であります。人間は甚だ自分勝手な者で、他人が見ていなければ、悪いことでも平気でします。
 食べ物に窮した母親が、子どもを見張らせて、他人の畑に忍び込み大根を盗んだとき、子どもに誰も見ていなかったかと確かめましたが、子どもはだれも見ていなかったけれども、お月様が見ていたと答えたという話があります。この話は、人は見ていなくとも悪いことはできないという教訓でありましょうが、お月様が見ているだけでは、人間は自己の責任を感じることはできません。
 どうしても人間が自分の責任全体を自覚するようになるためには、人間の創り主である神の前に立つことが必要です。目に見えない神がわたしたちの行動の隠れた部分を見ておられるという厳粛な事実を自覚することが必要です。

 ただそれだけではありません。宗教改革者カルヴァンは、神を知ることは人間が自分自身を知ることを結びついている。神を知ることなしには、人は自分自身を知ることはできないと言っています。
神を自分の恵み深い主として知ることによって、自分がその恵みの対象とされていることが分かるのです。そして人は神の恵みの中で生きることが、人生の本当の意義であることを知るのです。ここに信仰の働きがあります。

(2)神との出会い
従いまして、信仰とは神と出会うときに、わたしたち人間が神に応答する唯一の在り方である、と言えます。それでは具体的に人間はどこで神と出会うのでしょうか。神との出会いは礼拝の中でつねに出来事として生起するのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と仰せられた主イエスの約束に基づいて、わたしたちが教会の礼拝に参加するときに、そこに主イエスが臨在され、わたしたちは神との出会いが与えられるのです。 

それでは主イエスと出会った弟子たちは何を要求されたのでしょうか。本日の聖書の箇所であるルカによる福音書9章57節以下に記されていますように、「わたしに従って来なさい」という命令を受けました。

しかし、この命令にはそれ以前の物語があります。神の国についての主イエスの宣教は麗しい言葉と主イエスの力強い業によって、イスラエルの人たちの関心を引き、主イエスは各地で熱狂的な歓迎を受けられました。しかし、今は民衆の熱が冷め、彼らは主イエスの教えを拒否するようになりました。どうして彼らの態度は豹変したのでしょうか。それは彼らが最初のうちはイエスの教えによって、自分たちの期待している救いが実現するのではないかと考えていたからです。
 ところが時の経過と共に、イエスの教えはいよいよ核心部分に迫り、神の救いがイエスの存在と人格に不可分離に結びついていることが明らかになったからです。そのとき、人々はイエスの人格の神秘を前にしてイエスに躓いたのです。
 イエスの立場はモーセのように神の命令である律法を教える教師の段階をはるかに越えて、イエスは神が与えられる救いそのものである、と主張されたからです。そしてイエスに対する絶対的な信頼と従順を要求されたのです。
 聖書における神の救いは主イエス・キリストであります。イエス・キリストを他にして神の救いはありません。イエス・キリストは神の性質と神の意志を示し、神を信じる信仰を教えられただけではありません。もしそうであるならば、イエスは教師であっても救い主ではありません。神が遣わされた救い主とは、救い主自身が人間に与えられた人間の救いなのです。イエス・キリストがわたしたちの義となり聖となり、贖いとなられたのです。
 「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント一、1:30)
 このキリストを信じることが信仰です。神はキリストの中にわたしたちの新しい命と新しい存在を与え、キリストとの交わりを通して、神を知り、神の命令に従い、神の御前に生きる者としてくださったのです。
 従いまして、このような神の恵み、神の救い自体である主イエスと出会うときに、主イエスは信仰の決断を要求されます。

(3)主イエスに従うことの決断
 ルカによる福音書では、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」と言う人がいたと書いてあります。この人に対して、イエスは次のように仰せになりました。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(9:58)
これは信仰の決断が、本当の意味で、主イエスの行かれる所ならどこまでも従っていくという決断でなければならないからです。口先だけでそういうのでは本当の決断ではありません。今後の生活の一切を主イエスに委ねて、主イエスに従っていくことを決意することが必要です。
主イエスは父である神に絶対の信頼を寄せて、「枕する所もない」という生活のいわば極限状態の中でも決してかき乱されない平安を体験しておられました。同じように、主イエスに従う信仰者は、どのような困難に遭遇しようとも、主イエスを信じてついて行くと言う決断が要求されるのです。
逆に言えば、信仰の決断によって、「わたしに従って来なさい」という御言葉をもってわたしたちと出会ったくださる復活の主イエスとわたしたちは聖霊を通して、結び付けられ、それ以後のわたしたちの人生において主イエスが共におられ、神がわたしたちのために計画された人生を歩ませてくださるのです。
聖霊は主イエスを抜きにしては人間に働くことはありません。復活の主が信仰者の中に内在され、働き、導かれるようになるためにだけ、聖霊は人間の内に働くのです。

また、次の人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。それに対して、主イエスは次のように命じられました。
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(9:60)
 これは父の葬儀を子どもはしなくてもよい、と言う意味ではありません。子どもは親の葬儀を行う責任があります。しかし、親に対する子の愛情や責任も神の国に対する信仰の決断と比べると、遥かに小さいと言えるのです。
 神の国が主イエスを通して、わたしたちに直面している現場に立たせられた時、神の国に対する信仰の決断が優先しているからです。また、ここで「死んだ者」と呼ばれている人は、「霊的な意味で死んだ者」であります。それは神の国の福音に注意を払わない人であり、既に信仰の決断を放棄した人のことです。

 次に、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」という者に対して、主イエスはこのように仰せになりました。
 「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(9:62)
 このように言って、直ちに主イエスに従うように命じられました。
牛が引っ張っている鋤から手を放すとたんに、畑の畝は曲がってしまいます。それと同じように、神の国は主イエスを通して、この地上の時間の中に突入してきているのです。それに対してわたしたちはまともに向き合わなければ、振り落とされてしまうのです。それは正に緊急事態であるからそのように応答しなければならない、と仰せになったのです。
 これは主イエスを信じたいと思いながらもなお躊躇している人に、主イエスは今が決断の時だと仰せられたのです。言い換えれば、主イエスに従うか否かを決めることが緊急事態であり、その他の人間の営みは、主イエスに従う人生の中で、再び新しい場が与えられるのだ、と仰せになったのです。
 なぜなら、主イエスに従って行くことは、地上を去ることではなく、この地上で神の国に生きる人生でありますから、人間の営みは再び新しい観点から正しい位置を獲得するのです。しかし、その前に絶対的な信頼をもって主イエスの呼びかけに応答する信仰の決断が要求されるのです。

 従いまして、人は主イエスと出会い始めたとき、心から「主を信じます。感謝と喜びと希望をもって神に仕え、神の御心を行う人生を歩ませてください」と主に向かって祈るならば、自分の思いと言葉と行動が清められ、高められていき、だんだんと主イエスと神の国とが分かるようになるのです。

 クリスチャンの共通した体験と確信をパウロは次のように表明しています。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
 このように、主イエスに従ってどこまでも付いてゆく人生は神が万事を益となるようにしてくださいます。これが信仰の決断をしたものの人生であります。
 わたしたちは自分自身を見つめれば、自分の人生は暗いのです。主イエスを信じてクリスチャンになったわたしたちも、自分自身は罪人であり、自分の中からは良いものは何も出てきません。かえって自分の中はこの世の欲望に捉えられている様々な醜さに満ちています。
しかし、主イエスを見れば自分の人生は明るいのです。神は主イエスの十字架と復活により、主イエスの義と聖と命をわたしたちのものとして与え、わたしたちを神との交わりに入れくださり、神に仕える者としてくださいました。

この神の決定は絶対的であり、人間のどのような状態によっても影響されたり、制限されたりすることは全くありません。この神の決定を信じるのが、信仰です。
現代の神学者であるカール・バルトは絶対的な力を持っている神のこの決定に服従することが聖霊による信仰である、と言っています。また聖霊によらない人間の業としての信仰は何の役にも立たないと言っています。
 それゆえ、現在の自分の状態が神の与えられた正しさと清さと愛の業に反しており、矛盾していても、それにも拘らず、そのことに気をもんだり、嘆いたりしないで、神が主イエスを通して、決定された事柄により頼み、主イスに従っていくことが信仰なのです。

古い人間としての自分に背を向け、主イエスにある新しい自分に顔を向けるのが信仰です。この信仰によって、神から義と認められ、神との交わりの中にあるのです。
 主イエスはわたしに従うことを一旦決意したならば、後ろを見てはいけないと仰せられました。後ろを見れば罪人の古い自分がいるのです。主イエスに従う前方を見れば、主イエスの義と愛とを実行する新しい自分がいるのです。

常に聖霊によって、わたしたちと直面される主イエスに注意を集中することによって、聖霊によってわたしたちの心に語られる主イエスの御言葉を聞くことによって、わたしたちは一歩一歩と主に従って行くのです。その道を歩むことが信仰に生きることです。 



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