2011-09-04(Sun)

静かな声の中で 2011年9月4日の礼拝メッセージ

静かな声の中で
中山弘隆牧師

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
列王記上19章11~18節


 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
マルコによる福音書9章2~8節



(1)エリヤの活動
 預言者エリヤは生存中に火の車に乗って天に運ばれましたので、旧約聖書の中で一番有名な預言者ですが、わたしたちはエリヤを通して今日神が何を語っておられるかを知る者でありたいと願っています。
 まず、エリヤと言う名は、「ヤーウェは神である」と言う意味であり、彼の預言活動はその名のごとくに、イスラエルの民に、ヤーウェ、言い換えれば主に対する絶対的な信頼と従順を要求するという一事に徹しました。それに対しまして、当時のイスラエルの民は、自分たちの神は主であると思っていましたが、同時に異邦人の神々も拝んでいました。彼らにはそこに何らの違和感もなかったのです。
特にイスラエルの王アハブも全く同様でした。彼は二人の王子に、ヤーウェに関係した名前を付けていましたので、自分はヤーウェの本当の信仰者であると思っていたに違いありません。しかし、アハブ王はシドンの王エドバアルの娘イゼベルを王妃に迎えましたが、イゼベルは熱心なバアルの信奉者でありました。

バアルとは、空を支配する神であり、その結果気候を司って、豊作を与える神として祭られていました。イスラエルの民は遊牧民の文化を持っていましたが、エジプトを脱出してカナンの土地を取得しましたとき、農耕文化を摂取する必要に迫られて、バール信仰も一緒に取り入れたのです。その結果、イスラエルの信仰はヤーウェと共に他の神々を拝むいわゆる折衷的信仰に陥りました。
偶像は互いに優劣を競いますが、他方、互いに他を認める寛容な立場を取っています。しかしこのような信仰は神々に対して通用しても、イスラエルを選ばれたヤーウェには絶対に認められないのです。なぜなら、ヤーウェは唯一の神であり、ヤーウェ以外に神はあり得ないからです。神は人間に絶対的な信頼と従順を要求される方です。

それゆえ、預言者エリヤは折衷的信仰かそれともヤーウェに対する純粋の信仰かの二者択一をイスラエルの民に迫りました。エリヤはイスラエルの民の前で、バアルの預言者450人と対決しましたのです。このことは18章20~40節に記されています。
そこで、エリヤは一つの提案をしました。バアルの預言者たちも、ヤーウェの預言者であるエリヤも、それぞれの神に焼き尽くす献げ物を用意し、薪の上にそれを置いて、天からの火が降るのを待つという提案です。
この提案に賛成したバアルの預言者たちは、熱狂的に踊り続け、刀で体を傷つけ、血を流して叫び、ついに恍惚状態に達し、バアルの霊が乗り移ったという境地の中で、バアルの名を呼びました。名を呼び続けることが数時間に及びましたが、しかし天からの何の応答もありませんでした。
このことを見届けたエリヤは、イスラエルの民にヤーウェの祭壇を造らせて薪を並べ、その上に動物の献げ物を置き、次のように祈りました。
「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって、行ったことが、今明らかになりますように。」(18:36)
主はこの祈りに応えられましたので、火が天から下り、一瞬のうちに犠牲の動物は焼き尽くしました。多分焼き尽くす献げ物の上に落雷があったのでしょう。しかし、そのような状況の中で、落雷をもってエリヤの祈りに応えられたヤーウェこそ、神であることがすべての民の目に明らかになったのです。ことき民は平伏して、「主こそ神です。主こそ神です。」と告白しました。

そこで、エリヤは民に命じて、バアルの預言者たちを逮捕し、カルメル山の麓を流れている河原に連れて行って、皆殺しにしたのです。
これらのことが起こった後、エリヤは再びカルメル山の頂上に登って、数年間の干ばつからイスラエルを救うために、雨を降らせてくださいと祈りました。彼が七度祈ったとき、最初は海の向こうに小さな雲が現れ、次第に大きくなって近づき、ついに豪雨となりましたので、干ばつから救出されたのです。
このようにして、エリヤはイスラエルからバアル崇拝を一掃しようとしたのです。

(2)閉塞状態のエリヤ
ここで、エリヤは物理的な力によって、イスラエルの民に主を信じさせることに成功しましたが、エリヤの運動は強固な反撃を受けたのです。それは王妃イゼベルの反撃です。イゼベルは手強い相手であり、イゼベルの憤激と復讐に出会って、エリヤは再び孤立してしまい、亡命を余儀なくされたのです。
このときのエリヤの悲劇は、付和雷同する民衆に対する不信感とイゼベルに対する恐怖により、自分自身の中に閉じこもってしまい、精神的な閉塞状態に陥ったことです。

イスラエルを脱出して、ユダの領土を通過し、その南に広がっている荒れ野に来て、一本のエニシダの木の下に座り込んでしまいました。この時の様子は、19章の4節に記されています。
「主よ、もう充分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
荒れ野で灼熱の太陽光線を受け、衰弱したエリヤはわずかばかりの木陰の下で、自己憐憫の状態に陥り、ついに絶望したのです。

(3)エリヤを回復させられた神
この時、すべてのことをご存知である神は、エリヤの精神状態を回復させるために、先ず次のように命じられました。5節にありますように、憔悴しきってエニシダの木陰で眠ってしまったエリヤに、神の御使いが、彼に触れて「起きて食べよ」と命じました。このようなことが二度繰り返されました。閉塞の状態から解放するために、神はまず食物を与え、身体を動かすことを命じられました。精神的な開放はまだ先のことでありましても、体を動かし、何かをするとき、それは確信と希望の回復への第一歩となります。
そのようにしてエリヤは神の与えられた食物を食べて、四十日の旅をして、昔神がイスラエルの民と契約を結ばれたホレブの山に辿り着き、そこの洞穴に入り、一夜の休息を取りました。
次に、11節にあるように、神はエリヤに「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と命じられました。
「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(19:11~12)
ここでエリヤは突然に遭遇した嵐を見守ることによって、自分の弱さを知るとともに力の源泉は神にあることを強く意識したのです。しかし、風、地震、落雷はバアルの預言者たちと対決した時に用いたエリヤの手段だったのです。それらの騒がしい現象の中に主がおられないことを、今知ったのです。
神の臨在が事実となったのは、静かに囁く声が聞こえてきた時です。力強くても不安定な物理的力に代わって、次に静かな霊的生命の源泉が現れました。エリヤが聞いた静かに囁くような御声こそ、神ご自身の臨在とその性質を現しています。それは正に神の御子が人間となり、われらと共にいます神として、語られたイエスの言葉と同じであります。

エリヤが外套で顔を覆ったのは、今自分が聖なる神の御前に立っていることを知ったからです。この世界や人間とは全く違う方であり、人間の目には見えない神、無限に正しい方、道徳的に無限に清い神、実に御言葉を通して、人間と共におられる神の御前では人は自己の罪を自覚せざるをえないからです。しかし、同時に神はエリヤに御言葉を語り、その御言葉を実行に移すよう命じられました。

まことに御言葉こそ、折衷的信仰のイスラエルを裁くものであると同時に、霊的な新しい生命を供給し、神に対して従順な民を創造する力を持っていました。
この神の言葉を聞くことによって、エリヤは閉塞状態から解放され、神の目的を実現するため、再び世界の中へ送り出されたのです。エリヤは神の御前から、再び世界の中に出て行ったのです。

(4)遣わす神
次に、15~16節で主がエリヤに仰せられた御言葉が記されています。
「行け、あなたは来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」
先ずエリヤは神の命令に従って出かけて行き、エリシャと出会いました。そのとき神は彼をエリヤの後継者とされました。このことによって、神がエリヤに命じられた三つの事柄の一つが実現しました。
残りの二つであるイスラエルに敵対するシリヤの王としてハザエルに油を注ぐことと、イスラエルのアハズ王朝に代わる新しい王朝を建てるために、将軍ニムシに油を注ぐことは、後継者エリシャによって実行されることになりました。(列王記下8:7~15;9:1~6)

(5)信仰と文化の緊張関係
エリヤはバアル崇拝と戦い、イスラエルの民族と国家に対するヤーウェの主権を確立するために、生涯を献げた預言者でありました。
しかし、バアル崇拝は、当時の文化と密接に関係しており、イスラエル文化を形成するために、どうしても回避できない問題でありました。これを煎じ詰めれば、ヤーウェの主権に対する信仰と世界文化との問題に帰着します。

今日、神の主権は、主イエスの十字架と復活による贖いを通して、教会と国家の両方の領域において働いています。しかも教会と国家は同心円であり、その中心は主イエスであります。これが主イエスの宣教を通して今や開始している神の国です。
教会は主イエスと人格的に交わり、主イエスの命に生かされるクリスチャンの共同体です。従いまして、クリスチャンは神の御言葉を実行することによって、神の意志を直接的に知っています。
それに対して、国家の構成員はクリスチャンだけでなく、他宗教の人たちや無宗教の人たちも同じ構成員です。そのような人たちは、直接的ではなく、間接的な仕方で、神の意志を知っているのです。
それは人間が自分たちの価値観や自分たちの力によって良い社会、良い文化を形成しようと努力する中で、正義と愛を実践するならば、そのとき、神の意志に従い、その働きは神に用いられているのです。

このように教会と文化は同じキリストの支配の中にありながら、その役目と働きは異なっています。国家や文化は、人間の持っている理性と能力に従って、善いことを行うとき、神に用いられているのです。 
他方、国家や人間の能力を過信して、絶対化するならば、それは神に対する反抗であり、神の裁きを受けます。しかし国難や社会の危機を経て、再び神の意志に沿う価値観を見いだすように導かれます。
また、神の意志は国家や文化が正義と愛を行うことでありますが、理性と人間の能力の許容範囲で、実行することを要求しておられるのです。

それに対して、神がクリスチャンに与えられる恵みは、生まれながらの人間に与えられている理性と能力の範囲を越えた主イエスにある新しい人間の自由です。その自由の中に、聖霊を通して、神の愛が直接働き、クリスチャンは神の愛を隣人に対して実行できるという生き方です。これが神の恵みです。

神の国は、主イエスとの人格的な交わりの中にある神の子たちの共同体を中心にして、その外側にアダムの子孫である人間が理性と善意をもって、自らの価値観を実現しようとしている国家や文化と言う外円があります。

ユダヤ教は、信仰共同体ではなく、ユダヤ文化として今日の世界の中に存在しています。ユダヤ教は最早、信仰と文化との緊張関係を失い、文化として存続する基本路線を選んだのです。
神は主イエスの到来により、神の究極的な啓示を与え、主イエスによる罪の贖いにより、神との人格的な交わりの中で、生きる人間の生き方を示されました。その時、主イエスはご自身の生き方を示し、主イエスを信じる者に道徳的命令を与え、すなわち、神の愛を実践せよと命じられました。このイエスの態度と命令に対して、ユダヤ教はどのように対処したでしょうか。

当時のユダヤ教の指導者たちはイエスを排斥しました。その理由はイエスがユダヤ教の文化を根底から覆すもので、ユダヤ文化の破壊者であるということです。この見解を現代のユダヤ教の律法学者であるヨセフ・クラウスナーは「ナザレのイエス」と題した本の中で、述べています。

クリスチャンは聖霊によって、主イエスと結ばれ、主イエスの命が与えられ、信仰の兄弟たちに対して、また信仰を持たない隣人に対して神の愛を実行する者として、二重の円に属しているのです。
このことはしかし、二つの円が主イエスの贖いの支配の中にあることによって、決して矛盾していないのです。



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