2011-08-21(Sun)

岩の上に家を建てる 2011年8月21日の礼拝メッセージ

岩の上に家を建てる
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
エレミヤ書9章22~23節


 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章24~29節


(1)神の命令としての律法
 主イエスは信仰者が行うべき神様の命令について、山上の説教の中で教えられました。旧約聖書の中で人間に対する神の命令は律法として伝えられています。しかし、神の律法についてユダヤ教の律法学者たちが教える仕方とイエスの教え方は、全く異なっていましたので、イエスの話を聞いた群衆は非常に驚いたのです。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられたからである。」(7:28~29)

律法学者たちの教え方は、律法に関する解釈を代々受け継ぐと言う仕方でなされました。先代の何々と言う律法学者はこのように言った。さらにその前の何々と言う律法学者はこのように教えたと言って、彼らの教えを正確に弟子たちに伝えることが律法学者の任務でした。
そのような律法学者の連鎖を遡ると旧約時代の最大の預言者であるモーセの言葉に至ると主張していたのです。律法学者の立場からすれば、律法の権威は神様がモーセに律法を語られたことにあるのです。 
しかし、モーセの律法を後世に伝えた律法学者たちは、モーセの言葉をその通りに伝えること、その意味を解釈することにより、神様が語られた本来の意味から外れて、単なる人間の言い伝えとなってしまったのです。ここに彼らが教える律法は、神様の本当の意志を不鮮明にする結果に陥ってしまいました。
その理由は彼らが神様の重要な命令の周りを、人間の言い伝えである細かい規則で何重にも取り囲み、細則も含めたすべての規則の拘束力は皆同じである、と主張したからです。この点、イエスは厳しく告発されました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ウイキョウの十分の一をささげるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)

それに対して、主イエスは神の権威をもって、律法の本当の意味を明らかにされました。そのイエスの教えが、マタイ5:21~7:12に記されています。
イエスは、父なる神との直接的な交わりの中で、本当の律法を父から示され、また父なる神への愛と従順をもってそれを実行されたのです。イエスは神の御子であり、真の神でありますが、同時に真の人間となってこの世に遣わされた方でありますので、わたしたちと同じ条件の中で、世界に蔓延している悪と罪の誘惑とに戦い、それらに勝利して、神の律法を達成されました。そのような方は人類の中でただ一人であり、イエスだけです。

それゆえ、イエスは仰せになりました。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)
そういう方として、イエスは山上の説教の締めくくりの部分で、ご自身の語られた言葉を実行せよと、聞く者たちに仰せになりました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:24~25)
岩を土台とした家は、豪雨となり、川が氾濫し、暴風が襲っても倒れないで持ちこたえます。
他方、平らな砂地は家を建てるのに適しているように見えるのですが、パレスティナ地方では、そこはワディと呼ばれる川床なのです。乾季の時はワディに水が全くありませんが、雨期になりますと、激流が押し寄せます。もしそこ家を立てるならば、たちまち崩壊する運命にあります。
この譬で、岩の上に立てた家とは、信仰者の人生を表しています。長い信仰生活の中では、様々な試練や困難と遭遇します。信仰を堅持することのできる者は、イエスの教えを神の命令として、実行する者だけであります。なぜならば、イエスの教えと命令を実行することによって、イエスの命と神の力がその人の中に働きますので、困難に打ち勝つことができるからです。
イエスの教えや命令を知っているだけでは、何の役にも立ちません。なぜならば、イエスの言葉を実行しない者には神の霊的な力や神の愛が働いていないからです。
英国のベッドフォードで伝道しましたバンヤンが1678年に「天路歴程」「Pilgrim’s Progress」(巡礼者の旅路)と言う本を書きました。当時のイギリスのどの家庭でも子供と大人が読みましたので、ベストセラーになりました。日本でも明治時代に翻訳されて「天路歴程」という題名で出版され、信仰の糧として、多くの人々に親しまれた本です。
その物語の中で、クリスチャンと言う名前の巡礼者が天国に向かって信仰の旅を続けているとき、あるところに来ますと、後から他の巡礼者が追いかけて来て、声をかけましたので、クリスチャンは待っていて、二人は一緒に旅をすることになりました。
クリスチャンは共に話しながら旅することを非常に喜びました。ところが、その人は道すがら信仰のことを滔々と得意になって話したのです。初めのうちは彼の話を聞いていたのですが、だんだんうるさく感じました。その理由は彼が語っていることは単なる知識に過ぎなかったからです。それから進んでいくと、巡礼の道は猛犬がいるすぐ前を通っているのです。それを見てクリスチャンは恐ろしさのあまり、引き返そうとしたのですが、よく見ると猛犬は鎖につながれているのが分かり、無事に通過することができました。しばらくしてクリスチャンは後を振り返りますとあのお喋りはもういなくなっていたのです。そのとき、クリスチャンは単なる知識では人は天国への旅路を進めることができないことを悟りました。

(2)偽善者たちの限界
次に、天国に向かって進んでいると自称していますが、自分ちも天国に入らないし、他の人も入らせない偽善者たちが多くいます。
主イエスはモーセの座に就き、人の言い伝えによって、権威を装っているイスラエルの宗教指導者たち、とくに律法学者たちとファリサイ派の人たちの偽善を暴露されました。
彼らの第一の偽善は、モーセの律法を厳密に守ることにより、善き業による功績を持つ者だけが天国に入ることができるという主張です。 
これはユダヤ教の律法主義です。強いて言えば、神の本当の律法に反抗する律法主義です。人はだれでも律法を行う自分の功績によって救われるのではありません。神の救いは、主イエスにある神の恵みによってのみ与えられるのです。イエスは神の国が幼子のような者たちのものである、と仰せになりました。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」
子どもは決して自己の功績を主張せず、神の国を神の恵みとして受け取るので神の国に属している、と主イエスは言われたのです。

神の国とは、神の支配のことです。神の直接的な支配の中で、神との人格的な交わりを与えられ、神の命令を実行することによって生きる場所です。本来、神の国が完成するのは、歴史の終わる時ですが、神の国は主イエスを通して、すでに歴史の中で開始しているのです。

第二の偽善は、彼らは律法の細則を非常にたくさん定め、それを厳密に守っていると自認していますが、実はそのことによって、神の重要な律法を少しも守っていないのです。イエスはこのように仰せられました。
「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』と言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にすると言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(15:3~6)

第三の偽善は、彼らが身体の外面を清めても、心の中は汚れているということです。この点について、イエスは厳しい批判をされました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」(23:25~26)

実にこれは人間の罪の問題であります。ここに罪人である人間は、神の本当の律法を実行することができないという厳しい現実があります。すべての人間はアダムの原罪を背負うと同時に、各自が自分で罪を犯したために、例外なく罪人なのです。
この現実によって、生まれながらの人間はだれであっても律法を実行できないのです。律法学者であろうが、あるいは律法を知らない民衆であろうが、神の律法を実行することはできないのです。不可能という壁の中に閉じ込められているのです。

(3)律法の実行を可能にする主イエス
この壁を打ち破るために、主イエスはこの世界に神から遣わされました。
主イエスは神であり、同時に人間である方として、律法を地上の生涯で、本当の意味で実行してくださいました。さらに、ご自身の尊い命を人類の罪を贖うために献げ、主イエスは人類に代わって、人類の罪を担い、罪に対する神の審判である死を引き受けられたのです。
この出来事を通して、神は人間の「罪」を裁かれたのです。人間を束縛している罪に対して神のノーが言い渡されました。すなわち罪の働きはまだ人間から最終的に取り除かれたのではありませんが、人間を隷属させている「罪の支配権」が打ち破られたのです。その結果神は人間を赦し、人間に新しい生命を与えるという判決を下されました。
その判決が主イエスの復活であります。神は復活の主イエスの中に、新しい人間を創造されたのです。新しい人間は復活の主イエスの中に存在しています。これが人類に対して下された神の最終決定です。

それゆえ、主イエスは「わたしの言葉を実行する者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人である」と仰せになり、わたしたちに主イエスの言葉を聞くだけでなく、そのことを知っているだけでなく、実行するように命じておられるのです。
主イエスを信じ、聖霊によって、主イエスと結びつく者は、だれでも主イエスの命令を実行することができるのです。それは聖霊を通して、主イエスの命、すなわち死に打ち勝った復活の命が主イエスの言葉を実行する者の中に働くからです。

主イエスの中にあって、わたしたちが神の創造された新しい人間として生きることは、次の三点です。
第一は聖霊による信仰です。聖霊により主イエスを信じる者は、そのことにより、神との人格的な交わりが与えられます。それは主イエスの十字架の贖いに基づいた交わりであり、永遠の交わりであり、絶対に廃止されることはありません。それゆえ神は常に罪の赦しをもってわたしたち信仰者と対面されるのです。このことが信仰義認です。
従って、わたしたちは神の律法を実行する点で、決して完全でありませんが、そのことによって、神との交わりから除外されることは絶対にありません。他方また、わたしたちの律法の実行はわたしたちの功績では絶対にないのです。従って、わたしたちは律法の業を実行することによって、神との交わりの中に入れられるのでは決してないのです。

第二点は、聖霊によって、わたしたち人間は主イエスの中に創造された自分たちの新しい存在として歩むのです。これこそ律法の命令を実行することに他ならないのです。しかし、このことはわたしたちが自動的にそうなるというのではありません。
主イエスの中にある新しい人間としての「主体性」をもって、神の命令を実行することを志し、そうすることが人生の唯一の意義であることを認識に、実行するために日々熟慮し、また祈ることが必要です。
そのようにして、主イエスにある新しい命を神から受け、自分の決意と冒険を通して、実行することが必要なのです。そのような志、決意、冒険を抜きにしては御言葉の実行はありえないのです。

聖霊を通して、わたしたちと直面される主イエスの命令と思いを「実行の手引き」とすることによって、わたしたちは思い切って、律法を実行できるのです。そこに新しい生命に生きる喜びと神への賛美があります。従って、そのような志、決意、冒険を可能にし、実行へと導く方が聖霊です。

(4)終末的な完成の先取りとしての聖霊
次に第三点は、わたしたちが聖霊によって、律法の命令を実行するのは、たとえ不完全であっても実行できるという事実です。言い換えれば、それは完全な実行ではないと言う制約の中での実行です。
これは、聖霊を通して、歴史の中に働く主イエスの命は神の国の命の先取りであるという救いの秩序によるのです。神の国は現在の天地の秩序が全く新しい秩序に変貌した暁に完成するのです。
それにも拘わらず、神の国が完成することをわたしたちが確信し、神の国の希望を持ち続けることが聖霊の働きなのです。



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