2011-07-24(Sun)

新しい掟を与える 2011年7月24日の礼拝メッセージ

新しい掟を与える
中山弘隆牧師

 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19章17~18節


 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書13章31~35節


(1)キリストの栄光と掟
 本日の聖書の箇所は、地上の宣教活動の間、それに向かって進んでこられたイエス・キリストの地上を去る時と栄光を受ける時が間近に迫っている、という状況であります。イエスは仰せになりました。
 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神ご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(13:31~32)
 これは神の御子である主イエス・キリストがこれまで父なる神の御心に従順であり、父なる神の意志を完全に実行されたということを意味していると共に、今や最後の仕上げとして、十字架の死を遂げる時が来たことを意味します。
 人類を罪から解放し、神との交わりに入れるために、イエスは十字架の犠牲を全うしなければなりませんでした。それは人類に対する主イエスの愛であると同時に、またそれは父なる神の意志への従順であります。
 32節の「神はご自身によって人の子に栄光をお与えになる」という言葉は、十字架の死に至るまで父なる神に従順であったイエスに父は「神御自身の永遠の本質によって」、栄光をお与えになることを表しています。言い換えれば、御子は天地創造の前に父と共に持っておられた「神としての働き」に再び入るということです。
 32節の後半の言葉では、「しかも、すぐにお与えになる」という言い方がされています。これはイエス・キリストの栄光が現れる再臨の時まで待つ必要はないという意味です。
それではキリストの栄光はどのように現れるのでしょうか。それはキリストの復活と昇天を通して、聖霊が信仰者に与えられ、キリストが聖霊を通して、信仰者の中に永住されることであります。そのことの中にキリストの栄光が現れているのです。
 しかし、キリストの栄光が現れる時までは、キリストを拒んだユダヤ人も、キリストを受け入れた弟子たちも、生まれながらの人間としては同じであると仰せになりました。33節の「ユダヤ人に言ったように、今あなたがたにも同じことを言っておく。」という御言葉がこのこと事実を示しています。
つまり、この現状をイエスの十字架を前にして、ペトロが自分は死ぬ覚悟でありますと言ってイエスに対する忠誠を誓いましたが、ペトロの忠誠は本当の忠誠になり得なかったという事実が示しています。
「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(13:38)
しかし、父なる神は主イエスに栄光を今すぐにお与えになるので、新しい事態に対して、主イエスは新しい掟を与えられました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:34)
先ず、ここで主イエスの与えられる掟が「新しい」と言う意味は何でしょうか。愛に対する掟は、既に旧約聖書で与えられています。レビ記にはその掟が記されています。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)
これ以外にも例えば、ラビであるヒレルは次にように教えました。
「アロンの弟子になりなさい。そして平和を愛し、平和を追求しなさい。人類を愛し、彼らを律法に近づけなさい。」
こういう視点から見ればイエスの命令は新しいとは言えません。それでは本当の新しさはどういう点にあるのでしょうか。
それは三つあります。第一点は、クリスチャンが互いに愛し合うことは、父なる神と子なる神の愛による交わりと一致を反映しているということです。父は子を愛し、すべてのことを子に示されました。それに対して子はすべてのことにおいて、父なる神の意志に従われました。子は自発的に父に従われたのです。それが父に対する子の愛であります。そのようにして、神は御自身の内に愛による一致を持っておられます。またそのよう愛が神の本質なのです。
それゆえ、神の御子である主イエスがクリスチャンを愛し、ご自身を与えられました。そして主イエスがクリスチャンを愛されたように、クリスチャンが互いに愛するように命じられたのです。
ここで、クリスチャンが主イエスの新しい命令を守り、互いに愛し合うことにより、互いに一致するならば、父なる神と子なる神の間にある一致を反映させることになるのです。
従いまして、クリスチャンが互いに愛し合うことは、クリスチャン自身の建徳のためだけでなく、実に父と子の間に存在する愛をこの世界に示すのです。
第二点は、この掟の新しさは、イエスの生涯と死によって開始された新しい時代に通用する掟であるということです。
クリスチャンの相互愛は、神ご自身の中にある父と子との相互愛をモデルとし、それを表しているのですが、同時にそのような相互愛は、神の愛がクリスチャンの交わりの中に働くことに他ありません。従って、それは全く新しい事態です。言い換えれば、聖霊により主イエスが信仰者の中に内在される新しい事態なのです。
それゆえ、もしクリスチャンが、そして教会が、この相互愛に失敗するなら、神的生命を現すことに失敗するのです。神的生命である神の愛は、クリスチャンを鼓舞し、彼らを通してこの世界に示されるべきものであります。
第三点は、十字架の死において頂点に達した人類に対するイエスの奉仕全体が、クリスチャンに他の人々に対する奉仕を命じるものであります。神が罪人を愛し、御子を罪人のために与えられ、御子は十字架の死を全うされました。正に神のこの奉仕が、罪の束縛から解放されて、真の自由を与えられているクリスチャンに隣人に対する奉仕を命じているのです。

(2)掟に対する従順としての愛と喜び
次に、15章の9~10は13章の新しい掟をどのようにして守ることができるかを説明しています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(15:9~10)
この御言葉は神の愛と従順の関係を語っています。御子が父なる神の愛にとどまるということ、言い換えれば、御子が父を愛することは、父の掟を守ることであると、仰せになりました。
主イエスが十字架の犠牲として自己の命を捨てるということは、神の意志であり、わたしはそれに従い、自ら進んで命を捨てるのであると仰せになりました。
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたし自身でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これこそ、わたしが父から受けた掟である。」(10:18)
従いまして、わたしたちが神を愛するということは、感情で愛を感じることではなく、行為によって、神の掟、神の命令に従い、それを実行するということなのです。神の愛をもって愛するということは、神の命令に従うことなのです。それゆえ、神の愛がわたしたちの中に働くということは、わたしたちが神の命令を実行することなのです。これ以外ではありえないのです。このことをわたしたちはつねに肝に銘じ、体験し、悟ることが必要です。
要するに、「従順」は「愛の働き」であり、「愛」は「従順の中」にあるのです。神の愛と従順とは相互に依存しています。
それゆえ、わたしたちが主イエスの命令を守ることが、主イエスを愛することであり、愛は命令を守ることを可能とするのです。
さらに、主イエスは仰せになりました。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(15:11~12)
ここには、主イエスの喜びが何であるか。そしてわたしたちの喜びが何であるべきかを如実に示しています。
本当に、主イエスの喜びは、父なる神に対する従順と、愛における父なる神との一致から、湧き出る喜びでした。主イエスはつねにその喜びに満ち溢れておられました。
同様に、今わたしたちは聖霊による主イエスとの人格的な交わりの中で、主イエスに従い、愛による主イエスとの一致を喜びとするのです。さらに、わたしたちクリスチャンが神の愛をもって相互に愛するならば、その喜びで満たされるのです。クリスチャンの特徴はどのような境遇にあっても喜びを持っていることであり、その秘訣はクリスチャンが主イエスの喜びと同じ喜びを持っているという点にあります。

(3)神に求める者としてのクリスチャン
次に、わたしたちが神の愛の中にとどまり、神の愛がわたしたちの中に働くということは、言い換えれば次のように言えます。
神が主イエスにおいて、わたしたち人間のために奉仕をしてくださった神の振る舞い、行為をわたしたち人間の振る舞い、行為において反映させる鏡とするために、自己を献げることであります。言い換えれば、わたしたちのために主イエスが「すでにしてくださった主イエスの奉仕の業」を、わたしたちが自分の奉仕の業の中で、「追体験し」、「見習い」、「模造する」ことです。
そのためには、主イエスにおいて与えられている「自由の光と空間」の中に立つために、神に「求める」ことが必要です。その自由の空間とは、神が主イエスの十字架の贖いと復活によって、わたしたちが罪ある古い人間に死に、主イエスにある新しい人間として復活し、神の御前に立たせられている空間です。その自由なる空間は既に常にわたしたちを取り巻いているのですが、「それゆえ」にわたしたちはその場所に立つために神に求めることが必要なのです。言い換えれば、「神との交わり」の中に立つことを求めることです。
そのようにして神との交わりの中でのみ、すでに罪から解放され、神の御心に従う自由が与えられていることを「改めて」知ります。その場合、自由を活用することによって神の御心を行うことができるのです。それが神に対する従順であります。従順は単純に行為と振る舞いとなります。このようにして、クリスチャンは自分の考え、言葉、業の全体の中で神の意志、性質、業を反映させるのです。
勿論、わたしたち人間の能力の限界の中での話です。しかし謙遜に神に求めることによって、しかも「心を尽くし、精神を尽くし、想いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛するのです。」(マルコ12:30)。すなわち、神の意志に従い、それを実行するのです。そのことは他でもない「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)と言う第二の掟を実行するのです。
このように主イエスの十字架の贖いと復活と昇天により、神との和解の上に成立している神との人格的な交わりの中にある「自由の光と空間」の中で、呼吸し、生きることが主の掟を守ることなのです。
この掟に従い、隣人を愛することを、純粋な思いで、何も主張することなく、何も要求することなく、全く感謝の一念で掟を実行することが愛であります。同時にそれは聖霊の業です。

(4)手引きとしての掟の役割
特に留意すべきことは、クリスチャンが実行すべき愛は、人間の愛ではなく神の愛です。しかしこのことはクリスチャンにとっても、決して自明のことでないという点を自覚している必要があります。神の愛は人間にとって自明の事柄ではありません。
従いまして、人間がイエス・キリストにおいてすでに与えられている自由を使用するようにする指示、手引き、誘導が重要です。なぜならば、自由な空間、言い換えれば主イエスの支配する国はすでにクリスチャンを取り巻いていますが、それは父なる神の国であり、人間は自分が主人であるかのように振る舞うことのできる国ではありません。どうしても、そこに与えられているクリスチャンの自由を使用するためには手引きが必要なのです。正にキリストの掟が手引きなのです。わたしたちは掟を自分の手でしっかり握り、掟に誘導されて、自分に与えられている自由を用いて、思い切って実行するのです。それは冒険をすることです。その冒険において、理屈抜きに、直ちに掟を実行するのです。そのことが愛することです。
要するに、わたしたちクリスチャンはイエス・キリストにおいて事実として自由であるゆえに、「イエス・キリストご自身」が、その自由の中に入る誘導であり、自由を使用する手引きなのです。
最後に、隣人を愛しなさいと言う主イエスの命令を実行することは、主イエスに従うことであり、主イエスに対する愛であることは既に説明しました。しかし、それだけではありません。
主イエスは、最後の審判者として、次のように仰せられます。このことはマタイによる福音書25:40節と45節に記されています。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
「はっきり言っておく、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったのである。」(マタイ25:45)
十字架の死においてご自身をすべての者の救いのために献げられた主イエスは、復活し、昇天し、天と地の万物の支配者として働いておられます。正に、その主イエスは、最も小さい者の一人の中にいて、貧しくなり、助けを必要としておられる方でもあります。他の人間に助けを求めておられるのです。それゆえ、最も貧しい人に愛の業を行った者をイエスは喜び、わたしにしてくれたのであると仰せになるのです。反対に、最も貧しい人に愛の業をしなかった者は、主イエスを愛さなかった者なのです。従いまして、隣人を愛するということは、実は主イエスを愛することなのです。隣人に奉仕することは、実は主イエスに奉仕することなのです。
主イエスが新しい命令として与えられた内容は、「互いに愛し合いなさい」というただ一つの命令です。あるいは、「隣人を自分自身のように愛しなさい」というただ一つの命令です。しかし、これは具体的な愛の行為のすべてを総括している命令なのです。主イエスが地上の生涯で、弟子たちや他の人々に教え、語られた事柄のすべてを含んでいます。さらに復活し、昇天し、聖霊により信仰者の中に臨在し、信仰者と人格的に交わり、信仰者を導いておられる霊なる主ご自身が、御言葉をもって語られる方であります。生ける主の御言葉に聞き従うことはクリスチャンが神の愛に生き、クリスチャンの自由をもって、神の愛を実行することなのです。



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