2011-07-17(Sun)

新生の必要 2011年7月17日の礼拝メッセージ

新生の必要
中山弘隆牧師

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書36章25~27節


 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
ヨハネによる福音書3章1~14節


(1)イエスとニコデモの対話
 本日の聖書の箇所はイエスのもとにユダヤ人を代表するニコデモが来て、イエスと対談したことが記されています。3章1節には二人の出会いが次のように説明されています。
 「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(3:1)
 ニコデモとはよく知られたギリシャ名ですが、これはヘブル語のニクディモンのギリシャ訳です。彼はユダヤ人の社会を支配する議会の議員であり、ファリサイ派に属しており、さらに律法の教師でありました。いうなればユダヤ教の代表者と言える人物です。彼がイエスのもとに一人でこっそりとやってきました。
 「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
 「ある夜」とは、ニコデモは自分がイエスに面会に行くことを人に知られたくなかったのだと思われますが、同時に、「ユダヤ教の暗さ」の中からイエスの持っておられる「本当の光」の前に出てきたということを象徴しています。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできません。」と言っているのは、ニコデモもイエスのなさったしるしを見て信じた多くのユダヤ人の一人であったことを表しています。
このことは2:23で「イエスは過ぎ越し祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスを信じた。」と説明されていることから分かります。
ニコデモはイエスを「ラビ」と呼びました。これはニコデモがイエスを自分と同じように「ラビ」すなわち律法の教師として尊敬していることを表しています。しかし、それだけでなく、イエスをモーセやエレミヤのような偉大な預言者と見ています。
確かに神は旧約聖書の預言者たちと共におられたようにイエスと共におられました。しかし、イエスは律法の教師や預言者ではなく、そのような者を越えた方としてこの世に来られた神の御子です。
従いまして、イエスを教師や預言者と見なすことは、神の御子としてのイエスの人格の秘密をまだ理解していないのです。なぜならばイエスの本当の秘密は人がイエスと出会うとき、神が啓示されるのです。そのときにだけ、人はイエスが誰であるかを理解できるのです。

(2)神の国と聖霊による新生
ニコデモの見解に対して、イエスは次にように仰せられました。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3)
イエスのこの言葉を聞いて、ニコデモは大変驚き、そのようなことは全く不可能であると考え、次のように言いました。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(3:4)
ここで、ニコデモの「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」という質問は、「まさか、そんなことはできはずがありません」と言う言い方で、相手もできないと答えることを期待しているのです。これは「人は、新たに生まれなければ」というイエスの言葉をニコデモはこの世界の秩序にそって考え、人間は「二度」生まれることは不可能であると判断しました。
実は、イエスの言われた「新たに生まれる」というギリシャ語は「アノーセン」と言いますが、二つの意味を持っています。一つは「再び」と言う意味であり、一つは「上から」という意味です。
そこでイエスは「新たに生まれる」という事柄をはっきりさせるために仰せられました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)
ここで、イエスは「新たに生まれる」と言うことを「上から生まれる」という意味に限定し、「水と霊とによって生まれる」と言い換えられました。
つまり、「神の国に入る」ということは、「自然的な人間」としての範囲の努力によって達成される事柄ではない、と仰せられたのです。自然的な人間が直線的に神の国に連なっているのではないことを明らかにされたのです。人間としてイスラエルの民は神から選ばれた特別の民であることは事実であっても、所詮それは「自然的な人間」の範囲の特権に過ぎないのであり、神の国に入るためには、自然的な人間との不連続が必要である。そのためには神の霊によって、上から生まれることがどうしても必要なのだ、と仰せになりました。
そこでニコデモはますます驚き、全く理解できなかったのです。その理由はユダヤ教の教理では、「神の国」はこの世の終わりに到来する国として考えられおり、従って「永遠の生命」もこの世が終った後の「来るべき時代」に属しています。しかし、信仰者はこの世界の中で、律法に従う生活をすることにより自己の功績を得るならば、終わりの時に、神の国に入り、永遠の生命を受けることが保証されている、と教えています。
ダニエル書では人が死人の中から復活することによって律法の業による功績を持っている者に永遠の命が与えられると預言しています。
「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かってなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はととこしえに星と輝く。」(ダニエル書12:1~2)
それに対して、イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と仰せになりました。ここで、「神の国を見る」と言う意味は神の国を「体験する」ことです。しかも、イエスは神の国を今見ることができるという意味を込めて仰せになったのです。
ニコデモは、ユダヤ教徒のいわば代表者でありますから、旧約聖書の約束する神の国が成就することに対するに対して準備ができているはずであります。例えば、預言者エゼキエルの次の預言の言葉を理解しているはずであります。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル書36:26~27)
ニコデモは旧約聖書のこれらの預言を理解し、預言の実現に対する心の準備ができていないため、主イエスにおいて、旧約聖書の預言は成就したことが理解できなかったのです。ここにユダヤ教の限界があります。
確かに神の国は終末的な出来事であり、永遠の生命は来るべき時代に属する命です。しかし、神の国と永遠の命は、主イエスが人類の歴史の真ん中に来られたことによって、主イエスを通して、今や開始しているのです。神の国の「先取り」として、今この歴史の中に働いているのです。それゆえ、主イエスを信じる者が、神の国を体験し、その永遠の命に「今」この地上で生きることができるのです。
それゆえ主イエスは3節で仰せになったように、「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」のです。
「水と霊によって生まれる」ということは、主イエスを救い主と信じて受けるキリスト教の洗礼を意味しています。キリスト教の洗礼は水による罪の洗いを意味していますが、同時に聖霊を受け、聖霊により新しく生まれることを意味しています。
しかも新しく神の子として生まれたクリスチャンの永遠の命は「主イエスの中に」あるのです。クリスチャンは「自分自身の中に」永遠の命を所有する者になったのではありません。そうではなく永遠の命を主イエスの中に所有する者なのです。そして、永遠の命は主イエスを通して、絶えずクリスチャンの中に働くのです。
このことは、15節で説明されています。
「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためです。」
(3:15)。ギリシャ語の原典では、この箇所は、「人の子の中に」となっています。言い換えれば、主イエスの中にと言うことです。
 これは人が主イエスを信じ、洗礼を受けるとき、聖霊が与えられ、聖霊によりクリスチャンは主イエスと結びつき、主イエスとの人格的な交わりの中に入れられるのです。そのことによって、主イエスの中にある永遠の命は絶えずクリスチャンに供給されます。

(3)霊の現実
 ここで、主イエスは霊の現実について次のように仰せになりました。
 「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。」(3:6)。
これはどういう意味でしょうか。肉とは肉体と言う意味ではありません。従って霊とは精神、内的自己、自我あるいは自分の人格という意味ではありません。また、肉とは人間の低い思いであり、霊とは人間の高い思いであるという人間の精神面での低い部分と高い部分の区別ではありません。そうではなく、人間が低い思いをもって行動するときも、高い思いをもって行動するときも、人間は常に両方を合わせた全体として考え、行動しているのです。そのような総体的人間が、ある人は肉であり、ある人は霊であるというのです。
つまり、生まれながらの人間は皆、肉に属しているのです。神の民として選ばれた選民イスラエルも肉であり、偶像を崇拝していた異邦人も肉であるのです。そのようなイスラエルも異邦人も、主イエスを信じ、洗礼を受けることにより、霊となるのです。
霊とは主イエスの内にある永遠の生命が、聖霊を通して働くことです。言い換えれば、霊は救いを与える神が人間の中に臨在していることであり、人間の中に働く神の救いの力強い現実なのです。
このことについては、パウロがローマの信徒への手紙で説明しています。
「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではなく、霊の支配下にあります。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9)
9節の前半の意味は、聖霊を受けている者は、聖霊に導かれているのです。そして、聖霊に従って歩む者は、聖霊に属することを考えると5節で言っています。つまり、聖霊に導かれている者は、神の御心を知り、神の御心を喜んで実行するのです。それゆえに神に喜ばれる生き方をします。9節の後半の意味も前半の意味と同じです。キリストの霊を受けている者は、キリストの支配下に置かれ、キリストに導かれている者です。そのような者は、神の御心に適う生き方を喜んでするのです。
これのような生き方をする者が、ヨハネ福音書の言葉では、「霊」であるというのです。そして、霊に従って人生を歩む者は、霊の思いを考え、霊の思いを実行します。反対に生まれながらの人間は、肉の思いを考え、肉の思いを実行します。
霊の思いは神の愛を知り、神の愛を実行することです。肉の思いは、貪欲と高慢であり、自己の欲望を満たすことを考え、実行するのです。霊の思いは、平和と命です。肉の思いは争いと死です。

(4)人の子が上げられる必要
最後に、人間が聖霊によって生まれること、人間の中での神の救いの現実としての聖霊は、主イエスの人格の中で働いていましたが、弟子たちを含めて、他の人間にはまだ働いていませんでした。従って、イエスの仰せになっている聖霊は、イエスの十字架の死と、復活と昇天を経て実現する事柄なのです。
それゆえ、主イエスは人が聖霊を受け、永遠の命に生きるために、一番必要なことはご自身の十字架の死であると仰せになったのです。このことは次の御言葉が明らかにしています。
「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、天にのぼった者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(3:13~15)
「人の子」とは神の御子である主イエスのことです。御子は天にあって父なる神と共におられた方です。人間の救いのために神の御子が人間となられたことを、人の子は天から「下ってきた」と言われたのです。人の子とは神と人間との仲保者と言う意味で、人間に神を啓示し、同時に人間の罪を贖う使命を与えられている方です。それゆえ、再び天に「上げられる」のです。しかし「その道」は十字架の死です。
十字架の犠牲の死を全うされることを、十字架に「上げられる」という表現がされています。またこの重大な出来事に二重の意味を持つ「ヒュプソーセーナイ」というギリシャ語が使用されています。ヨハネによる福音書の奥義を解くカギはこの二重の言葉です。
この「上げられる」という言葉は、十字架の上に「架けられる」と言う意味と「天に上る」すなわち「天地の支配者としての栄光を受ける」という両方の意味で使用されているのです。人類の救い主となり、全宇宙の支配者となられた主イエスの栄光は、十字架の苦難と恥との中で現れているのです。これがヨハネ福音書の強調点です。
十字架に上げられた人の子は、人間に永遠の命を与えます。その理由は、人の子が十字架の死を経て、人類の救い主、天地万物の支配者となり、聖霊がキリスト教会に降臨したからです。その結果、主イエスを信じる者に聖霊が与えられるようになりました。
聖霊が人間に与えられるためには、人の子が天から下り、再び天に上ることが必要であったのです。神の御子が受肉して人間となってこの世界に来られたこと、地上の生涯を通して、この世の誘惑に勝利して、神の御心を実行されたこと、神の国の宣教活動をされたこと、十字架の犠牲の死を全うされたこと、復活し、昇天して天地の支配者になられたこと、これらすべてのことが達成される必要があったのです。  
わたしたちに聖霊が与えられるために、どれほど大きな神の愛と犠牲があったことでしょうか。従いまして、聖霊はこれらのことから切り離して、聖霊を求めるということは見当違いです。父・子・聖霊の三位一体の神が人間の救いのためにご自身を投入された神の働きによって、主イエスを信じる者たちに、聖霊が与えられることが保証されているのです。



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