2011-07-10(Sun)

イエスは命のパン 2011年7月10日の礼拝メッセージ

イエスは命のパン
中山弘隆牧師

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記8章2~3節


 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ヨハネによる福音書6章24~35節

(1)人間にとって最も必要なもの
 わたしたち人間が生きるために、最も必要なものは何でしょうか。人々は暮らしを立てるために、職場を見つけて、そこで働いて、収入を得ることが一番必要であると考えています。現代の社会は生活が便利になり、豊かになっていますが、電気、水道、ガス、交通手段、通信手段、それらすべての生活手段は金がかかるようになっている社会でありますので、働いて収入を得ることが一番必要であると思っている人々が多い世の中です。しかし、その職場も安定しているわけではありません。景気に左右され、常に流動的であります。そのために、人々は思い煩っています。これが人間の現状です。
 このような現状の中で、人は自分の人生に対して不安を抱いていることを誰よりもご存じである主イエスは、「思い悩むな。----あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31~33)と仰せられました。
 わたしたちのすべてのことを知っておられる神が、主イエスを通してご自身を現し、信じる者が神の御前に生きることができるようにしてくださった、これが神の国と神の義である、と仰せになりました。
 聖書の神は、人間と世界の創造者であり、支配者であり、救済者であります。わたしたちの存在と行動のすべてのことが神に知られています。それゆえ、わたしたち人間はこの神を知り、神の意志に従った生き方をすることが、人間の生きる本当の意義なのです。この生き方が一番確かな、頼りになる、現実的な行き方であります。それはわたしたちが主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスと共に歩むことを体験するとき、この生き方の中に本当の命あることが、分かるのです。
(2)ユダヤ人のイエスに対する誤解
 本日の聖書の箇所でありますヨハネ6章26~27節で、主イエスはこのように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。あなたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
 群衆は主イエスが五千人の大衆に食べ物を与えられたとき、非常に感動し、主イエスを来るべき大預言者であるとして、主イエスを自分たちの王にしようとしました。このことは6章1~15節に書いてあります。生活に一番必要なパンを与える者を自分たちの王にしようとしたのです。言い換えれば、イエスをメシアにしようとしたのです。
 しかし、イエスは彼らの期待に応えてメシアになることを拒否されました。なぜならば、イエスは本当の意味でメシアであったために、イスラエルの民衆が期待しているメシアとは全く異なる使命を果たさなければならなかったからです。
 民衆の期待したメシアは、超自然的な力を働かせ、人間の生活を守り、豊かにする神的なカリスマを持った指導者でありました。
 このような民衆の考え方からすれば、「いつまでもなくならないで、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさい」というイエスの言葉を誤解し、イエスが与えてくれる食べ物は、どれだけ食べても尽きることのない不思議な食べ物であると思い込み、そのような食べ物を与えられるように願ったのです。
 しかし、イエスが与えられる食べ物は、そういう食べ物ではなく、「永遠の命」を与える食べ物であると仰せになりました。そこで、民衆はイエスの話されることの意味が分かりましたので、イエスが神から遣わされた者であることを信じるに足りるだけのしるしを見せてくれるように要求しました。
 このことは6:30に記されています。
 「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。』」
 そして、旧約聖書における最大の預言者モーセが現した「しるし」よりも大きなしるしをイエスに要求しました。それはイエスが神から遣わされた者として自分に与えられた任務は、モーセの任務より大きいと言われたからです。
 31節で、民衆はわたしたちの祖先は、荒れ野でマンナを食べたと言っています。
「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに食べさせた』と書いてある通りです。」
 この聖書の箇所は出エジプト記16:4、13~15です。しかし、イエスは「しるし」を拒否されました。なぜならば、主イエスを信じることは、しるしによるのでなく、主イエスの人格と業を見て、信じることに他ならないからです。
(3)永遠の命を与えるパンと永遠の命に生きる律法
 ここで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(6:32)
 ここには二つのことが言われています。第一点は天からのパンを与えた方は、モーセではなく、主イエスの父なる神であったということです。第二点はモーセが与えた天からのパンは、天からのまことのパンではなかった。
 このことを積極的に言い表しますと、次にようになります。
 天からのまことのパンがある。そしてそれはイエスを通して与えられる神の賜物である。
 しかし、ここでは「律法」が「パン」として言及されています。この関連につきましては申命記8:3が示唆しています。
 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
 申命記によりますと、マナは人が主の口から出る言葉によって生きることを象徴している「しるし」であると言えます。これはモーセによって与えられたマナはモーセによって与えられた律法のしるしとなっている、という意味です。
 従いまして、32節の主イエスの言葉は次の意味を持っています。モーセによって与えられたパンは真のパンではなかったということ、そしてモーセによって与えられた律法は本当の律法ではなかったということ、マナも律法もともに真のパンと真の律法の比喩であるということです。それゆえ、「真のパンと真の律法」は、言い換えれば永遠の命は、神が与えられる「人の子」であるという積極的な意味を持っています。
従いまして、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(6:27)と、イエスが仰せになる意味です。
そして、人の子を信じさせるものは、群衆の求めるしるしではなく、父なる神の証である、と言われたのです。
「人の子」とは真の神であり、真の人間である主イエスが神と人間との「仲保者」であり、父なる神は人の子に永遠の命を与え、人の子はその命を「人の子」を信じる者たちに与えられるのです。
 モーセがただ予表していた永遠の命を神は人の子を通して、今や与えられるのです。
それゆえ、またモーセの律法は第二次的なそして暫定的な神の啓示であった。しかし、今や主イエスを通して与えられているものは、マナとモーセの律法が指し示している事柄の実体である、と言うのです。

 さらに、モーセの律法とマナとは過去に与えられた事柄でありますが、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。」のは、現在の事柄として語られています。そしてギリシャ語の動詞の現在形は、本来現在進行形の意味を持っています。それゆえこの言い方は、主イエスの父なる神が永遠の命を日々お与えになることを強調するのです。
 次の33節の言葉「神のパンは、天から下って来て、世に命を与えるものである。」はヨハネ福音書の中心テーマです。このテーマについては、3:16ですでに語られています。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 さらに、35節では主イエスご自身が宣言されています。
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)
 「わたしは----である」「エゴー エイミー」と言う言い方は旧約聖書では神の啓示と命令の言葉です。新約聖書の福音書では主イエスの人格を啓示するキリスト論的な宣言の言葉です。イエスはわたしたちに対して、「わたしは命のパンである。わたしのもとにきなさい。そしてわたしを信じなさい。」と招いていてくださるのです。

 次に、この宣言と招きの言葉は、同時に人間に躓きとなる面があります。それは天から下ってきたパンであるイエスを、人はどうして食べることができるか、と言う疑問です。
 52節でユダヤ人は「どうしてこの人は自分の肉をわれわれに食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めました。
 これは人食い人種のように、共食いをするという意味にとって、そのような野蛮で、残酷なことはわれわれにはできないというのです。
勿論、イエスはそのようなことを言われたのではありません。イエスの言われた内容は、人間の罪を贖うために、自分の命を犠牲にすることであり、そしてその犠牲によって、人間にご自分の命を与えることができるようになる、と言う意味です。
 主イエスは「人の子」として、神と人との仲保者の使命を果たす中で、主イエスの地上の全生涯が重要な意味を持っているのです。実にその全生涯を「肉」と「血」という言葉で表されました。生身の体として、「肉と血によって」生きられた全生涯が、人間に父なる神を啓示することであり、人間を罪と死から贖う救いの行為であったからです。特に十字架の死と死からの復活と昇天が贖いと救いの中心的な出来事であります。
(4)神の救いの現実としての霊
 今、イエスは招きの言葉を福音宣教の中で発せられていますが、その発言の根拠はイエスが十字架の死と復活とを経て、昇天された地点に立って、そこから見ておられるからです。
イエスの肉を食べ、血を飲まなければ永遠の命を受けることはできないというイエスの言葉に弟子たちの中でも躓いた者たちが多くいました。彼らはその言葉を聞いて、イエスから立ち去ったのです。
 その時イエスは62~63節で次にように仰せになりました。
 「それでは、人の子がもといた所に上るのと見るならば----。命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに離した言葉は霊であり、命である。」(6:62~63)
 これは主イエスが昇天された時、聖霊が降臨し、聖霊によって、主イエスが信仰者の中に内住され、聖霊を通して主イエスの命が信仰者の中に働くようになることを教えている言葉です。
その時、聖霊を通して主イエスと信仰者との人格的な交わりが与えられ、その中で信仰者は主イエスの命を受けて、神に従い、隣人を愛するという永遠の命に生きるのです。

 ここで「肉は何の役にも立たない」(6:63)と言われましたが、それは群衆が見て知っている肉の場合であります。
「肉と血」をもった地上での一回限りの「人の子」としてのイエスの生涯は、それを通して啓示と贖いが達成された「神の働き」であり、「イエスの生涯」そのものが「神の言葉」なのです。
従いまして、最後にイエスが「命を与えるのは、“霊”である。」(6:63)と仰せになった意味は、主イエスが信仰者の中に「神として臨在し」、死人の中から復活したイエスの「永遠の命」が「聖霊を通して」、わたしたちに与えられ、わたしたちの中に働くといことです。

それゆえ、わたしたちは聖餐式に列して主イエスの人間としての永遠の命をそのたびごとに新しく受けるのです。
この主イエスの生ける働きを聖書は「主は霊である。」「霊は命である。」と言っています。
聖書の言う「霊」とは神の臨在と神の現実的な働きなのです。すなわち、主イエスを通して働く「神の救いの現実」なのです。
「霊」である主イエスは現代のクリスチャンの中に内住され、現代の様々な状況に適応しながら、しかし永遠に変わることのないご自身の性質と思いを、クリスチャンの中に現されるのです。
それゆえ、ヘブライ人への手紙13章8節は霊である主イエスを、次のように言っています。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」



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