2011-07-03(Sun)

御子の権威 2011年7月3日の礼拝メッセージ

御子の権威
中山弘隆牧師

 打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか。獲物もないのに、獅子が森の中でほえるだろうか。獲物を捕らえもせずに、若獅子が穴の中から声をとどろかすだろうか。餌が仕掛けられてもいないのに、鳥が地上に降りて来るだろうか。獲物もかからないのに、罠が地面から跳ね上がるだろうか。町で角笛が吹き鳴らされたなら、人々はおののかないだろうか。町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか。まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなされない。獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか。
アモス書3章3~8節


 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ヨハネによる福音書5章19~30節


(1)愛のしるしとしての奇跡
 聖書では、主イエスが多くの病人を癒されたことが記されています。それは奇跡として見られていますが、神様が主イエスを通して、わたしたち人間の一人一人と関わり、神の愛の業として起こった出来事です。主イエスがそれらの人を探し出し、その困難の状況を知り、声をかけ、御言葉の力によって、それらの病を癒されたのです。
ヨハネ福音書の5章の場合にも、35年間も歩けないで苦しんでいた人がいました。彼は周りの人が信じられず、孤独の中で絶望しており、その間に治りたいという気持さえもなくなり、惰性の中で日々を過ごし、人々に対する不満を抱いていました。主イエスはこの人の状態を察知して、「良くなりたいか」と言われました。このイエスの問いかけに対してこの人が答えた言葉は、周囲の人たちの冷たさに対する苦情でありました。
「主よ、水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」(5:7)。しかしイエスは言われました。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(5:8)。
このイエスの命令を通して働いた神の力がその人を癒したのです。 実に、35年間の病が癒されたのですから、これはまさに奇跡です。しかしこの奇跡は神が主イエスを通して、病人を探し出し、愛してくださった神の愛の現れです。しかも、神の愛は本来的に人間を死から解放し、神の御前に生きる命を与えることに向かうのです。すなわち、主イエスを通して現れる神の愛の働きは人間を救うのです。
従いまして、ヨハネによる福音書では、奇跡の出来事は単なる奇跡物語で終わっていません。そこから、人々の注目を主イエスの人格の秘密に向けるように事態が展開しています。神が主イエスを通して、ご自身を知らせ、人間を罪と死との中から救い、永遠の命を与えられる神の愛の目的に人々の注意を集中させているのです。そこでは、病気の癒しは、人間の救いの「しるし」となっています。「しるし」は必然的に神の救いが何であるかを考える機会を与えているのです。

(2)主イエスの人格の特異性
5:19~20で、主イエスは次のように仰せになりました。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もその通りにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」
「子」とは神の御子という意味です。すなわち主イエスのことです。「父」とは父なる神という意味です。ここに三位一体の神の内部における父と子の交わりが啓示されています。それは愛による交わりです。
父は子を愛して、御自分のされるすべての業を子に示されるのです。子は父を愛して、そのすべての業において、父に全く依存し、従属し、父に完全に従われるのです。これが子の父に対する愛であります。
人間は神を見ることはできないのですが、神の御子である主イエスだけが神の姿を見て、父なる神のなさることを見ることができるのです。そして理解しておられるのです。
それゆえに、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もその通りにする。」と仰せになるのです。
ここに、御子のされる業はすなわち父の業であるという秘密があります。それゆえ人間に対する神の立場からすれば、父なる神と子なる神は同格なのです。しかも、神の御子が人間となられた主イエスは、人間の救いの業を父なる神と共同で実現される方です。これこそ主イエスの人格の神秘であります。
従って、ここで主イエスがご自身の人格の内奥を啓示されたのです。但し、5:19の御言葉である「はっきり言っておく。」という新共同訳の表現は、この御言葉の力を弱めています。ギリシャ語の原典では、「アーメン アーメン レゴー ヒュウミーン」ですが、これは神の御言葉の力を現しています。主イエスが今語られる御言葉、すなわち「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」というこの内容は、主イエスの発言と同時に有効となっている、という宣言です。
そして、この現実を父なる神様ご自身が、この御言葉を聞く者の心に直接証しておられるのです。このような荘厳な響きがここにあります。これが主イエスの独特な言い方です。わたしたちは聖書を読む場合、このことを特に留意することが必要です。
5:20節の後半の言葉、「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。」という意味は、主イエスのなされた病人の癒しは、神の業でありますが、これから神は主イエスにさらに大きい神の業をするようにされるというのです。さらに大きい神の業が何であるかを次に示されました。
ここで、イエスがご自身について語っておられる点は、四つです。
一つは人間を裁く神の権能を父なる神は御子である主イエスに委ねられたということ。一つは父なる神が命を御自分の内に持っておられるのと同じように、御子である主イエスが命を自分の内に持つようにされたということ。一つは主イエスが今主イエスの言葉を聞いて、信じる者にご自身の命を与えられるということ。一つは主イエスが最後の審判者であり、主イエスの御言葉によって、すべての人間は死人の中から復活するとき、救いの完成に至るということ。
 第一に、人間を裁く神の権能を父なる神は御子である主イエスに委ねられました。これはどういう事態なのでしょうか。すべての人間が御子である主イエスを「敬う」ことにより、父なる神を敬うためであると仰せになりました。実に御子を敬うことが、本当に神を敬うことなのです。神を敬っているといいながら、御子を敬っていない者は敬神という自己満足、自己欺瞞にすぎないのです。
実に神の権能は、人間を裁くことを通して、命を与えるということです。旧約聖書では、人間を生かすこと、人間を殺すことの権能は神にのみ属しています。
 かつて、預言者エリシャの時代に、アラムの王の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。イスラエルに重い病気を癒す預言者のいることを聞いて、アラムの王はイスラエルの王に手紙をそえて、軍司令官のナアマンをイスラエルの王のもとに遣わしました。
これは列王記下5:1~19に記されています。その手紙には「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病を癒してください。」と書かれていました。イスラエルの王はこの手紙を読んで、アラムがイスラエルに言いがかりをつけるために難題を突き付けてきたと誤解して、叫びました。
 「イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。『わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでもいうのか。この人は皮膚病の男を送りつけて癒せと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ』」(列王記下5:7)
 この時イスラエルの王は、人を殺したり、生かしたりする権限を持つ方は神のみであることを図らずも告白しています。このことを聞いた預言者エリシャは、イスラエルの王のもとに人を遣わし、「なぜあなたは衣を裂いたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者のいることを知るでしょう。」と言いました。結局、神は預言者エリシャを通して、神の力を働かせ、ナアマンを癒されました。
 それでは、御子に与えられた人間を裁く神の権能とは何でしょうか。
それは5:24~25で、主イエスが説明されています。
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきりと言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
ここで主イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わされた父なる神を信じる者は、永遠の命を与えられる。」と言われましたが、このことは主イエスが、「わたしを遣わされた父なる神を信じる者は、わたしを信じる」と言われたことと同じであります。要するに、主イエスを信じる者は、永遠の命を持つという宣言なのです。
 しかも、現在主イエスを見て、主イエスの御言葉を聞いて、主イエスを信じる者に、永遠の命が与えられるのです。このことは、25節の「今やその時である」という表現で一層明瞭になっています。
 また、「死んだ者が神の子の声を聞く」とは、肉体的に死んだ者というのではなく、霊的な意味で死んでいる者、つまり神から離れ、神から見て失われた者、罪と死の束縛と闇の中にある者と言う意味です。そういう罪人が神の御子・主イエスの御言葉を聞いて信じるときに、主イエスの内にある命を与えられ、神の御前に生きる者となるのです。つまり主イエスの命を受け、霊的な意味で復活するのです。これは主イエスと人格的な交わりを与えられ、その交わりの中で、永遠の命に生きることであります。これはパウロの言う「信仰義認」と「聖化」とを総合した言い方です。
 他方、主イエスの御言葉を聞いても、主イエスを信じない者は依然として、自らの罪と罪による束縛の中にとどまります。つまり死の中にあるのです。裁きとは主の御言葉を信じないこと、受け入れないことの結果に他ならないのです。実に御言葉は厳しいのです。
 主イエスの人格の神秘と御言葉には、信じる者に命を与え、信じないものに死を与えるという両方の働きがあります。そういう意味で神の裁きは歴史において進行中なのです。
 しかし、主イエスの裁きは、現在の裁きだけではありません。歴史が終わるとき、最後の審判を主イエスは行われます。最後の審判を通して、救いが完成します。
 この点についてはヨハネの福音書の見方は他の共観福音書の見方と一致しております。この点でも主イエスははっきりと仰せになりました。それは28節に記されています。
 「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
 このシーンはマタイ福音書25:31~46に記されている内容と並行しています。「人の子」とは主イエスのことであり、最後の審判を下される方です。しかし、最後の審判者は主イエスでありますので、この歴史の中でご自身の人格の神秘と御言葉をもって、罪人と出会い、信じる者に永遠の命を与え、聖霊を通して、主イエスとの人格的な交わりを与え、神と人に仕えさせられる方の審判であります。それゆえ最後の審判は救いの完成としての審判です。また主の救いが全人類に及ぶ時であります。それは正に審判を通して救いが全人類に与えられるということです。
 そのことをヨハネによる福音書では、27節が示唆しています。
 「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」
「子」とは神の御子であります。「子は人の子である」とは御子が真の人となられた主イエスを意味します。それゆえ、主イエスは「神」であり、同時に「人間の代表者」として、神と人との「仲保者」であります。それゆえに、裁きを行う権能を父なる神は主イエスに与えられたのです。従いまして、この神の権能を持つ裁き主は、「仲保者」であり、「贖い主」なのです。人類の罪を自らの上に担い、人類の罪を十字架の死によって取り去り、人類を罪の束縛から解放された方です。その方としての裁きであるということが、最後の審判の特質です。この点をわたしたちはしっかりと見据えていなければなりません。
しかし、その理解は主イエスの御言葉によって明らかされるのであり、父なる神が聖霊によって、わたしたちの知性を強め、心を照らされるときに与えられる認識です。

(3)聖書の特質
 最後に、主イエスは聖書について、「聖書はわたしについて証をするものだ。」と仰せになりました。(5:39)
 聖書は神の言葉であると言われますが、文字に書かれたものとしての聖書の言葉が神の言葉なのではありません。神の言葉とは人間を生かす神の意志と働きなのです。神の言葉自体に創造的な力があるのです。このことについてイザヤ書55:10~11で教えられています。
 「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、目を出させ、生い茂らせ、種まく人に種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 そのような「神の言葉」は「主イエスの人格と業と言葉」そのものなのです。特にヨハネ福音書はこの点を明らかにしています。1:1で「言葉は神であった」と言い、1:14で「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と宣言しました。また、1:4で「言葉の内に命があった。」の意味は、「主イエスはご自身の内に命をもっておられる。」(5:26)ということです。この命が人類の罪を贖うために、十字架の死において、神への従順を全うしたのです。そのことによって人類を救うために与えられるのです。
 聖書が言う「永遠の命」とは、主イエスの内にあり、主イエスを信じる者に与えられる命であります。そういう意味で、「神の言葉」とは「神の御子・主イエス・キリスト」であります。神の言葉とは人格的な意志であり、行為であり、霊的な力なのです。それこそ「主イエスご自身」に他なりません。
 それゆえ、聖書は本当の意味で神の言葉である主イエスを証しているのです。聖書を読んで、わたしたちが主イエスを出会い、主イエスの人格と業を熟慮して、主イエスを信じるときに、わたしたちの中に主イエスが臨在し、主イエスが神の言葉としての働きをされるのです。その時、聖書に書かれた言葉が神の言葉となるのです。それは聖書の言葉を通して、主イエスご自身が語られるからです。
 そういう意味で、旧約聖書は主イエスの到来を預言し、待望することによって、主イエスを証しているのです。新約聖書は主イエスの人格と業と言葉を想起し、また聖書において、主イエスと出会い主イエスの言葉を聞くことを期待するのです。そのことによって主イエスを証しているのです。
主イエスご自身はすべての人に聖書の研究を通して、「わたしのもとに来なさい」と招いていてくださいます。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR