2011-06-19(Sun)

わたしは世の光である 2011年6月19日の礼拝メッセージ

わたしは世の光である
中山弘隆牧師

 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
イザヤ書60章1~3節


 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
ヨハネによる福音書9章1~12節

(1)勧善懲悪の視点を超える
 本日の聖書の箇所には、生まれながら目の見えない人がキリストによって癒されたことが記されています。否それ以上にキリストを信じて、真の神を知る者となったと、記されています。
 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見つけられました。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』」(9:1~2)
 生まれてくる子供には何の責任もありませんので、ユダヤ教によれば、生まれつき目の見えない人は、親の罪の結果であると考えられていました。しかし、人間のさまざまな不幸や身体的な障害は罪の結果であるという考え方に立てば、だれが罪を犯したのかと言うことが問題になります。弟子たちはこのような考え方に立って、主イエスに尋ねています。それに対して主イエスは仰せられました。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)
 これは実に驚くべき考えです。主イエスの視点はユダヤ教の教師たちの視点とは全く異なっています。ユダヤ教の考えは、勧善懲悪の思想に基づいています。善をなすならば、神から報いを受け、平安と繁栄が与えられる。他方、悪をなすならば、神の罰を受け、様々な災難や悩みに遭遇するという考えです。
 こういう見方は、ある意味で合理的で、理解しやすい面もあります。実際、神様は人間が善意によって、真面目に生きることを欲して、この世界と人間とを創造されましたので、その秩序を保つためには、善をなすことが勧められ、悪をなすことが罰せられることは必要です。
 しかし、勧善懲悪の思想は自らの重荷を背負って、辛い日々を送っている人々を突き放す、冷淡な思想です。クリスチャンの詩人として知られていた島崎光正氏は生まれたときから、二分脊椎(にぶんせきつい)という障害がありました。その上、父親は若い医師でありましたが、島崎さんが生まれて一か月目で患者から感染したチフスのため亡くなられました。そのため島崎さんは父の郷里に引き取られ、祖父母の手によって養育されることになったのです。他方23歳であった生みの母は、実家に帰されました。しかし、信州にいるわが子を抱きたくて、遠く離れた九州から会いに来られたのですが、わが子を連れて帰ることは許されず、その悲しみに耐えきれないで、ついに駅のホームで心の糸がぷっつりと切れたかのように錯乱状態に陥りました。それ以後は一歩も病院から外に出ることはなく、20年の歳月を過ごして生涯を閉じられたのです。
 この事実を島崎さんは小学校5年生の時に、お祖母さんから知らされました。その時はまだ母親は悲痛な日々を送っておられましたが、母の心の痛みを思うと同時に、このようになったのは自分への愛のためであったことを知って、限りない感謝の念を覚えられたのです。それ以来、自分の身体の刺は、母からもらっているという不満は全く消えたと言っておられます。
さらにそのことが、キリストの十字架の贖いと二重写しになって、自分の生涯を支える太い杖となっていると言っておられます。
これに対して、勧善懲悪の思想は、悲惨さの中にある人にその重荷を共に担う援助の手を差し伸べることは決してしません。ただ現実の悲惨な結果を見て、それがどうして起こったのかを説明しようとするだけです。そして悪い結果を誰かの所為にして、その人が罪を犯したためである、と言うのです。
それとは全く対照的に、キリストは「神の業がこの人に現れるためである。」と仰せられました。キリストの視点は何という積極的な見方でありましょうか。それは人々を悲惨な現実から立ち上がらせる力を持っています。キリストの視点は現実を変革するものであります。
確かに、神の創造された世界に、苦しみや死が入ってきたのは、神に背いた人間の罪に原因があります。人類の始祖であるアダムの原罪により悪がこの世界に入ってきました。その結果、人類はさまざまな悪の力に支配されるようになり、世界に混乱と悲惨さがもたらされたのです。しかしながら、それは人類全体と世界の根本的な在り方に影響を及ぼすものでありますが、個々の人間が病気になったり、事故に遭遇したりすることと、直接に関係しているのではありません。まして本人の罪がそれらの災難を引き起こす原因ではありません。
キリストはここで「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」とはっきり仰っておられます。
ご利益宗教では、そのような災いは本人の罪やあるいは先祖の罪が原因であると言います。そしてこのような災いから逃れる方法は、その罪を取り除くことであると教えています。しかし、病気や災いの原因は罪ではありません。そうではなくこの世を支配している様々な悪であります。従いまして、病気の直接的な原因である様々な悪を取り除かなければ、病気は治りません。そのために医療や福祉を確立することが必要なのです。

(2)神の救いの視点から
具体的な人間に対する主イエスの見方は、「神の業がこの人に現れるためである」という積極的態度です。これは神の救いの基盤から、現在の事柄を判断する見方です。言い換えれば、新しい未来から現在の状況を理解するのです。
主イエスは神の救いの視点から、現在の人間の状況を判断し、それは「神の栄光」が現れるためである、と仰せられるのです。
イエスは「神から見れば失われている罪人を神は探し出し、招き、罪の赦しを通して、ご自身との交わりに入れてくださる。そのことを通して、人間は癒され、立ち上がり、神を知り、神に従う者となる」と信じられたのです。イエスは自分が神のもとからこの世界に遣わされたのは、実にこの神の目的を実現するためであると自覚しておられました。
これは何という素晴らしい信仰であり、深い認識でありましょうか。それゆえに、イエスは生まれつき目の見えない人に、ご自身の信仰をもって命じられたのです。
「シロアムの池に行って洗いなさい。」(9:7)
実に確信に満ちた言葉で命令されました。主イエスの信仰は決して概念的なものではなく、常に具体的な事柄の中で働いています。それは本当に真剣勝負です。イエスの信仰は評論家のように気楽なものではなく、自己の責任を伴い、結果によってすぐに判定される立場にあります。イエスは神がこの人を視力の皆無の状態から、正常に見える状態へと変革する創造的な力を働かせて、癒してくださると信じ切っておられたのです。
一旦語られた言葉は撤回されることはできません。万一そのようにならないとすれば、イエスの立場はたちまち崩壊します。全く背水の陣で、癒しの奇跡がなされたのです。
イエスが地面に唾を吐き、泥を作って、その泥をこの人の目に塗られました。そして、シロアムの池に行って、泥を洗い落としなさい。そうすればあなたの目は見えるようになる、と仰せられました。
主イエスの命令に従い、シロアムの池で目を洗いましたら、この人の両眼は生まれて初めて見えるようになりました。感謝と喜びに満たされて、もといた場所に戻ってきました。
従いまして、主イエスの言葉通りになりましたのは、父なる神ご自身がこの人の苦しみを担い、この人の中に働かれたからであります。この癒しは、実にイエスの信仰によるのです。
このように、主イエスは自分が神からこの地上に遣わされた者であることを常に自覚しておられました。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わなければならない。----わたしは、世にいる間、世の光である。」(9:4~5)
この御言葉は、主イエスは自分が父なる神から遣わされて、この世界に来た者であるゆえ、世にいる間、「世の光」としての使命を果たさなければならないという明確な自覚を表しています。
それゆえ、主イエスは常に父なる神との交わりの中で、行動しておられる方です。主イエスは生まれつき目の見えない人が道端にいて、物乞いをして露命を保っている場所に来て、その人の生活の悩みや希望の光が射さない心の闇を察知し、それをご自身の上に担ってくださったのです。同時に、父なる神がこの人の問題を解決してくださると確信されたのです。この信仰に基づいて、主イエスは行動されましたので、父なる神がこの人を癒されました。
シロアムとは、「遣わされた者」という意味です。この人がシロアムの池に行って、目が見えるようになりましたので、「イエス」は神から遣わされた方であるという確信が与えられました。
ファリサイ派の人々から、どうしてお前は癒されたのかと尋問された時、彼はイエスこそ神から遣わされ方であると言い張りました。ファリサイ派はイエスが安息日の掟に反する行動を取っているから罪人であると断罪しました。そのとき、彼はイエスが神から遣わされた方でなければ、神様はイエスの願いを聞かれるはずはないと主張しています。
このように、ヨハネによる福音書では、主イエスのなされた力ある業は、それが現れる根拠となっている「主イエスの人格」の秘密に人々の注目を向ける手段となっています。
また、主イエスがご自分の使命であると確信しておられた「世の光」の働きは、人間に神を「啓示」することでありますが、具体的には主イエスの人格の働きを通して、人間に神を知らせることであります。この働きは、主イエスが真の神であり、真の人であることによって、初めて可能となった事柄なのです。

主イエスは、父・子の交わりの中にある御子であります。ヨハネによる福音書は第一章の冒頭で、御子を「神の言葉」として父なる神と共にある神である、と語っています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)
さらに、神の言葉である御子が、「受肉」して、真の人間となってこの世界に来られた方を主イエスと呼んでいます。
「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)
このように、主イエスにおいて、神の恵みと真理が現されたこと自体が、主イエスの「世の光」として働きなのです。
世の光としての主イエスの働きは、必然的に、主イエスと神との関係と主イエスと人間との関係を基づいてなされたのです。もし主イエスが真の神でなければ、わたしたち人間に神を完全に知らせることはできません。他方、主イエスが真の人間でなければ、神の言葉を完全に人間の言葉として、言い表すことはできません。
ヨハネによる福音書は、主イエスがなされた教えと行動のすべての局面で、主イエスの人格の中に起こっている思い、決断、行為、愛、性質を語っています。ここにヨハネによる福音書の重要性があります。

(3)主イエスを通して神を知る
次に主イエスが神から遣わされた方であると信じた人を宗教裁判にかけたファリサイ派はモーセの権威をもってイエスを拒否し、イエスを信じる者を破門しました。
しかし、イエスは預言者モーセよりも比較を絶した権威をもってこの世に神から遣わされた御子であり、しかも、真の人間となられた方です。ご自身の人格において、神と人間との真の「仲保者」であります。仲保者としての権威をもって、罪を赦し、病気を癒し、心と体と魂の救いを与えられる方として、十字架に死に、復活されました。
それゆえに、人はだれでも主イエスと出会うことにより、神を知り神の御前に立ち、神の御前に生きる者となるのです。
主イエスは癒された人が、ユダヤ教の会堂から追放されたことを聞き、その人と出会ってくださいました。このことは9章35~39に次のように記されています。
そこで、イエスはその人と出会い、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子」とはヨハネによる福音書では、神と人間との「仲保者」という意味で使用されています。このことは1:51から推測されます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見ることになる。」
このような神と人との仲保者である救い主をあなたは信じるかと問いかけられました。彼が「主よ、その人はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言いますと、主はご自身を証されました。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
彼はこの言葉を聞くや否や、信仰を告白しました。
「主よ、信じます。」と言って、跪いて主イエスを拝みました。
このことは、聖書を読んでいるわたしたちにちょうど当てはまります。わたしたちは聖書の御言葉に真剣に聞こうという心をもって、聖書を読み、聖書の言葉を熟慮しているならば、そのときすでに主イエスがわたしたちの心の中に臨在され、わたしたちと出会い、生ける人格としてわたしたちに対面しておられるのです。そしてわたしたちの心を照らし、わたしたちにご自身の命と真理を与えてくださるのです。その結果、わたしたちは神の御心を行うのです。
復活し生きて働いておられる主イエスに対面するときに、聖書に書かれている御言葉を直接主イエスが語られることによって、御言葉の持っている力と現実性が分かります。すなわち、御言葉はわたしたちを生かす現実的な命であることを確信するのです。
そのようにして御言葉を実行し、わたしたちは神の御前に生きることを体験します。それこそ尽きぬ喜びと感謝であり、神への賛美です。
また、人間の災い、喪失、悲しみ、苦痛はつねに御言葉によって、神が何をなし得るかを示しています。神を知らない者の上に、悩みや大きな不幸が襲い掛かると、きっと挫折してしまうでありましょう。だが、それらが神と共に生き、共に歩んでいる者に臨むときには、それらはかえって、心の強さと美しさと、忍耐強さと高貴さとを現します。
本日の聖書の箇所において、復活の主イエスは、わたしたちに出会い、「あなたの人生は、わたしの十字架を通して、神の業が現れる人生である。」と仰せられるのです。



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