2011-06-05(Sun)

父のもとに行く 2011年6月5日の礼拝メッセージ

父のもとに行く
中山弘隆牧師

 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。
ダニエル書7章13~14節


 「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
ヨハネによる福音書16章4~15節


(1)キリストの昇天
 教会歴によりますと、ペンテコステの十日前がキリストの昇天日と定められていますので、今年は6月2日になります。従いまして、本日の礼拝はキリストの昇天を覚えて行っています。
この聖書的な根拠は、使徒言行録の1章3節で、「イエスは苦難を受けた後、ご自身が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあり、それに続いて8節で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てまで、わたしの証人となる。」と仰せられ、9節で、「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と記されているからです。
しかし、ヨハネによる福音書では、イエスの昇天はイースターの日に起こった、と記されています。復活の主イエスがマリアに現れました。20章の16節に次のように記されています。
「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』と言う意味である。イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。』わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
この記事を読みますと、先ず分かりますことは、マリアはイースターの早朝、イエスが復活されたことを知ったのは、イエスが「マリアの名」を呼ばれたからです。そのことによって、今生ける人格として自分と出会ったおられる方が、十字架について死なれたあの主イエスであることが分かったのです。羊飼いは羊を各々の名によって呼ぶ者です。同時に羊は羊飼いの声を聞きわけるのです。ちょうどそれと同じように、マリアはイエスの声を聞いて、自分の名を呼ぶ方が、イエスであることが分かったのです。自分を知っておられる方は、十字架について死なれたイエスの他にはないことを熟知しているので、この方がイエスであることが分かり、イエスが今や復活して生きておられることを悟ったのです。
次に、この箇所を注意深く読みますと、マリアと出会われた復活の主イエスはまだ天の父のもとへ上っていないと言われました。しかし、同時に今から天の父のもとへ上ると仰せられました。
そして、イースターの夕方、復活の主イエスは弟子たちにご自分を現されました。しかも、この日すでに、主イエスは弟子たちに聖霊を授与し、福音の宣教のための霊的な力と主イエスの贖罪による罪の赦しを与える権威を弟子たちに授けられたのです。
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』(20:22~23)
この新しい事態は、主イエスが天に上り、父の右の座に就かれたことを現しています。
新約聖書においては、人間を新しく生かす主イエスの救いは、十字架の死、復活、聖霊の降臨を通して、力強く働いています。この霊的な現実を、初代教会は「イエスの昇天」と呼んでいるのです。つまり、復活の主イエスが天に上げられ、神の右に座し、神の国の支配が主イエスを通して行われるようになったのです。メシアとして人類の罪を贖われた主イエスが、栄光の座に着き、「名実ともにメシア」としての地位に就かれた現状を、イエスの昇天と呼んでいます。
このことがイエスの昇天について、最も重要なことであり、この点で初代教会の見方は一致しています。しかも、イエスの昇天は、死人の中から父なる神によって復活させられたイエスの復活に引き続いて起こったという見方についても一致しています。
ただ、復活の主イエスがイースターの後、何日経過してから昇天されたかと言う細かい点については、使徒言行録の見方とその他の見方とは異なっています。使徒言行録はイースターの40日後としています。それに対して、ヨハネによる福音書はイエスが復活された日としています。また、マタイによる福音書では、復活の主がガリラヤの山で、十一人の弟子たちと出会い、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ20:18~20)と世界伝道の命令を与えられましたが、これは明らかに神の右に上げられた主イエスの命令であります。そしてこの日はイースターより少し後ですが、使徒言行録のように40日後よりもずっと早い時期であったと思われます。

(2)人間として復活した主イエス
次に、主イエスの復活について、はっきりと知ることが必要な点は、主イエスは人間として復活したということです。
地上における主イエスは神の御子であり、同時に人間でありました。人間が神になったのではなく、神が人間となられた方でした。イエスが復活によって神の子とされたと主張するのは、キリスト養子説の最も古い異端です。キリストは最初から真の神であります。
従いまして、十字架の死は、主イエスがわたしたち人間の罪を背負って死なれたことでありますので、人間としてのイエスの死であります。しかし、イエスの人格の中で、人間であることと神であることは一つに結ばれていますので、神である方として、イエスは人間の死を担われたのです。このことによって、イエスの十字架の死において、神性と人性はイエスの人格において一つに結びついていました。
この神性と人性の結びつきを認識できない古代におけるもう一つの異端は、十字架で死んだのはナザレのイエスであり、神の御子ではない。十字架に付けられる前に、神の御子は天に上ったというのです。この異端説が仮現説とよばれています。なぜならば地上におけるイエスの生涯は神が人間としての仮の姿で現れたこと他ならないからです。
しかし、イエスは人間として復活させられたのですが、そこにおいても神であることと人であることは分離せず、一つに結びついています。なぜならば、復活の主イエスはご自身の神性を通してわたしたちと出会い、ご自身がわたしたちと同じ人間性を持っておられることを示されるからです。言い換えれば、復活の主イエスは神としてわたしたちのもとに臨在し、神としての働きを通してわたしたちをご覧になるとき、わたしたちも復活の主イエスを見ることができ、そこに出会いが起こるのです。
わたしたちはこのことをよく悟っていないと、主イエスの復活が不鮮明になってしまい、よく分からなくなります。
復活の主イエスはマリアにこう仰せられました。
「またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(20:16)
この御言葉は明らかにイエスがわたしたちと同じく、真の人間であることを表しています。復活の主イエスはこのようにして、ご自身は人間として復活したことを証されました。
地上の生涯において主イエスがわたしたちと出会われる場合に、人間としてのご自身の思い、性格、行動を示し、主イエスの神の性質と働きがそれらと一つ結びついていることを示されたのです。従いまして、主イエスは人間性の中で、隠された神でした。
復活の主イエスとの出会いでは、ちょうどその逆であります。主イエスの人間性は神性の中に隠されているのです。しかし、復活の主は神性の働きによって、ご自身の人間性を現し、人間としての性質と思いと行動をわたしたちに伝達し、わたしたちにご自身の命を注ぎ、わたしたちを支え、導かれるのです。わたしたちは神性の中に隠されているイエスの人性を知ることにより、イエスの人間としての命を受け、主イエスと人格的交わりの中で生きるのです。

(3)キリスト昇天の益
次に、主イエスは十字架の死を前にして、弟子たちとの最後の会話の中で次のように教えられました。
「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実をいうと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(16:5~7)
ここで、主イエスが弟子たちに「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と言われたのは、十字架の死を全うし、死人の中から復活し、昇天し、天地の支配者として、名実ともにメシアの地位に就く、と言う意味です。
これを弟子たちは、主イエスとの離別として理解し、主イエスとの交わりがもうこれで終わりとなると思いましたので、非常に悲しみ恐れました。
しかし、主イエスは「実をいうと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。」と仰せられました。
その理由は、聖霊が教会に降臨し、聖霊を通して、復活の主イエスとクリスチャンの交わりが不変不動のものとして確立するからです。ここで、主イエスが十字架、復活、昇天によって、これまでの目に見える主イエスと弟子たちとの交わりは廃止されることは事実なのですが、聖霊による主イエスとの生命的な交わりが授与されるのです。実にこれこそ、主イエスが「あなたがたのためになる」と仰せられた極めて積極的な内容であります。
ここでは聖霊のことが「弁護者」と呼ばれています。弁護者すなわち「パラクレートス」とは「援助者」、「執り成しのする者」と言う意味です。注目すべきことはパラクレートスというギリシャ語は、男性名詞であるという点です。「聖霊」はギリシャ語ではプニューマと言いますが、それは中性名詞です。パラクレートスと呼ばれることにより、聖霊は物質的な力ではなく、人格的な意志と働きをされる方で、「三位一体の神」である聖霊を意味するようになりました。
この聖霊を通しての主イエスが教会に臨在され、クリスチャンと人格的な交わりを維持されることは、何と素晴らしい幸いでありましょうか。そして昇天されたキリストは最早人間の目には見ることはできません。再びキリストが再臨し、その姿が見える時まで待たなければなりません。しかし、クリスチャンは決して悲しむ必要がないのです。

事実、弟子たちはその状況の中で、キリストの影響が以前にもましていよいよ強くなりました。キリストが弟子たちのところに来られ、共におられるというキリストの臨在を彼らは以前よりも一層生き生きと体験するようになりました。またキリストの力は、以前からの弟子たちや、また新たにキリストに従うようになったクリスチャンたちの中でますます強く働いたのです。従いまして、聖書の言う救いとは、わたしたちがキリストとの人格的な交わりの中で、神の御前に生きることに他なりません。それこそ本当の益なのです。
弟子たちはキリストの膝もとで過ごした恵まれた者たちです。それにも拘らず、彼らは主イエスの思い、性質、言動を本当の意味では理解していませんでした。その結果、彼らは十字架に躓き、主イエスを一人にして皆逃げ去りました。
たしかに、ヨハネによる福音書では、主の愛する一人の弟子が主イエスを理解し、主イエスの十字架のもとに立っていたとなっていますが、それはあるべき弟子たちの理想の姿の象徴であります。現実の弟子たちはペトロもヨハネも主イエスを捨ててガリラヤに帰ってしまいました。ともかく、弟子たちが本当に主イエスを理解するようになったのは、聖霊を通して主イエスが彼らの人格の中に臨在され、彼らの中に働かれたからです。

最後に聖書では、主イエスの十字架、復活、昇天は終末的な出来事であるという深い理解があります。言い換えればこれらの出来事を通して、神が人間の歴史の中に直接に入って来られ、人間の問題を担い、支配し、人間が神に喜んで従うという新しい性質の時が、始まったという意味です。新しい性質の時とは時間の中に神が臨在され、人間が神に応答し、神と共に歩む歴史です。その終局は全人類の救いです。
従いまして、歴史には二通りあります。一つは通常「ヒストリー」と呼ばれています。それは一般の人々が見聞きして、検証することのできる人間の歴史です。それに対して「ゲシヒテ」と呼ばれる歴史は、人間が神の意志と働きに直面して、応答することによって形成される歴史です。それは「神と共に歩む」人間の歴史です。しかし、神の働きの「現実」は信仰をもって応答しよう欲しない人には見えません。 
あくまでもヒストリーの視点からすれば、昇天のキリストは見えないのです。キリストが地上におられたときには、この世の人々に見える存在でしたが、自分たちの価値観によってキリストに反対しました。今や昇天されたキリストは人間に見えない存在なので、世の人々はもうキリストがいなくなったと考え、自分たちだけの歴史・ヒストリーを歩んでいます。
それに対して、昇天されたキリストは神の力をもって、この世界に臨在しておられます。神・人としてキリストが達成された「人間の命」を授けられる人たちには、キリストの存在と働きが見えるのです。そこに神と共に歩む人間の歴史・ゲシヒテが展開します。そのようなゲシヒテが教会を通して前進し、究極的にキリストの救いが全人類に及ぶのです。そこにキリストの栄光が限りなく現れます。
ゲシヒテの潮流の中に溢れ出る真の命があります。その大河から命の水を汲む者たちに対して、キリストは次のように仰せになりました。
「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(16:22)



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