2011-05-29(Sun)

霊的な礼拝 2011年5月29日の礼拝メッセージ

霊的な礼拝
中山弘隆牧師

 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
エレミヤ書9章22~23節


 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章13~26節



(1)真の礼拝
 今朝は、礼拝についての聖書の御言葉を共に聞く者でありたいと思います。わたしたちの礼拝が本当の意味で礼拝となるために、わたしたちはどうすればよいかを、主イエスは本日の聖書の箇所で教えておられます。
 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝をする者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 ここで真の礼拝が何であるかを主イエスは示されたのです。それまでは、サマリア人は、サマリアのゲリジム山で礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで礼拝していましたが、それぞれが自分たちは旧約聖書に従った正しい礼拝をしていると主張していました。確かにサマリア人は、創世記から始まって申命記まで五つの書を聖書としていました。いわゆるモーセ五書がサマリア人の正典でありました。それに基づいて自分たちは正し礼拝を行っていると主張していました。
 それに対して主イエスは神の権威をもって次のような回答を与えられました。神はユダヤ人やサマリア人の民族的な枠を超えた普遍的で霊的な礼拝を求めておられる、という全く新しい内容です。そして、神は霊であるから、礼拝する者も「霊と真理」をもって礼拝なければならないと、仰せられました。
ここに実に重要な意味があります。人の目にはいかに敬虔らしく見え、敬虔な礼拝を守ることで自分たちが満足しているとしても、人間の思いや力によって礼拝している限り、それは自己満足に過ぎず、決して神の望まれる礼拝ではないと、主イエスは仰せられたのです。
 主イエスが「神は霊である」と仰せられた意味は、神は人間のように身体をもっておられる方ではないから、人間の目には隠された神である。しかし全能の力をもって働いておられる生ける存在であり、ご自身の意志をもって語り、ご自身の力を持って行動する「主体」である。神は御言葉によって、人間にご自身の意志を知らせられる方であり、御言葉と共に、人間と対面される方である。実に神はそのような「主権者」であることを表しています。
そして主権者であるゆえに、神は人間の果たすべき義務をわたしたちに要求されると同時に、ご自身の絶対的な自由によって、人間の問題をご自身の上に担い、問題を解決し、人間が自分に与えられた神の命令を喜んで実行することができるようにしてくださるのです。言い換えれば、人間がなすべきであるにも拘わらず、自らの罪のためできないでいたことを、神の御子イエス・キリストにより実行してくださったのです。つまり、御子イエスがわたしたちの罪を背負って、死に至るまで父なる神の御心に従順であったことにより、罪を贖い、わたしたち人間を神の御前に罪のない者、汚れのない者として立たせてくださったのです。
正に、このことをヨハネによる福音書は「真理」と言っています。聖書の言う真理とは抽象的な正しい理念ではなく、神の現実であり、それは御子・主イエス・キリストの存在と行為の「現実」を表しています。人間の救いとなり、人間がそれによって新しく生きることのできる現実、人間の最も頼りとなる現実を言い表す聖書特有の言葉です。
それゆえ、ヨハネによる福音書では、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(1:17)
さらにヨハネによる福音書では、神の賜物とは「キリスト」であります。そしてキリストの賜物とは「聖霊」であります。
 従いまして、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とは、わたしたちが主イエスにおける真理と、聖霊の働きによって、神を礼拝することができる、という積極的な勧めなのです。さらに、わたしたちの礼拝の対象は「父なる神」です。主イエス・キリストの「父」であります。父・子・聖霊の三位一体の父であります。
要するに、主イエス・キリストの真理に立脚し、真理において、その真理をわたしたちと結びつける聖霊の働きによって、わたしたちは父なる神を礼拝することができるのです。それが真の礼拝です。
 
 そもそも、礼拝とは英語で言えば「サービス」でありますが、サービスとは「奉仕」と言う意味です。従いまして、人間が神に対して奉仕をすることであります。しかし、それはあくまでも表面的に観察して言えることであり、実質的に言えば、神が人間に奉仕してくださることなのです。神は礼拝において、人間を生かす本当の生命として、神の真理と恵みを人間に提供してくださるのです。
 神がわたしたち人間に提供してくださる真理と恵みは、言い換えれば主イエスの現実であります。そして、神は聖霊を通して、その真理と恵みをわたしたちに与え、聖霊を通して、わたしたちが神に応答するようにさせてくださるのです。
礼拝において、神ご自身が人間の心の中に働き、信仰を起させ、御言葉を理解させ、祈りを与え、御言葉に従わせ、賛美を与えられるのです。徹頭徹尾、神ご自身が人間の中に働き、人間が神の真理と恵みに応答するようにしてくださるのです。この神の奉仕が日々新しく与えられることにより、人間の応答としての礼拝が喜びと命に溢れるのです。
 このことを考え合わせますと、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」というキリストの御言葉は、教会における礼拝こそ真の礼拝であることを示しています。
 さらに、キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とマタイによる福音書18:20で仰せになっています。
 このように主イエス・キリストを信じる者が集まるところには、主イエス・キリストご自身が聖霊を通して、臨在していることが保証されています。それではクリスチャンは何のために集まるのでしょうか。それは礼拝のためです。従いまして、この御言葉はクリスチャンが礼拝のために教会に集まってくることを表しています。
 主イエスが「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と仰せられたその約束通り、今日の教会は信仰者が共に礼拝する場所として与えられているのです。
 わたしたちは一人でも聖書を読み、祈ることによって神を礼拝することができます。しかし、本来の礼拝は信仰共同体の中で行うべきなのです。わたしたちは一週間の生活の中から、神様に呼び出されて、教会に集まるのです。そして礼拝を献げるのです。このことをしっかりと心に受け止めて、感謝をこめて礼拝を守らなければなりません。
また信仰共同体としての教会は、礼拝することによって、教会が教会として新しく形成されます。従いまして、教会の使命はあくまで礼拝であります。あくまで教会は礼拝する信仰共同体です。

(2)御言葉に聞く
それでは、礼拝の場所としての教会には何があるでしょうか。聖餐台、洗礼盆、講壇、聖書があります。それらは何を示しているでしょうか。礼拝において、聖書の御言葉が読まれ、聖書の御言葉が説教として語られ、聖餐や洗礼の聖礼典が執り行われることを示しています。また、オルガンがありますが、それは礼拝において、神を賛美するために賛美が歌われるからです。
それらすべてが、教会は御言葉が語られ、聞かれ、祈りが献げられ、信仰告白がなされ、讃美歌が歌われる場所に、主イエス・キリストが聖霊を通して臨在されることを示しています。
そして、御言葉と聖礼典を通して、働く「聖霊」が礼拝を礼拝として成り立たせていることを示しています。
なぜならば聖書の言葉は、聖霊を通して、「神の言葉となる」のです。その時、たしたちは聖書から神の言葉を「聞く」のです。わたしたちはこのように聖書から神の言葉を聞き、そして神の言葉を語るのです。
説教者は聖書から聞いた神の御言葉を語りますが、自ら語りながら神に聞いているのです。一方、会衆は聖書を通して、説教を通して、語られた神の言葉を聞きながら、会衆は神の言葉を語っているのです。なぜならばこれらすべての場面に聖霊が働いているからです。
わたしたちは、礼拝において、復活の主イエスと「対面」し、わたしたちに直接に語られる主イエスの御言葉を聞くために、聖書の御言葉に聞くという態度が一番必要です。聖書の証言を通して、主イエスが語られるのを聞くという態度が必要です。同時に、「主よ、語りたまえ、僕は聞きます」(サムエル記上3:10)という祈りが必要です。

(3)応答としての献身
次に、わたしたちはそのようにして聞いた御言葉に応答することが、必要です。御言葉はわたしたちに対する神の命令であり、わたしたちが何をなすべきかを明らかにするだけでなく、同時にそれを実行する力をわたしたちの中に供給します。
御言葉は主イエスの真理が現実的な真理であることを分からせます。それゆえ、わたしたちはイエスの「真理の中」で、御言葉を実行する「自由」が与えられていることが分かります。
そこにおいて、わたしたちがなす御言葉への応答とは、御言葉を実行することを「決断」し、実行する場所に出かけて行って、それを「実行する」ことです。応答の第一は実行することの決断です。この意味でローマの信徒への手紙12:1~2は次のように奨励しています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
聖書の言う「自分の体」とは、今日の人たちの考え方とは大いに違い、自分の身体と心の両方を含んでおり、自分が生きている在り方の全体を意味しています。生活の一部分ではなく、生活全体なのです。 
御言葉に聞きくとき、キリストによって実現した真理の中で、神の御心に反するこの世の思いは破棄され、滅びの中にあり、最早信仰者を支配しないことを知るのです。他方、神の御心を実行することが人間の生きる道であり、キリストの真理の中で信仰者はそれを行う自由が与えられていることを知るのです。
それゆえ、キリストの真理から霊的な力を受けて、クリスチャンは実行することを決断するのです。自分の存在と生活のすべての中で、実行するために努力するのです。このことが「自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として献げなさい。」という命令の実行です。
現代の人々は「いけにえ」というと何か残虐な感じがして、それは動物を殺すことであると思うかもしれません。しかし、旧約聖書の概念によれば「血は命である」ので、動物を殺すこと自体が目的ではなく、命である血を取り出すために動物を殺したのです。そして取り出した動物の血を献げることによって、礼拝者が自分自身を神に献げることを象徴していました。
そこで傷や欠陥のない動物の血が、罪のない人間の神への奉献を象徴していると想定することによって、神殿での礼拝は成立していました。しかし現実の人間は罪のために神に喜ばれる献げ物にはなりません。それゆえ、神殿での礼拝はまことの礼拝の陰であり、それ自体は真の礼拝ではなかったのです。
今や、主イエスの十字架の贖いによって、罪を赦され、聖霊によって復活の主イエスの命に生かされているクリスチャンは自分を神へ献げることができます。この奉献が真の礼拝であります。そこにおいて、生活全体が礼拝となります。
聖霊によって、聖書の御言葉を通して、生ける神の御心を知り、それを行うことを決断し、自分の存在と生活全体を神に献げながら、努力するならば、その生活が主イエスとの「人格的な交わり」の機会となります。そこに聖霊を通して、主イエスの命が信仰者の中に豊かに働くのです。従いまして、主イエスは実に人間を本当の意味で生かす「命の水の泉」であることを体験するのです。
そのとき、主イエスがサマリアの女に対して言われた言葉「わたしが与える水を飲む者はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(4:14)が真実であることを知り、聖霊によって自分の内にいます「主イエス」こそ、命の水の泉であることを証するのです。



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