2011-05-22(Sun)

わたしたちの復活の希望 2011年5月22日の礼拝メッセージ

わたしたちの復活の希望
中山弘隆牧師

 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。
ダニエル書12章1~4節


 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
コリントの信徒への手紙一15章42~58節


(1)神の愛の確かさ
 わたしたちクリスチャンの中には、自分は神の愛は分かるけれども、キリストの復活はどうも分かりにくい、今ひとつはっきりしないところがある、と感じている人々がいます。
 しかし、神様の愛が分かるということと、キリストの復活が分かるということは決して別のことではありません。なぜならば、神の愛とは神が復活のキリストを通して、日々わたしたちと出会ってくださることであるからです。キリストにある罪の赦しをもって聖なる神がわたしたちと出会ってくださるからです。生ける神が人格的にわたしたちと対面して、わたしたちの実存の中にキリストの復活の命を与えられることは、そこに復活のキリストが働いておられることによるのです。
わたしたちの場合、キリストの復活の証人であるキリストの使徒たちの立場とは違います。すなわち、わたしたちは彼らのように自分の目でキリストの復活を見たのではありません。しかし、彼らと同じく、わたしたちは復活して生きておられる主イエス・キリストと日々出会っています。わたしたちと日々出会ってくださる方は、十字架について死に、三日目に復活された主イエス・キリストであります。このことを体験しますときに、わたしたちはイースターの喜びの中で自分の人生を生きることができるのです。
 この点、ペトロの手紙一、1:8~9で、ペトロは次のように言っています。
 「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくとも信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
 さらに、キリストの復活は、終わりの日にわたしたちも死人の中から復活させられることを確証し、保証しています。それゆえ、わたしたちの永遠の住まいはキリストのおられる天国であることが分かります。そうするならば、わたしたちは天国を目当てにして地上の人生を歩むようになります。
従いまして、自分の本国が天にあることを知り、天を目指して地上の人生を生きるのです。このような生き方をしている者が、キリストの復活を本当に信じている、と言えます。

(2)現在の体験
 次に、キリストの復活は、先ずわたしたちの現在の体験と深く結び付いていることを自覚する必要があります。なぜならば、地上の生活において、わたしたちが神の御前に生かされるのは、実にキリストが死人の中から復活し、今この「地上」で生きて働いておられるからです。
パウロは15:17で次のように教えています。
 「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります。」
 この言葉は、非常に説得力があります。クリスチャンの中で、キリストは復活しなかったのだ、一旦死んだ人間が再び生きるということは絶対にあり得ない、と考えている者がいましたので、パウロはこの厳しい言葉を投げかけました。もしキリストが復活しなかったとすれば、あなたがたは今なお罪の中にあるのだ、と言うのです。
 考えてみますと、クリスチャンが行っている信仰生活とは、わたしたちが神に罪を赦されて、御前に立ち、神から新しい命を頂き、神の御心を知らされ、神に従う生活をすることです。実にこのことが可能になりましたのは、キリストが十字架について死に、死人の中から復活されたからです。

 それゆえ、正にことを告げ知らせるのが福音です。実に、福音の内容が人間に信仰を与え、人間を救い、神の御前で生きることを可能にする神の言葉です。コリントの信徒への手紙は15章の冒頭で、この点を強調しています。
 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(15:1~2)
 これは使徒たちの語った福音の内容をわたしたちの生きる根拠として、常に福音の内容を心に留めているならば、わたしたちは福音によって救われるというのです。
但し、救われるというのは、「救われつつ」あるという言い方で、「現在すでに」救われており、同時にその救いは「将来に完成する」という意味です。それでは、そのように重要な働きをする福音の内容は何かと申しますと、極めて簡単明瞭です。
 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通りにわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通りに三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(15:3~5)
 キリストが人類の罪の贖いのために、十字架に架けられて死んだこと、そして三日目に死人の中から復活したこと、そして使徒たちがキリストの復活の証人であること、これが福音の内容です。しかも内容は一つしかないのであり、世界のすべてのキリスト教会がその上に立っているのは、同じ福音なのです。
 実にこの福音こそ、神様が人間と出会い、人間をご自身との交わりの中で生かされる神の恵みの「究極的行為」を告げる言葉です。それゆえに神の「究極的な啓示」なのです。啓示の内容こそ、キリストの生涯、特にキリストの死と復活です。
実にキリストの啓示は、父・子・聖霊の三位一体の神がキリストにおいて、わたしたち人間にご自身を示し、人間の問題をすべてご自身の上に担ってくださった恵みに他なりません。
それゆえ、福音を聞き、信じることにより、人は救われるのです。復活のキリストが聖霊を通して、わたしたちの実存の中に働かれ、聖霊を通してご自身の復活の命をわたしたちに与えられますので、わたしたちは神の御心を行い、神の愛を実行できるのです。このことが現在わたしたちに働いているキリストの救いであります。

この意味で、パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストである。」(フィリピの信徒への手紙1:21)と証言しています。
それはキリストが自分の内に生きておられるので、そのキリストに聞き従うことによって、今自分は生きているのだという告白です。実に「生きるとはキリストである」ということは、キリストとクリスチャンとの実存的で実践的な親密な関係を言い表しています。
それゆえ、わたしたちは神の力を発揮している福音を確信することが非常に大切です。その確信の上に立って、わたしたちは終わりの時に到来する「救いの完成」を信じるのです。言い換えれば、わたしたち自身の復活を信じるのです。

(3)死人の復活
 次に、パウロはキリストの復活が、わたしたち人間の復活を可能にした、と教えています。
 なぜならば、福音の喜びはキリストが人間として復活させられたとことの中にあるからです。キリストは神の御子でありますから、ご自身の力で復活されたというのではありません。キリストは人間として、人類の代表として、父なる神の力によって、復活されられたのです。そこに世界と人間に対する創造者である神の力が現されました。それはこの世界を神が造られたときの力に遥かにまさる力で、新しい人間を創造されたのです。
 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬようになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(15:20~22)
 ここで、初穂という言葉が出てきますが、これは旧約聖書にある特有の用語です。イスラエルの民は、小麦の収穫が始まったとき、初穂を神殿に携えてきて、神に献げる礼拝をするように定められていました。その際に、初穂を献げることにより、畑の収穫全体を神に献げるという意味があったのです。神は初穂を受け入れることにより、収穫全体を受け入れられたのです。つまり、神の御前では、初穂と残りの収穫全体とが一つに結び合わされ、その繋がりが認められるのです。
ちょうどそのような「連帯性」が、キリストの復活とわたしたち自身の復活との間にあると、聖書は言うのです。キリストが死人の中から復活されたので、キリストによってすべての人が復活させられる、と言うのです。

このようにキリストの復活は、決してキリストだけのことで終わりません。キリストは人類の代表として復活されました。しかし、誤解をしてはならないことは、わたしたちはアダムと連帯しているのと同じように、キリストと連帯しているのではありません。アダムとの連帯性は自然的な繋がりです。自分たちの方からもアダムと繋がっているのです。それに対して、キリストとの場合は、あくまでもキリストの方から、すなわちキリストの自発的献身によって与えられた連帯性です。つまり、キリストがすべての人のために、その罪を自らの上に担って、十字架の死を引き受けられたというキリストの連帯です。

(4)救いの完成 
 尚、わたしたちが死人の中から復活させられるには、神の定められた「順序」に従わなければなりません。この人類の歴史が終わる日に、キリストが再臨されます。
そのときわたしたちはキリストによって、死の中から復活させられ、神の国は完成し、人間を悲惨にしていた罪と死とは消滅し、人間存在のすべての部分が神の光を反映させるのです。
「神はすべての人間にとって、すべてとなられます。」(15:28)。
これはどういう状況であるかと申しますと、神がキリストを通して、すべての人間の中に働かれますので、神が人間を直接に支配されると言うことです。
最早人間が他の人間を支配することはありません。古代社会のように王や君主が人民を支配することはありません。また、男性が女性を支配することもないのです。さらに、民主主義国家のように、国民が選んだ政治家が国民を支配することはありません。人間の上に人間が立って、指導したり、支配したりすることは最早ありえないのです。牧師が信徒に神を知るように教えることは最早ないのです。一人一人が自分で神を知るからです。一人一人がキリストを通して直接神に仕え、自主的に考え、行動するからです。
そのとき、人間はお互いに他を理解し、互いに愛し合うので、そこに完全な調和が生まれます。そのようにして、人間は愛による完全な調和のなかで、神を賛美しながら、永遠に生きるのです。

(5)霊的な身体
 それでは、終わりの日にわたしたちはキリストによって、死人の中から復活させられるとき、どのような身体が与えられるのでしょうか。ここで大切なことは、神と人間とでは絶対的な違いがあるということです。
神の存在の仕方はパーソン(ご自身の意志を持つ主体)であり、神は身体を持っておられません。父なる神も聖霊なる神も身体を持っておられません。ただ人間となられた子なる神だけが身体を持っておられるのです。それに対して人間は身体を持っています。人間は身体なしには存在しえないのです。このことは天国においても同様です。わたしたちは身体なしに天国に住むことはできません。
従いまして、わたしたちには永遠の国に相応しい身体が与えられるのです。聖書はそれを「霊的な身体」と呼んでいます。このことを15:35節~49節は詳しく説明しています。
しかし、霊とは「聖霊」のことではありません。聖霊を材料として作られた身体という意味では決してありません。もしそういう意味ならば、それは人間を神格化することです。それは神を冒涜ことです。そうではなく、霊的な身体とは、復活させられた人間の中に聖霊が永住されるのに、相応しい身体という意味なのです。

現在わたしたちをキリストに結び合わせているのが、聖霊なる神です。父・子・聖霊の三位一体の聖霊の働きです。復活のキリストは聖霊を通して、わたしたちの中に臨在し、わたしたちを教え、導いておられます。
実にその聖霊がわたしたちに与えられているということが、わたしたちの復活の根拠であります。エフェソの信徒への手紙は1:13~14で説明しています。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」
それゆえ、わたしたちはこの聖霊の働きによって、キリストのような霊的身体が与えられることは、確実です。クリスチャンは聖霊によって、キリストとつながっている限り、永遠の国がクリスチャンの本国なのです。
要するに、わたしたちの本国は永遠の国にあることを確信し、地上の生活の中で、神の愛を実行し、永遠の国の内容をこの世界の中で現していくことが、「主の業」に励むことです。最後に、パウロはわたしたちに「主の業に」励むように命じています。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)



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