2011-05-15(Sun)

良い業をするキリストの命 2011年5月15日の礼拝メッセージ

良い業をするキリストの命
中山弘隆牧師

 見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。
申命記11章26~28節


 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章1~10節


(1)聖書における信仰
 今日人々は信仰という言葉で、何を意味しているのでしょうか。信仰という言葉は人類がこの地上に誕生した時から、使用されていたと思われる実に古くからある言葉です。自分を信じる。人を信じる。将来を信じる。運命を信じる。神を信じる。また神々の中で自分はこの神を信じている、などと人々は考えています。このような現状を考慮しますと、同じ信仰と言いましても、内容は種々様々です。今日巷に氾濫している信仰という言葉の意味は決して同じではありません。
 従って、無神論者は人間の社会が発達すれば、神々に対する信仰は次第に薄れ、最後には消滅するだろうと推測しています。しかし、現在どこの国でも宗教が存在しない国はありません。信仰の自由は、思想の自由、結社の自由、言論の自由、学問の自由そして良心の自由と共に、人間の基本的な権利であると認めるのが、民主主義的な国家であると言えます。実に、それは信仰が人間の生き方と密接に関係している事柄であり、従って人間存在にとって、必要不可欠な条件であるからです。
それゆえ、また一人一人にとって、信仰の対象の神はいかなる神であるか、そして、自分は神とどのような関係をもっているか、そこからどのような自分のき方が生まれるのか、ということに対する理解と信頼が重要です。
わたしたちクリスチャンは神を信じる場合に、自分たちが考え出した神を信じているのではありません。たとえ、哲学的、倫理的な思索によって、人間の責務である道徳律が、それを果たすために神は存在しなければならないと、神の存在を要請していると考えるのではありません。まして、物質的なご利益を得るために、都合の良い神を考えているのではありません。
あくまでも、「神ご自身」がわたしたち人間に対して、神の言葉を「語られた」からです。そして神の言葉を聞いた「預言者たち」が「証言している」神の言葉を書き記した「聖書」を読んで、わたしたちは直接その言葉を神から聞いた預言者たちの証言によって、すなわち、わたしたちもその証言と同時的になり、預言者たちと共に、聖書の言葉に聞き従い、彼らが出会った神とわたしたちも出会って、神を信じるのです。
言い換えれば、信仰とは聖書の御言葉を通して、語られる神に対するわたしたちの「応答」なのです。わたしたちはその信仰によって、神を知るのです。
それゆえ、神が御言葉をもって、人間にご自身を示された神の「啓示」が、聖書における神の言葉の中心です。
そういう意味で、神が預言者モーセを通して、旧約聖書の民イスラエルと「契約を結ばれた」こと、そしてその後、イザヤやエレミヤなど旧約聖書の時代に巨星にように現れた預言者たちを通して、神は背信の民に対して、「契約の破棄」を告げ、終わりの時に「新しい契約」を与えると約束されたこと、これが旧約聖書における神の言葉の中心です。
それゆえ、終わりの時に、神は神の御子である「主イエス」を通して、究極的な神の言葉を語り、「究極的な啓示」を与えられました。この究極的な啓示から見れば、旧約聖書の中で与えられた神の啓示は、主イエスの到来とそのことによる神の啓示を預言するものなのです。そういう意味で、主イエスご自身が「唯一」の神の言葉なのです。主イエスにおいて究極的に語られた神の言葉が、旧新約聖書の中に必要にして十分なだけ、証言され、記録されているのです。そういう意味で聖書は正典とされています。
因みに、キリスト教会の言う「正典」とは、いかなる神の言葉も、それが神の言葉であるかどうかを判断する場合の基準となるものです。

要するに、旧約聖書の預言者たちが証言している神の言葉は、今や神を信じる信仰者が「主イエスにおいて」聞き、その意味を理解すべき性質のものなのです。
それでは、神が主イエスにおいて与えられた啓示の内容は何でしょうか。それが福音です。
福音には神がわたしたちの救いのためになしてくださったすべてのことが語られています。同時に、その救いの中で、わたしたち信仰者のなすべき事柄も命じられています。もし、わたしたちが自分たちのなすべき事柄としての神の命令を、福音の中で聞いていないとすれば、それは福音の一部分しか聞いていないのであり、福音を本当に理解しているとは言えないのです。また、神の命令を福音の外で聞いているならば、それは神の命令を本当に聞いているとは言えないのです。この点を誤解しないように、わたしたちは注意することが大切です。
要約すれば、聖書における信仰は、神の言葉を聞いて、それに応答することでありますので、救いである神の「恵みを受領する」手段であると同時に、神の命令に従って、「良き業をする」ことであります。新約聖書は実にこの二点を強調しています。

(2)わたしたちの新しい存在と命
それでは、エフェソの信徒への手紙は何と言っているでしょうか。
 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(2:8)
 ここで、エフェソの信徒への手紙が言っている「救い」とは、主イエスを信じる信仰によって、わたしたちが神と「正しい関係」の中に入れられたということです。すなわち、神と「人格的な交わり」が与えられているということです。そして、わたしたち信仰者の本質としての「新しい存在」、「新しい性質」が既に主イエスの中に与えられているということです。
 このことについては、4節~6節が説明しています。
 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、----あなたがたの救われたのは恵みによるのです。----
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
 自分の罪のために、神の御前では「死んでいた」わたしたちを、神は「キリストと共に復活」させ、神の御前に生きる者としてくださったのです。
 正にこのことが、福音の告げる「救い」なのです。それは神がわたしたちのためになしてくださり、信じる者に「無償」で与えられる恵みです。それゆえに、聖書は「あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」と強調しています。
 恵みが無償の恵みである以上、だれも「自分を誇る」ことはできません。ひたすら神に感謝し、神を賛美し、神に従うことが、恵みの中にある信仰者の生き方です。
 実に、この神の恵みこそ、神の無限の「愛の啓示」なのです。聖書は「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、----」と言っています。
そして、ここに示された神の愛とは、神が御子である「主イエス」をわたしたち人間の救いのために、「十字架の死の犠牲」にされたことなのです。言い換えれば、人間にご自身を与えられたということです。人間に対する「神の自己譲与」に他ならないのです。
このことは、以下のように言い換えることができます。御子における神の自己犠牲・自己譲与は、わたしたちに対する行為と事実としての神の愛である、と言えます。
さらに「神の御子を与えられた」ということはわたしたちの現実の存在、すなわち実存の中へ与えられたことを意味します。
そして、わたしたちの実存の中に与えられたことにより、御子はわたしたちのもとに臨在しておられるということです。
さらに具体的に言えば、御子がわたしたちのもとに臨在しておられるので、わたしたちの上に横たわっている罪による恥と呪いが御子のものとなっているのです。御子は、わたしたちの恥と呪いの担い手として、その両方をわたしたちから取り去られるのです。
それらをわたしたちから取り去られることによって、わたしたちを父なる神の御前に、清い聖なる神の子たちとして立たせてくださっているというのです。
この事実をコロサイの信徒への手紙1:21~22は、次のように説明しています。
「あなたがたは、以前神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、今や、神は御子の肉体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、疵のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」

これはわたしたちがキリストと共に復活し、神の御前に立っているという霊的現実です。しかし、このことは言い換えますと、わたしたちの新しい存在と性質が、わたしたち自身の手の中ではなく、キリストの中に与えられているという意味です。
この点につきまして、コロサイの信徒への手紙3:3で、はっきりと次にように言っています。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」

(3)決断の必要
以上のような神の御前にある事実を、エフェソの信徒への手紙2:10は次のように言っています。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたのです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
神がキリスト・イエスにおいて造られたわたしたちの新しい存在と性質は、「良い業を行って歩む」ためなのです。

 ここに至って、わたしたちが福音を聞いて信仰をもって神の恵みを受領するということは、信仰をもって良き業を行うことであるのが分かります。なぜならば、信仰の応答とは、神がわたしたちを良い業を行う者として、イエスにおいて造ってくださった恵みに応答することであるからです。それは良き業を行うことに他なりません。
 もちろん言うまでもなく、古い自分のように、自分の力で良い業を行うのではありません。神が主イエスの中に与えられているわたしたちの新しい命によって良い業を行うのです。

キリストの内にあるわたしたちの存在によって、わたしたちは良い業をすることを最早避けられなくなっているのです。わたしたちは自分が何であるかが現れることを抑えることも、隠すこともできないのです。聖霊によって神の御心を行うために、わたしたちは自由な者となっているのです。そのことは見える形で現れなければならないのです。人々の前で公然とならなければならないのです。
このことは正に行動せよとの「神の前進命令」です。わたしたちの全存在によって、わたしたちが良い業を行う者となっていることを表明し、証言しなければならないのです。それゆえ、わたしたちが行動することを「決断する」ときキリストにある新しい命に生きるのです。

確かに、これと別の決断をする自由は「依然として」わたしたちのもとにあります。しかし、それはわたしたちが罪人であり、死の宣告を受けた者として「わたしたちの過去へ」逆戻りする決断です。わたしたちはキリストと直面して立つとき、キリストの方を向けば光と自由があります。わたしたちの背後を向けば、闇と死があります。それゆえ、わたしたちの背後には闇と死の深淵があることを知りながらも、今やわたしたちは「信仰によって義と認められた」者として「生きること」ができるのです。それゆえに、良き業を実行することを「決断」するのです。
この事実をわたしたちが認識し、決断し、行動し、証言するのは、実はその中で『聖霊』がわたしたちを駆り立て、行動させるからです。そのことを通して、「主の命」がわたしたちの中に働くのです。

このような認識と決断と行動こそ、教会の中でお互いに「共通している」事実であることを、わたしたちは発見します。そしてこのことを共有するとき、わたしたちは、キリストによって良き業をするためにお互いに造られていることを証するのです。

以上の事柄を重視すますと、信仰とは、キリストの命に生きることでありますので、実に活発に働く、極めて実践的なものであることが分かります。信仰とは、すべての事柄をキリストに委ね、自分が何もしないという怠惰なものでは決してありません。「信仰」とは、「聖霊」を通して、わたしたちが「キリストの命」に生きることに他ならないのです。キリストの命によって、行動することです。
従って、信仰はわたしたちに決断を要求するのです。行動するためには決断が必要です。なぜならば、人は決断しなければ、何の行動も起こすことはできません。わたしたちはキリストにあって与えられている自由をもって、良き業をすることを決断するのです。

最後に、神はわたしたちが実行するためにキリストにおいて準備された良き業とは、実は「神の愛」を実行することに他なりません。神の愛がわたしたちの生活の中で具体的に働く場合にそれは「善い業」となって働くのです。これが聖書のいう善い業です。
クリスチャンは善い業を神の愛の実行として行うのです。そこがクリスチャンとそうでない人との違いです。世間には神の愛によらなくても良い業ができると、考えている人は多くおります。従いまして、良い業にもその性質は異なりますが、キリストの命の現れとして、良い業を行う者が、神の愛を具体的に実践することなのです。
従って、信仰が怠惰な信仰ではなく、極めて働きものであることは、神の愛を実行することが、信仰と共に始まるからです。愛の実行に先行する信仰は在りえないのです。愛の伴わない信仰はありえないからです。信仰は愛と共に始まり、愛と共に働くのです。
このことが、信仰は人間の生活の中で、人間の道徳の中で、多彩な働きを現す信仰であると聖書が教えている根拠です。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR