2011-05-08(Sun)

創造者である父なる神 2011年5月8日の礼拝メッセージ

創造者である父なる神
中山弘隆牧師

 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
創世記1章27~28節

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙1章3~14節


(1)この世界と人間の創造者
 わたしたち人間は、この世界の中で、人間として生きていることは当たり前のように思っています。そして自分の人生を生きようという意欲が自分にある限り、生きられると考えています。しかし、想定外のことが起こると、それまで当然だとしていた前提が、皆崩れ去ってしまい、自分のことが分からなくなってしまいます。人間は生きるだけでなく、死ななければならい運命の中にあります。人間が人間として存在するためには、自分の生と死の問題を解決しなければなりません。しかし、それは自分の知恵や力では解決できる問題ではありません。
 そのことが解決できる唯一の方法は、世界と人間の創造者であり、わたしたちの生と死との唯一の支配者である神に出会うことです。もちろんわたしたちが神を探し出すのでなく、神がわたしたちにご自身を啓示してくださるから、わたしたちは神と出会うのです。
 その時、わたしたちが今日ここに存在しているのは、自分の計画と力によってではなく、この世の中に起こるあらゆるものに先行している神の恵み深い計画と力によってであることが分かります。
 神は預言者モーセに現れ、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と仰せになりました(出エジプト3:14)。
 神こそ唯一の真に存在する方です。自らの意志と力によって存在し、自ら充足し、絶対的な自由を持って行動しておられる方です。神こそ生ける永遠の存在であります。この神がご自身の愛と自由なる意志によって、この世界と人間を創造されたのです。神の御言葉により、無の中から存在へと呼び出してくださったのです。
 神が「光あれ」と語られた御言葉の力により、光が創造されました。このようにして世界と世界の中にある万物は神の御言葉によって創造されました。さらに神は人間を「神の形」として創造されました。
 「神は御自分にかたどって人を創造された。」と聖書は言っています(創世記1:27)。
 これは人間が人格を持つ者として、見たり、聞いたり、話したり、考え、理解し、そして自分の意志と決断をもって、自分の責任において行動する主体性を持つ者として造られたという意味です。
 人間を造られた神こそ、絶対的な主体であり、パーソンです。わたしたち一人一人に対面し、「汝」と呼ばれる神的な「我」です。この人格的な対面において、神の言葉を語り、ご自身の意志を人間に表される方が生ける神です。人間を無から有へと御言葉をもって呼び出し、御言葉の力によって人間の存在を支え、また御言葉をもってご自身の意志を人間に語られる方です。そのようにして人間になすべきことを命じられる主です。このような意味で、人間は神に絶対的に依存し、御言葉に聞き従い、神の御心を行うことによって、自分の生きる意味と力を得るのです。
人間に対する神の深い配慮と大きな恵みを思い、人間の幸いを歌っている詩編8:4~7は、次のように神を賛美しています。
 「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。 人の子は何ものなのでしょう。  
あなたが顧みてくださるとは。 神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠として戴かせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」
この創造者なる神、万物の主権者である神に徹底的に依存し、神の御心に従って、考え、行動するとき、わたしたちは神によって創造された人間としての尊厳と価値を表すことができるのです。
それに対して、「われと汝」の人格的な関係において、わたしたち人間と対面してくださる神に自分の心を向けようとしない、心を開いて神の御言葉に聞こうとしない人々の人生は、本当に暗く自分がどこから来てどこに行こうとしているか分からないまま、闇の中をどこまでも歩いて行くだけなのです。これほど心細いことは他にありません。
しかし、神との人格的な交わりの中で、生きるように造られた最初の人間アダムは、自らの意志により、神に依存することを欲しないで、独立し、自ら満ち足りた人間になろうとしました。
アダムは神の知恵を自分の所有とするために、楽園の中央に生えている知恵の木からその実を取って食べました。その途端に、アダムに与えられた「神の似姿」は歪められ、破壊されてしまいました。
それにも拘らず、神は人間創造の目的を放棄することなく、アダムの堕落の直後からその目的実現に向かう働きを開始されたのです。それが救いの歴史であり、人類の歴史全体を貫いています。そのことをエフェソの信徒への手紙が語っています。

(2)神の計画と選び
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れの無い者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださる輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:4~7)

人間の創造はアダムから始まっていますが、自分の罪による深い闇がアダムを覆い、人間の根底はアダムにおいて曖昧模糊となってしまいました。実に、人間存在は当初から不明瞭なものであったのです。
それに対して、エフェソへの信徒への手紙は、神が人間をイエス・キリストにおいて選び、イエス・キリストによって神の子にしようと計画し予定された、と言っています。これは実に確かなことです。
なぜならば、この確かさは、主なる神の啓示のなかで示された神的な確かさであるからです。すなわち、神の究極的な啓示であります「神の御子・主イエス」によって明らかにされているからです。主イエスによる啓示は、人類の歴史の真ん中で生起しました。しかし、それは父なる神が御子イエスにおいて、聖霊を通して啓示されたことでありますので、天地創造の前から神の予定であったと言えるのです。そのことは、人類の始祖であるアダムの事実よりも確かな事実なのです。人間はアダムにおいて、罪と死による問題を抱えた闇の中にいる存在として第一歩を始めましたが、それに比べてご自身の自由なる恵みにより、神が人間を創造することを決意された予定と計画は、主イエスの中で必ず実現すべき事柄でした。
要するに、わたしたちは人間の創造について知ることができるのは、最初に存在したと思われる曖昧なアダムを考えることによってではなく、人類の歴史の中心に到来された主イエスの啓示を知ることによるのです。この視点から考察することの必要をエフェソの信徒への手紙は強調しています。
人格としての人間の一人一人を神はご自身との交わりの相手として定められました。すなわち、神の子として、神に栄光を帰し、自ら進んで神の意志を行う人間を創造する計画を立て、主イエスにおいて実現してくださったのです。
この神の行為について、聖書ははっきりとこのように言っています。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(1:7)
これは主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の贖いであります。この贖罪による罪の赦しを通して与えられた神との人格的な交わりが、神によって創造された人間の生き方なのです。
人間創造の神の業は、太古に生存したと思われる人類の始祖アダムにおいてではなく、今や歴史の中心に位置する主イエス・キリストにおいてなされたのです。
聖書は次のように言っています。
「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きいものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自身の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(エフェソ1:19~21)

今や、キリストを復活させられた神の絶大な力こそ、天地創造の力に勝る力であり、人間を創造される神の力なのです。父なる神は、人間となられた御子イエスを死人の中から復活させ、天地の支配者とされました。
同時に、主イエスを神と人格的に交わる「人間の原型」とされました。従って、「神の似姿」である「人間」は、アダムにおいてではなく、主イエスにおいて、実現したのです。
「本来的に」神の御子である主イエスがわたしたち人間の罪を負い、わたしたちのために、わたしたちに代わって十字架において死なれたことにより、罪による闇に取り囲まれていた人間の存在が根底から取り去られたのです。そして、わたしたちの古い存在に代わる新しい存在を復活の主イエスの中に与えられたのです。
死に至るまで神に従順であった主イエスを「父なる神」が復活させられたことにより、わたしたちは主イエスにあって、「神の子」とされ、父なる神は「わたしたちの父」となられたのです。本来的に「主イエスの父」である神が、主イエスを通して、本来的に人間である「わたしたちの父」となってくださったのです。このために神ご自身が人間の問題を自ら担われたのです。
それゆえ、わたしたち人間は、主イエスにあって、主イエスと共に、死んだのです。わたしたちの生と死の支配者である神は、主イエスにあって、主イエスと共に、わたしたちを新しい存在へと移されたのです。そのことによって、神はわたしたちの父となられたのです。
実にこれこそ、人間が神によって創造されたことです。創造者なる父なる神の業なのです。
神がわたしたちの父となられたのは、アダムが創造されたことによってではなく、神の御子イエスが十字架に架けられて死に、死から復活して、わたしたちの主イエスとなられたことによるのです。
それゆえ、父なる神がわたしたちに主イエスを通して与えられる命は、死を通り抜けた命であり、死に勝利した命なのです。

(3)主にある者の生き方
父なる神は、聖霊をとおして、わたしたちを主イエスと結びつけ、わたしたちを常に主イエスのもとに置いてくださいます。聖霊を通して、常に主イエスの人格、主イエスの性質、主イエスの行動を目の当りに見させて下さるのです。主イエスを見つめることによって、わたしたちを主イエスに従って歩む者としてくださるのです。
このようにして、わたしたちの心と存在の中に与えられた聖霊によって、わたしたちは神に向かって、「父よ」と祈るのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8:14~16で、次のように言っています。
「神の霊によって、導かれる者は皆、神の子なのです。----この霊(聖霊)によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊(聖霊)こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊(わたしたちの知性)と一緒になって証して下さいます。」
さらに、コリントの信徒への手紙一、2:16で、使徒パウロはこのように言っています。
「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」
実に、「キリストの思い」こそ、父なる神の御心を完全に知り、父なる神に栄光を帰し、父なる神に喜んで従う「神の御子」の思いです。キリストの思いこそ、神の本質である愛の働きであり、人間と共に歩み、人間の重荷を負い、人間の罪に勝利する力であります。
父・子・聖霊の平和と祝福に満ちた完全な交わりの中にある主イエスは、人間であると同時に神であります。主イエスは本来的に神の御子であります。それに対して、わたしたちが神の子とされ、父なる神を父よと祈ることが可能とされていますのは、わたしたちが「神になる」ことではありません。わたしたちはあくまでも「人間」です。主イエスはわたしたちと同じ人間ですが、「神」が人間となられた方です。そこがわたしたちと決定的に違います。
わたしたちの心と決断と行動の面で、キリストの心が働き、わたしたちを導き、わたしたちの思いをキリストの思いに同化させるという仕方で、キリストが「神として」わたしたちの中で働かれるのです。従いまして、わたしたちがどうしてキリストの心に同化するのか、その様子を手に取って見るように知ることはできません。神である聖霊の働きがどのように人間であるわたしたちの中で働くかは人間の分際であるわたしたちには理解できません。しかし、主イエスが神として、聖霊をとおして主イエスの思いをわたしたちの中に働かせ、神の愛を働かせてくださるのです。わたしたちにキリストの思いを実行させ、神の愛を実行させてくださるのです。ここのことは、わたしたちが「体験できる」事柄であり、最も「確かな事実」です。この事実をわたしたちは自分の霊、すなわち「人間の知性」によって知るのです。
あくまでも、わたしたちが神になるのでなく、わたしたちの中に「キリストの思い」が働き、「神の愛」が働くのです。わたしたちは人間の分際でありますが、主イエスを知り、神と人格的に交わり、神から命と力を受けるのです。これが神の子とされていることです。
パウロが自分たちはこのキリストの思いが与えられていると言っています。このキリストの思いをもって行動することが、復活の命に生きることです。
隣人と共に歩み、その重荷を互いに負いながら、苦闘することの中で、神の愛が働き、死に勝利したキリストの復活の命が働くのです。逆に言えば、キリストの復活の命は重荷を負いながら苦闘することの中で、わたしたちの中に働くのです。
苦闘することなしに、復活の命は働かないのです。従いまして、わたしたちはお互いに、自ら進んで、相手の重荷を負うことの中で、キリストの復活の命が働くのです。これが神との交わりの中で、父なる神を「父よ」と祈る者たちの生き方です。



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