2011-05-01(Sun)

主の晩餐 2011年5月1日の礼拝メッセージ

主の晩餐
中山弘隆牧師

 わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。
イザヤ書53章6~12節


 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
マルコによる福音書14章18~26節


(1) 古い契約との対比
 主イエスは、福音書によれば、地上における最後の日が近づいたとき、弟子たちと共に、過越の食事をされました。本日の聖書の箇所では次のように言っています。
 「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、『過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意をいたしましょうか』と言った。そこでイエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。『都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。』」(14:12~13)
 これは弟子たちが言う前に、イエスがエルサレムの或る知人の家で、過越しの食事をするように前もって決めておられましたことを表しています。
マタイによる福音書(26:18)で、その知人のところに弟子たちを遣わされたとき次のように命じられました。
「イエスは言われた。都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、わたしの時が近づいた、お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする、と言っています。』」
『わたしの時が近づいた』という言葉は実に意味深く、イエスの十字架の時が今や到来したことを表しています。
 
ところで、過越の祭りは、旧約聖書の三つの祭りの一つであり、その中でも一番重要でした。それは旧約聖書の民イスラエルの存在に係わる祭りでした。なぜならば、イスラエル人はエジプトの下層民でエジプトの王パロの抑圧のもとで長い時代に亘って苦しんでおりましたが、神はイスラエルを顧み、ご自身の民とするために、エジプトの奴隷の状態から解放されたからです。その「解放と選び」を記念する祭りが過越の祭りなのです。
イスラエルの民にとりまして、過越祭を守ることによって、彼らは自分のルーツとアイデンティティーを保って来たのです。言い換えれば、ユダヤ教徒にとって、毎年、1月(ニサンの月、季節は春)の14日に過越の食事をするということは、自分たちが神との契約の中にあることを確認する大切な時であります。

しかし、イエスが弟子たちと共にされた最後の晩餐は、旧約聖書で定められていた過越の食事とはその内容が異なっていると、今日の聖書註解者たちは見ています。なぜならば、過越の食事のパンは酵母をいれないパンであるのに、ここでは酵母を入れた普通のパンが使用されています。また過越の食事ではメインの料理として丸焼きにした小羊の肉を苦菜と一緒に食べるのですが、ここでは小羊の焼肉も苦菜もありませんでした。
それから、主イエスが十字架に付けられた日は金曜日でありますので、最後の晩餐は、木曜日の夕方に行われたと思われます。他方、過ぎ越しの食事は金曜日の夕方から行われますので、最後の晩餐は過越の食事の日と一致しません。 
以上のような点から、イエスが弟子たちと一緒に持たれた最後の晩餐は、過越の食事ではなく、「主の晩餐」と呼ばれています。

(2)新しい契約の設定
それに致しましても、マルコによる福音書は主の晩餐は過越の食事であったと言っています。その観点からすれば、「古い契約」の中にあるユダヤ民族ではなく、主イエスを信じる万国の民が、神との契約に入れられるという「新しい契約」が、主の晩餐において制定されたと見ているのです。これは非常に重要な意義を持っています。
古い契約は、イスラエル民族のための契約でありましたが、それは不十分な契約でした。古い契約はイスラエルをエジプトの圧政から解放しましたが、罪の束縛からは解放しなかったのです。また、古い契約は全人類に救いを与えませんでした。
それゆえ預言者エレミヤは、罪の赦しに基づいた新しい契約が与えられる日の到来を預言しています。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んでものではない。わたしは彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破ったと、主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人同士、兄弟同士、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:31~34)
神はここで、イスラエル民族が神との契約を破ったので、古い契約は今や無効となったと宣告されています。それゆえに、神は人間の罪を贖うことによる罪の赦しに基づいた新しい契約を結ぶ日が来ることを約束されたのです。
新しい契約はそれゆえに、イスラエル民族だけでなく、すべての人間である全人類に与えられることを意味しています。同時に、新しい契約は神による罪の贖いを信じる信仰者共同体と結ばれるべき性質を持っています。
従いまして、神は新しい契約を与えるために、主イエスによる人類の罪の贖いが必要であったのです。今や主イエスは贖罪の十字架の死を目前にして、新しい契約を聖餐式として制定されました。実に聖餐式の制定の言葉ほど、主イエスの十字架と復活による新しい契約の意義を明確に表しているものは他にありません。

(3)聖餐式の言葉
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。」(14:22)
主の晩餐は主イエスと弟子たちとの交わりの時です。イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えられました。それは父なる神がこの場に臨在し、このパンを祝福されるように祈られたのです。
そして、パンを裂かれましたが、弟子たちに分配するためだけでなく、この動作は人間に真の命を与える天からのパンとして主イエスご自身が十字架の犠牲となることを「象徴している」のです。そして、裂いたパンを弟子たちに与えて、次のように仰せられました。
「取りなさい。これはわたしの体である。」
裂かれたパンを「取って食べなさい」と命じられ、同時に「これはわたしの体である」と仰せられました。
今日、教会で執り行われている聖餐式は、主イエスの御言葉の力のゆえに有効です。それゆえ、わたしたちは厳守すべきなのです。聖餐式のパンは主イエスの十字架の贖いの「しるし」であると同時に主イエスの命を授与される「恵みの手段」なのです。
「これはわたしの体である」という意味は、パンが十字架の死によって献げられたイエスの体の「象徴」であると同時に、そのパンを食べることにより、実際に主イエスの命がわたしたちに与えられることを表しています。それゆえ、それは「恵みの手段」なのです。
死人の中から復活されることによって、地上におけるイエスの一回限りの生涯が永遠の意味と生命を持つようになり、聖餐式において、いつでも現在的になるということです。主イエスは聖餐式において、ご自身の地上の生涯で達成された救いを携えて、つねに新しく信仰者たちと出会われるのです。ここで聖餐式は復活の主イエスとの交わりの時となります。

わたしたちがパンを受け取って食べるときに、実際に主イエスの命が聖霊を通して、わたしたちに与えられるのです。主イエスの思いと性質と行動がわたしたちの心と存在の中に働き、わたしたちの考えと性質、意志と行動を捕らえ、啓発し、同化させるのです。
「これはわたしの体である」ということは、主イエスの言葉の威力と聖霊の働きにより、確かにそのようになるのです。聖餐式の執行を通して、そのようになります。出来事として生起すます。わたしたちがそのことを信じて聖餐に与るときに、主イエスの命がわたしたちの人格の中に、実存の中に働きます。
他方、そのことをわたしたちが体験し、確信し、理解しましても、それを自分たちの言葉で表現することは難しい問題なのです。なぜならば神の働きは人間の理解を越えた神秘であるからです。
そこに、聖餐に関する教義の相違が生まれます。カトリック教会では、パンと葡萄酒はその外面は、普通のパンと葡萄酒であるが、聖餐式の中で、主イエスのこの言葉が語られるとき、実体は主イエスの体と血に変化したと教えています。
またプロテスタントのルーテル教会では、パンと葡萄酒の実体はそのまま残り、主イエスの言葉が語られるとき、主イエスの体と血の実体が共存すると教えています。
また、カルヴァンの流れを汲む教会では、わたしたちが信仰をもって聖餐に与るときに、聖霊を通して、主イエスの体と血とがわたしたちの中に与えられると教えています。言い換えれば、わたしたちの中に聖霊を通して主イエスが働き、わたしたちの心と性質と行動を主イエスが導き、感化し、わたしたちは神の意志を知り、喜んで実行するようになると教えています。
そのような人間の理解や表現に相違はありましても、聖餐はわたしたちの信仰を覚醒する「しるし」であるだけでなく、主イエスの体と血に実際に与る「恵みの手段」なのです。
その根拠は聖餐制定の主イエスの言葉が神の威力をもっているからです。
従いまして、聖餐は信仰を持っている人が与る場合に、それは聖霊の働きを通して、主イエスとわたしたちとの人格的な交わりが生起します。それゆえ最も祝福された時です。ここに聖餐の意義があります。それゆえ、信仰をもって聖餐に与る者はそれによって、また信仰が強められるのです。
「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(14:23~24)
ここで、主イエスは聖餐式の杯は、十字架の死によって献げられた主イエスの血のしるしとされました。しるしとしてのぶどう酒を飲むことによって、主イエスの贖いによる罪の赦しの上に成立している神との交わりに入れられるのです。
それはエレミヤの預言の成就です。それゆえにまた、聖餐式は神と民との間の新しい契約を想起する時なのです。さらに、神の民とは古い契約の民イスラエルではなく、聖書の中で「霊的イスラエル」と呼ばれている「キリスト教会」を意味します。

従まして、聖餐に与ることができる者は、主イエスを「わたしの救い主」と信じ、「イエスは主である」と告白し、三位一体の神を生ける主であるという教会の信仰を告白し、洗礼を受けた人であります。
洗礼を受けるということは主イエスと人格的に結ばれると同時に、主イエスの体である教会に属することであります。洗礼を受けるということは新しい契約の共同体に属することなのです。
そういう意味で、洗礼を受け、新しい契約共同体に属し、聖餐に与ることは、わたしたち信仰者にとって、最も重要な事柄です。

最後に、聖餐式は、終わりの時に完成する神の国の祝宴を約束し、保証しています。
「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
この御言葉は神の国が完成するときに、すべての者が主イエスと顔と顔を合わせて、親しい永遠の交わりに入ることを保証しています。そこにおいてすべての人間が愛と理解により、互いに結ばれ調和し共に、三位一体の神を賛美するのです。このように聖餐式はわたしたちに救いの完成に対する希望をその都度新たにするのです。
 
このような主イエスの意図によって、聖餐式は制定されました。ここに弟子たちに対する主イエスの深い配慮があります。実に、主イエスはご自身が十字架の苦難を受ける前に、正確に言えばその前夜に、主の晩餐を弟子たちと共にされ、聖餐式を制定し、執行されました。従いまいて、聖餐式は、今や地上に開始している神の国に生きる民が、聖霊を通して、主イエスの命を受ける恵みの手段なのです。
最後に、マタイによる福音書28:18~20は次のように、復活の主イエスの命令を記しています。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたたと共にいる。」
なぜならば、福音の御言葉の宣教と聖餐が恵みの手段であるからです。この二つを通して、聖霊が働き、聖霊を通してわたしたちは復活主イエスとの人格的な交わりが与えられるからです。



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