2011-04-24(Sun)

復活のイエスの臨在 2011年4月24日のイースター礼拝メッセージ

復活のイエスの臨在
中山弘隆牧師

 わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
イザヤ書43章10~11節


 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
ルカによる福音書24章28~35節


(1)イースターの喜び
 わたしたちは本日イースターの礼拝を守り、十字架の主イエスが死人の中から復活し、名実ともに全人類の救い主となられたことを、喜び神を賛美したいと思います。
 主イエス・キリストが救い主である理由は、今日もそして永遠に生きて働いておられる方であるからです。確かにイエスは歴史の中に実在した人物でした。それだけでなく、イエスは今日も歴史の中に実在して、働いておられる方なのです。
 地上の生涯において、イエスは神の国を宣教されました。神の救いによる罪の赦しを語り、神の恵み深い支配の中で、神を信頼し、感謝し、神の意志に自ら進んで従うことが神の国に生きる人間の生き方であることを教えられました。
しかしその主イエスが十字架の死によってこの地上を去られた後は、もうこの地上に生きておられないとすれば、残された弟子たちは、先生の始められた神の国の運動を受け継ぎ、自分たちの力でその運動を前進させなければならないことになります。もしそうであったとするならば、今日のキリスト教は存在しなかったでありましょう。
たとえ存続したとしても他の宗教と変わらないものになったでありましょう。他の世界宗教は偉大な宗教家が開祖となり、また偉大な高弟たちが開祖の教えを守り、広めることによって成立した宗教です。 
そのような世界宗教とキリスト教の根本的な相違は、神の国信仰の開拓者であり完成者である主イエス・キリストが現在も生きて働いておられるという点です。
主イエスに従った弟子たちは、天地万物の創造者である神が、主イエスを通して、ご自身を恵み深い父として、現されたことを知りました。そして主イエスが神のもとから遣わされた救い主メシアであることを信じ、メシアを通して神の国が実現することを期待していたのです。しかし、メシアが彼らと共にいなければ神の国が実現することはありません。なぜならば弟子たちにとって自分たちが神の国に生きるとは、メシアである主イエスとの交わりが保たれていることにすべてが懸っていたのです。
クリスマスの恵みは神の御子が人間となられたイエスにおいて「神われらと共にいます」という実に驚くべき神の側の決断と愛の行為であります。この場合も、もし神の御子が人間となって、世界の中に入って来られなければ、わたしたち人間は神と共にいることはできなかったのです。もし御子が三位一体の神として、神の内側にとどまっておられたならば、クリスマスの恵みは起こらなかったのです。従って、神の御子が人間となってこの世界の中に存在される限り、神はわれらと共にいますのです。
また、ペトロはイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をしましたが(マタイ16:16)、メシアは神の御子であり、同時に人間なのです。その十字架について死んだメシアが、父なる神によって復活させられなければ、メシアは復活しなかったのです。従って、父なる神がメシアを十字架の死から復活させられたことによって、メシアとしての働きは本格的に発揮できるようになったのです。
従いまして、イースターの喜びは、メシアの復活であり、神の御子主イエス・キリストが、人間として父なる神により復活させられたことです。それゆえ、主イエスの復活の生命はこの世界の中に働き、この世界の中で、救い主の御業を前進させているのです。
生前主イエスを知っていた弟子たちにとりましては、主イエスの復活は、主イエスとの再会です。彼らはその生ける主イエスと再会することによって、主イエスの死によって喪失していた交わりが回復したのです。
その喜びは何物にも代えられない大いなる喜びです。実にイースターの朝以来、弟子たちの会話の中で繰り返された言葉はこれです。
「本当にイエスは生きておられる。」「父なる神はイエスを死人の中から復活させられた。」という確信に満ちた言葉であります。

(2)エマオ途上の弟子たち
「ちょうどこの日、二人の弟子たちが、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」(24:13~14)
スタディオンとは長さの単位で、185mでありますので、エマオはエルサレムから11キロ離れた村でした。それは徒歩で約三時間の距離です。多分エマオは彼らの郷里であったと思われます。彼らはイエスがメシアであると信じて、イエスに従って来た者たちです。ところがイエスはユダヤ教の指導たちによって、排斥され、十字架に付けられてしまいました。全く予想しなかった事件が起こり、弟子たちの希望がすべて失われてしまいました。深刻な挫折に遭遇し、彼らは郷里に帰って以前の仕事に復帰しようと考えていたのではないでしょうか。
それにしても、彼らにとってイエスの十字架の死は、深い謎であり、なぜイエスは十字架に付けられなければならなかったのか、との思いが彼らの心から離れなかったのです。ここで聖書は次にように証しています。
「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られて、イエスだとは分からなかった。」(24:15~16)
復活のイエスは生前のイエスと同様に、御自分の方から弟子たちのところに来て、出会い、彼らと関わりを持たれる方です。御自分から働きかけ、ご自身を知らせられる方であります。この場合、二人の弟子たちは、主イエスがもうこの地上の人ではないから、主イエスと再び出会うことはないと決めており、主イエスを探し求めることはしていませんでした。
しかし、彼らは主イエスの十字架について論じ合っているとき、復活の主イエスが近づいてきて、一緒に歩き始められたのです。主イエスが彼らと歩みを共にすることによって、彼らを導こうとされたのです。ここで、非常に注目すべきことは、人がイエスの十字架を語り合っているところに、復活のイエスが入って来られたということです。このことは二人の弟子たちに限った事柄ではありません。誰に対しても言えるのです。すなわち、人が主イエスの十字架を仰ぎ、その意味を知ろうとするとき、必ず復活の主イエスがご自身を現してくださいます。聖書はさらに告げています。
「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、ご自身について書かれていることを説明された。」(24:25~27)
復活のイエスは、旧約聖書において預言されている救い主についての御言葉を説明し、それはイエスの十字架の死において成就した、と語られたのです。
この説明はイエスが地上におられた時、既に弟子たちに救い主の使命として教えられていた内容と一致しています。イエスは聖書を通して父なる神の意志を知り、救い主としてご自分に与えられた使命は十字架の死により、人類の罪を贖うことである、と理解し、確信しておられました。
しかし、当時の弟子たちはイエスの考え方を理解することは全くできませんでした。それは罪人である利己的な人間にはとうてい理解できないからです。事実、ユダヤ教では旧約聖書をそのように理解することはありませんでした。彼らは同じ旧約聖書を読んでもイエスのように父なる神の意志を知ることができなかったからです。
今や、復活の主イエスによって、弟子たちの心の目が聖書の御言葉に対して開かれたことにより、旧約聖書が預言しているキリストの十字架の死こそ人類の罪を贖う神の力であることが分かったのです。
「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださった時、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(24:32)
主イエスが道をゆきながら、弟子たちと話された時、不思議にも彼らの心は燃え立ったのです。これは主イエスが彼らと出会い、彼らに御言葉を語られることを通して、主イエスの命が心の中に注ぎ込まれたからです。従いまして、わたしたちは主イエスの言葉を聞き、主イエスの思いを知らされるとき、そのことによって、復活の主イエスと対面しているのです。同時に主イエスは対面している者の中にご自身の命を働かせられるので、わたしたちの心が燃え立つのです。喜びと確信が与えられ、主イエスの命じられるところに出かけて行き、主イエスの命令を実行するように、立ち上がり、行動するのです。

(3)復活者イエスの命
次に重要な点は、二人の弟子たちが主イエスと共に夕食をしたとき、その食事の席において、彼らの目が開かれ、今彼らと共におられる方は、復活の主イエスであると分かったことです。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りをささげ、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24:30~31)
生前弟子たちは食卓において、主イエスとの交わりを経験していました。食卓における神の臨在と祝福の中で、彼らは主イエスの人格と意志と言動をつぶさに見ることを通して、目には見えない聖なる神の愛と意志と力を知ることができたのです。
今、食卓の主人として自分たちと共におられる方が、自分たちがこれまでよく知っていた主イエスであることに気づきました。それではどうしてエマオ途上で主が近づき、話しかけてくださった時、それがイエスであると気づかなかったのでしょうか。多分、主イエスの顔や姿が以前とは違っていたからでしょうか。それとも、イエスは死んだのだから再び生きて、自分たちのところに帰って来られるということは想像もしていなかったからでしょうか。
そのように色々な理由が考えられるとしましても、主イエスが復活されたことが分かったのは、今自分たちに出会っておられる復活の主とこれまで弟子たちが知っていた主イエスとの人格が同一であることを彼らが悟ったからです。それは実に復活の主イエスがご自身の人格の同一性を彼らに確証されたからです。
しかし、主イエスの人格は同一でありましても、人間としての働きの仕方は以前とは全く異なっています。以前はわたしたち人間と同じく、時と場所の制約の中で働いておられました。復活の主イエスは一定の時に、複数の場所にいることができるのです。
それだけではありません。以前の主イエスは弟子たちに語り、教え、行動することによって、ご自身の思いを知らせ、感化を与えられましたが、そこには大きな制約がありました。それは弟子たちの無理解によるものです。復活の主イエスはその制約を乗り越えるために、聖霊を通して、ご自身の思いと命を、わたしたち人間の心の中に与えられる方です。
それは復活の主イエスがわたしたち信仰者と対面されるとき、同時にわたしたちの存在を聖霊によって包み込み、わたしたちの魂、良心は主イエスの命を空気のように吸い込むことができるからです。そういう意味で、今やわたしたちは主イエスと本当に人格的な交わりができるのです。
夕食を共にした弟子たちは復活の主イエスであることが分かった途端に、その姿は見えなくなりましたが、それは主イエスが彼らから離れて遠くに行かれたからではありません。復活の主イエスは聖霊を通して、そして御言葉を通して、信仰者の心の中で働き、直接的な人格的交わりを与えておられる方として、最早人間の目には見えない方であるからです。
それゆえに以前の制約を取り除いて、復活の主イエスはいつでも、どこにいる人たちに対しても、その人たちのもとに聖霊を通して臨在し、彼らと直接的で、人格的な交わりを与えられるのです。これが復活の主イエスの在り方です。
そして、彼らの先頭に立って、彼らを導き、教え、感化を与え、父なる神の御心を示し、父なる神に代わって命令される方です。そして彼らが命令を実行することができるように、彼らの中に働かれるのです。
このことを体験し、心が燃えた二人の弟子は、主イエスに従って直ちに行動しました。復活の主と出会うということは、直ちに命令を実行するということです。彼らは既に夜になっていましたが、立ち上がり、エルサレムに引き返しました。それは主イエスの復活の事実を他の弟子たちに知らせるためでした。
彼らがエルサレムに戻ってみると、十一弟子たちと他の弟子たちが一緒に集まっており、「本当に主は復活されてシモンに現れたと言っていました。」
復活の主イエスはこのほかに多くの弟子たちや婦人たちに出会い、御自分は十字架の死から今や復活し、救いの御業をいよいよ本格的に前進させる、と仰せになりました。

最後に、人類の罪を背負って、罪の裁きを父なる神から受け、死なれた主イエスを父なる神は復活させられました。そこに父なる神の主権と愛の働きがあります。それゆえ、復活の主イエスの中に働く命は死に勝利した命です。言い換えれば永遠の命です。わたしたちはこの主イエスの永遠の命を受けることにより、神に従い、隣人を愛する道徳的な力を受けるのです。
死に勝利した命を、父なる神は主イエスに与え、主イエスを通して主イエスと人格的な交わりを持つ信仰者の中に与えられるのです。
その意味で、復活の主イエスは万民の救い主であります。命の主であります。わたしたちは主イエスの復活を喜び、主イエスを復活させられた父なる神を賛美するのです。
讃美歌21の326番は次のように賛美しています。

「地よ、声たかく 告げ知らせよ、尊きイエスの よみがえりを。
死より命へと 導きたもう 主イエスとともに われら進まん。
罪に打ち勝ち 死をやぶりて われらの心 解き放つ主。
その勝ち歌こそ 全地に満ちて、 救われし者 ともに歌う。」



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