2011-04-10(Sun)

父よ、御心が行われますように 2011年4月10日の礼拝メッセージ

父よ、御心が行われますように
中山弘隆牧師

 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
創世記22章6~8節


 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
マルコによる福音書14章32~42節


(1)救い主メシアの使命
 レントの期間を過ごしていますわたしたちは、主のゲッセマネの祈りを心に深く受け止めたいと思います。
 イエスは苦難と死を受けねばならないにも拘らず、メシアすなわち救い主であるのではなく、まさに苦難と死を受けなければならないゆえに、メシアであることを信じ、深く認識されました。この認識は
ガリラヤ地方での神の国宣教運動が終わり、ガリラヤから退き、父なる神から与えられたメシアの使命を改めて深く考えられた時期に確信に至ったものと思われます。
 最初ガリラヤ地方での宣教活動において、イエスは人々に神による罪の赦しを与え、御自分の言動を通して、神の恵み深い直接的な支配が開始されていることを現わされました。しかし、今やそのすべての活動が、必然的にメシアの唯一の使命と結びついていることを理解されたのです。
この唯一の使命とは、人類を罪から解放し、神との交わりに入れるため、人類の罪を贖うことでした。すなわち、旧約聖書イザヤ書53章が預言している「苦難の僕」による人類の罪の贖いが、「メシアの使命」であることを理解されたのです。つまり、人類の罪をメシアが自分の上に引き受け、人類のために、人類に代わって、神の審判を受け、犠牲の死を全うすることです。
「メシアの苦難」という思想は、ユダヤ教の中に、そして一般的なユダヤ人のメシア信仰には一切ありませんでした。彼らが期待しているメシアは、神の力を発揮して、軍事大国であるローマ帝国を武力で滅ぼし、ユダヤ民族を中心にした神の国を建設することでした。メシアがその運動を始めるときには、ユダヤ人はすべて武装して戦う覚悟でいました。メシアはこの地上における神の支配の代行者として、政治的、宗教的、文化的な強大な力を現すと信じていました。しかしそのような信仰は自分たちの利益と神の働きとが見事に一致している神の国に対する信仰であり、イエスが宣教されました神の国とは全く異質であります。
弟子たちも一般のユダヤ人と同じく、ユダヤ民族の長年の望みを実現するメシアとしてイエスを信じていました。このことは、ペトロがイエスに向かって、「あなたは、メシアです。」と明確に信仰を告白しましたその直後に露呈しました。
イエスはペトロの告白を受け入れ、メシアの本当の使命を教えられたとき、ペトロはイエスをわきにお連れして、いさめました。マタイによる福音書では、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)といっています。苦難と死の運命に定められたメシアという考えはとんでもないことです。そんなメシアは存在するはずがありません。このように他の弟子たちも考えていました。
その時、イエスは弟子たちの考え方はサタンから出ているとして、厳しく叱責され、次のように仰せになりました。
「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:33)
次に、弟子たちはイエスがメシアとして不退転の決意をもってエルサレムに上って来られたとき、イエスの思いが自分たちの理解をはるかに超えていることを感じて、非常な恐れの念に襲われました。それでもなお、イエスがメシアであることを信じ続けて、イエスに従って来たのです。それゆえこの時期は弟子たちにとっても大きな試練の時でした。
さらにイエスが弟子たちと共に過ごされた最後の晩餐において、イエスは自分がメシアであることを明らかにし、ご自身の十字架の死による新しい契約の締結と聖餐式を制定されました。これは最も厳かなそして感謝と喜びに溢れた主イエスと弟子たちの交わりの時でありました。このとき、すでにイエスはユダの裏切りを予告しておられます。聖餐式の制定の直前に、一同が過ぎ越しの食事を一緒にしていると、イエスは次のように言われました。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(14:18)
弟子たちはこの突然のイエスの言葉に驚き、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めました。(14:19)
この言い方は「わたしはそうでない」という答えが返ってくることを期待して、「まさかわたしのことでは」と互いに聞いているのです。そのとき、イエスははっきりと仰せになりました。
「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてある通りに、去っていく。だが人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(14:20~21)
十二弟子の一人であるユダがイエスを裏切ったのです。それではユダはどうしてイエスを裏切ったのでしょうか。聖書はその理由をはっきりとは書いていません。いろいろのことが推測されますが、多分ユダはユダヤ民族の希望を実現するメシアとしてイエスを信じ、今までイエスに従って来ましたが、実際のイエスはそうではないことが判明したからであると思われます。そのことを知り失望したからなのでしょう。
イエスがエルサレムに入城されたとき、群衆はイエスによっていよいよ神の国が樹立されることを信じていたのです。ユダヤ教の最大の祭りである過ぎ越しの祭りには、世界各地に離散しているユダヤ教徒がエルサレムに集まります。その時にイエスがメシアとして、ローマ帝国に対する戦いを開始されれば、確実に勝利することができたのに、そのチャンスをやり過ごされました。そしてイエスが自分たちの期待に反する方向に進んで行ったことに対する激しい怒りと憎悪がユダの心に燃え上がったのだと思います。

(2)メシアの時
以上のようにイエスに関する様々な人間の思いが渦巻いている中で、イエスはメシアとして果たすべき事柄を神が定められているので、その事柄を果たし終えた後に初めて、名実ともにメシアとなることを知っておられました。それまでは自分がメシアであることを公言されませんでした。しかし、今やそのメシアの唯一の使命を果たす時が来たのです。今やメシアとしての認識と確信をもって行動されたのです。この場合、「時」(ホーラ)の認識がイエスにとって非常に重大な意味を持っていました。
その時とは、ユダがイエスを裏切り、祭司長や律法学者たちがイエスを逮捕し、裁判にかけ、死刑を宣告し、ローマの総督にイエスを引き渡し、十字架に架ける時でした。
ヨハネによる福音書はこのことを一層明らかにしています。ユダヤ教の指導者たちはイエスを処分するため、イエスを捕らえる機会を狙っていましたが、イエスはなかなか逮捕されませんでした。それは神の定められた時がまだ来ていなかったからです。
「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。」(ヨハネ7:30)
「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」(ヨハネ8:20)
しかし、ついにイエスの時が来ました。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(ヨハネ13:1)
神の業は歴史の時の中で実現します。神はあることを計画される場合に、その時を定められます。その時が来ないうちは、計画は実現しません。しかし、時が来れば必ず実現するのです。人類の歴史における神の最大の業であるメシアによる罪の贖いにもその時があります。それは人類の歴史全体の中心であり、最大の意味を持つ時です。それゆえメシアの業を実行するためには、その時を認識し、自覚に基づいて行動することが不可欠なのです。今やイエスは時を悟られました。
    
(3)神の御子イエスの祈り
「一同がゲッセマネというところに来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」(14:32)
ここに至ってイエスの様子が三人の弟子たちの前で突然変わりました。激しい恐れ悩みと悲しみに襲われ、飲み込まれそうになられました。津波が突然襲ってきたようでありました。身震いするような強い恐れによってイエスの心と体は今にも死にそうになったのです。
この事実がイエスの十字架の死はどのような死であるかを物語っています。個人的な意味で御自分の苦難と死であるならば、イエスはそんなに恐れなれなかったでありましょう。事実多くのクリスチャンが殉教した時、心に平安を保ちながら平然と死にました。しかし、メシアとしてのイエスの死は、人類の罪を担い、人類に代わって、罪の裁きとしての死を経験することです。これは神との交わりから切り離され、全くの孤独で、虚無の暗黒の中に放置されて死ぬことです。それは魂の死を意味します。
「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように。』」(14:35~36)
「杯」とは旧約聖書では罪に対する神の裁きである審判を意味しています。人類の罪の裁きとしてイエスが死を経験することであります。それゆえ罪の裁きである死をイエスは何よりも恐れ、それを回避したいと思われました。なぜならば、イエスは罪のない神の御子として、これまで神との人格的な交わりの中で、生きて来られた方です。神のとの交わりから切り離されることはイエスにとって考えられなかったのです。実にそのような方であればこそ、神との交わりから断絶することが何よりも恐ろしい事態でありました。身体の死だけでなく魂の死を意味していました。
ここに人間イエスの思いがはっきりと表れています。イエスは真の神であり、真の人間であります。真の神が真の人間となられた方ですイエスの人間存在全体がこの魂の死を避けたいと叫んでいるのです。「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。」ということは、イエスの信念でした。イエスは病人を癒す場合に、「人にはできないが、神にはできる」という信仰をもって、父なる神に祈り、神の力によって癒されました。父なる神と親密な交わりの中にあった神の御子イエスは、「父よ、あなたには何でもおできになります」と、絶えず父なる神への信仰を言い表しておられたのです。
このようにしてイエスは父なる神から力を受けておられたのです。同時に、父なる神を愛し、父なる神の御心に従うことが御子イエスの最も心の奥の、最大の願いでありました。
十字架を目前にして、イエスの人間性全体が神の裁きを回避したいと叫んでいましたが、同時に父なる神を愛する御子イエスの最終的な決断は、神の御心に従うことでした。
それゆえ「十字架の死が自分に与えられた父なる神の意志と計画であれば、それに従う」ことがゲッセマネの祈りの中心なのです。それゆえ、この祈りの中で、父なる神の意志を改めて知り、確認することができたのです。
イエスは生まれたときから、父なる神との親密な交わりの中にあって、父なる神の性質とその力を知っておられ、父なる神から愛され、イエスも父なる神を愛してこられました。父なる神に対するそのような愛と従順の経験を重ねる中で、イエスは御自分が神の御子であり、父なる神からこの世界に遣わされているという自覚が心に根付いていたのです。
しかし、真の人間として、「メシアの使命」については初めから完全に知っておられたのではありません。それこそ時の経過の中で、認識が生まれ、心の用意がなされ、それに対応する霊的力を神からを受けて、メシアの使命を果たされたのです。そのような神の御子イエスであればこそ、いよいよメシアの使命を果たすために、父なる神への完全な従順を必要としたのです。自分の魂の死だけは何としても回避したいという人間の思いを乗り越えて、自ら進んで魂の死を受け入れることが必要であったのです。なぜならば、人類の罪を贖うということは、犠牲となるメシア自身の自覚と自発性が最も必要なのです。それなくしては人類の罪の贖いはないのです。そのために、イエスはゲッセマネの園で真剣に祈られました。
ルカによる福音書では、22章44節でこのように言っています。
「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」
またヘブライ人への手紙5:7~8で次のように言っています。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いを献げ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」
しかしゲッセマネの祈りの様子はその場に直接いたペトロの証言が一番正確に示していますので、ペトロの証言を基にして書いているマルコ福音書が祈りの実相を告げています。その祈りは非常に簡潔な内容です。時間も長くても精々半時間以内の出来事です。しかし、真剣に祈られ、神の御心を確認し、神からの力を受けられたのです。
そして、父なる神に対する愛と従順により、そして人類に対する愛をもって、メシアの使命を果たすために、この祈りの中でイエスはご自身をささげられたのです。ご自身を父なる神に献げられたのです。同時に、ご自身を人類に与えられたのです。この御子の人類に対する自己譲与は、永遠の局面から見れば、すでにゲッセマネの祈りの中で行われたのです。しかし、歴史的に、現実的にはゴルゴだの丘で、十字架に付けられた時に、実現しました。それゆえイエスの十字架の死は、ゲッセマネの祈りに支えられていたのです。



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