2011-04-03(Sun)

先立ち行かれるイエス 2011年4月3日の礼拝メッセージ

先立ち行かれるイエス
中山弘隆牧師

 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは、巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻み、大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
詩編40篇7~10節


 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
マルコによる福音書10章32~34節


(1)レントにおいて
 今わたしたちはレントの期間を過ごしていますが、この時にあたりまして、十字架に向かう主イエスを思い、信仰が一層深められますように願う者であります。ここには、エルサレムに向かって進んで行かれた主イエスの姿が鮮明に描き出されています。
 「一行がエルサレムへと上って行く途中、イエスは先頭に立って、進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)
 この非常に簡潔な表現は、主イエスの決意がただならぬものであったことをよく示しています。そこには不退転の決意がみなぎっていました。それは顔に現れているというのではなく、体全体から出る雰囲気がそのように感じさせたのです。それは主イエスの深い認識から出た決断であり、ご自身の人生の必然的な終局を悟った方の力を感じさせます。
 弟子たちは長い間、イエスに従い、神がイエスを通してなされる力ある業を、数多く目撃してきました。そのたびに彼らは驚き、新しい感銘を受けましたが、これほどまでに恐れを感じたことはありませんでした。今回は恐ろしさの余り体が震えました。死に向かって突き進んでいかれる主イエスの決意が、彼らをこれほどに恐れさせたのです。
 それは主イエスの死が、人間だれしも経験する一般的な死ではなく、弟子たちも含むすべての人間が想像することのできない全く異なる意味を持っているからなのです。
 救い主としてのイエスの公的な生涯は前半と後半の二つの時期に区分できます。前半においてもイエスの生涯は弟子たちにとりまして、驚きの連続でした。そこで人間が今まで見聞きしたことのない偉大な出来事に出会ったからです。
 イエスは神の権威をもって罪人を赦し、病める者を癒されました。この事実を見て、人々は驚嘆しました。罪を赦すことができる方は神のみであるのに、どうして人間であるイエスが罪の赦しを与える権威を持っておられるのかという驚きです。
 また、イエスは罪人を受け入れ、徴税人や町の娼婦たちと食事を共にし、神の恵みを分かち会われました。それを見た人は神から遣わされた者がどうして罪人の友となるのかという深刻な疑問を持ちました。
 実にイエスの宣教は、神の国がイエスの言動を通して今や到来し、開始しているという事実でした。言い換えれば、神の国はイエスと共にイエスの人格と業の中に存在しているのです。
 このイエスの言動を通して現された神の愛は、贖罪愛すなわち罪人を贖う愛であります。それゆえイエスの宣教活動は旧約聖書の正統的な信仰を継承していると自負しているユダヤ教の指導者たちとのあいだで激しい論争を引き起こしました。
イエスは神の国宣教におけるご自身の言動が、父なる神と一体であり、神の究極的な啓示であることを確信しておられました。
それに対して、ユダヤ教の指導者たちは、旧約聖書で神が民に与えられた律法と神の性質を示めす御言葉が究極的な啓示であるとして、イエスによる神の究極的な啓示を受け入れようとしませんでした。
それゆえ、イエスの宣教を妨害するユダヤ教の指導者たちを、イエスは偽善者と呼ばれました。そして彼らは神のことを思わず、この世のことを思っていると、厳しい断罪を下されました。
そのような論争と対立の過程を経て、ユダヤ教の指導者たちはイエスが自分たちの宗教とイスラエルの理想を実現するために、最大の危険人物として認定し、イエスを殺そうと決心するに至りました。
このような時期に、弟子たちはイエスがキリストであることを告白したのです。イエスが弟子たちに対して、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。」と問われた時、ペトロは弟子たちを代表して、「メシアです。」(マルコ8:29)と信仰を言い表しました。
この時期を境として、イエスは後半の生涯に向かって進まれたのです。従いまして、救い主として、言い換えれば神を究極的に啓示する者としての前半の活動は、必然的に後半の活動に移行したのです。
後半において、罪人に対する神の贖罪の行為が、主イエスを通して達成されたのです。

(2)弟子たちに対するイエスの配慮
「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
ここで、主イエスは明らかに弟子たちにご自身の死の意味を教えようとしておられます。そのことが起こる前に、弟子たちに理解させようと思われました。そこには深い理由がありました。すなわち、十字架の死に向かって進んで行かれるイエスの歩みに、弟子たちも共に与らせ、そのことを通して主イエスの十字架の死と復活の意味を教えようと欲せられたのです。
もしも主イエスが生前にご自分の十字架の死と復活について少しも教えられなかったとしたら、弟子たちはそのことが実際に起こった場合に、その意味を理解することは到底できなかったでしょう。
しかし、弟子たちはその時点ではまだ理解していなかったのです。否、彼らはイエスの考えとは全く異質な理解をしていました。

(3)弟子たちの無理解
「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』(10:37)
これはイエスが神の国の支配者として、栄光の座に就かれるとき、ヤコブとヨハネは自分たちが弟子として最高の地位に就く予約を頂きたい、という申し出です。
これは何という弟子たちの無理解を示していることでありましょうか。彼らは今や実現する神の国を非常に利己的に受け取っていたのです。他の弟子たちを出し抜いて自分たちが高い地位に就きたいという欲望丸出しです。それを見た他の弟子たちは当然二人に対して憤慨しました。そのとき主イエスは仰せになりました。
「あなたがたは自分が何を願っているかわかっていない。」(10:38)
今わたしたちは、弟子たちのこの有様を見て、何と主イエスの思いとかけ離れたことを考えていたのだろうかと不思議な気がします。彼らの心の感性は何と鈍いのだろうかと思います。しかし、弟子たちのこの姿は実はわたしたちの姿に他ならないのです。
また、弟子たちの場合に、彼らは一般的なユダヤ人と同じくイエスに期待していた事柄は、ユダヤ教的なメシアの使命の達成であり、ユダヤ民族の長年の希望の実現であります。すなわちメシアは神の支配の地上における代行者として、神に反抗するこの世のすべての権力を打ち滅ぼし、ユダヤ民族を中心にした神の国を樹立するということ、そして旧約聖書において啓示され、ユダヤ教が保持している律法による統治を全世界に及ぼすことであります。
しかし、このような神の国は甚だ利己的であり、極めて世俗的な考えによるものです。決してイエスが宣教し、今や十字架の死によって、実現しようとしておられる神の国の実態ではありません。

(4)主イエスの思いと贖罪愛
そこで主イエスは次のように仰せになりました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)
ここには、主イエスによってもたらされた神の国の本質が遺憾なく現されています。それはこの世界の性質とは根本的に異なっています。この世では、支配する人、権力を振るう人が価値ある人として尊ばれています。しかし、神の国では価値ある行為は人に仕えることであり、尊敬される人は皆に仕える人です。
このような相違は、価値観の逆転ではなく、全く異質な価値観である、と言えます。なぜならば、この世では力ある者が力のない者を支配するのですから、支配される者は喜んで従っているのではなく、強制されて不満を抱きながらも服従しているに過ぎないからです。
それに対して、神の国ではすべての人が自由であり、対等です。強制されて人に仕えるのではありません。自ら喜んで、進んで人に仕えるのです。また仕えられる者は仕える人に感謝し、喜んでそれを受け入れ、また自分でも人に仕えることを喜びとするのです。そのような自由と自ら進んで人に仕えることが神の国の性質であり、神の国で働く生命なのです。これこそ主イエスの思いなのです。ここに神の御子としての尊さがあり、主イエスの偉大さがあります。実に、主イエスの生涯はこの思いで貫かれており、それを完成する行為が十字架の死でありました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)
主イエスが人に仕えるために神のもとから世に遣わされたという言葉は、罪人に対する神の赦しをご自身の言動をとおして与えることを意味しています。しかもそのために自分の命を与える必要があることを意味しています。なぜならば、神の赦しを与えることは本質的に神の「贖罪行為」であるからです。

贖罪とは人間を自己の罪と罪による闇の勢力の束縛とから解放し、神との交わりの中に入れることであります。そのために主イエスは自己の命を与えてくださいました。人間に対する主イエスの奉仕は、単なる奉仕でなく、贖罪のために自己の命を与えることでした。イエスの十字架の死が、贖罪行為であることをイエスは明瞭に自覚し、ここで弟子たちに贖罪の意味を教えられたのです。
歴史的な面でイエスの十字架を見ますと、ユダヤ教徒が聖書の神に関する自分たちの知識を絶対化し、メシアによってイスラエルの希望が実現するという自分たちの信仰を堅持するために、それとは根本的に異なる考えをもって行動するイエスを神の名によって十字架に架けました。同時に自分たちの世界帝国を堅持するために、この世的な考えとは根本的に異なるメシアと名乗るイエスをローマ帝国の名によって十字架につけました。神の主権と神の贖罪愛に反対するこの世の二つの勢力によって、イエスは十字架の死へと追いやられました。
しかし、それはあくまで表面的な歴史の現象であり、神の御前にある現実において、イエスは人類の罪を負い、その罪を贖うという神の目的を果たすために十字架につけられたのです。
「人の子」というのは、神の国の主権者という深い意味がありますが、イエスは十字架に向かって行くときその名称をご自身に当てはめられました。
「多くの人の身代金として自分の命を献げる」という言葉は、旧約聖書のイザヤ書53章の預言を要約したものです。もともと「身代金」とは奴隷の身分から解放されるために支払う賠償金のことですが、ここではそれを比喩的に使用して、罪なき神の御子イエスが人類の罪の解放のためにご自身の尊い命を与えられたことを意味しています。
神の御子イエスは、罪人である全人類のために、全人類の代表となって、全人類に代わって、罪の結果である死を引き受けられるのです。そのことによって、人類を罪から解放するために、十字架に向かって行かれたことを、この言葉は示しています。
このようにして、イエスは人類の贖罪の必要性を認識し、その使命が父なる神から自分に与えられていることを自覚されました。自分の命を献げることを決意し、自発的に十字架に向かって進んで行かれたのです。実にこれによって人類の罪の贖いが成就したのです。
イエスの認識と自発性とがあればこそ、人類の贖罪が可能となったのです。ご自身の命を罪人に自発的に与えるという御子イエスの自己譲与によって、神の贖罪愛が啓示されたのです。そしてこのことが聖書における神の究極的な啓示であります。
人類の罪を贖うというイエスの認識と行動において、神の御子イエスと父なる神が一体であることが啓示されているのです。ここで神の贖罪愛が、信じる者に無償で差し出されているのです。  
イエスのこの尊い自己犠牲こそ、利己的な人間の考え方を根本的に変革する神の無尽蔵の恵みです。人はこの恵みに直面することによってのみ信仰と悔い改めに目覚めるのです。



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