2011-03-20(Sun)
神よ、あなたは私を支えられる 2011年3月20日の礼拝メッセージ
神よ、あなたは私を支えられる
中山弘隆牧師
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。わたしの魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます。床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように。神によって、王は喜び祝い、誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
詩編63篇2~12節
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙4章4~7節
詩編63篇2~12節
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙4章4~7節
(1)神へ信頼による祈り
この詩人は絶望の淵から、神に祈り、神と出会い、確信と信頼の高い地点まで連れ出されました。そういう意味で、この詩は旧約聖書の信仰を最もよく証しています。詩編の中で燦然と輝いているいくつかの真珠の一つである、と言われています。また、この詩はイスラエルの王に言及していますので、イスラエルの民がバビロンに捕囚された時期より前の時代に作られたと推測されています。
このたびの東北関東大災害は、わたしたちの予想をはるかに越えた災害でありますので、罹災された多くの方々の救援と復興作業が急務です。このために多くの方々の力が長期にわたって結集されなければなりません。福島原発の事故は、当面この事故の拡大を防ぐことに努力するとともに、原子力利用について根本的に考え直し、経済成長を第一とする政策から、安全を第一する政策へ転換しなければなりません。
悲惨な現実を乗り越える希望と勇気と忍耐力とを神が与えてくださるように、わたしたちクリスチャンは日夜祈ることが必要です。神は必ずこの日本を立ち上がらせてくださいます。そのことを信じて祈るのがわたしたちの務めです。
この詩人は、有力者たちの激しい敵意と巧妙に仕掛けられた陰謀に取り囲まれました。彼の生命は正に風前の灯のような状態となりました。その辺の事情は10~11節で述べられています。彼らはこの詩人の「命を奪おう」と計画していました。
「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを探し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしの体は渇ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」(63:2)
ここで、詩人は、神に向かって祈っています。神に対して、呼びかけ、「神よ、あなたはわたしの神」と言っています。
それは神がイスラエルを選び、ご自身の民とされたからです。神の選びは全く神の愛と恵みによるものであり、人間の功績によるものではありません。ここに聖書の神の生ける働きが現れています。また、選びにおいて現された神と民との関係は神の側からの強制としてではなく、神の約束として提供されているものでありますから、民の側では信仰による応答をしなければならないのです。
クリスチャンの場合には、神が主イエス・キリストによって、ご自身を万民に与えられたことが選びの根拠です。この絶大な神の恵みを信じる者が神の民として選ばれているのです。それゆえ、わたしたちクリスチャンは、本当の意味で、「神よ、あなたはわたしの神です。」と告白することができます。そして、神がわたしの神であることが、神に向かって祈ることができる理由です。
この詩人は生涯の危機の中で、「わたしはあなたを探し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。」と祈っています。
わたしたちは危機のときだけではなく、普段でも自分の周りを見渡すことによっては、神は見えません。まして、危機のとき自分たちの中を見つめても、神はそこにはおられないのです。なぜならば神は本来、人間にとって探し求めなければならない方なのです。神は隠れた所におられ、隠れた形で働いておられる方であるからです。
それにも拘らず、人間は自分の命と知恵と力の源泉であります神との交わりを離れては生きられないからです。人間には見えなくとも、神との交わりが保たれ、神が人間の中に働かれることが生きるために不可欠です。
以上のことはすべての人間に共通しており、信仰者もその例外ではありません。しかし、信仰者の特質は神を求める方法を知っていることであり、そして神を求めざるを得ないということです。
それゆえ、この詩人は神を探し求めています。その切実さについて、「わたしの魂はあなたを渇き求めます。」と言っています。また、「あなたを待って、わたしの体は渇ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」と言っています。
このように、神からの供給が途絶えれば、魂は飢え渇き、肉体は弱り果ててしまいます。要するにこの詩人の全存在が神を求めているのです。
このたびの東北関東大災害は、わたしたちの予想をはるかに越えた災害でありますので、罹災された多くの方々の救援と復興作業が急務です。このために多くの方々の力が長期にわたって結集されなければなりません。福島原発の事故は、当面この事故の拡大を防ぐことに努力するとともに、原子力利用について根本的に考え直し、経済成長を第一とする政策から、安全を第一する政策へ転換しなければなりません。
悲惨な現実を乗り越える希望と勇気と忍耐力とを神が与えてくださるように、わたしたちクリスチャンは日夜祈ることが必要です。神は必ずこの日本を立ち上がらせてくださいます。そのことを信じて祈るのがわたしたちの務めです。
この詩人は、有力者たちの激しい敵意と巧妙に仕掛けられた陰謀に取り囲まれました。彼の生命は正に風前の灯のような状態となりました。その辺の事情は10~11節で述べられています。彼らはこの詩人の「命を奪おう」と計画していました。
「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを探し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしの体は渇ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」(63:2)
ここで、詩人は、神に向かって祈っています。神に対して、呼びかけ、「神よ、あなたはわたしの神」と言っています。
それは神がイスラエルを選び、ご自身の民とされたからです。神の選びは全く神の愛と恵みによるものであり、人間の功績によるものではありません。ここに聖書の神の生ける働きが現れています。また、選びにおいて現された神と民との関係は神の側からの強制としてではなく、神の約束として提供されているものでありますから、民の側では信仰による応答をしなければならないのです。
クリスチャンの場合には、神が主イエス・キリストによって、ご自身を万民に与えられたことが選びの根拠です。この絶大な神の恵みを信じる者が神の民として選ばれているのです。それゆえ、わたしたちクリスチャンは、本当の意味で、「神よ、あなたはわたしの神です。」と告白することができます。そして、神がわたしの神であることが、神に向かって祈ることができる理由です。
この詩人は生涯の危機の中で、「わたしはあなたを探し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。」と祈っています。
わたしたちは危機のときだけではなく、普段でも自分の周りを見渡すことによっては、神は見えません。まして、危機のとき自分たちの中を見つめても、神はそこにはおられないのです。なぜならば神は本来、人間にとって探し求めなければならない方なのです。神は隠れた所におられ、隠れた形で働いておられる方であるからです。
それにも拘らず、人間は自分の命と知恵と力の源泉であります神との交わりを離れては生きられないからです。人間には見えなくとも、神との交わりが保たれ、神が人間の中に働かれることが生きるために不可欠です。
以上のことはすべての人間に共通しており、信仰者もその例外ではありません。しかし、信仰者の特質は神を求める方法を知っていることであり、そして神を求めざるを得ないということです。
それゆえ、この詩人は神を探し求めています。その切実さについて、「わたしの魂はあなたを渇き求めます。」と言っています。また、「あなたを待って、わたしの体は渇ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています。」と言っています。
このように、神からの供給が途絶えれば、魂は飢え渇き、肉体は弱り果ててしまいます。要するにこの詩人の全存在が神を求めているのです。
(2)神との聖なる交わり
「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄を見ています。」(63:3)
イスラエルの民は困惑と欠乏と苦難のとき、神殿に来て神との交わりを求めました。この詩人も神と出会うために神殿に来ました。わたしたちクリスチャンも教会の礼拝に出席して神との交わりを求めます。
「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望んでいます。」と詩人は言っていすが、これは彼が神に対して、「あなたを知るためにわたしは神殿に来ました。」という意味です。
「あなたの力と栄を見ています。」とは、神殿の様々なシンボルを身近に見ながら、神殿の礼拝に参加することによって、神ご自身の尊厳と威光に満ちた「臨在」に直面することを望んでいるという意味です。神の臨在を通して、苦難の中にある自分を神が恵み深く取り扱われるという「確証」が与えられることを求めているのです。
預言者イザヤは神殿の礼拝に参加しましたとき、神の臨在の栄光を見ました。イザヤ書6:1~4でこのことが記されています。
「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地のすべてを覆う。』
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。」
神殿が煙に満たされたとは神の臨在を示しています。旧約聖書において雲は神の臨在を示すものであると同時に神の臨在を人間の目から隠すものです。雲はこの両方の働きをしています。
このように預言者イザヤは神殿において主の栄光を見たことによって、主の御言葉を聞き、預言者として立てられました。
それに対して詩人の場合には、彼が神殿から立ち去り、その日の夜神殿の境内か、あるいは境内に近い場所で宿泊したときに、神との交わりにおいてある明確な体験が与えられたのです。このことを7~9節で語っています。
「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」(63:7~9)
ここで、「あなたの翼の陰で」とは神殿もしくは神殿に近い場所という意味です。彼はその夜、神の翼の陰で一夜を過ごしました。新共同訳では、「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」となっていますが、この箇所は口語訳聖書の方がよく理解できます。
「わたしが床の上であなたを思いめぐらし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき----」となっています。
彼はこれまで神が自分に対してどのようにしてこられたかを思いめぐらし、夜の静けさが深まっていく中で、彼は瞑想を続けました。
彼はそこで、神のヴィジョンを見たのではなく、あるいは神の託宣を聞いたのではありませんでしたが、彼に対して非常に親密な霊的体験が与えられたのです。すなわち、彼の心の目が開かれて、次のことを理解しました。
「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。」(63:8)と言っているように、彼は自分の歩んできた過去の事柄を一つ一つ振り返るとき、神は間違うことなく、その都度彼を助けてくださったことをはっきりと認識したのです。
そしてこの過去の出来事が彼にとって未来の預言となり、神は必ず自分をこの苦難から助け出してくださると確信したのです。
心の目が開かれて、自分の人生に対する新しい視点が与えられました。8節はこの体験を歌っています。しかも彼の開眼は一回限りの出来事でなく、その夜に繰り返して起りました。9節でも次にように歌っています。
「わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」(63:9)
明らかに9節は8節と同じ体験が繰り返されたことを物語っています。
次にこの体験の結果を示している5節に戻ります。
「命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」(63:5)
この詩人は神との交わりによって与えられた「神が彼の助けであったし、今後も彼の助けとして働いておられる。」という確信に基づいて、この地上に生きている限り、神を賛美すると誓いました。そして「手を高く上げ、御名によって祈ります。」と言っています。
当時、イスラエルの人々は手を挙げて祈りました。ソロモン王はエルサレム神殿を建立し、献堂の祈りをささげましたときに、両手を上げて祈ったと伝えられています。このことは列王記上8:22に記されています。
「ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った。」
また、新約聖書のテモテへの手紙一、2:8にも当時の祈りについて記されています。
「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」
従いまして、この詩人は自分が生きている限り、神を賛美し、神に祈ることを誓ったのです。
「わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌を歌い、わたしの口は賛美の声を上げます。」(63:6)
「乳と髄のもてなし」とは祝宴を意味しています。神との交わりにおいて、詩人の魂は喜びに溢れたのです。それは言葉では表せない喜びの充満です。
その理由を4節で言い表しています。
「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」(63:4)
「あなたの慈しみ」とは「神の変わらない確かなる愛」を意味します。神の不変不動の愛こそ、自分に与えられた命よりもまさると、この詩人は告白しています。詩編の多くの詩人たちは、自分に与えられた命こそ神の恵みの証拠であると考えています。
それに対してこの詩人は、自分に与えられた命よりも神の不変不動の愛こそ大きい恵みであると言って神を賛美しています。自分の死を越えてなお不変不動である神の永遠の愛を与えられていることを賛美しているのです。
この詩人は心の開眼によって与えられた新しい視点をもってすれば、神の愛は永遠であるゆえに、神との交わりは死を越えて永続することを知り、彼の魂は喜びと楽しみに満ち溢れたのです。しかも、この詩人は死に直面している危機の中で、大いなる喜びをもって、神を賛美しています。
また、この詩人と同じような体験を詩編73:25~26も示しています。
「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩。わたしに与えられた分。」
イスラエルの民は困惑と欠乏と苦難のとき、神殿に来て神との交わりを求めました。この詩人も神と出会うために神殿に来ました。わたしたちクリスチャンも教会の礼拝に出席して神との交わりを求めます。
「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望んでいます。」と詩人は言っていすが、これは彼が神に対して、「あなたを知るためにわたしは神殿に来ました。」という意味です。
「あなたの力と栄を見ています。」とは、神殿の様々なシンボルを身近に見ながら、神殿の礼拝に参加することによって、神ご自身の尊厳と威光に満ちた「臨在」に直面することを望んでいるという意味です。神の臨在を通して、苦難の中にある自分を神が恵み深く取り扱われるという「確証」が与えられることを求めているのです。
預言者イザヤは神殿の礼拝に参加しましたとき、神の臨在の栄光を見ました。イザヤ書6:1~4でこのことが記されています。
「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地のすべてを覆う。』
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。」
神殿が煙に満たされたとは神の臨在を示しています。旧約聖書において雲は神の臨在を示すものであると同時に神の臨在を人間の目から隠すものです。雲はこの両方の働きをしています。
このように預言者イザヤは神殿において主の栄光を見たことによって、主の御言葉を聞き、預言者として立てられました。
それに対して詩人の場合には、彼が神殿から立ち去り、その日の夜神殿の境内か、あるいは境内に近い場所で宿泊したときに、神との交わりにおいてある明確な体験が与えられたのです。このことを7~9節で語っています。
「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」(63:7~9)
ここで、「あなたの翼の陰で」とは神殿もしくは神殿に近い場所という意味です。彼はその夜、神の翼の陰で一夜を過ごしました。新共同訳では、「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」となっていますが、この箇所は口語訳聖書の方がよく理解できます。
「わたしが床の上であなたを思いめぐらし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき----」となっています。
彼はこれまで神が自分に対してどのようにしてこられたかを思いめぐらし、夜の静けさが深まっていく中で、彼は瞑想を続けました。
彼はそこで、神のヴィジョンを見たのではなく、あるいは神の託宣を聞いたのではありませんでしたが、彼に対して非常に親密な霊的体験が与えられたのです。すなわち、彼の心の目が開かれて、次のことを理解しました。
「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。」(63:8)と言っているように、彼は自分の歩んできた過去の事柄を一つ一つ振り返るとき、神は間違うことなく、その都度彼を助けてくださったことをはっきりと認識したのです。
そしてこの過去の出来事が彼にとって未来の預言となり、神は必ず自分をこの苦難から助け出してくださると確信したのです。
心の目が開かれて、自分の人生に対する新しい視点が与えられました。8節はこの体験を歌っています。しかも彼の開眼は一回限りの出来事でなく、その夜に繰り返して起りました。9節でも次にように歌っています。
「わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。」(63:9)
明らかに9節は8節と同じ体験が繰り返されたことを物語っています。
次にこの体験の結果を示している5節に戻ります。
「命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」(63:5)
この詩人は神との交わりによって与えられた「神が彼の助けであったし、今後も彼の助けとして働いておられる。」という確信に基づいて、この地上に生きている限り、神を賛美すると誓いました。そして「手を高く上げ、御名によって祈ります。」と言っています。
当時、イスラエルの人々は手を挙げて祈りました。ソロモン王はエルサレム神殿を建立し、献堂の祈りをささげましたときに、両手を上げて祈ったと伝えられています。このことは列王記上8:22に記されています。
「ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、祈った。」
また、新約聖書のテモテへの手紙一、2:8にも当時の祈りについて記されています。
「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」
従いまして、この詩人は自分が生きている限り、神を賛美し、神に祈ることを誓ったのです。
「わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌を歌い、わたしの口は賛美の声を上げます。」(63:6)
「乳と髄のもてなし」とは祝宴を意味しています。神との交わりにおいて、詩人の魂は喜びに溢れたのです。それは言葉では表せない喜びの充満です。
その理由を4節で言い表しています。
「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。」(63:4)
「あなたの慈しみ」とは「神の変わらない確かなる愛」を意味します。神の不変不動の愛こそ、自分に与えられた命よりもまさると、この詩人は告白しています。詩編の多くの詩人たちは、自分に与えられた命こそ神の恵みの証拠であると考えています。
それに対してこの詩人は、自分に与えられた命よりも神の不変不動の愛こそ大きい恵みであると言って神を賛美しています。自分の死を越えてなお不変不動である神の永遠の愛を与えられていることを賛美しているのです。
この詩人は心の開眼によって与えられた新しい視点をもってすれば、神の愛は永遠であるゆえに、神との交わりは死を越えて永続することを知り、彼の魂は喜びと楽しみに満ち溢れたのです。しかも、この詩人は死に直面している危機の中で、大いなる喜びをもって、神を賛美しています。
また、この詩人と同じような体験を詩編73:25~26も示しています。
「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩。わたしに与えられた分。」
(3)勝利の確信
次に、この詩人は神が助けられるので、自分を取り囲み、襲い掛かってくる者たちは、いかに悪賢くて、偽りを武器とし、自分たちの状況の有利さに自信を持っていても、最後に彼らの目的は挫折し、彼らは自分たちの悪の報いを受けるであろうと言っています。
「わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食になりますように。」(63:10~11)
しかし、これは彼の敵対者たちの将来がそのようになりますようにと、祈っているのではありません。むしろ、神が彼を助けられるとき、神の裁きによって彼らはこのような運命をたどるに違いない、という彼の見方を表明しているのです。
終わりに、12節は王のために神に祈る執り成しの祈りとなっています。しかし、この部分は詩の本来の構成要素ではなく、この詩が神殿の公の礼拝に用いられたときに、付け加えられたのであろうと思われます。その理由は、この詩人が体験した神の恵みが、礼拝においてすべての信仰者に共有されますので、民の代表者であるイスラエルの王に対して、同様の恵みがあることを、会衆が祈願しているのです。
旧約聖書の信仰においては、神がイスラエルを選び、契約を通して示されました神と民との関係が根本であります。その関係の中では王は一人の人間として、イスラエルの民と同等の立場なのです。神の御前では、王も民も平等です。一人一人が神から「汝」と呼びかけられ神との人格的な交わりに招き入れられるのです。そのような者として、神殿の礼拝では王のために執り成しの祈りがされました。
最後に、使徒パウロはフィリピの信徒へ向かって、次のように勧めました。「どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
このような祈りにおいて、「神は万事を益とされる」という確信を与えられるのです。この確信が主イエスにあるクリスチャンの特徴です。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
「わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ、陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食になりますように。」(63:10~11)
しかし、これは彼の敵対者たちの将来がそのようになりますようにと、祈っているのではありません。むしろ、神が彼を助けられるとき、神の裁きによって彼らはこのような運命をたどるに違いない、という彼の見方を表明しているのです。
終わりに、12節は王のために神に祈る執り成しの祈りとなっています。しかし、この部分は詩の本来の構成要素ではなく、この詩が神殿の公の礼拝に用いられたときに、付け加えられたのであろうと思われます。その理由は、この詩人が体験した神の恵みが、礼拝においてすべての信仰者に共有されますので、民の代表者であるイスラエルの王に対して、同様の恵みがあることを、会衆が祈願しているのです。
旧約聖書の信仰においては、神がイスラエルを選び、契約を通して示されました神と民との関係が根本であります。その関係の中では王は一人の人間として、イスラエルの民と同等の立場なのです。神の御前では、王も民も平等です。一人一人が神から「汝」と呼びかけられ神との人格的な交わりに招き入れられるのです。そのような者として、神殿の礼拝では王のために執り成しの祈りがされました。
最後に、使徒パウロはフィリピの信徒へ向かって、次のように勧めました。「どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
このような祈りにおいて、「神は万事を益とされる」という確信を与えられるのです。この確信が主イエスにあるクリスチャンの特徴です。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
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