2011-03-13(Sun)

わたしの魂は神に頼る 2011年3月13日の礼拝メッセージ

わたしの魂は神に頼る
中山弘隆牧師

 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う。わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた、力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と、ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる、と。
詩編62篇2~13節


 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。
コリントの信徒への手紙二1章8~11節


(1)静かにして待つ心
 この詩の基調は混乱と危機のさなかで、歴史の支配者である主なる神を信じて、静かに神の救済を待ち、今自分のなすべきことに全力を投入するという信仰の確信であります。
 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(62:1~2)
 この詩人は、人生の中で最大の危機に出会いました。突然襲い来る危険や困難は天災によるものや人災によるものなど様々でありますが、この場合には人災によって進退窮まる窮地に立たされたのです。それでも、彼は嘆きの詩編に見られるように神に向かって苦情を訴えることをせず、神の助けを確信して、静かに待つと言っています。
 「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」と神への信頼を告白しています。
彼を取り巻く困難な状況を直視しながらも、それによって恐怖を抱き、気持ちを転倒させ、困難な状況を好転させようとして何の確信もなく、あれやこれやのことを試みるというのではなく、心を落ち着かせ、冷静にして、心と魂を神に向けて集中し、神の助けを待っているのです。ここに、本当の助けを与えられる方は、主なる神のみであることを心の底から信じている彼の姿があります。
これが彼の信仰の特徴であり、彼に勝利をもたらした秘訣であると言えます。
それでは、彼の直面した危機は具体的に何であったのでしょうか。この点につきましては、4節と5節が暗示しています。
「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡き者にしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起せば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う。」
これらの言葉から推測しますと、富と権力のある者たちのグループが、欺きと嘘の手段を用いて、この詩人を高い地位から追放し、さらに破滅に追い込もうとしていたこが分かります。神を畏れない悪辣な者たちが一団となって、彼を誹謗し、名誉を傷つけることによって、彼を失脚させようと計画していたものと思われます。

(2)確信の根拠
その暗い状況の中で、彼の助けはただ恵み深い歴史の支配者である主なる神から来ることを信じ、思いを神に集中しながら、試練の日々を静かに耐えていました。そのとき彼は神が語られる言葉を聞いたのです。
「一つのことを神は語り、二つのことをわたしは聞いた。」(62:12)
神が彼に直接語られたのです。彼に神の啓示を与えられたのです。その出来事は二度ありましたが、内容は一つです。すなわち、次のことです。
「力は神のものであり、慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」ということと「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」ということを詩人は聞いたのです。
歴史の中で物事を実現させる力は神のみが所有しておられるということ、そして、神は恵み深い主権者であるということを、この詩人に直接語られたのです。このようにして彼が神と出会った聖なる体験、その出来事が八方ふさがりの困難を克服し、それに勝利して余りがあるという確信の根拠となり、霊的な力の源泉となりました。

最後に、神は彼をその窮地から救い出された時、彼はしみじみと思ったことを10節~11節で述べています。
そしてこの箇所は詩人が智者として、信仰の知恵を全会衆に向かって教えている言葉となっています。
「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。」
神と人間を比べると、人間がいかに自己を過信し、誇ろうとも、それは無に等しいことをこの詩人は深く自覚しています。ただしそれは決して人間の業に対する悲観的な見方ではありません。神が人間と関わり、その歴史を支え、導いておられるのですから、人間のすることはいかに小さくても神の御心に従うときには、人間の目的は実現するのです。その反対に、人間が自己の欲望を満たすために、全力を投入してもそれは実現しないのです。また、利己的な人間は自分のしていることが正しいと錯覚しています。確かに、自分の判断する範囲内でその正しさは根拠があるように見えましても、全体的を見通すより広い、公平な視点からは正しくないのです。そのような錯覚の原因は人間の罪深さにあります。それゆえ、神を信頼し、神に思いを集中させ、自分の置かれた状況と限界の中で、謙遜な思いで、神の御心に沿うものであると判断できる正しいことをするならば、その業は決して息のように軽くはないのです。それはいかに小さくても何かを創りだす力を発揮できるのです。

(3)神はわが力
次に、同じように神への信頼により発揮する力を詩編46編は歌っています。46編の詩人は、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」とその確信を声高らかに表現しています。この詩編は信仰の確信を表明した歌で、信仰の確信を歌った詩編の中でも最大の詩であると言われています。宗教改革者ルターはこの詩編に基づいて讃美歌21の377番の讃美歌を作詞しました。それは宗教改革のテーマソングになっています。
しかし、ルターがこの讃美歌を造りましたのは、1529年であり、ヴィーンナの町がイスラム教の強大な軍隊であるトルコ軍による包囲から解放されたのを知り、この詩編からインスピレーションを受けて、作詞したと言われています。
「神はわたしたちの避けどころ。わたしたちの砦。」(46:2a)とは「神はわたしたちの避難場所。わたしたちの防衛力。わたしたちの強い要塞。」という意味です。
さらに「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(46:1b)とは、「苦難に遭遇したとき、神はまさにその時の助けとなってくださる方である。」という意味です。
神は常に現在において働く助けなのです。わたしたちが出会う様々な問題の中で、神はその助けとして、そこにいますのです。まさかの時には、遠くの親戚よりも、向こう三軒両隣が助けになるという諺がありますが、神こそ正に最も身近な援助者なのです。このことを神は聖書において古くから示してこられました。
神はこの世界を創造されたとき、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1:1~2)
今日の哲学的な世界観によりますと、この世界は全くの無から神の計画と力によって創造された、と言えます。それに対して、わたしたちの住んでいる地球が、真っ暗な混沌の中から、神の計画と無限の力によって、今日の秩序ある世界となったと見る古代人の表現は、感覚的でありますが分かりやすい面もあります。巨大な物質の力によって存在を保っているこの地球が、神の目的によって制御され、人間が住むことのできる環境を整えられていることへの、畏敬の念と神の支配への信頼が聖書の信仰です。
この宇宙と人間が住んでいるこの地球の存在は神によって創造されたと信じ、神は今日も創造者の力を発揮しておられると信じる信仰によって、人間はこの世界の中で希望をもって、謙遜に、しかも逞しく生きることができるのです。
 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(46:3~4)
 東北地方太平洋沖地震で、今回甚大な災害が発生し、多くの人命と住まいや生活手段が一挙に奪われました。その地震の強さは日本の観測史上で最大であり、マグニチュード8.8であると、報道されています。これによる津波が東北地方から関東北部にまで及ぶ未曾有の惨事をもたらしました。
この犠牲になられた人々のことを思いますと、断腸の痛恨を感じます。しかし、この打撃に打ちのめされて、絶望することはそれ以上の悲惨です。残された者たちは犠牲になられた人々のことを悲しみつつ、復興に向けて立ち上がらなければなりません。それが生き残った者の使命であります。
 それゆえ神に心を向けて、神により頼み、神の力を受けて、復興と再生に向かって前進することこそ、人々が生きる唯一の道であります。
 「大河とその流れとは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神々声を出されると、地は溶け去る。」(46:5~7)
 この詩人が歌う「大河とその流れ」とは、渇いた土地を潤し、穀物の豊作をもたらす農業用の水ではなく、人間に生きる力と英知と忍耐を与える霊的な生命を意味します。その霊的生命の泉は神ご自身が人間の中に臨在してくださることです。
 旧約聖書の段階では、神がエルサレムの神殿の中に、臨在されるので、神殿において礼拝をささげる民は、そのたびに神の霊的生命を自分たちの中に受けることができると信じていました。それゆえ、エルサレムの町はそしてエルサレムを中心にしてつながっている神の民イスラエルは、動乱や試練の時にも動揺することはないという信仰が旧約時代の信仰者を強く生かしたのです。

 しかし、旧約聖書の時代における神との交わりはまだ大きな制約がありました。それはエルサレム神殿の中に神が臨在されるのであって、信仰者の一人一人の心の中に直接臨在されるということはなかったのです。神殿の礼拝においてのみ、神と出会うことが唯一の霊的な生命の手段でした。今や、旧約聖書の制約は、主イエス・キリストの到来と十字架の贖いと復活の勝利を通して、取り去られ、神は主イエスを通して、主イエスを信じる者の中に臨在されるのです。それゆえ、新約聖書の時代の信仰者はこの詩編の作者が賛美していることが、自分の身に実現していることを確信するのです。これがクリスチャンの最大の幸せであります。
 神が主イエスを通して、そして主イエスを信じる者の心の中に臨在され、神ご自身がわたしたちの砦となり、力となり、英知となり働いてくださいますので、わたしたちは揺らぐことがないのです。

(4)預言者イザヤの信仰
 最後に、旧約聖書の偉大な預言者たちの信仰として、イザヤ書30章15節の御言葉を引用します。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神はこう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。」
 すなわち、神に立ち帰ること、そして神に委ね、神の内に平安を得ていることによって、あなたがたは救われる。また、心の落ち着きと信頼の中に、あなたがたの力がある、という信仰理解です。
 また、7章4節と9節で神は信仰について同様の言葉を語られました。
 「彼らに言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。怒れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しくても、この二つの燃え残っているくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」(7:4)
 「信じなければ、あなたがたは確かではない。」(7:9)
 国家存亡の危機、そして自分が生きるか死ぬかに直面したとき、人はこの世の人間の目に見える力を恐れ、動揺しないで、目に見えないけれども天地の創造者であり、歴史の支配者であり、真の力を持ち、ご自身の言葉を実現される神を信頼し、確信していることこそ、力であり、その歩みは堅固なるもの、揺るぎないものとなる、と神はイザヤに仰せになりました。これが聖書の信仰であります。
 この信仰の語源は「アーメン」の語源と同じで「アーマーン」でと言います。それは「揺るがないこと」「しっかりとしていること」「確かであること」という意味です。
 言葉と約束に関しては、「真実である」という意味で、状態や条件に関しては、「永続的である」「安定している」という意味で、人物に関しては、「信頼に値する」という意味です。
 信仰とは、要するに御言葉をもってご自身を表し、主イエスを通して人格的な交わりを与えられる神に対する揺るがない信頼と神の意志にすべてを委ね、この世の不安や恐怖に屈することなく、落ち着いた心をもって、その困難と直面し、神の知恵と正しさと力を確信することです。そのことにより、神の力が働き、困難を乗り越えていくことです。
 キリストの福音の使徒パウロは、宣教の中で極度の迫害や苦難を受け、生きる望みさえなくなったとき、「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。」と言っています。しかし、「それで、自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」と言っています。神に対するこのような信頼は内的な安全と確かさの唯一の源泉です。パウロは言っています。
 「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださいましたし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(コリント二、1:10)
実に、変化の激しいこの世の中で、移りゆく世の変化をチャンスとして捕らえ、必要な力と安定をわたしたちに供給するものが聖書的信仰です。イザヤやパウロが証している信仰こそ、人生の旅路を雄々しく歩む支えであり、拠点です。わたしたちはこの信仰に立って、互いに心を通わせつつ、それぞれの道を雄々しく歩みましょう。



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