2011-03-06(Sun)

悔い改めた者の祝福 2011年3月6日の礼拝メッセージ

悔い改めた者の祝福
中山弘隆牧師

 【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
詩編32篇1~11節


 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
ルカによる福音書7章36~50節


(1)個人の祈り
 旧約聖書の信仰は神とイスラエルとの関係に基づいています。従いまして、一人一人の民は、個人である前に、神の民であることが重視されました。そこで、民は連帯性によって一つとされていたのです。しかし、民の責任はどのように自覚されるかという問題が生じた場合、個人の果たす役割が必要になります。なぜならば、先ず個人が自分の責任を感じない間は全体の責任も明らかにはなりません。
 預言者エゼキエルはこのように言っています。神はエゼキエルに「『先祖がすい葡萄を食べれば、子孫の歯が浮く』ということわざを二度と口にすることはない」と言われました。(エゼキエル18:1~2) 
また、「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」(エゼキエル18:20)
さらに、エゼキエルに先立って預言者エレミヤは個人の責任を特に強調しました。このような時代的背景の中で、詩編には個人の祈り、また個人の嘆きの祈りが多く掲載されています。
本日は、32編と51編の二つの詩を取り上げ、旧約聖書の時代の信仰を学びたいと願います。これらの詩編はレントの期間にしばしば礼拝の中で朗誦されたり、歌われたりします。先ず32編は次にように言っています。
「いかに幸いなことでしょう。その背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(32:1~2)
この詩人は、人間にとって一番の幸いは、罪を赦されて神との人格的な交わりに入れられることであると言っています。この詩は罪を赦された者こそ、一番の幸せ者であるという歓喜の調べによって、始まっています。罪を赦されたことによって、「心に欺きのない人」が幸いであると、重ねて言っています。
罪についてのこの詩人の考え方を四つの言葉で表現しています。「背き」とは律法に表された神の命令に故意に従わないという意味です。「罪」とは、正しさと義務に関して狙いを定めるべき的から外れた行為を意味します。「咎」とは有罪という意味で、罪の行為に対してまだ神殿で贖いの供え物を献げていないため、そのまま放置されている罪の責任を意味します。「心の欺き」とは、自己欺瞞であり、自分の違反行為を言い逃れることです。あるいは軽く見るという意味です。
主イエスも山上の説教で、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と仰せになりました。心の清い者とは、自己欺瞞の無い心であり、すべてのことを知っておられる神に対して正直な態度で、自分の在り方や行為を考え、罪の赦しを求める心です。神を見るとは、罪を赦されて神を礼拝し、神との人格的な交わりに入れられるということです。
「わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。」(32:3~4)
この3、4節は詩人の個人的体験を表しています。かつて彼は重い病に罹りましたが、当時通用していた見方では、病気になったのはある罪を犯したからである、そうでなければ人は病にはならない、と言われていました。
しかし、彼は自分には何の罪もないと自分に信じさせようとしていました。そのようにしている間に、彼は呻き、衰弱がひどくなっていきます。それでも罪の告白の言葉は彼の口からは出なかったのです。「わたしは黙し続けていた」と言っています。彼が沈黙を守れば守るほど、彼の病気は悪化してきました。
ついに屈服し、彼は自分が罪人であることを認める心の用意をしました。彼は自分が悪を行ったに違いないと思われるいくつかの点を振り返りながら、それを主に対して告白しました。するとその時、病から癒されたのです。
病気の苦しみの中で、どうしてこのような窮地に至ったかを、冷静に振り返るとき、やっと思い当たる点がいくつかあったのです。自分の生活の仕方や、その背後にある考え方が災いしていることに気が付き、自分の限界を知り、謙遜になったのです。ようやく自分の現状を受け入れ、その中で神の御心に従って生きることを願うようになったのです。病気を境にして以前とは違った考え方をするようになりました。
「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう。』と。その時、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。」(32:5)
この体験により、これまで彼は罪を認めようとしない愚かで心の頑なな人間であったことに気づきました。このような自分を神は病気によって警告されたのだと考えるようになったのです。
今は健康を回復したことによって、神の慈しみに生きる人間の在り方が何であるかが分かったのです。それは神を見いだしうる間に神に祈るということです。 
「あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも、その人に及ぶことは決してありません。あなたはわたしの隠れ家。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方。」(3:6~7)
この詩人は神を恐れ敬う敬虔な人でありますが、その信仰はイスラエルの一般的な人々の信仰であります。まだ聖書特有の霊歴なレベルには達していなかったと言えます。
この点について、51編の詩と対比しますと明らかになります。

(2)心の真実さ
「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐みをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」(51:3~4)
この詩はダビデの詩ではなく、もっと後の時代に属しており、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還したそれ以後の詩である、と言われています。
この詩は「神よ、わたしを憐れんでください。」という神に助けを求める叫びをもって始まっています。すべての罪から清められ、神の御前に立つことのできる者にしてください、と祈っています。この祈りが、聖書的信仰の祈りの特徴であると言えます。
主イエスはルカによる福音書18章9~14節で、聞きあげられる祈りと聞きあげられない祈りについて、譬話によって教えられました。
エルサレムの神殿で並んで祈っている二人の姿を話されました。一方は自分が正しい者であることを誇りとしていたファリサイ派の人で、他方は自分が罪人であることを知っていた徴税人です。
先ず、ファリサイ派の人は、「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。
それに対して、徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
そこで、主イエスは罪を赦され、正しい者とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない、と仰せになりました。

詩編51編の詩人も自分の罪を自覚して次のように告白しています。
「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きには誤りはありません。」(51:5~6)
ここで彼は自分の罪を知っていますと告白しています。しかもその罪の本質は、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事とみられることをしました。」と告白していることから判断しますと、仲間である人間に対する罪ではなく、神に対する罪であり、神の律法に対する不従順であると言えます。
「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(51:7)
ここで、詩人は人間のもっている道徳的な弱さを告白しています。
「あなたは秘儀ではなく真を望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。」(51:8)この箇所は新共同訳よりも口語訳の方が分かりよいです。
「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。」(口語訳51:6)
神はわたしの「心の底からの忠実さ」を求められますので、心の底からあなたの御前で、賢く生きる本当の生き方を教えてくださいと詩人は祈っています。
詩人の危機は、一つが病気であり、死に瀕していました。そのことは10節の「あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るようにしてください。』という祈りが示唆しています。さらに16節の「流血の災いからわたしを救い出してください。」と祈っていますが、「流血の災い」とは「死」を意味しています。
しかし、彼のもう一つの危機は、魂の虚無の苦しみであり、彼自身が罪により神との交わりから断絶しているという一層大きな苦しみでありました。
それゆえ、彼は32編の詩人のように、罪による病気と死の危険性から助け出されるように祈っているだけではありません。それゆえ自分の病気を自己検証の機会として、彼は自分の命の所有者である主なる神に対する揺るがない忠実さを心の中にしっかりと持つことができるように祈っているのです。
それは、この詩人はイスラエルの民が経験しましたバビロン捕囚期を挟んでなされた偉大な預言者たちの語った言葉に深い影響を受けているからです。預言者エレミヤはイスラエルの民の罪は、その心が病んでいることであると言いました。エレミヤ書17:9~10で次のように言っています。
「人の心は何にもまして、捕えがたく病んでいる。誰がそれを知りえようか。」というエレミヤの告白に対して神は、「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」と仰せになりました。

(3)新しい心
詩人は、魂の死である虚無から救い出されることを願って、次のように祈っています。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(51:12~14)
ここで、神に対して忠実な心、清い心を創造してくださいと祈っています。「創造する」という言葉はヘブル語で「バーラー」と言いますが、創世記の一章一節にある「初めに神は天地を創造された。」という言葉がここでも使用されています。従まして、詩人の祈りは、神が人間の救いとして新しい心を創造してくださるという信仰に基づく願いです。
このことに関して、エゼキエル書36章26~27で次にように預言されています。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」
実に「新しい心の創造」は、神が聖霊を一人一人の人間に与えられることによって達成されるという預言です。このことは、イザヤ書44章3節でも預言されています。
「あなた(イスラエル)を助ける主はこう言われる。『あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。』」
実にこの預言はペンテコステ(聖霊降臨日)の時、聖霊が主イエス・キリストの弟子たちに降ったことによって成就しました。
従いまして、旧約聖書の時代の信仰者たちが祈り求めたことの本当の答えは、主イエス・キリストの救いとしてこの歴の中に成就しました。それは新しい心をも持った人間という意味で、新しい人間の創造なのです。もちろん、それはこの歴史の中で実現した神の救いであり、神が予定しておられる救いの完成は新しい心だけでなく、新しい身体をも含めた新しい人間の創造であります。
しかし、今や主イエス・キリストを信じる者たちにこの旧約聖書の詩人が祈った祈りは応えられているのです。新しい心は聖霊が人間の心に与えられることにより、神に対する揺るぎない忠実な心であり、神の意志に従う心です。神の愛を知り、神の愛を隣人に対して実行する心です。喜んで、自ら進んでそのようにする自由なる心です。さらに新しい人間とは、使徒パウロの言うように主イエスの思いを抱いているクリスチャンです。
「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(コリントの信徒への手紙一、2章16節)

事実、主イエスと出会って、主イエスの中にある神の赦しと罪の贖いの御力を信じた罪人は、神から赦されて新しい心を与えられたのです。ここでも主イエスはその罪人とファリサイ派の義人とを対比して次のように仰せになりました。
「だから言っておく、この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
勿論ここで愛することが多い、少ないというのは量的な意味ではありません。そうではなくて、自分の罪が赦されて、神との交わりの中で生きることは、すべて主イエスにある神の恵みであることを知り、主イエスを信じ、自分の心の底から、主イエスに従い、主イエスの愛をもって隣人とを愛することであります。
それに比べて、ファリサイ派の敬虔な人たちは、自分の正しさにより頼んでいて、主エイスの贖いを必要としない人たちでありますので、本当の神の愛とその力が理解できない人たちの親切な業を、主イエスは少ししか愛さない者と言われたのです。
それ故、わたしの中に新しい心を創造してくださいと祈り求めることが聖書の祈りなのです。



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