2011-02-13(Sun)

あなたは神の国から遠くない 2011年2月13日の礼拝メッセージ

あなたは神の国から遠くない
中山弘隆牧師

 何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6章6~8節


 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


(1)律法についての論争
 主イエスの宣教の内容は、神の国でありましたが、神の国とは神が恵み深い唯一の主であることを信じ、神に従う者たちの中に存在するのです。さらに事柄に即して、より正確に言えば、主イエスの中に神の国が到来していることを知り、主イスに従うことを通して、人間の中に神の国が存在します。従いまして、主イエスの宣教活動は人々を神の国に入れることがその目的でありました。

 ここに主イエスの宣教の中での一つのエビソードとして、一人の律法学者がイエスに教えを乞うたと、本日の聖書の箇所は伝えています。
イエスは民衆や弟子たちに神の国について教えられましたが、他方ユダヤ教の指導者たちである律法学者や祭司たちと議論されました。律法学者と一概に言いましても、それぞれの学派があり、主張する内容は様々でした。そこで、それぞれの派が自分たちにとって最も重要な事柄を主張し、他の派と激しく争っていたのです。彼らはその極めて切実な問題を携えてきて、イエスに議論を挑みました。
しかしイエスはどのような派閥の問題に対しても、最も適切な答えをもって解答されました。例えば、祭司の派閥はサドカイ派でありますが、彼らは死者の復活はないと主張し、他方ファリサイ派は死者の復活を主張し、互いに論争していました。もちろんイエスも死者の復活を信じておられましたので、サドカイ派の提出した議論を見事に論駁されたのです。
イエスの答えの妥当性は、実にイエスが日ごろから生ける神と人格的な交わりを保っておられ、聖書の言葉を通して神の力を常に受けておられことにあります。そのためイエスは復活を証言する適切な聖書を選び、また聖書の解釈が霊的な力に溢れ、実に権威ある解釈でした。それゆえ、ファリサイ派の一人の学者は強い感銘を受けたのです。
マルコ12:28はそのような状況を説明しています。
 「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。」
 そこで、次のように質問しました。
 「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか。」(12:28)

 聖書では、人間に対する神の意志あるいは命令を掟と言います。すなわち、神の国の民に、神がこうしなさいと命じられる要求です。神の掟は旧約聖書の中に、613個あると言われています。その中で、どれが重要であるか、という議論が当時の律法学者たちの間で盛んになされていました。
 そのことについて有名な話があります。一人の異邦人が律法学者ヒレルのもとに来て、こういいました。わたしが片足で立っている間に、あなたが律法全体について教えてくださるなら、わたしはユダヤ教の改宗者になります、と申し出ました。ヒレルはこの申し出を受け入れて次のように教えました。
 「あなたにとって嫌なことは、他の人にしてはならない。これが律法全体であり、残りの律法は皆このことの解説である。あなたは行って学びなさい」と言いました。これは論語の恕と同じです。「己の欲せざることを、人に施すことなかれ」という恕の精神です。
 しかし、ヒレルにとって、この黄金律は他のすべての律法と同様に知恵を表しているものです。ある律法学者が個人的に特別の律法が重要であると思うこと、あるいはある律法から論理的に他の律法を導き出すことができるという意味で、ある律法に論理的な優位性を認めるとしましても、それはあくまでも相対的な事柄に過ぎず、神の戒めとしての権威は律法のすべての規則が同等なのです。あくまでも、神の命令は旧約聖書の中にある613の掟であります。それらの掟を実行することが正しい行為で、実行する者の功績と認められます。
 イエスのもとに来て、律法について尋ねたこの律法学者はそのような時代背景の中で登場しています。彼は「すべての律法の内で、どの律法が一番重要なのでしょうか。」とイエスの見解を求めました。
それに対してイエスは次のように答えられました。
 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人をあなた自身のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29~31)

 ここで、ヒレルとイエスとの間にある根本的な違いが明らかです。律法学者ヒレルは神の定められた律法について民衆を教育し、律法のそれぞれの規則を実行させるための教育的手段として、律法の中で特に重要な律法を指摘しました。ヒレルにとって最終目的は、あくまでもそれぞれの規則を皆実行することでありました。
 それに対して、イエスは神と隣人とを愛せよという二つの律法のように、人間の完全な忠誠と従順とを要求しえる律法は他に存在しない、と宣言されたのです。この二つこそ、神の命令である。これらの律法は補足するためのいかなる他の律法も必要としない。この二つはそれ自身で充足している、と言われたのです。

 イエスのこの明瞭な発言と権威ある態度を見て、ここに登場した律法学者は心から共感して、次のように自分の意見を述べました。
 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。」
 ここで、彼は「神は唯一である。ほかに神はいない」ということは本当ですと自分の信仰を告白しています。旧約聖書が証言している「主は唯一の神である」という信仰こそ、生ける神ご自身の啓示によって与えられた真の信仰です。
神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態より解放された救済の歴史的事件を通して、そして神が聖霊を通して、直接預言者モーセの心にご自分がイスラエルの主であり、唯一の神であると語られたことによるのです。そしてそれ以後、神は多くの預言者たちの心にご自分が恵み深い主権者であることを直接示されたからです。
そして、ご自身を恵み深い主権者として啓示された神は、人間にご自身に対する完全な信頼と従順を要求されました。同時にその要求に従って生きることが神に祝福された一番幸いな生き方であると、語られました。そのようにして与えられた神の命令が律法なのです。
それゆえ、神は民に対して、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神を愛せよ。」と命じられたのです。
また、神は「自分自身のように隣人を愛せよ。」と命じられました。
それは、神を愛することは隣人を愛することと不可分離であり、神を愛することは隣人を愛することの中で現れるからです。

そこでこの律法学者はイエスの言葉を受け入れ、次のように言いました。「あなたのおっしゃることは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえ、よりも優れています。」
するとイエスはこの律法学者に対して、このように仰せになりました。「あなたは、神の国から遠くない。」(12:34)
なぜならば、神の国に入り、そこで生きるというは、神の命令を受け入れ、命令に従順であることに他ならないからです。この律法学者が二つの律法を神の命令とするイエスの律法理解に賛成し、それに従って生きることを望んだから、彼は神の国から遠くない、とイエスに言われたのです。

(2)神に対する従順としての道徳
次に、神に対する従順な生活に関して、ユダヤ教の考え方とイエスの考え方とは全く異なっています。
先ず、ユダヤ教の考え方は、旧約聖書の律法の書に記されている613の律法は皆、神の前で律法として同じ価値があり、そこに規定されている諸々の行為を実行することが人間の正しさとなり、神がそれに報いられる人間の功績となる、というのです。
さらに、旧約聖書にしるされた律法は、非常に具体的で、こういう場合には、こうしなさいという仕方で、定められています。しかし、時代が変わりますと、律法に規定されていない新しい問題が発生します。そこで、律法学者たちは旧約聖書の規定をそれぞれの時代に応用した多くの事例を口伝という形で保存しています。新しい問題に適用できるように律法を再解釈するため、これまでの膨大な量の口伝を調べて、それらヒントを得て、律法を新しい問題に適用することが、専門職である律法学者たちの仕事でした。
例えば、安息日にはいかなる労働もしてはいけないと安息日の律法が定められています。そこで、安息日に律法が禁じている仕事が何であるかは、時代の経過とともに、より詳細な規定が必要となり、律法学者たちの手によって一覧表が作れてきました。口伝の中のミシナーには、安息日に禁じられている仕事が39種類に分類されています。それ以後もこの一覧表はさらに詳しくなり、39種類の各々がさらにいくつからの部類に分割されています。このような作業が今日もユダヤ教の律法学者たちによって行われています。
しかし、これに類したことは、今日の諸国家で、法律家や裁判官や弁護士が行っています。法律の専門家はこれまでの裁判の事例を丹念に調べて、ある行為が法律に従っているか、それとも違反しているかを判断します。一般の人々は、法律家が違法としない行為である限り、どんなことをしても、皆正しいと認められ、善良な市民であることを自認しています。
ユダヤ教においても同様に、正しい行いは律法に細かく規定されています。そしてそのような正しい行いが、神の前に通用する功績となると考えられています。

さらに、正しい人間となるには、正しい行為をすることによって、可能になるという見方が、ユダヤ教の根本にあります。
元々人間は悪い傾向を持っているから、律法によって、神の権威をもって正しい行いと悪い行いを規定し、勧善懲悪の精神に沿って神の祝福と裁きを規定するならば、人間は悪い行いをしなくなり、正しい行いをするようになる、その結果、次第に正し人間になるという人間観がそこにあります。神的権威とそれに基づく社会的制裁という外からの力によって、良いことを行うように強制すれば、人間は正し人間になることができるという人間観なのです。
このことは、社会改良や公衆道徳向上の場合にはある程度効果があります。町を美化するために、紙くずや、たばこの吸い殻を通りに捨てた人は罰金を科せられるという市の条例を作れば効果があるでしょう。
それに対して、イエスの人間観は全く異なります。神の国に入る者は社会でなく、一人一人の人間なのです。一人一人の人間は正しくなることによって、正しい行為が実行できるという人間観です。正しい行為をするために、それに先立って正しい人間となる必要があります。
イエスの道徳、倫理は人間を正しい人間にするためではなく、正しい、善良な人間の行為と態度なのです。良い木が良い実を結ぶのです。
それでは、良い人間、正しい人間とは、もはや悪い行為、間違ったことを少しもしないというのでしょうか。そうではなく、良い行為を自ら進んで、喜んですることができる性格に変わったということです。
すなわち、心から神を愛している人です。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛している人です。同時に、隣人を自分のように愛している人です。この二つの愛が、心に宿っている人が正しい人なのです。
しかし、それは人間自身の努力で実現すのではありません。神の二つの命令は、実は神の約束なのです。神がわたしたちにそうなるようさせてあげようという約束なのです。その約束は、今やイエスを通して、神を信じるとき、わたしたちの心の中に神の愛が宿ることによって、実現しました。それは人間存在の中心でありますの心の中に、神によって引き起こされる霊的な出来事です。 
それは神が恵み深い支配者であり、唯一の主である、言い換えれば、神は人間を愛し、人間の心の中にご自身を与え、人間をご自身との人格的な交わりの中に入れてくださる、という神の国の福音を信じることによってであります。すなわち、神との人格的な交わりの中で、わたしたちの心の中に常に神の愛が注がれ、満ちるのです。

第一に神を愛するということは、わたしたちが神に求め、神に祈る人間であるということです。祈りの中で、神の意志を自分の心と知性でしっかりと認識することです。そして祈りの中で、神の意志を実行する霊的な力を神から受けるのです。この恵みの事実に立脚して、良い行いが人の心の中から湧き出るのです。
第二に愛は、隣人を愛し、隣人と共に、お互いに信仰者として成長することを喜ぶのです。また隣人の必要としていることを喜んで助けるのです。愛は、自ら進んで労苦を担い、忍耐して良い業を行うのです。
愛は信仰と共に始まります。もしも愛し始めないとすれば、その人はまだ信仰に至っていなかったことになります。信仰とは主イエス・キリストを信じることです。神の国を宣教し、わたしに従って来なさいと言われた主イエスは、わたしたちが神と隣人を愛する者となるために、わたしたちの罪と自己主義のもたらす死をご自身の上に担って、十字架の死の犠牲を払い、ご自身の義と命とをわたしたちの中に働かせるために、今日も復活して働いておられます。
この主イエスを信じることによって、わたしたちは一つの状況の中に移されたのです。そこにおいては、わたしたちは主イエス・キリストにあって、神と人とを愛さないようないかなる基盤もすでに取り去られているのです。それゆえ、わたしたちはすべての行動の中で、わたしたちの心の中に宿っている愛を具体的な良い業として働かせているかどうかが絶えず問われています。

愛の具体的な働きは、律法によって規定されているのでなく、主イエスの教えと行動がその見本として模範として与えられているのです。従って、イエスの模範は決して新しい律法ではありません。わたしたちを担い、わたしたちに先立って進んでいかれる主イエスに見習うことが愛の働きであります。



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