2011-02-06(Sun)

仲間を赦す者 2011年2月6日の礼拝メッセージ

仲間を赦す者
中山弘隆牧師

 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。
詩編51篇5~14節


 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21~35節



(1)神の国の福音
 キリスト教会が宣べ伝えている福音とは、神の救いを告げる喜ばしいメッセージであり、神の救いが主イエス・キリストを通してすでに実現し、そして今もその完成に向かって前進していることを告げる言葉です。この福音は、最初主イエス・キリストご自身によって語られました。マルコによる福音書では、イエスによって語られた福音を「神の国の福音」として伝えています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ14:14~15)
 「時が満ち、神の国が近づいた。」という意味は、旧約聖書の預言が実現し、「今や神の国が開始しつつある。」ということです。言うまでもなく、これは主イエスご自身を通して、神の国が開始しているという意味です。しかしこれは人類がこれまで経験しなかった人間の思いをはるかに超えた神の恵みであり、霊的な現実でありますので、先ずそのことに対して人々の目を開かせなければなりません。その使命が神の子イエスに与えられました。
 そこでイエスがとられた方法は、譬話を用いて神の国ついて、また父なる神について教え、さらにご自身の行動をもって示されました。
 主イエスの行動の中心は、罪人に対して罪の赦しを与えられることでした。そして神の赦しのしるしとして多くの病人を癒されました。また悪霊に取りつかれた人を癒し、正常な状態に回復させられました。長年中風で苦しんでいる人を癒されましたが、癒しの中心は罪の赦しの宣言でした。これはマルコによる福音書2:1~12に記されています。
「『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(2:5)
 実にこれは驚くべき言葉です。罪の赦しは神様だけが与えられる神聖な事柄です。それなのに罪の赦しが、主イエスのこの言葉と同時に与えられると仰せになったのです。これを目撃した律法学者たちは、イエスが神を汚す言葉を口にしたと言って、激しく非難しました。しかしイエスの宣言は神の事実であり、その結果として、中風の人は長年の病苦から癒されたのです。
 ここで、主イエスは神ご自身による罪の赦しと同時に今や開始している神の国を、ご自身の言動をもって示されました。そして、この神の恵みと神の愛を信じるように、人々の心に訴えられました。
 もう一つは、譬話を用いて神の国について、神の愛について教えられたことです。例えば、神の国を畑に隠された宝として語られました。この譬はマタイによる福音書13:44に記されています。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、それの畑を買う。」
 天の国、すなわち神の国は畑に隠された宝のようなものであると教えられました。神の国は人の目には隠されていますから、手に取って直接に見ることはできません。しかし、そこにある霊的な宝は無限の価値があります。それは人間を真に生かし、真に幸いな生涯を歩ませる永遠の生命です。そのことに心の目が一旦開かれるなら、人はそれを得るため、たとえどのような犠牲でも喜んで払うであろう、と教えられました。そしてこの霊的な事実を洞察する心の目を開くように、人々に呼びかけられたのです。
 次に、神の国において、人間が出会い、仰ぐべき神は人間に対して恵み深い父であると教えられました。神は人間の父として人間を愛しておられる、と教えられたのです。同時に神の愛は、罪人を赦す愛、贖罪愛である、と仰せになりました。そこで神の本質を明らかにするために、有名な放蕩息子の譬話をされました。これはルカ福音書15:11~32に記されています。放蕩の挙句、落ちぶれて父の家に帰ってきた息子を喜んで迎え入れた父の話です。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24)
 この譬話は悔い改めた息子のことを表すよりも、放蕩な生活をするために家を出て行った息子を父はなお愛し続け、彼が悔い改めて帰ってきたことを何よりも喜んだ父の愛を示しています。この譬話の主人公は、実に神の性質を現しているのです。
 イエスの考えでは、神は贖罪愛をもって人間を愛しておられる人間の父なのです。それゆえ、神を父として発見するとき、人は誰でも悔い改めて神のもとに立ち帰ることができるのです。この霊的な事実が神の国なのです。

(2)悔い改めとは何か
 次に、悔い改めて神の国の福音を信じなさい、と主イエスが仰せになったのは、罪を犯す生活をしていた者が、過去の過ちを悲しみ、単に後悔するということではありません。それは自分の心を入れ替えることです。そのことによって自分の性格を根本から変えることなのです。
 これと関連して、イエスは罪を人間が犯す個々の悪い行為、神の戒めに反する個々の行為ではなく、もっと深い人間の心の状態として洞察しておられます。このことをマルコによる福音書7:14~23で次のように分析しておられます。
 律法学者やファリサイ人は、人間を汚す諸々の悪から身体を清めるために、食事の前に律法の命じる作法に従って、手を洗わなければならないと主張しています。それに対して、イエスは人を汚すものは、外から来る悪ではなく、人の心の中から出る様々な悪い思いが人を汚染すると言われました。
 「さらに、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」(マルコ7:20~23)
 人は悪い行為をする場合に、先ず心の中で悪いことを考え、それを実行に移そうと計画していることから始まります。それゆえ、イエスは罪を外側に現れた行為だけでなく、心の中に潜んでいる悪い思いも罪であるといわれました。
 しかし、この状況を実はユダヤ教の律法学者たちも知っており、人の悪い思いを行動に移させないために、悪い行いに対して厳しい罰を定め、一方善い行いに対して神の祝福を約束することによって、悪い行いを防ごうとしました。このような方法は、病気である人に病気そのものの原因を取り去る治療をしないで、その病気が引き起こす様々な痛みを緩和する治療を施すいわゆる対症療法と同じです。
 それに対して、主イエスは確かに、マルコ7:22~23で心の中に生じる様々な悪い思いを指摘し、心が病んでいる状態を罪とされました。しかし、それらの罪の思いの根源にメスを入れて、その根源を取り去ることが、イエスの言われる神の赦しであり、それに応答する人間の悔い改めなのです。
 それでは心の中にある罪の根源は何かと言いますと、それこそ人間の利己主義です。自分本位の考え方です。自分の心の方向を自分自身に向け、自分の利益になることを考え、欲し、行動することです。これが罪の根源です。
 人の心の中心で座を占めるべきことは、神を愛することと隣人を愛する愛です。すなわち、神を愛するとは神に絶対的に依存し、神に求め、同時に神の御心に従い、御心を行うことです。そこから、隣人を愛することは必然的に由来するのです。隣人を愛することは、神を愛することから派生するのです。
神が人間を創造されたときに、人間が神を愛し、隣人を愛することを心の中心に据えるように神は意図されました。しかし、人間は利己主義と自己中心的な思いになり、神との人格的な交わりから切り離され、様々な悪い思いを抱き、罪に染まり、闇の力に束縛される人間となったのです。それでもなお、人間に対する神の命令は変われません。それは永久に変わらない神の意志であるからです。
 そこで問題は、人はどうすれば心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛することができるか。そして、隣人を自分自身のように愛することができるか、であります。
神を愛し、隣人を愛するという問題は人が外から強制されて解決できる事柄ではありません。それはその人自身が、自ら進んで、喜んで愛する自発的な愛です。従って、それが可能となる方法は、ただ一つです。
 それは神が恵み深い父であり、自分を愛してくださっている父なる神であることを、一人一人が発見することであります。
それはイエスが譬話を通して、示してくださったとおりの父なる神であり、またイエスがご自分の存在と言動をもって示された通りの父なる神であることを信じることです。そして神に自分の全存在を献げ、委ねることです。
 しかし、そのような人間の信仰と洞察、そして献身と信頼だけではありません。イエスはこのことを露わに表現されてはいませんが、神様ご自身がそのことを通して、人間の心の中に臨在し、人間の心に神の愛を注がれますので、初めて可能になるのです。
この神の事実こそ、神が主イエスを通して、人間にご自身を与えられるという神の無尽蔵の恵みです。これは主イエスの十字架の死による人類の罪の除去、罪からの解放を通して啓示された神の愛が、聖霊によって、人間の心に注がれたとき、初めて明らかになった事実であります。
 次に、自分自身のように隣人を愛するということは、自分が神から愛されている神の愛の光の中で、神の愛はすべての人間に向けられていることを理解し、自覚することによるのです。
神から愛されている神の愛をもって隣人を兄弟と思い、接し、行動することなのです。つまり、神の愛の眼差しをもって、隣人を見ることが、隣人を愛することなのです。
 このようにして、わたしたちの心に父なる神が臨在され、主イエスを通して、神の愛と主イエスの復活の生命を心に注がれることにより、わたしたちは精神を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして神を愛し、隣人を愛する者となるのです。
 神と隣人を愛する者となることが、わたしたちが罪人である古い人間から、主イエスにある新しい人間となることです。正にこれが悔い改めであり、わたしたちの性格が根本的に変換したのです。利己的で、自分本位の人間から、神と人を愛し、神と人に仕える人間に変わったのです。
別の言い方をしますと、もはや自分の思いではなく、主イエスの思いによって生きる人間に生まれ変わったのです。悔い改めとは、自分の思いで生きていた者が、主イエスの思いを所有し、主イエスの思いが自分の心の座を占める人間となったことです。

(3)主イエスの思いに生きる人間の特徴
 次に、主イエスの思いを持った神の子と呼ばれるクリスチャンは、隣人に対して、赦す心を持った人間です。このことを本日の聖書のテキストは示しています。
 このこともイエスは譬話で教えられました。ここで、ペトロがイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とイエスに尋ねたとき、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられたのです。
要するに、イエスの答えはイエスの心を持った者は誰でも、兄弟を常に赦す者であるということです。なぜならば、神に愛されている者は、神から赦されている者であるゆえに、他の者を赦すのである。他の者を赦す者が、神から赦されているのだ、という主旨です。そのことを明らかにするために、この譬話をされました。
 譬話の中で、ペトロや他の弟子たちに向かって、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようにされるであろう。」と仰せになりました。
 これは神様から罪を赦されるために、友の罪を赦すという、いわば神と取引をせよという意味では決してありません。そうではなく、主イエスを通して与えられる神の無償の恵みにより、わたしたちの心の中に神の愛が注がれ、わたしたちの心の中心に、神と隣人に対する愛の炎が燃えているので、わたしたちは隣人を愛する者なのです。それによって隣人を常に赦している者なのです。
しかし、隣人を赦すということは、悪を是認することではありません。悪を克服し、善をもたらすために赦すのです。赦すということは神の愛の働きであり、そこに新しい良い思い、行為を創りだす神の力が働くのです。
わたしたちは、主イエスを通して、父である神を信じたことにより、心に神の愛を受け、隣人を愛している者なのです。そのことにより、闇から光へ、死から命へと移されたのです。この人格的で存在的な事態をヨハネの手紙一3:14は次のように証言しています。
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。」
信仰と愛とは同時に始まります。信仰と愛とは不可分離です。わたしたちは主イエスを信じることにより、心の中心が神と人を愛する者なのです。
最後に、神の国に生きる者とは、主イエスによって、悔い改めて、死から永遠の命へ移された者たちです。聖霊によって、心の中に臨在される主イエスの支配のもとにあり、主イエスに導かれ、主イエスの足跡にどこまでもついていく者たちです。そのような者は罪を犯さない、悪いことを考え、悪いことをしない、というのではありません。心の中に燃えている愛によって、悪い考えと、悪い行いを捨て、良いことを考え、良いことを行うのです。いつまでも身にまつわりつく古い人間の考えや行動と戦い、打ち勝ち、それを乗り越える努力をするのです。わたしたちの努力を通して、主イエスの復活の命が働くのです。その生涯こそ万事が益となる生涯です。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)



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