2011-01-16(Sun)

愚かな金持ちのたとえ 2011年1月16日の礼拝メッセージ

愚かな金持ちのたとえ
中山弘隆牧師

 わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった。日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける。「彼らのように語ろう」と望んだなら、見よ、あなたの子らの代を、裏切ることになっていたであろう。わたしの目に労苦と映ることの意味を、知りたいと思い計りついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを、わが主よ、あなたが目覚め、眠りから覚めた人が夢を侮るように、彼らの偶像を侮られるのを。わたしは心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。わたしは愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。あなたがわたしの右の手を取ってくださるので、常にわたしは御もとにとどまることができる。あなたは御計らいに従ってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう。
詩編73篇13~28節


 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13~21節

 
(1)イエスの譬話の性格
福音書を読みますと、主イエスがされた譬話が多く出てきます。
それらはみな神の国についてイエスが用いられた譬です。マルコによる福音書4章26節では、「神の国は次のようなものである。」と言ってイエスは「成長する種の譬」をされました。
 主イエスの譬話はどれも人の心を引き付ける魅力があり、日常生活で人々が目にしているものを材料にしているので、親しみやすい内容です。しかしそれらは単なる教訓や生きるための知恵を語っているのではありません。そうではなく、主イエスにおいて、この地上に開始している神の国に対する洞察と主イエスと神の国との密接な関係に対する人々の認識を与えるためでした。譬の中心点に潜んでいる神の国の事実に対して、人々の心の目を開かせるためでした。従いまして、イエスが譬話をされたときには、その締めくくりの言葉として、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と仰せになっています。これはマルコによる福音書では、4:9と4:23に記されています。
 イエスの譬話は、イエスの霊的な洞察とイエスの生き方の中に、それを理解する鍵が隠されているのです。従いまして、イエスの譬話はイエスの信仰、考え、行動のすべての生き方と表裏一体となっています。そのことに人々が気づくように、イエスは呼びかけ、招いておられるのです。
 本日の聖書の箇所でありますルカ12:13以下も神の国に関する譬です。
 聖書の証する神は万物の創造者であり、摂理の御手をもって万物を支え、支配しておられる生ける神です。しかし、神の国とは神が宇宙を支配しておられることではありません。聖書において、神の国とは人間に対する神の恵み深い支配が行われることを意味しています。被造物の中で特に人格と自分の意志をもっている人間が、神の恵み深い支配を信じ、神に対して感謝の応答をし、自ら進んで神の御心を行うとき、信仰者の中に神の国が存在するのです。しかも、一人の人だけでなく、神の恵みに応答する共同体を通して、神の国がこの地上に存在するのです。
 従いまして、神の国は旧約聖書以来、神が人間の恵み深い主権者であることと、人間が神をそのような神として告白し、神に対する感謝の応答をすることによって、開始し存在するという二つの面がありました。 
すなわち、神の側では、神が人間に恵みを与え、人間を導き、人間の生き方を示す方として、人間に絶対的な忠実さを要求されました。
他方、人間の側では、この神に対する絶対的な忠実さと信頼と従順をもって感謝の応答をすることです。
この二つの面が常に明らかにされ、二つの面において、旧約聖書から新約聖書に至る歴史の諸段階において、具体的な実践が種々試みられ、次第に神の国の理想が明らかにされ、そしてついに主イエスを通して最終的に実現したのです。

(2)神に対する絶対的な信頼
次に、恵み深い主権者である神に対する人間の絶対的な信頼をイエスは概念ではなく、ご自身の生き方を通して、実践し、示し、それを人々に要求されました。人間は自分の実生活の中で、人間に対して絶対的な要求をする神とサタンとの間に立ち、どちらかへの忠実を告白し、決断しなければならないのです。その決断はこれか、あれかのどちらかを決めなければなりません。あれも、これもということは有りえないのです。
そのような絶対的な要求をされる神に逆らって、自分が人間に対して主権者であり、人間の生活に安全と幸いを絶対的に保証するという者がサタンであります。神以外に人間にたいして絶対的な保証と約束をする者はすべて偽り者でありますが、それは富であったり、あるいは知能や美貌であったり、権力や地位であったり、軍事力であったり、国家であったり、あるいは民族であったり、様々な事柄がそのような絶対的な約束をすることがあります。このグローバルな時代で、経済的な成長を最大の目標とするのは、一種の拝金主義です。そのような拝金主義の愚かさをイエスはこの譬で暴露されました。
 この譬のなかで、金持ちは自分の畑の大豊作に出会って、驚きながらも喜んで、次のように自分に言い聞かせました。
 「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」と心の底から叫んだのです。
もし人は誰でもこのような境遇に自分が出会としましたら、生活の心配から解放され、将来に対する希望に胸を膨らませるのではないでしょうか。あるいは、反対にそのようになった人を見て羨ましいく思い、一層自分を哀れに思うのではないでしょうか。
しかし、主イエスはこの譬話の中で、神が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた、と教えられました。
この意味は、わたしたちが生きることと死ぬことは神様だけが決められるという神の主権に対する信仰です。わたしたちがたとえ貧しく困難な状況の中に置かれていても、生きている限り、それは神様が生かしてくださっているのであるから、その間に神の御心を行うように努力しなければならない、と思い行動することが神の主権を信じることです。また、どれほど状況が困難でも、神から与えられた使命を果たすまでは自分は死なないと、捨て身の覚悟で使命を果たすことが神の主権を信じることです。そのような揺るぎない逞しい信仰と忍耐が神の主権に感謝の応答をする神の民の生き方です。
しかしこのような強い信仰は人間の力では不可能であるといえます。ある金持ちが主イエスの生き方の中に神の国が現れていること、そしてイエスは永遠の命をもって教え行動しておられることを察知ました。そこで、主イエスのもとに来て、どうしたら永遠の命が得られるでしょうかと尋ねました。イエスはその人が真剣に永遠の命を求めてこれまでも努力してきたことを見て、「わたしに従って来なさい。」と仰せられましたが、その際に一つの条件を付けられました。マルコによる福音書10:17~27にそのことが記されています。
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている者を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」
このとき、金持ちの男は悲しみながらイエスのもとを立ち去りました。しかし、悲しまれたのは、むしろイエスの側です。イエスは弟子たちに対して「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。」と深い嘆息を漏らされました。これを見た弟子たちが、驚いたのは言うまでもありません。しかしイエスは断固としてこのように仰せになっています。
「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)
同時にまた、イエスが祈り求められることは、神の御心のみが実現することです。従いまして、イエスはゲッセマネの園で、必死に祈られたその祈りの言葉は次の内容でした。
「アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)
これは神に対する絶対的な信仰です。このように主イエスは神に対する絶対的な信頼をもって、語り行動されました。

(3)神の国としての信仰共同体
主イエスは神の御子でありますが、わたしたちと同じ人間となり、神の僕である人間の立場において、この地上において、神の御心に完全に従われたのです。実にそれは信仰と祈りとによって神から御心を示され、それを実行する力を神から受けられたのです。この信仰と祈りによる神との人格的な交わりの中で、神がご自分の父であり、御自分が神の御子であることを自覚しながら、徹底的に父なる神に従われたのです。
イエスは父から与えられたご自分の使命が何であるかを完全に知り、完全にそれを実行することのために、御自分の人生を生き、死なれたのです。
言い換えれば、それは人間としての生き方を神が旧約聖書の時代から律法を通して教えて来られたことの本当の意味を理解し、それを実行することです。この点で、道徳的な神の戒めは、人間が神の御心を知り、神の性質を映し出す道徳的な態度と行動をすることを目的として与えられています。
ユダヤ教とその中でも最も敬虔な生活をしていると自負しているファリサイ派や律法学者たちのレベルを超えて、主イエスは行動されました。それゆえに、弟子たちに対して、次にように仰せになりました。このことはマタイ福音書5:17~20に記されています。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ決して神の国に入ることはできない。」
勿論ここで「神の国に入る」とは、死後に「天国に迎えられる」という意味ではありません。神の国は神の主権を信じ、神の御心に従い、実践する信仰共同体の中に存在するのです。主イエスにおいて神の国が到来しており、主イエスに従う信仰共同体の中に神の国が存在するのです。
イエスの視点からすれば、神の国に敵対する者たちが律法学者やファリサイ派でありました。
彼らは旧約聖書以来の律法とそれの解釈と適用である口伝に示された生活の仕方を文字通り行うことが神の国であり、神の国はそうすることによって、この地上に存在する。それゆえ自分たちが神の国の中で最良の信仰者であると主張していました。
 彼らのいう神の律法とは人間が実行可能な戒めであり、文字に規定されている範囲の事柄であり、非常に法律的で、形式的であります。それに対して、イエスの言われる神の律法とは神の人格的な生ける意志であります。
 主イエスは実に父なる神との人格的な交わりの中で、神の意志を知り、実行し、神の律法を体現されました。それはファリサイ派のいう文字に書かれた律法ではなく、本当の律法である神の意志をご自分の生活の中で体現することでした。そのために主イエスは神から力を受けることによって、実行されたのです。それは実に神の訓練による信仰の戦いを必要としました。
 このことをヘブライ人への手紙5:7~8は次にように言っています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」
 先ず主イエスの特徴的な行動は安息日に病人を癒されたことです。神の主権的な支配は、神の愛による罪の赦しと癒しであることを確信し、安息日の礼拝の中で、罪の赦しを宣言し、病を癒されました。そのとき父なる神ご自身がイエスの中に働かれ、病人は癒されたのです。
このイエスの行為を目撃したファリサイ派は律法を破る行為として断罪しました。そしてイエスの癒しは神から出たものでなく、悪魔の仕業であり、イエスは神を汚す者であると激しく非難しました。しかしイエス神の僕として自分を全く無にし、神への徹底した従順により、罪の赦しと悪の力に対する勝利として、病を癒されたのです。
そのようにして神への信頼と従順を実行しておられる主イエスの中に神の国が存在していることを示しつつ、イエスは信仰の激しい戦いと神への献身の日々を過ごされたのです。視点を変えて言えば、神への従順と献身のためにひたすら悪の勢力と戦っておられる主イエスの中に神の国が存在したのです。
このイエスの姿と言動を自分の目でつぶさに見た弟子たちは、主イエスに対する信仰を告白する日が来ました。弟子たちの代表として、ペトロが「あなたは、メシアです。」と告白しました。
実にこのことがイエスの活動の転機となりました。主イエスの地上における神の国の宣教活動を二分する分水嶺になりました。前半は神の国について教え、後半は十字架の死に向かって真っすぐに進まれたのです。
後半の時期において、イエスは人々に向かって、神の国に入りたいと思う者は、「わたしに従って来なさい。」と仰せになりました。そのとき弟子たちに命じられた言葉が、マルコによる福音書8:24~35に記されています。
「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
これは、神の国における信仰の開拓者であり、完成者である主イエスの御足の跡を一歩一歩と辿りなさい。そうするとき、神が信仰者の中に働き、神の御心を示し、御心を実行する力を与えられる。そのようにして神の性質を映し出す信仰者の共同体の中で、神の国は存在するのだ、とお教えになりました。
この意味で、神が信仰者に要求される絶対的な要求を、今や主イエスは御自分に従う者に対して、同じ要求をされたのです。ここに、神の国と主イエスとの本質的な関係があります。

 その理由は主イエスが十字架の死により、人類の罪を贖われたことにより、主イエスを信じる者はすべて主イスに担われているからです。
地上における主イエスの中に父なる神が働かれたように、今や主イエスを信じる者の中に主イエスが聖霊を通して臨在し、ご自身の命を与え、働かれるからです。このことにより、信仰者が神への絶対的な従順の中で、信仰の戦いをなしつつ、一歩一歩と前進するのです。
この信仰共同体こそ、地上における神の国であり、天上における神の国の出先機関です。
神はこの信仰共同体を通して、主イエスの福音を語らせ、神の救いを人類全体に及ぼされるのです。 



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