2011-01-02(Sun)

新しい時に向かって 2011年1月2日の礼拝メッセージ

新しい時に向かって
中山弘隆牧師

 神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。
詩編51篇3~14節


 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
エフェソの信徒への手紙4章17~32節


(1)新年とは
 わたしたちは新年を迎えて、「新年おめでとうございます」と互いに挨拶をいたします。それは慣例の挨拶ですが、この挨拶にはいろいろの思いが込められています。例えば、「昨年は苦労もありましたが、新年を無事迎えることができて、良かったですね」という感謝の念もあります。また、「昨年は良い年でありましたが、今年も良い年でありますように」という祈願の意味もあります。あるいは、「今年こそ、実り多い新しい機会が開かれますように」という希望の意味もあります。
 わたしたち人間は過去と現在と未来との三つの時間のつながりの中で生きています。未来はこのつながりの中で、わたしたちに希望と新しい可能性を約束するものとして、訪れます。それゆえに、特に一年の内で新年は祝福の時となります。
 しかし、問題は新年が祝福の時となるためには、わたしたち自身が新しくなることが必要なのです。このことに気付かないで、旧態依然とした自分の姿のままで、新年を過ごすことはわたしたちの人生にとり大きな損失であり、また危険なことです。
 わたしたちは何かに夢中になって突っ走っていますと、自分が何であるか、自分の姿はどうなっているかを忘れてしまいます。「山に入る者は山を見ず」と言われていますが、それは山全体の姿を見るためには、山から遠く離れてみることが大切であるという意味です。わたしも自分自身を冷静に、客観的に見て判断するためには、自分を夢中にしている思いから一時解放され、自分を越えた視点から自分を眺めて反省することが必要です。
 人間の心にはそのように自己を越えた視点から自分を見るという自己超越の能力が与えられています。しかし、それは自分の訓練や修業によって十分に可能となるというのではありません。そうではなく、神と出会い、神の言葉の光に心が照らされることが、どうしても不可欠なのです。御言葉の恵みの光に心が照らされるときに、わたしたちの心が素直になり、物事の真相が見えてきます。その素直な心で、自分自身の課題と周囲の状況を捉えなおすことが一人一人に期待されているのです。

(2)新しい存在
 それでは、わたしたち自身を新しくする未来の約束はどういう性格を持っているのでしょうか。ローマカトリック教会の神学者カール ラーナーは「キリスト教の信仰とは、絶対的な未来に対して開かれた態度である。そして絶対的な未来こそ、イエス・キリストにおいてご自身を与えられる神である」と言っています。
 聖書は神が主イエス・キリストにおいて、既にわたしたち人間を古い人間に死に、神の御前に永遠に生きる新しい人間としてくださっていると、語っています。
そしてそれゆえに、わたしたちが新しい人間として具体的に生きるために、神は主イエス・キリストを通して、日々わたしたちと出会い、御言葉の光をもってわたしたちの心を照らし、わたしたちの存在の中に働かれると、約束しています。
さらにわたしたちにむかって、御言葉に応答して、新しい人間として生きなさいと、奨励しているのです。

「だから、以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てて、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:22~23)
ここで聖書は、わたしたちに古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るように勧めています。それでは、具体的にいえば、どういうことなのでしょうか。
この点につきまして、プロテスタントの神学者パウル ティリッヒはキリストにある新しい人間を「新しい存在」と呼んでいます。そして、クリスチャンが新しい存在として生きることを、三つの形態で示しています。
第一は、主イエスを信じて洗礼を受けることによって、聖霊を通して、新しい人間に生まれ変わること、すなわち新生です。
第二は、「にも拘らず」という逆説的な側面です。これはルターの言う信仰義認を意味しています。わたしたちは主イエスを信じても依然として罪を犯す罪人ですが、それにも拘らず、罪を赦され、神から受け入れられ、神との人格的な交わりの中で生きているというわたしたちの在り方の確かさです。
第三は、新しい存在とは、一つの過程、プロセスであるということです。すなわち、愛の行為、愛の働き、愛の労苦というプロセスとして現れます。言い換えれば、このプロセスは人間の決断、行為を通して現れますので、わたしたちは新しい存在を愛の実践を通して体験するのです。

(3)新しい生き方
次に、新しい生き方の特徴は「新しい心」が与えられることです。聖書でいう心とは、考える、理解するというだけでなく、目的を持つこと、意図すること、さらにその人の態度、感情、洞察までも含む総合的な働きです。
そのような新しい心とは、古い物と新しい物とを判別し、古い物を捨てて新しいものを取り入れる心です。すなわち、自分の考え方、生き方を常に整理、整頓する心です。
わたしたちの日常生活でも、整頓することは非常に大切です。そのままにしておくと、部屋の中はゴミだらけになり、大切な書類が紛失してしまいます。夏の衣服や冬の衣服を整理して保存していないと、その時期になって探しても見つからなくなったりします。これは心の外側にある物の整理整頓でありますが、新しい心には心の中を整理整頓する機能があるのです。古い考え方や生き方を新しい考え方や生き方と判別し、古い物を捨て、新しいものを取り入れる心です。
新しい心と言いますと、古い物とは一切無関係な素晴らしい心で、天来の音楽や天来の詩が心に閃くように、麗しい別世界に生きる心地を与えるのではなく、この現実の世界で、真実な物と偽りの物とを、命に至る物と死に至る物とを、隣人と共存し共鳴する生き方と、隣人に対する偏見と争いに至る生き方とを、神の御心に従う生き方と神に反する生き方とを、判別し選択する心であります。
わたしたちの心の中には、この神に反する考え方、この世に蔓延している低い思い、また低い思いによる楽しみを追求しようとする衝動が、絶えず入ってきます。それは不法侵入でありますが、パソコンのなかにウイルスが侵入するようにわたしたちの心の中に侵入し、心の中に隠れてしまいます。その時、パソコンの中でアンティウイルスのソフトが働いてウイルスを退治しますように、わたしたちの心の中に侵入して、隠れたところで悪い働きをしている低い考え、罪の働きを追放するのが新しい心です。
それではどうして新しい心はそのような機能があるのでしょうか。その理由はそれがキリストと一体となった心であるからです。聖霊の愛と一体となった心でありますので、悪を喜ばず、真理を喜び、悪を実行せず、真理を実行する心であるからです。新しい心の働きは、このように古い物と新しい物とを識別し、古い物を捨て、新しい物を取り入れるのです。

従いまして、聖書は新しい生き方として、信仰者の取るべき態度、振る舞い、思い、言葉、行動について具体的な勧めをしています。
「盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。むしろ苦労して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(4:28)
なぜなら、新しい心は、真面目に働くことを決意し、苦労しながら努力することを、喜びとするからです。
「だから、偽りを捨てて、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」(4:25)
今日の社会悪は、様々な偽りが横行していることではないでしょうか。それに対して、クリスチャンは、互いに真実を語るようにされているのです。人々が主にある交わりの中で、互いに影響し合い、互いに切磋琢磨し、互いに助け合い、互いに成長することのできる共同体が教会でありますが、教会の交わりが新しい人間の生き方を育てる苗床の役目を果たすための一つの必要条件は、互いに信頼し、互いに真実を語るということです。
さらにもう一つの重要な条件は、互いに受容し、互いに相手に対して寛容であり、互いに相手の欠点や誤りを赦すということです。この点は教会の交わりの特質であります。キリストによって啓示された神の愛は、人間の罪を贖う愛でありますので、罪人を赦す愛であります。この神の愛に生かされ、神の愛を実行するクリスチャンの交わりは、特に互いに赦すことによって成り立つのです。この点は福音的な道徳、生き方の根幹です。
他方、当時ストア哲学の道徳も非常に水準が高く、ストア哲学者たちは、個人の良心の自由と自主性を重んじ、分別、節制、勇気、正義を強調しました。そしてそのような道徳、倫理の理想を実行し、満たすことを人徳と呼んでいました。しかし、ストア哲学の倫理の動機は、自尊心であり、人間としての誇りでありました。
それに対して、キリストの使徒たちが強調した倫理は、次の点です。
「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(4:2)
福音的な倫理は厳格な戒律に従うことではなく、良心の自由と自主性的判断によって、神の御心に従う生き方をすることです。わたしたちが直面している具体的な時と場所によって、必要な正しい業、親切な業、愛の業が何であるかを自分で判断する自由が与えられています。
その判断の基準として、主イエスは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)と教えられました。
このようにわたしたちが兄弟に対して、隣人に対して、見知らぬ人に対して、「自分がその人の立場にあれば、何をしてもらいたいと思うだろうか」と考え、その人の立場に立って考え、助け、親切な業を知ることが必要です。
そのためには、わたしたちの心が他の人の悲しみ、苦しみ、弱さに対する温かい感受性が必要です。キリスト教の道徳においては、自主的な判断、識別する洞察力と同時に、人の辛さ、心にある思い、願いを感じる感受性や共鳴する心が重要なのです。
このような判断、洞察力、心の感覚、感性、温かい共感はわたしたちが主イエスとの交わりによって、芽生え、強められます。今も生きて働いておられる復活の主イエスの思いが、聖霊を通してわたしたちの心の中に働き、わたしたちに感化を与え、わたしたちの思いとなるのです。わたしたちが日々新しくなるということは、実にこの生ける主イエスとの人格的な交わりから湧き出るのです。
  
考えてみますと、わたしたちの性格にはこれまでの環境の影響や自分の行動の結果により、様々な悪い傾向や歪があります。思い煩ったり、恐れたり、また高慢で、利己的で、頑なで、人に対して冷淡であり、苛立ったり、人を嫌ったりしますが、キリストはわたしたちを赦し、受け入れ、キリストの健全で、清い、霊的に逞しく、父なる神に対する従順な姿を常にわたしたちに示してくださいます。その結果、わたしたちは自分の悪い点や性格の歪が徐々に改善され、キリストの性質に似るようになっていきます。そのようなキリストの霊的な感化こそ、何にも勝る真理であり、命であります。
実に、キリストは聖霊により、わたしたちの心にご自身の姿を見せ、キリストの内に働いている真理を示されるので、「これまで暗かったわたしたちの知性は明るくなり、これまで無感覚であったわたしたちの心は感受性をまし、これまで頑なであったわたしたちの心は従順で、素直になります」。そして何が神の御心であるかを知り、何が隣人に対してわたしたちのなすべき良い業であるかを認識することができるのです。
それだけでなく、認識すると同時に、神はキリストの内にある霊的な命をわたしたちに与え、神の愛がわたしたちの心の中に働きますので、それを実行することができるのです。そのようにわたしたちは新しい人間として、新しい時の中で生きるのです。

最後に、ヨハネの手紙一、1:2~4は次のように言っています。
「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ち溢れるようになるためです。」
わたしたちが新しい人間として生き、喜びに満たされるのは、わたしたちが常に仰ぐ方、復活の主イエス・キリストの中に真理があるからです。その真理は命であるから、わたしたちの中にある新しい心は常に善悪を識別するのです。
同時に低いこの世の思いと低い楽しみを捨てて、キリストの内にある高くて真実な生き方を実行することができるのです。その体験によりわたしたちの喜びが一層大きくなり、神を賛美するのです。



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