2010-12-26(Sun)

信仰の完成者イエス 2010年12月26日の礼拝メッセージ

信仰の完成者イエス
中山弘隆牧師

 わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく、御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました。なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが、勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。」
エレミヤ書15章17~21節


 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
ヘブライ人への手紙12章1~13節
 

(1)信仰のレース
 本日の聖書の箇所は、信仰とは何か、信仰生活とは何かについて、実に明瞭に語っています。クリスチャンの中にはキリストを信じておればそれでよいと安易に考えている人がいますが、聖書の信仰は決して怠け者の信仰ではなく、時を有効に用いる働き者の信仰です。わたしたちの信じる神はわたしたちの信仰を鍛え、わたしたちが永遠の命をますます豊かに体験できるように働きかけられる神です。
わたしたちに語りかけ、約束し、促し、鍛え、また鞭打ち、変革し続けられる力強い、生ける神であります。ヘブライ人への手紙は、信仰者をレースを走る選手に譬えています
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷や絡み付く罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。」(12:1)
 ここで「競争」とは「マラソン・レース」のことであります。ランナーは、目標を目指してまっしぐらに走ります。その場合、できるだけ身を軽くし、走ることに全精力を集中させ、どれだけ苦しくても最後まで走りぬくことが必要です。そのためには日々練習を重ね、食物の量をコントロールして贅肉を減らし、しかも筋力を付けて忍耐力を増強することが肝要です。
 わたしたち信仰者も同様に、信仰のコースを走って、そのゴールまで完走しなければなりません。そこで完走すべき道は、神様が定めておられる道であり、ゴールは天上にある永遠の国です。実にわたしたちは永遠の国にまで続いている壮大なマラソンに参加しているのです。このことを自覚していると、わたしたちの心には常に緊張感が保たれています。しかしそれは神経質になったり、思い煩ったりすることではなく、心を活発にさせる緊張感です。また、信仰のレースを走るためには、その障害になるものを取り除く必要もあります。そうでないと、最後まで完走できません。ここに信仰の真剣さがあると言えます。
わたしたちはどれだけ心を惹かれ、捨てがたいと感じることでも、信仰のレースの邪魔になるものは、思い切って捨てることが大切です。世の思いにいつまでも捕らわれないで、信仰の人生を前向きに考え、信仰にふさわしい希望と喜びを確認しながら、前進して行く必要があります。
また、主イエスを信じてクリスチャンになった人は、自分は今信仰の出発点に立っていると考えることでありましょう。確かにそういえますが、むしろ信仰者の歩みは人生そのものであります。わたしたちは自分がどこから来て、どこへ行こうとしているかを考えるとき、そこから信仰への歩みは始まるのです。人生の意味を求めて、聖書に聴こうとしている人は、既にそこで多くの証人に見守られて、信仰に近づいているのです。
このように人は生きる意味を探求する中で、主イエスと出会うときに、決定的な転機を迎えます。自分が今まで気づかずに求めていたものがここにあることを発見し、驚きます。
それは自分がこれまでなしてきたすべての事柄を知っておられる神に赦されて、神の御前に立っているという恵みです。そのとき天地の創造者であり、支配者である神が恵み深い父となり、神との人格的な交わりの中に招かれることが、人生の最大の意義であるのが分かります。
ヘブライ人の手紙9章14節で次のように言っています。
 「永遠の霊によって、ご自身を疵のない者として神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
 これは神の御子イエス・キリストの十字架の犠牲の血によって、わたしたちの良心が清められて、神に仕え、神との交わりの中で生きるようになる、という意味です。
 人間には良心があります。「良心」とは「道徳意識」また「自分の行いや計画を意識している」という意味です。あの人は良心を持っていないと言えば、その人は善悪の見境がないという意味です。「やましい心」とは、自分が悪いことをしているという意識のことです。それを英語で言えば、「悪い良心」という表現をします。それに対して、「良い良心」と言えば、「潔白な心で」、「良心に恥じることがない」という意味です。
 従いまして、「キリストの血によって、わたしたちの良心が清められる」という意味は、良心にやましさを与えている悪い欲望とその計画が取り去られ、清められるという意味です。
また、「わたしたちの良心が清められて、神を礼拝する」という意味は、わたしたちが「潔白な心で、喜んで、自ら進んで、神に仕える」という意味です。
宗教改革者ルターは1821年4月18日にヴォルムスの国会で、福音を明らかした彼のすべての著書を撤回するように、ローマカトリック陣営から要求されました。そのとき彼は次のように答えました。
「わたしは聖書の証と明瞭な議論によって、論駁され、確信されないならば、わたしの引用した聖書の箇所にわたしは征服され、わたしの良心は神の言葉に縛られているので、いかなるものも撤回できないし、撤回することを欲しない。なぜならば、良心に反して行動することは安全でないし、危険であるから。」
そして、最後に、「わたしはここに立っている。神よ、助けたまえ。アーメン」と締めくくりました。
このように、ルターは神の言葉の研究によって教育された良心の奥深くからの確信をもって、彼の福音理解を国会において証言したのです。
神の言葉によって強められた良心の確かなる自覚をもって、発言し行動することが、神との人格的な交わりの内容であり、その実態です。明らかな良心をもって行動することが人間にとって一番大切です。そのためには、普段から聖書に聴き、神に祈ることによって、神の御言葉に良心が照らされていることが必要です。そのようにして、クリスチャンは信仰の人生を一歩一歩と前進して行くのです。このことがわたしたちの信仰生活の始まりというよりは、むしろその基礎と根拠であります。

(2)信仰の創始者、完成者
次に、聖書はわたしたちに与えられた信仰の人生を最後まで完走し、永遠の神の国に入るためには、常に主イエスを見つめて歩み続けることが何よりも大切である、と勧めています。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨てて、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)
ここで、聖書はわたしたちの救い主イエス・キリストを信仰の創設者であり、完成者と呼んでいます。この言葉には非常に深い意味が込められています。なぜならば、信仰をもって実際、天の神の御前に至った者は、今までただ一人であり、それがイエスなのです。イエス以前にも、神と永遠の世界に対する信仰を抱いて生きた人たちは大勢いました。しかし、彼らはまだ天国には入らなかったのです。彼らは望みを抱いて死んだのです。
しかし、このことはイエス以外に信仰を持った人たちの信仰の生涯が神から受け入れられなかったというのではなく、彼らの信仰はまだ不完全であったというべきなのです。そもそも信仰と祈りとは、神に造られた人間が持つべき最も大切な働きであります。言い換えれば、人間は信仰と祈りにより、神を知り、神に従う生活をするように造られているのです。それにも拘らず、現実には人間の高慢と無知により、人間は神に反抗し、信仰と祈りとが正しく機能しませんでした。
わたしたちの救い主として、真の人間となられた神の御子は、わたしたちと全く同じ条件のものとで、わたしたちと同じ誘惑と試練を受けながら、信仰と祈りによってそれに打ち勝ち、父なる神の意志に従われました。神の御子が誘惑の多いこの世界の中で、父の御心を知り、救い主の使命を果たされたのは実に信仰と祈りの力によるのです。この世の人々は皆、十字架を恥辱の極みであると考え、十字架を軽蔑し忌み嫌う中で、御子は十字架が人類の罪を贖う神の方法であることを認識し、自覚されました。
それゆえ、イエスの生涯は最後まで孤独な戦いの連続でありましたが、確信に溢れた勇敢な戦いを全うされたのです。それは勝利の確信と喜びを見つめて、雄々しく戦われたのです。この点で、新共同訳聖書の言葉は、物足らないと思います。
ギリシャ語の「アンティ」という言葉は、「~代わりに」という意味と「~ために」という二つの意味があります。新共同訳は「~代わりに」という意味にとって、「ご自身の前にある喜びを捨てて」と訳していますが、それは「ご自身の前に置かれている喜びのゆえに」と訳すべきです。イエスは神の御心を知り、十字架の犠牲の向こう側にある「永遠の喜び」を見つめて、十字架の死と虚無の恐ろしさを引き受けられたのです。そのようにして、十字架の犠牲を全うされました。実に人間の達成すべき信仰は主イエスの生涯によって完成したのです。
ヘブライ人の手紙はこのことを次のように説明しています。
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(5:8~9)
実に人間となられた神の御子は、人間としての弱さと誘惑の中で、従順を学び、罪の全くない人生を歩み抜かれました。さらに、十字架の使命を認識し、それを受け入れ、十字架の向こう側に置かれている喜びのゆえに、その犠牲を全うされたことにより、イエスにおいて信仰は完成したのです。
御子が苦難を通して従順を学ばれたという意味は、イエスの生涯は信仰の戦いの連続であり、戦いに勝利されたという深い意味があります。その意味で、主イエスに導かれ、従い、信仰の道を歩むクリスチャンの生涯も信仰の戦いを回避することなく、それに向かって雄々しく進んでいくことを神から期待されているのです。
また「レース」というギリシャ語は「アゴーン」と言いますが、この言葉は「戦い」という意味も兼ねています。従いまして、信仰のレースは同時に信仰の戦いを意味しています。

(3)主イエスを見つめて
次に、聖書は「主イエスを見つめながら、競争を走りぬこうではないか」と勧めています。このことを心に留めて、片時とも忘れることがないようにしたいと思います。
主イエスはわたしたちの信仰の人生に常に伴い給う方です。わたしたちの方がこの世の思いに捕らわれてイエスを忘れていましても、イエスはわたしたちを忘れられることはありません。わたしたちの弱さを担い、わたしたちに霊的な命を与えられる方として、常にわたしたちの目の前におられます。
それゆえ、わたしたちは目を上げて、イエスを見つめるべきです。信仰とはイエスを見つめることです。聖書に記されたイエスの言葉と行動を通して、わたしたちと直面しておられる生けるイエスの心と行動を知ろうと自分の精神と力を尽くすことです。
わたしたちの心の働きと知性と力を集中して主イエスに向け、考えることです。わたしたちを取り巻く現在の状況と課題の中で、イエスだったらこの場合どのように理解し、対処されるのだろうかと思いめぐらすことです。そしてイエスの思いと方法を教えられるように祈り求めることです。
わたしたちが主イエスを見つめ、信仰と知性と献身と決断をもって、主イエスに聞き、求めるとき、わたしたちは聖霊を通して、生ける神の現実に直面します。そこにおいて、わたしたちは神の愛、神の約束、神の働きを知り、それに従うのです。そのことが信仰の戦いに勝利する秘訣です。
最後に、神は愛する子たちを訓練し、鍛えられます。この点で、聖書は次のように教えています。
「『わが子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても力を落としてはならない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を、皆鞭打たれるからである。』あなたがたはこれを訓練として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。」(12:5~7)
明らかに試練と苦労とを受けるということが、主の訓練であり、神はそのことの中で、わたしたちを子として受け入れ、子として取り扱っておられるのです。主の訓練を受けることにより、わたしたちは信仰のレースを完走する持久力を身に着けることができます。なぜならば、誰でも初めから信仰の戦いに勝利する力は持っていません。失敗しながら、神の変わらない愛と赦しの中で、霊的に強められるのです。
訓練と試練との中で、わたしたちは死に勝利した主イエスの復活の命を受けることになるのです。主イエスの復活の命こそ、苦難の向こう側にある喜びを知って、苦難に立ち向かって前進する勇気を与えます。そして、喜びと勇気を与えるものが神の生ける現実なのです。神様の働きそのものなのです。それゆえ神の働きを受けて、わたしたちは信仰のレースを完走することができるのです。
このような訓練を受け、わたしたちは聖化され、義の実を結ぶ者となります。海外医療協力会の創設者の一人としてネパールで働かれた岩村 登先生は「神様の拳骨をわたしは神様の訓練として体験している」と言われました。自分の高慢のために、仕事が失敗することが度々ありますが、その都度神様は拳骨を自分の頭にゴツンとくださるので、「あゝ、痛い、神さま有難うございます」と言って自分の罪を認め、悪いところを改めるのですと、笑顔でお話しくださったことが非常に印象的でした。
神様の訓練を感謝することのできる人が、信仰のレースを完走することができるのです。神様の訓練を受け、明らかな良心をもって、神から与えられた道と使命に向かって歩み続けることが、クリスチャンには一番大切です。



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