2010-12-05(Sun)

見よ、神の小羊 2010年12月5日の礼拝メッセージ

見よ、神の小羊
中山弘隆牧師

 わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。
イザヤ書53章6~10節

 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書1章19~34節

(1)神の計画
わたしたちは今日からアドベントの第二週を過ごしますので、本日の礼拝で洗礼者ヨハネの事を知り、神様のご計画を改めて深く心に受け止めたいと願います。
宗教改革がドイツやスイスで起こり、キリスト教会の新しい歴史が始まりましたことは、わたしたちがよく知っていることでありますが、宗教改革の先駆者となった人々がいました。彼らは宗教改革がおこるすでに百年前に、宗教改革の基本的な考え方を提唱し、改革に乗り出しました。それは英国のウイックリフとボヘミヤのフスです。しかし、当時はまだ時期が早すぎて、彼らの運動は目的実現には至りませんでしたが、宗教改革の前触れとなりました。このように神が新しい歴史を開かれる場合に、その先駆者となる人々を起されることが多いのです。
特に、人類の救い主が歴史の中に到来され、神の国を開始される場合に、神は特別の先駆者を送られました。それがイスラエルに悔い改めの運動を巻き起こした洗礼者ヨハネです。
しかし、わたしたちは洗礼者ヨハネのことは普段あまり注意しないで過ごしていることが多いのではないでしょうか。洗礼者ヨハネについての第一印象は、彼が特異な風貌をしていて、極端な禁欲主義で、非常に厳格に道徳を守っているカリスマ的人物であったという程度です。マルコによる福音書一章六節に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」と記されています。彼の食べ物は文字通りに「いなごと野蜜」だけではなかったでありましょうが、極めて粗食で、禁欲的な生活をしていました。それでも旺盛な精神と霊的洞察力を表している眼光の鋭い人物でした。彼の風貌があまりに強烈な印象を与えましたので、そのことだけが人々の記憶に残っています。
しかし、ヨハネの働きの本領は、旧約聖書の預言者の代表として、主イエスと決定的な出会いをしたことにあります。

(2)神の声
当時、洗礼者ヨハネから強い霊的なインパクトを受けたイスラエルの人たちは、彼に非常な期待を寄せ、彼を偉大な預言者だと考えました。さらにもしかしたら彼こそ約束されていた救い主ではないかと考える者もいました。本日の聖書の箇所であるヨハネによる福音書一章十九節で、彼らは「あなたはどなたですか」と尋ねた、と記されています。
そのとき、洗礼者ヨハネはイスラエルの人たちに、はっきりと「わたしはメシアではない」と公言しました。それは彼らがもしかしたら洗礼者が救い主であるかもしれないと期待していましたので、自分のことをはっきりさせる必要があったからです。
それでも彼らは「あなたはあの預言者ですか」と聞きましたのは、旧約聖書の偉大な預言者の一人が再来したと考えていたことを示しています。この質問に対する洗礼者の返答は、また驚くべき内容でした。

洗礼者は、ここで預言者イザヤの言葉を引用して、「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』という荒れ野で叫ぶ声である。」と答えました。
この預言は、有名な第二イザヤ40:3の預言です。
しかし洗礼者の答えは、自分が第二イザヤの再来であると意味ではありません。なぜならば、第二イザヤは神様から預言者として立てられたとき、神の御前で「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」という叫び声を聞いたからです。そしてそのことと関連させて、洗礼者は正に自分が声そのものである、というのです。
つまり、洗礼者が「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えたのは、キリスト到来の550年前に第二イザヤが「神の御前で聞いた声」そのものである、という意味です。
従いまして、洗礼者ヨハネは偉大な預言者でありましたが、自分で新しい預言を語ったのではありません。そうではなく、旧約聖書の預言者たちが既に語った預言を総括し、その中心的な言葉が今この時点で成就していると、宣言したのです。
これはまことに驚くべき事柄であります。ここに神様が洗礼者ヨハネを遣わされた非常に重大な意義があります。

(3)悔い改めの運動
それでは荒れ野に道を備えるため、洗礼者ヨハネはどのような活動をしたのでしょうか。一つは、神の国が今やまじかに迫っているという終末的事態を、力強く証言し、神に対する真の信仰を喚起したことです。一つは、救い主の到来を受け入れる態勢として、悔い改めの霊的な運動を起こしたことです。
このことは、マルコによる福音書1:4~5で次のように伝えられています。
「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」

この短い説明により、ヨハネの運動がイスラエルの民衆の間に、非常な感化を及ぼし、信仰の覚醒をもたらしたことが分かります。そのような強い霊的インパクトは、ヨハネの洗礼の持つ意味から由来しています。
それは自分の罪を告白し、罪の償いをなすことにより、神から赦しを得、神の国に招き入れられるというのではありません。罪の償いを自分ですることによる赦しであるならば、それほどの霊的覚醒をもたらすことはできなかったでありましょう。そうではなく、救い主が神の側から罪の赦しをもって到来され、罪人の中に神ご自身が臨在されるという恵みが、宣言されたのです。
悔い改めの洗礼は、罪の赦しを与えられ神の国に招き入れられる者がその恵みに応答することであり、それは神への感謝の献身を表しています。従って、この恵みの威力は旧約聖書の預言が約束している福音の喜びと一致しています。
しかし、ヨハネの洗礼はそれ自体で霊的な意味を持っているのではなく、その洗礼が証しているキリストの存在と不可分離であり、キリストによってヨハネの洗礼は本来の意味を得ることができるのです。この点につきまして、ヨハネは次にように証しました。マルコによる福音書の1:7はこのように記しています。
「彼はこう述べた。『私より優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』
「罪の赦し」が「神への献身に先行」し、神への献身が神の国での「新しい生き方」となるためには、「聖霊」を通して、神が罪人の中に「臨在」される、という途方もない大きい恵みが必要なのです。
旧約聖書が預言している終わりの時に、神ご自身が人間のもとに到来され、直接に人間の生活を支配されるという神の国の現実は、何であるかをわたしたちははっきりと自覚することが必要です。
神ご自身による人間に対する直接的な統治こそ、神が罪の赦しをもって、「人間の心の中」に、「人間存在の中」に、「聖霊」を通して「臨在」され、神として人間の中に働かれるという霊的な事実です。これが旧約聖書の第二イザヤが預言した「神の救い」であります。
この神の救いの現実が、今やキリストによって与えられることを、洗礼者ヨハネは次のように証ししました。
すなわち、ヨハネは自分の後から来られるキリストによる洗礼が、聖霊による洗礼であることを証しました。そういう意味で、ヨハネは『わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』と語ったのです。

(4)イエスとの出会い
次に、ヨハネの活動の焦点は彼自身が主イエスと出会ったことです。このことはわたしたちクリスチャンにとりまして非常に重要なのです。
そもそもヨハネはイエスと出会う以前は、イエスを全く知りませんでした。二人の間に全く面識がありませんでした。ところがヨハネが悔い改めの洗礼運動を始めましたとき、イエスの方からヨハネのところに来られて、ヨハネから洗礼を受けられました。そのことによってヨハネはイエスがまさに人間を罪から解放し、全人類の救い主となられる神であることを知ったのです。
考えてみますと、この二人が出会ったのは神様が出会わしてくださった神的出来事であることが分かります。以前二人は別々のところにいて、直接の交流は何もありませんでした。しかし、二人はそれぞれの立場で神の救いの事業と本来的にかかわっていましたので、時が満ちて出会ったのです。この出会いは神様の導きのもとで起こったものであり、まことに感動的な出来事です。
マタイによる福音書3:14で、イエスがヨハネから洗礼を受けようとされたとき、ヨハネは霊的直観により、イエスが自分より優れた方であることを知り、イエスに受洗を思いとどまらせようとして、次のように言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言って、ヨハネから洗礼を受けられました。

先ほども説明いたしましたように、悔い改めの洗礼は、神によって自分の罪が赦された者が、自分を神に献げる献身を表していました。それなのに、救い主である方がどうして洗礼を受けられる必要があるだろうかとヨハネは考えたのです。イエスの受洗はヨハネに理解できませんでした。
しかし、わたしたち救われる者にとっては、このことが最も重要です。なぜならば、罪のない神の子イエスが、受洗されたことにより、ご自身をわたしたちと一つに結び合わせ、わたしたちの罪を担い、わたしたちに代わって罪を告白し、わたしたちに代わってご自身を神に献げて下さったのです。従いまして、イエスの受洗はわたしたちのためになされたのです。
それゆえ、わたしたちが主イエスの御名によって洗礼を受けるとき、わたしたちに罪の赦しと霊的な新生を与える神的な出来事がそれに伴うのです。

以上の意味で、洗礼者ヨハネが救い主の到来の道備えをする役割を果たましたのは、霊的な覚醒をイスラエルの民衆にもたらしたというだけにとどまらず、実にイエスご自身がヨハネのもとに来られて洗礼を受けられるためでした。
なぜならば、そのことによって救い主としてのイエスの公生涯が開始される第一歩となったからです。

このとき、ヨハネはイエスこそ神から使わされた人類の救い主であることを確信しました。その様子を福音書は語っています。
イエスが受洗された時、天から聖霊が鳩のようにイエスの上に降ったのですが、この出来事をヨハネは目撃しました。実にこの神的出来事を見たのは、主イエスご自身と洗礼者ヨハネだけです。
マルコによる福音書1:10~11は次にように伝えています。
 「水から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
 この天からの御声は、イエスにだけ聞こえたのです。それはイエスが幼い時から天の父なる神と親しい交わりの中で過ごし、自分が神の御子であるという自覚がイエスの心の中で芽生え、いよいよ明確になっていたのですが、公生涯が始まるに際して、父なる神が啓示をもって答えられたのです。この啓示はイエスの生涯にとって最も重大な出来事でありました。
 この場面に洗礼者ヨハネはいて、自分がその証人となるべき救い主は神の御子イエスであることを、このとき初めて知らされたのです。従いまして、この出来事は洗礼者ヨハネにとり限りなく大きな意味を持っています。

 
(5)この人を見よ
 ヨハネは実に大きな霊的賜物を与えられた信仰者でありましたが、自分を少しも誇らず、主イエスの御顔に照り輝く光を覆い隠すことがないように、自分を無にして、救い主を証することに徹しました。彼は自分の全存在を荒れ野で叫ぶ「声」とし、また主イエスを指し示す「指」としたのです。
洗礼者ヨハネは、イエスが歩いてこられるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)
 と証ししました。それによって、ペトロの兄弟アンデレとヨハネとがイエスに従う者となりました。
 洗礼者ヨハネの使命は自分が指となって、この地上に来られた神の御子が「イエス」であることを、指し示すことです。そのことにより、旧約聖書の偉大な預言者たちの使命が完了したのです。預言者たちは皆、神ご自身が人間の中に到来され、神の救いを与えられることを預言しましたが、洗礼者ヨハネはその方の到来に立ち会って、イエスこそ救い主であることを証ししました。

 その使命が終わると、洗礼者ヨハネは猜疑心の強いヘロデ王によって逮捕され、投獄されました。主イエスの救い主としての活動は、洗礼者ヨハネの投獄の時から本格的に開始されましたので、彼は主イエスの活動の経過とその結果を見ることなく、獄中で殉教しました。
 洗礼者ヨハネこそ、旧約聖書の預言を総括する者であり、主イエスを見て、直接に指し示す指となったのです。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」このヨハネの証言こそ、旧約聖書の預言の頂点であります。



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