2017-06-11(Sun)

神に赦された者 2017年6月11日の礼拝メッセージ

神に赦された者
中山弘隆牧師

 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために/わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
イザヤ書57章14~19節


 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書18章9~14節


(1)第三イザヤ
 本日の聖書の箇所でありますイザヤ書57章14~19は、通常第三イザヤの預言である、と見られています。通常、イザヤ書は三人の預言者によって書かれたと言われています。その理由はそのメッセージの内容や文体、また時代の背景の違いによって三つに区分できるからです。
 1章~39章はエルサレムで活躍した預言者イザヤの語った預言です。それはアッシリア帝国がイスラエルとユダに侵入し、イスラエル国家が滅亡し、ユダ国家もアッシリア帝国の属国となった時代です。それは西暦前740年から700年頃までの期間です。
 次ぎに、40章~55章は、通常第二イザヤと呼ばれている偉大な無名の預言者の言葉です。彼が活躍したときの状況は第一イザヤの時代から約200年後の時代を背景としています。すなわちアッシリア帝国の次に登場したバビロニヤ帝国によって、とうとうユダヤ国家は滅び、ユダヤ人はバビロンで捕囚の民とされました。
 しかし古代世界の中心でありましたアラブ諸国の支配が終わり、ペルシャ帝国の時代に突入する世界史的な転換が、西暦前539年に起こりました。第二イザヤはこの世界史的な転換期において、ユダヤ人はペルシャの王クロスによって解放され、バビロンからエルサレムに帰還することを預言しました。彼は捕囚の地、バビロンで活躍し、この預言を語りました。
 但し、それだけではなく、むしろ第二イザヤのメッセージの中心点は、神ご自身が世界を統治されるため、神がこの世界の中に到来されるという預言です。
 最後の56章~66章は第二イザヤの一人の弟子がエルサレムで預言した言葉の収録であると見られています。彼も無名の預言者で、通常、第三イザヤと呼ばれています。彼の預言の特徴や強調点は神の國が一刻も早く到来することへの期待と待望です。

(2)終末論的な生き方
 本日の箇所は、第三イザヤの預言ですが、特に第二イザヤの影響が顕著に表われている箇所です。第三イザヤは彼の先生であった第二イザヤが語った「神の統治」すなわち主権の確立に関するメッセージを受け継いでいます。
 神様が人類の歴史の真ん中に入ってこられ、直接支配されると言う事実はそれまでの旧約聖書の時代にはありませんでした。従ってそのことは全く知られていませんでした。摂理による神の歴史支配ではなく、全く新しい形態の神の支配です。それゆえ、48:6~7で、神はこのように語られています。
 「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと、それをお前に聞かせたことはない。見よ、わたしは知っていたとお前に言わせないために。」
 このような人間に対する神の直接的支配は、それまで続いた人類の歴史を終わらせることです。それゆえ、終末論的な事柄と言うことができます。それにも拘わらず、それは人類の新しい歴史を創造するのです。これは真に逆説的な真理です。
 しかし、もしわたしたち人間が神の直接的な統治を受けるとすれば、わたしたちの在り方は根本的に変わらざるを得ません。それゆえ、旧約聖書では、神を見た者は非常な恐怖を感じ、自分は死んでしまうと言っています。神を見てなお生きている人はだれもいないというのが、彼らの偽らざる実感でした。
 但し、聖書で言う神への畏れは、全知全能の神の力に対してよりは、むしろ神が道徳的に全く正しい方であるという理由と、神の命令は人間の責任を根底から問うという理解から由来します。
 具体的に、神は御言葉を通して、人間の果たすべき責任を示されました。先ず、それはレビ記19:18の御言葉です。
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 この御言葉の鏡によってわたしたちが自分を反省するならば、自分が利己的な人間であり、隣人を愛することの出来ない罪深い者であることを知ります。
 また、預言者エレミヤが語った言葉、「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ22:3)
 無実の人の血を流すとは、王が不正な裁判をすると言うことです。或いは裁判官の誤審により、無実の人が冤罪によって処刑されると言うことです。そのような場合に、人を裁く王や裁判官も神の前では自己の責任を免れることはないのです。しかし、そのようなことになれば、社会の制度は維持できませんので、裁判官の責任を社会は問わないでありましょう。それでも神の御前では王や裁判官の責任が見逃されるということでは決してないのです。
 従って、これらの御言葉を聞くとき、人は皆、自分は不義なる者、邪悪な者であることを深く自覚するようになります。正にこれは預言者である第一イザヤの体験です。イザヤ書6:5で、イザヤはこのように告白しています。
 「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を見た。」
 ここで、イザヤは生ける神に直面して、自己の存在が危機的状況に陥ったのです。しかしそのとき、神はご自身の恵みの神秘によって、イザヤの罪を赦されました。その結果、さらに驚くべき出来事が起こりました。それは6章8節で説明されています。
 「そのとき、わたしは主のみ声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」
 この簡潔な言葉は、イザヤが自分とは全く性質の異なる聖なる方、主なる神と人格的に出会い自分が罪人であることを心に刻みつけましたが、同時に、神の恵みを受けて罪が赦されたのです。
 恵みとはそれを受けるに全く値しない者に対する神の無償の愛、憐みです。しかも、そうするや否やイザヤは神の御声を聞きました。つまり、正に人間が生ける神の御言葉を聞くこと、これが神の統治の実体です。しかも神の統治は神の赦しに立脚しておりますので、イザヤは自ら進んで、喜んで神の御言葉に応答しました。ここに神の統治は人間を真に生かす力をもっていることが明らかになりました。
 繰り返して説明しますと、イザヤは主の御言葉を聞くことによって、御言葉自身がイザヤを裁き、赦し、そして神に聞き従う者へと変革したのです。神の御言葉こそ実に生ける神ご自身であり、神の御言葉が語られるということは、神が人間と出会い、人の心の中に臨在され、働かれることに他ならないのです。
 それゆえ人は神の御言葉を聞くことによって常に新しい人間となり、御言葉に従うことによって神の御前に生きるのです。
 
(3)主イエスの恵みと聖霊の働き
 それでは、イザヤ書57:14~19はわたしたちに何と呼びかけているのでしょうか。先ず14節は導入の言葉です。
 「主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道から躓きとなる物を除け。」
 これはどう言う意味でしょうか。「道」とは人間が神に従って歩む人生を意味します。道を備えるとは、人が真実に悔い改めるという意味です。
 しかし、ここで注意しなければならない点は、人間の悔い改めに先行する神による人間の罪の贖いがある、と言うことです。この事実に関しても、第二イザヤは41:14で次ぎのように預言しています。
 「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。『恐れるな。虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。』」
 従いまして、神の贖いを人間が信じ、「信仰の従順」によってそれを受け入れること、これが「悔い改め」です。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(57:15)
 この聖句は、聖書的な敬虔さを要約しています。実に、聖なる神は、高い所に存在しておられる方です。言い換えれば神は人間を超越しておられるので、人間の目には見えない方です。
 しかしそれだけではありません。聖なる神は、へりくだる霊の人と共におられます。因みに、「謙る霊」とは人間の霊のことであり、言い換えれば「謙遜な心」を意味しています。ここでいう「霊」とは聖霊のことではありません。
 聖書は人間が「肉と体と霊」の三つの要素から成り立っていると見ています。肉とは生理的な人間の側面、体とは人間が社会的な関連の中で生きている側面、そして霊とは人間存在の最も中心に働いて、人間を主体的に生かしている人格の尊厳です。人間がこの三つの側面を持っていると言うのが、聖書の人間観です。
 要するに聖なる神は、へりくだる霊の人の中に臨在しておられるのです。そして、打ち砕かれた心の人に命を与えられるのです。
 それでは、へりくだる霊の人、打ち砕かれた心の人とは、一体、誰のことでしょうか。
 それは自分が罪人であることを本当に知っていること、自分自身の力に最早寄り頼もうとしない人、自分の功績を主張することを少しも欲しない人、神に赦されている人です。それゆえ神に祈り求める人、神ご自身が自分の中に働いてくださることによって、生きようとする人、つまり神が主イエスを通して、与えてくださる「新しい自分」に生きようとする人です。
 最後に、主イエスは神殿で神に祈った一人のファリサイ主義者と一人の徴税人を対比しておられます。(ルカ18:9~14)
 ファリサイ主義者は、自分の義を誇り、神に感謝しました。他方徴税人は、自分の罪を深く自覚し、神に罪の赦しをひたすら祈りました。主イエスはその祈りが聞き上げられた者は、徴税人であり、ファリサイ派の人ではないとはっきり仰せになっています。
 罪が赦され、義と認められるとは、聖なる神がその人と出会い、その人の中に臨在されるので、その人が神の御心を知り、神の命令を行う新しい人になった、と言うことです。
 他方、ファリサイ主義者の祈りは、自分が神の律法を行っていることを神に感謝しています。しかし、ファリサイ派の人の祈りは神に聞かれなかったのです。なぜなら、神はファリサイ主義者の中に臨在し、彼を通して働かれることはないからです。
 さらに、心が打ち砕かれた者とは、聖なる神が主イエスの贖いの事実に基づき、常に赦しをもって、自分に出会ってくださるという恵みを聖霊によって知らされ信じる人、そして主イエスの恵みの中で生きる人です。それゆえ、クリスチャンの信仰と愛の業は、クリスチャンの中に与えられている「聖霊」の働きなのです。



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