2017-04-09(Sun)

見捨てられた御子 2017年4月9日の礼拝メッセージ

見捨てられた御子
中山弘隆牧師

 それゆえ、万軍の神なる主はこう言われる。どの広場にも嘆きが起こり/どの通りにも泣き声があがる。悲しむために農夫が/嘆くために泣き男が呼ばれる。どのぶどう畑にも嘆きが起こる。わたしがお前たちの中を通るからだと/主は言われる。災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。
アモス書5章16~20節


 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。
マタイによる福音書27章45~56節


(1)歴史的事実としての十字架
 本日は主イエスの十字架の苦難と死を覚えて、礼拝を守っています。主イエスが神であり、人類の救い主であるという信仰は、十字架の死と復活に基づき、その源泉から流れ出る信仰です。これらの事柄は実に神の事実であり、歴史的な事柄であり、同時に常に現在に働く永遠の事柄です。
 それゆえ、神の救いは人間の単なる思想や概念に基づいているのではなく、イエスの生涯とイエスの十字架の死と復活に基づいています。イエスの十字架は人類の歴史の真ん中で起こった出来事です。
 聖書にはイエスの十字架が、ゴルゴダの丘に立てられたと記されています。今日では、そのゴルゴダの丘は多くの家屋で覆われており、隠されています。しかし地質調査の結果、その地形は聖書に言われているような頭蓋骨の形をしていることが分かっています。
 また、聖書はイエスと共に二人の犯罪人が十字架につけられたと言っています。
 「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけられていた。」(マタイ27:35~38)
 このようにイエスは二人の犯罪者と共に、しかも、「ユダヤ人の王」言い換えれば「メシア」として、十字架の刑に処せられたと言っています。明らかに、神の御子イエスは、ユダヤ人が信じている政治的なメシアとして処刑されたことは確かです。ローマ帝国はユダヤ人の反乱を最も警戒していましたので、ユダヤ人がイエスを救い主と考えて、ローマに反乱を起こそうとしていたという国家に対する謀反の重罪で十字架の刑に処しました。
 勿論、イエスは御自分の使命は、ユダヤ人が期待している政治的なメシアでないことを知っておられたのです。さらにユダヤ教の指導者たちも、イエスは自分たちが期待している政治的なメシアでないことは分かっていましたが、イエスは自分たちの宗教の体制を根本的に変革する危険人物であると考え、イエスは神を冒涜する罪を犯していると言う理由で、イエスを殺そうと計画していたのです。
 こういう政治的、宗教的な関連からすれば、確かにイエスの十字架の死は、祭司長や律法学者やユダヤ教の指導者たち、またローマの総督ピラトが表舞台に立ち、彼らの意図と行動がすべてを支配しているかのように見えます。
 しかし、あくまでもそれは歴史の表面的現象であり、歴史を動かしている原動力ではありません。歴史を動かす真の原動力こそ神の意志なのです。人類の救いのために重要なのは、父なる神とイエスとの間に働いた考えであり、イエスが父の意志に従われた、という神的な事柄です。
 それゆえ、ローマの判決と処刑、ユダヤ教当局の様々な行動と陰謀は神の救いに対する全くの無理解と不信仰を示しています。イエス・キリストの十字架の死は、神が人類を罪から救うための唯一の方法でありました。
 この点について、イエスは次のように仰せになりました。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

 神は創造の当初から人間がご自身との人格的な交わりの中で生きることを欲しておられました。この点を神様は人間を創造されたときに明らかにされています。「神は御自身にかたどって人を創造された。」と創世記に書いてあります(創世記1:27)。人間が神の性質に似る者となり、神の意志に従って行動し、神との人格的な交わりの中で生きること、これが実に人間創造の目的であります。
 しかし、最初に創造されたアダムは、神に反抗し罪を犯しました。すなわち、この世界のすべてを自分のものにしようとしたために、神との交わりから切り離され、堕落し、同時にアダムを通して罪が人間の世界に入り、すべての人間が罪を犯し、罪の勢力に支配され、人間は神の創造の目的を実現しない者となってしまったのです。
 それにも拘らず、神は真実な方であり、恵み深い方であります。それゆえ、人間創造の目的を実現するために、神の御子イエスを人間の世界に遣わし、人間の罪を贖い、神との交わりの中に招くため、最終的な行動を起されました。このことがイエスの十字架の死が必要であり、不可避的であった最大の原因です。
 それゆえ人間が神との交わりの中で、新しく生きるためには、人間存在の全領域において、神の真理が貫かれることが必要でありました。その必要を満たすための唯一の方法は神の御子イエスが人類の代表となり、人類に代わって、罪の裁きを神から受けなければならないのです。人類の代表者である御子イエスの中で、神に反抗して罪の支配の中にある人類が、神の御前に滅ぼされ、取り去られることが必要でした。
 他方、人間の側の必要性は、人間が神との人格的な交わりの中で生きるためには、人間の存在が根底から新しくなる必要がありました。人間が信仰と祈りによって、神の言葉を聞き、神を知り、神の意志を喜んで、自発的に実行するためには、神ご自身が人間の中に働かれる「新しい人間」になる必要があったのです。
 それゆえ、イエスの十字架は神の愛の啓示なのです。この点をわたしたちが理解するとき、神の深い愛が分かります。
     
(2)ご自身を与える神の愛
 このことをヨハネによる福音書は次のように宣言しています。
 「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 ここで神が独り子を与えるとは次の二点です。一つは御子の降誕から、幼子の成長、それに続く神の国の宣教活動を通してのイエスの全生涯です。
 神の独り子が人間としてこの世界に来られたとき、御子は本来持っておられる神の全知全能の力を制限し、人間の限界の中に身を置き、信仰と祈りによって人生を歩まれました。しかし、それだけではなく、神の御子として「本来持っておられる」父なる神との親密な交わりを、「人間としての制限」の中で、保っておられたのです。それゆえ、イエスは他の人間の中にはない、神との交わりを持っておられる「唯一の人間」であったのです。
 ところで、人間が神との人格的な交わりを持つ手段はただ信仰による認識、祈り、御言葉の実行であります。イエスの場合、神の言葉である旧約聖書を再解釈し、実行することでした。そのようにイエスは、人間として神を知り、神に対して完全に従順な正しい人間として歩まれたのです。
 ヘブライ人の手紙はこの点で、イエスは「信仰の創設者また完成者である。」(12:2)と言っています。従って神の御子イエスの存在そのものが人間に対する神の自己譲与であることを意味しています。
 さらにこの自己譲与は、特に御子の生涯の頂点である十字架の死において、神が御子を人類に与えられたことです。それではどういう仕方で御子はご自身を与えられたのでしょうか。それこそ人類全体とご自身を結び合わせる「連帯性」によってであります。
 神の御子イエスが罪人であるわたしたちとどこまでもご自身を連帯化させ、罪人の責任を一身に引き受けて下さり、自らが罪人となって、罪に対する神の正しい裁きを引き受けられたことです。わたしたちの人生は罪という無限の負債を背負っており、自分では返済不可能です。自分が死んでも自分の罪を償うことはできません。それは罪の全くない神の御子イエスが罪人に代わって、正しい死に方、すなわち、何処までも神の意志に従順な死を全うすることによってだけ、人間の罪は取り去られるのです。
 イエスの連帯性のもう一つは、イエスの死の積極的な意味です。それはイエスが神の裁きに服することにより、神の御前に生きるための人間の正しさを、イエスの人格の中で実現することです。
 それゆえ、神の御子イエスと罪人であるわたしたちとの連帯性は、主イエスの自由意志による「自発的な連帯性」であり、イエスの中に働く「神の愛による連帯性」であります。さらにそれは神の御前に有効な「霊的な連帯性」です。

(3)御子の叫び
 最後に、それでは十字架の上での御子の苦しみは何であったのでしょうか。聖書は次のように言っています。
 「さて、昼の十二時ごろに、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と言う意味である。」(マタイ27:45~46)
 この叫びは何という悲しみと苦しみに満ちていることでありましょうか。人は苦しいときに断腸の思いと言いますが、イエスの場合はそれよりもはるかに恐ろしい苦しみです。この叫びはイエスが祭司長や律法学者や群衆から投げかけられた「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人を救ったのに自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」という嘲笑や侮辱に対する苦悩ではありません。
 そうではなく、この叫びは実に今やイエスは父なる神との交わりから切り離され、虚無の淵に沈み、全くの孤独の中で死を迎える恐怖を表しています。さらにその死は、体の死だけでなく、魂の死も伴っており、イエスと言う人間が消滅したのです。
 そのとき、ブラック・シロッコと呼ばれている砂嵐が吹き荒れ、太陽は隠されてしまい暗闇となったのですが、イエスの心の中はもっと暗闇に閉ざされていたのです。しかし、その虚無の苦しみの中で、神の御子イエスはなお父なる神に従順でありました。そのことによって、人類の罪に対する神の裁きにおいて「神の真理」が貫徹したのです。
 ここで特に大切な点は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びが、神を「わが神」と呼んでいる点です。ここに父なる神への絶対的な信頼と愛が示されています。
 これは二つの事柄を告白しています。一つは、神の御子イエスはわたしたちの罪を自己の罪とし、わたしたちに代わってその罪を神の御前で告白されたことです。一つは、罪に対する神の究極的な裁きは、人間に義を与え、人間を存在の根底から新しくすることを理解しておられたことです。そして父なる神はイエスを復活させられると確信しておられたことを表しています。
 そのようにして、イエスは虚無と罪の勢力に勝利されました。イエスは最後に大声で叫び、息を引き取られました。マルコによる福音書ではイエスの最後の場面を次のように伝えています。
 「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(マルコ15:39)
 百人隊長はイエスの死の一部始終を凝視していましたので、そこに神の荘厳さと力と同時に不思議な希望の光を感じて、イエスは神の御子であったと信じたのです。

(4)千歳の岩
 主イエスの十字架の死において実現した神の義によって、すべての人間がすでに主イエスを通して、神との交わりに生きる新しい人間とされているのです。主イエスの十字架こそ、救いの岩です。讃美歌449は次のように歌っています。
 「千歳の岩よ、わが身を囲め、裂かれし脇の 血潮と水に 罪もけがれも 洗い清めよ。」
 十字架は神がご自身を人間と結び合わされた神の連帯性のシンボルであり、人間が神との交わりに召されていることを表しています。



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