2017-03-26(Sun)

信仰による救い 2017年3月26日の礼拝メッセージ

信仰による救い
中山弘隆牧師

 また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
列王記上17章8~16節


 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
マルコによる福音書7章24~30節


(1)信仰の必要
 本日の聖書の箇所には、主イエスと異邦人の女性との出会いが記されています。主イエスは、ガリラヤ地方における神の国の宣教活動に区切りをつけ、将来のことを考えるために、弟子たちを伴わずに唯一人で異邦人の地方へ行かれました。
 マルコによる福音書7:24節で、ティルスの地方へ行かれたと場所が明記してあります。ティルスとは地中海沿岸の港町でした。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、…」とだけ説明されています。
 この説明は非常に重大な意味を持っています。イエスが弟子たちを連れないで、異邦人の地で、ある期間を過ごされるのは、神から遣わされたご自分の使命について、改めて熟慮するためです。
 イエスは宣教を開始する前にも、一人で荒れ野に入り40日間、祈りと瞑想の時を過ごされました。そこから始まりましたガリラヤ地方での伝道において、主イエスは神の民であるユダヤ人が神の国の福音を信じて、救いに入るため、全勢力を傾けられたのです。しかしユダヤの指導者たちは福音を信じませんでした。
 この危機の中で、主イエスは救い主として果たさなければならない使命をもう一度根本から考えるため、人々に邪魔されない異教徒の地方に行かれたのだ、と推測されます。
 それでも間もなく人々に気づかれてしまいました。25節には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」と記されています。「ひれ伏す」とは、尊敬と祈願の気持ちを表す姿勢です。26節で次のように説明しています。
 「女はギリシャ人でシリア・フェニキア生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」
 この婦人は幼い娘が精神的にひどく苦しみ、理由の分からない激しい発作に襲われることがしばしばあり、その痛ましい姿を見るに忍びなかったのだと思います。子を思う母親の愛情ゆえにイエスにすがりつくように懇願しました。
 しかし、イエスに対する信仰が確立していたかどうかは定かではありません。この点が大きな問題です。信仰とは、今や主イエスを通して神の救いの時が到来していることを信じるのです。
 最初に主イエスはこの婦人の叫びに対して、すぐには答えないで沈黙しておられました。この記事と平行しているマタイによる福音書15章23節の記事では次のように記されています。
 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」
 それではイエスが見て見ぬ振りをされたのでしょうか。冷たくこの女性を突き放しておられたのでしょうか。いや決してそんなはずはありません。イエスは沈黙のうちに、この女性の心の中にある思いを、直感によって感じ取っておられたのです。そのようにして女性の言葉をご自分の心に受け止めておられたのです。
 しばしばイエスは沈黙のうちに祈られました。イエスは耳が聞こえず、口の利けない人を癒される前に、その人の苦しみを思い、天を仰いで嘆息をつかれたと、この記事に引き続いて書いています。マルコによる福音書7:34で「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。それは『開け』という意味である。」と書いています。
 実に、言葉にならない嘆息が祈りであり、その深いイエスの沈黙から癒しの力が生まれたのです。ここでも、イエスは沈黙のうちにこの女性の信仰が本物であることを見抜かれました。

(2)異邦人の救い
 しかし、異邦人が真の信仰を持ち、イエスを通して到来した神の救いを受け取るということは、イエスにとりまして決して当然のことではありませんでした。その点について、イエスは未だ定かでなかったと思われます。
 なぜなら、それまでのイエスの理解では、神の救いは先ずイスラエルの民に宣べ伝えられるべきであったからです。そこで、異邦人の女性に対して、一見冷淡と思われる言葉を語られました。
 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7:27)
 ここで、子供とはイスラエルの民のことです。小犬とは異邦人を指しています。ユダヤの律法学者たちは異邦人を犬と呼んで軽蔑していました。当時の律法学者であるラビ・エリエゼルは「偶像礼拝者と一緒に食事をする者は、犬と一緒に食事をするのと似ている。」と言いました。明らかにそれは異邦人を軽蔑し、忌み嫌う言葉です。
 しかし、イエスはそのような軽蔑の意味を一切排除し、愛情を込めてユーモアをもって、異邦人を犬ではなく、可愛い「小犬」と呼ばれたのです。これはペットとして飼われ、家族の一員となっている小犬のことで、一種の愛称です。
 また、ここでイエスは神の救いを「パン」と呼んでおられます。これらのイエスの言葉は神の救いを先ずイスラエルに与えるべきであり、異邦人に与える時は未だ来ていないのだ、という意味です。
 しかし、これは決して異邦人に救いを与えることをイエスが拒否しておられるというのではありません。そうではなく、イエスの心はイスラエルに集中していたからです。
 そうしたイエスの心境を異邦人の女性は敏感に察しながらも、そこで神に対する真の信仰をもったシリア・フェニキアのこの女性は、神の救いの計画について、自らの信仰を表明しました。彼女は自分が異邦人であることを謙遜に認めながら、なお厚い信仰をもって、このように言いました。
 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も子供のパン屑はいただきます。」(7:28)
 このように、ギリシャ人であるこの女性は主イエスの思いを察知し、愛と機知とに富んで、謙遜にしかも確信に溢れて、主イエスの中にある思いを一歩前進させたのです。
 イエスが子供たちの食卓の下で待機している小犬に異邦人を譬えられましたので、イエスの思いはすでに、小犬がパン屑に与るという方向に向いているのを感じ取ったのです。そこで神の国は異邦人に対しても与えられていることを信じる信仰を表明しました。
 食事のときにテーブルの下にいる小犬も、子供たちのパン屑を貰って一緒に食事するように、異邦人もイスラエルの民と一緒に神の救いを受けることができるという信仰を表明したのです。
 聖書における信仰は、単に全能者を信じるというのではありません。それだけであるならば、それは偶像崇拝と何ら変わるところはありません。非聖書的な信仰は人間の力を越えた者を信じますが、その場合に超自然的な力は暗い運命のようなもの、あるいは独裁者のような気まぐれな力であったりします。
 それに対して、聖書の信仰は全能者である神は、「恵み深く」、「真実な」神です。恵み深いとは、愛する価値のない邪悪な罪人を神はなお愛し、救いを与えられる方であると言う意味です。また真実とは、神が自ら欲したこと、そして約束されたことを必ず実現される方であるという意味です。
 旧約聖書では、信仰の父アブラハムが、このことを信じて人生の最大の危機において、真実なる神に寄り頼み、将来に対する希望を持ち続けました。
 さらに、新約聖書では、「神の恵みと真実」が主イエス・キリストにおいて、ことごとく「しかり」となっていること、実現し成就していることを信じるのです。従いまして、そのような信仰をもって、主イエスに助けを求めている異邦人の出現は、主イエスにとってまことに驚くべき出会いでした。
 実にそこに主イエスの大きな感動と喜びがあったのです。
 「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(7:29)
 これは主イエスが神の御子の直感によって、この女性の幼い娘が癒されたことを知って、このように仰せになったのです。
 まことに、主イエスはご自分を信じる者には、神の救いを与えることができるのです。それはイスラエル人であろうと、異邦人であろうとも少しも変わりはありません。
 ここで異邦人が救われたということによって、このとき主イエスは救い主としての御自分の使命は、イスラエルだけでなく、全人類を罪とその束縛から解放することであると、再確認されました。
 しかし、この使命は宣教の当初から認識しておられました。イエスがご自身を「人の子」という名称で呼んでおられたことは、父なる神がイエスに与えられた使命が何であるかを示しています。  
 「人の子」とは、全人類と連帯しており、全人類は人の子の中に表現されており、人の子は自らのうちに全人類を含んでいるという「一人の人間」なのです。しかも、人の子は神の権威と力を父なる神から委ねられた「神の御子」なのです。イエスは御自分が神の御子であるという自覚と共に、父なる神が自分に与えられた使命は人の子の使命であると、自覚しておられました。
 それゆえ、御子イエスは人の子としての使命をこの後、間もなく弟子たちに教えられました。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(8:31)

(3)人類の罪の贖い
 旧約聖書において、神はイスラエルの神であり、イスラエルは神の民であるという「神と民との関係」は、エルサレム神殿における礼拝の中で行われる贖罪の儀式によって維持されていました。それは年に一度行われる「贖罪日の礼拝」です。このことについはレビ記16章に詳しく規定されています。大祭司が神殿の奥の「至聖所」に入り、至聖所の中でも特に神聖な場所である「贖いの座」に「犠牲の動物の血」を振りまくのです。「罪の贖い」とは、罪から「解放する」という意味です。神が臨在される贖いの座に、動物の血を注ぐことによって、神の御前にある人間の罪がその血によって覆われるので、罪が赦されるのです。その理由を「血はその中の命によって贖いをするのである」とレビ記17章11節が説明しています。
 しかし、動物の血は本当の意味でイスラエルの民の罪を贖い、民が神に従うことのできる自由を与えることはできなかったのです。なぜならば、動物は人格的な意志を持っていませんから、動物の血の中にある命は、人間の罪を贖うことはできないからです。
 それゆえ今や、神の御子イエスは、全く罪のないご自身の命で人類の罪を贖うために、全人類と自己を結び合わされました。その連帯は、御子イエスの自発的、人格的、愛による、霊的な連帯です。それゆえ、イエスの連帯性は神の御前に永遠に有効なのです。
 しかも人類と連帯化されたイエスは神の御子であり、神であります。自分は神の御子であると自覚されていた人の子です。それゆえイエスは神への従順を貫き、全く罪のない人間として、ご自身の命を献げられたのです。つまり、人類の代表として、代理として、人類の罪のために神の裁きを受けられたのです。
 そこに注ぎ出されたイエスの血は、神の意志に完全な従順を達成された「イエスの命」を意味しています。実に神の裁きに対する御子イエスの完全な従順により、人類の罪が神の御前で取り去られたのです。同時に、神の御前で生きるために必要な人間の正しさが、イエスの中で達成されたのです。
 この状況の中で、イエスは異邦人の一人の女性の信仰に接し、人の子の使命を果たす時が今や到来したことを認識されたのです。



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コメント

説教のないようの紹介について

 私の好きな、聖書の箇所です。
この女性のような、謙虚さと信仰を持ちたいものです。
 さて、私の友人は、名言や、詩などは好きですが、文章を読むのは得意ではありません。けれども、犬が好きなので、この箇所なら、読みやすいと思います。
 この説教をコピーして、スマホにメールで送れればいいなと思いますが、それは、可能でしょうか?

 あと、広告が入るのは仕方がないですが、18🈲のような広告は、避ける方法があったらいいなと思います。
 雑誌やゲームより、少女マンガの方が、異性との交わりに、夢を持たすようなものがあるので、すでに18🈲の広告は載せない設定でも、勘違いするような物があるのかも知れませんが。

Re: 説教のないようの紹介について

ご連絡ありがとうございます。

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> この女性のような、謙虚さと信仰を持ちたいものです。
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>  この説教をコピーして、スマホにメールで送れればいいなと思いますが、それは、可能でしょうか?
>
>  あと、広告が入るのは仕方がないですが、18🈲のような広告は、避ける方法があったらいいなと思います。
>  雑誌やゲームより、少女マンガの方が、異性との交わりに、夢を持たすようなものがあるので、すでに18🈲の広告は載せない設定でも、勘違いするような物があるのかも知れませんが。
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