2017-03-19(Sun)

仲間を赦す者 2017年3月19日の礼拝メッセージ

仲間を赦す者
中山弘隆牧師

 【都に上る歌。ダビデの詩。】見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り/ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。
詩編133篇1~3節


 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21~35節


(1)神の国の福音
 キリスト教会が宣べ伝えている福音とは、神の救いを告げる喜ばしい知らせです。それは救いが主イエス・キリストを通してすでに主イエスの中で実現し、今や主イエスの支配により救いの完成に向かって、前進していることを告げる言葉です。福音は最初、神の御子イエスによって語られました。マルコによる福音書では、イエスによって語られた福音を「神の国の福音」として伝えています。
 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ14:14~15)
 「時が満ち、神の国が近づいた。」という意味は、旧約聖書の預言が実現し、「今や神の国が開始しつつある。」ということです。
 言うまでもなく、これは主イエスご自身を通して、神の国が開始しているという意味です。神は旧約聖書の長い歴の中で、人間に対する恵み深いご自身の目的を示し、それを実現するために働いて来られました。預言者たちを通して、救いの約束を与えてから、それを実現されたのは実に700年から500年後です。このことを考えますと、神の真実とその働きがいかに人知を超えた偉大なものであるかが分かります。
 人間は自分の物差しで時間の経過を計りますので、神の息の長い仕方が理解できず、神を疑い、神なんかいないと思うのです。そのような人間の反応をものともせず神は御自身の目的を堅持し、約束を実現される時が来ました。それが神の御子イエスの到来です。
 従って、イエスは人間の思いを越えた神の国の開始について、人々の目を開かせなければならなかったのです。そこでイエスが取られた方法は、譬話を用いて神の国について、また父なる神について教え、さらにご自身の行動をもってその霊的現実を示されました。
 この主イエスの行動の中心は、罪人に対して罪の赦しを与えることでした。そして神の赦しの印として多くの病人を癒されました。悪霊に取りつかれた人を癒し、正常な状態に回復させられました。また、長年中風で苦しんでいる人を癒されましたが、癒しの中心は罪の赦しの宣言でした。これはマルコによる福音書2:1~12に記されています。「『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)
 実にこれは驚くべき言葉です。罪の赦しは神様だけがお与えになる神聖な事柄です。それなのに罪の赦しが、主イエスのこの言葉と同時に与えられると仰せになったのです。
 これを目撃した律法学者たちは、イエスが人間でありながら、自分を神と等しい者としている。それゆえ神を冒涜していると、激しく非難しました。しかしイエスの宣言は神の事実であり、その結果として中風の人は癒されたのです。
 このように、イエスは神による罪の赦しの宣言と共に今や開始している神の国を、ご自身の言動をもって示されたのです。そして神の恵みと神の愛を信じるように、人々の心に訴えられました。
 もう一つは、譬話を用いて神の国について、例えば、神の国を畑に隠された宝として語られました。この譬はマタイによる福音書13:44に記されています。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」
 天の国、すなわち神の国は畑に隠された宝のようなものであると教えられました。畑に隠された宝物は、人間の目には見えないのですが、宝が畑の中にあることは確かです。同様に神の国は人の目には隠されていますから、手に取って直接に見ることはできません。しかし、そこにある霊的な宝は無限の価値があります。それは人間を真に生かし、真に幸いな生涯を歩ませる永遠の生命です。
 その事実に一旦、心の目が開かれるなら、人は隠された宝を得るため、どんな犠牲でも喜んで払うであろう、と教えられました。実にこの隠れた宝とは御子イエスの中にある霊的現実です。この事実を「信じる心」を持つようにと、イエスは人々に呼びかけられたのです。
 次に、神の国において、人間が出会い、仰ぐべき神は恵み深い父であると教えられました。神は御自身とは全く異なる人間を愛し、人間の父となっていてくださる、と教えられました。この神の愛は実に罪人を赦す愛、贖罪愛であると仰せになりました。
 そこで神の愛を明らかにするために、有名な放蕩息子の譬話をされたのです。ルカ福音書15:11~32に記されています。放蕩の挙句、落ちぶれて父の家に帰ってきた息子を喜んで迎え入れた父の話です。放蕩息子が帰ってきたことを喜び、父はこのように語りました。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:24)
 この譬話は悔い改めた息子のことを表すよりも、放蕩な生活をするために家を出て行った息子を父はなお愛し続け、彼が悔い改めて帰ってきたことを何よりも喜んだ父の愛を示しています。この譬話の主人公は、実に神の性質を現しているのです。
 イエスの考えでは、贖罪愛をもって人間を愛しておられる神は、父が子を愛するように人間を愛しておられると仰せになりました。それゆえ、人は神を恵み深い父として発見するとき、誰でも悔い改めて神のもとに立ち帰ることができるのです。
 このように人が神のもとへ立ち帰る霊的現実が神の国の開始である、と仰せられました。

(2)悔い改めとは何か
 次に、悔い改めて神の国の福音を信じなさい、と主イエスが仰せになったのは、罪を犯す生活をしていた者が、過去の過ちを悲しみ、単に後悔するというだけのことではありません。それは自分の心を入れ替えることです。自分の性格を根本から変えることなのです。
 これと関連して、イエスは罪を人間が犯す個々の悪い行為、神の戒めに反する個々の行為ではなく、もっと深い人間の心の状態として洞察しておられます。この状態をマルコによる福音書7:20~23で次のように分析しておられます。
 「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。』」
 人は悪い行為をする場合に、先ず心の中で悪いことを考え、それを実行に移そうと計画していることから始まります。それゆえ、イエスは罪を外側に現れた行為だけでなく、心の中に潜んでいる悪い思いも罪であるといわれました。
 しかし、この状況を実はユダヤ教の律法学者たちも知っており、人間の悪い思いを行動に移させないために、悪い行いに対する神の厳しい罰を強調し、他方、善い行いに対する神の祝福を約束することによって、悪い行いを防ごうとしました。しかしこのような方法は、病気である人に病気そのものの原因を取り去る治療をしないで、病気が引き起こす様々な苦痛を緩和する対症療法と同じです。
 それに対して、主イエスは確かに、マルコ7:22~23で心の中に生じる様々な悪い思いを分析し、心が病んでいる状態を罪とされましたが、それだけでなくそれらの罪の根源にメスを入れて、「罪の根源」を取り去ることが、イエスの言われる「神の赦し」であり、またそれに応答する人間の態度が「悔い改め」なのです。
 それでは心の中にある罪の根源は何かと言いますと、それこそ人間の「利己主義」です。「自分本位」の考え方です。心の向かう方向をすべて自分自身に向け、自分の利益になることを考え、欲し、行動することです。これが「罪の根源」です。
 人の心の中心に座を占めるべきものは、「神を愛することと隣人を愛する愛」です。ところで、神を愛するとは「神に絶対的に依存し、神に求め、同時に神の御心に従い、御心を行う」ことです。隣人を愛することは、そこから必然的に由来します。隣人を愛することは、神を愛することから生じるのです。
 神が人間を創造されたときに、人間が神を愛し、隣人を愛する思いを人の心の中心に据えようと神は意図されました。しかし、人間は神の意図に従わず、自己中心の思いによって、神との人格的な交わりから離れ、様々な悪いことを企て、罪を犯し、挙句の果てに闇の力に束縛される悲惨な人間となってしまいました。
 そこで問題は、人はどうすれば心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛することができるか。そして、隣人を自分自身のように愛することができるかであります。
 ところで、神を愛し、隣人を愛するという問題は人が外から強制されて実行する事柄ではありません。あくまでもそれは本人が自ら進んで、喜んで愛する自発的な愛でなければなりません。従って、それが可能となる方法は、ただ一つです。
 それこそ、神が恵み深い父であり、自分を愛してくださっている父なる神であることを、一人一人が発見することです。つまり神はイエスが譬話を通して示してくださった通りの父なる神であること、またイエスがご自分の存在と言動をもって示された通りの父なる神であると「信じる」ことです。
 しかし、そのような人間の信仰と洞察、そして献身と信頼だけではありません。同時にそれは神様ご自身が人間の心の中に臨在し、人間の心に神の愛を注がれますので初めて可能になるのです。
 言い換えれば、神が罪人に対する「赦し」をもって、わたしたちの心の中に臨在し、ご自身の思いと行動を示し、わたしたちの心の中に神の愛を働かせられるから、わたしたちは自分の全存在を神に献げ、神の思いを第一とし、自分の思いを第二として、神に従がって行動するようになります。
 次に、自分自身のように隣人を愛するということは、自分が神から愛されている神の愛の光の中で、神の愛はすべての人間に向けられていることを理解し、自覚することによるのです。神から愛されている神の愛をもって自分も隣人を愛すること、これが隣人愛です。
 従って、「神と隣人を愛する者」ということは、自己中心的な自分、罪人である古い自分を捨て、神を第一とする新しい自分、主イエスと結ばれている自分として生きることです。正にこれが悔い改めであり、わたしたちの在り方が根本的に変換したのです。

(3)主イエスの思いに生きる者の特徴
 次に、主イエスの思いを持った神の子と呼ばれるクリスチャンの特質は何でしょうか。ペトロがイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とイエスに尋ねたとき、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられたのです。
 要するに、イエスの答えは「イエスの心」を持った者は誰でも、「兄弟を常に赦す者」であると、仰せられたのです。なぜならば、神に愛されている者は、神から赦されている者であるゆえに、他の者を赦すのである。他の者を赦す者は神から赦されているのだ、という主旨です。この点を明らかにするために、この譬話の中で、ペトロや他の弟子たちに向かって、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようにされるであろう。」と仰せになりました。
 しかしこれは神から罪を赦されるために、友の罪を赦すという、いわば神と取引をするという意味では決してありません。そうではなく、わたしたちの中に主イエスが赦しを持って、臨在し、働いておられる限り、どのような経緯があろうとも、クリスチャンは結局人を赦すだろう。なぜばら、主イエスを信じる者には、それ以外に生き方はないからである、と仰せられたのです。
 しかしもう一度繰り返すならば、クリスチャンになれば自己中心的な面が全く消え去るのではありません。それゆえ自分の身にまつわりつく自己中心の生き方と常に戦い、乗り越える努力が必要です。その努力を通してわたしたちの中に主イエスの愛が働くのです。



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