2017-03-05(Sun)

あなたの罪は赦される 2017年3月5日の礼拝メッセージ

あなたの罪は赦される
中山弘隆牧師

 【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。
詩編130篇1~8節


 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
マルコによる福音書2章5~12節


(1)神の癒し
 主イエスの宣教活動は初期と後期とに二分されていますが、初期はガリラヤ地方で、後期はエルサレムを中心にして行われました。本日の聖書の箇所は景色のよいガリラヤ湖の周辺での伝道を伝えています。イエスがカファルナウムの町に行かれて、ある家に入って教えておられました。多くの人が集まって来で、家の中は超満員でした。イエスが神の力をもって、神の国の到来を告げ知らせておられるという評判が周囲一帯に広がったからです。このとき、中風に苦しんでいる人を友人たちが担架に乗せて運んできました。彼らはイエスの評判を聞いて、是非イエスに癒して頂きたいと言う切なる思いでその家に来たのです。ところが、人が戸口にまで溢れており、家の中に入ることができません。
 そこで彼らは甚だ奇抜な行動を取りました。屋上に通じる外階段を上って、平たい屋根に大きな穴を開け、病人を担架に載せたままイエスの前に吊下ろしたのです。ところで、このような方法は不可能ではありませんでした。なぜならば、バレスチナ地方は降水量が極めて少ないので、当時の屋根の構造は極めて簡単で、木の枝を渡しその上を粘土で固めてあるだけでした。それにしても思い切った措置を取ったものです。そこに彼らの信仰が現れています。
 ある牧師が説教の中で信仰には水平方向の動きと、垂直方向の動きがあるといわれました。先ず、ここで友人たちが中風の患者をイエスのおられる家まで運んできたことは、信仰の水平方向の動きを表しています。それはイエスを偉大な預言者として信じ、イエスの語られる神の言葉を通して、病気が癒されるという信仰です。
 しかし、イエスの前に出るためには、屋上に上がり、屋上から病人を下の部屋に吊下ろす垂直方向の運動が必要だったのです。この出来事はイエスに対する信仰が真の信仰となるために、ある時点で垂直方向にジャンプしなければならないことの比喩となっています。
 人間の評判や意見によって、イエスが偉大な預言者であるに違いないと信じることは水平方向の信仰です。中風の人と友人たちは水平方向の信仰をもってイエスに近づきます。
 しかし、人がイエスに近づき、イエスと対面するときには、水平方向の信仰から、垂直方向の信仰へジャンプする必要があります。すなわちイエスと人格的につながる信仰が必要なのです。それはイエスが霊的なカリスマを持った方であると信じることではありません。そうではなく、イエスは「神の権威」を持っておられる方であると信じることです。言い換えれば、主イエスがご自身の言葉と行為を通してご自身を証される通りの方であると信じることなのです。
 それゆえ、主イエスはご自分を預言者としてではなく、神の側に立つ者として、父なる神と一体となって神の言葉を語り、神の業を行っておられると、信じる必要があります。
 この点が最も鮮明になったのが、イエスの次の言葉です。

(2)わたしは言う
 聖書はこのように伝えています。
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)
 これはどういうことでありましょうか。人間の罪を赦してくださる方は神様だけです。従いまして、神の言葉を語りました預言者たちは、神はイスラエルの民の罪を赦してくださるであろう、と言いました。あくまでもそれは未来の出来事として語っています。最も典型的な預言はエレミヤの新しい契約に関する預言です。
 「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ31:33~34)
 このように終わりの時の「新しい契約」はあくまでも「罪の赦し」にも基づく契約であり、エレミヤはその赦しを未来のこととして預言しています。
 しかし、イエスは罪の赦しを現在のこととして語られました。ここで、イエスは中風の人に向かって、「あなたの罪は赦される」と言われたのです。
 実に、この言い方は「あなたの罪は、わたしの発言と同時に赦される」と言う意味です。つまり、神による罪の赦しはイエスの罪の赦しの宣言と同時に起こるという意味です。
 ギリシャ語ではこの点がはっきりとしています。「赦される」とは「アフィエタイ」と言いますが、これは現在形です。しかし、ギリシャ語の現在形は日本語と違ってその動作が進行中であることを意味し、「あなたの罪は赦されつつある」と言う意味になります。もちろんイエスが用いられた現在形はそういう普通の意味ではなく、特別の意味です。「赦される」という出来事が、イエスの発言の行為と結びついており、二つのことが同時に起こっていることを意味しています。
 この点を真剣に受け止めれば、イエスが神の立場で発言しておられることを信じなければなりません。預言者たちは神の言葉を語る場合に必ず「主なる神はこう言われる」と前置きをしてから神の言葉を語りした。なぜなら預言者は神ではなく、神の僕である人間なので、神の言葉を語る場合に「自分が神の道具」となっていることを強く自覚していました。
 この点イエスは預言者のように神が語られるという前置きは全くされません。なぜならイエスが語られる場合は、それは父なる神とイエスの協同の業であるからです。しかし、父とイエスとの共同の業である根拠は「イエスの人格の秘密」と結びついています。
 それはイエスが神であり、父なる神の唯一の御子であるからです。それゆえにイエスの中で、自分の発言と父なる神の意志と行為が一つになっているのです。それは人間の知性では全く洞察できい領域に属しています。それにしても、イエスは確かにわたしたちと同じ人間です。人間としての弱さと制限の中にあることは明白です。
 しかしこの現実において、人はなお神としてのイエスに対する信仰を要求されるのです。つまりイエスの言葉と行動を神ご自身の意志と行動として真剣に受け止め、イエスをそのような方として「わたしは信じます」と決意することが要求されます。
 或いはそうでなければ、イエスは人間の分際でありながら、自分を神の立場においている。これは神を冒涜する最大の罪であると判断することです。このように、人は皆イエスの前に立つとき、二者択一の決断を迫られます。正にイエスの人格はすべての人間にとって全く不可解な謎です。イエスが人間であることは確かな事実で、証明可能です。しかしイエスの人格は神秘に満ちていることもまた同じように事実です。ここに居合わせたファリサイ派の人たちは、人の罪を赦す権威を持っておられる方は神だけであると考えて、イエスは神を冒涜する者であると判断し、イエスを断罪しました。
 確かに、罪の赦しの権限は神にのみ属するという彼らの考えは聖書的で、正しい判断です。しかし、イエスを断罪した彼らの判断は間違っており、その判断自体が神への反抗なのです。神の啓示と恵みを拒絶する最大の罪です。
 この理由は彼らの信仰が水平方向の信仰であることです。すなわち、律法学者やファリサイ派の人たちにとって、信仰とは信仰の父アブラハムや旧約聖書の偉大な預言者たちが伝えた「教え」によって、神についての「知識」を持つことであり、それ以上の何物でもなかったからです。しかしそれは決して生ける神を信じることではありません。真の信仰は生ける神と人格的な交わりに入れられることによってのみ可能となるのです。
 ここでイエスは次のように仰せられました。
 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(2:10)。ここで権威とは力を意味します。従ってイエスは「神の力」を持つ方として、中風の人に命じられました。
 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(2:11)
 「人の子」とはイエスがご自身を指し示される呼び名であり、実に謎めいた不思議な名称でした。それは確かに人間であることを意味していますが、同時に神の側に立ち、神の意志を語り、神が決定されたことを執行する権威を持つ者、そして終わりの時にすべての人間を裁く神の権威を持つ者と言う意味です。
 イエスはそのような者として、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命令されると、その人はその通り、起き上がり、床を担いで家に帰って行きました。
 要するに、イエスは御自分が神であるとは言われませんでしたが、実質的に神であることを、言葉と行為をもって現されたのです。
 従ってこの出来事を目撃した人々の反応は次のようです。
 「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」(2:12)
 そこで、彼らはイエスが誰であるかと言う問いを避けて、このような出来事の一切を神の働きに帰して、神を賛美しました。しかし、彼らの賛美は極めて中途半端に終わっています。その理由は彼らが病人の癒しを「神の奇跡」としてか見ていないからです。これは奇跡ではなく、「神の啓示」なのです。
 他方、イエスが神の御子であり、御子が人間となられた方であるという人格の秘密について、イエスが地上におられた期間は、「沈黙」を守り通されました。この神的な事実に対する「自覚」をイエスは御自分の内にだけ持っておられたのです。
 なぜならば、イエスが神であるという霊的現実は、言葉の説明によっては証明できないからです。弟子たちはイエスと直面したとき、父なる神が弟子たちの心を照らし、イエスが御子であることを示されたので、イエスが御子であると信じたのです。それは神から直接与えられた信仰です。それゆえに極めて単純な信仰です。幼子のような信仰なのです。
 実に人はイエスと直面することにより、その信仰が与えられるのです。なぜならば、神の求められる信仰は「しるし」によって証明することは全く不可能であるからです。
 最後に、イエスに癒されたこの人は、病気の癒しを願ってイエスのもとに来たのに、イエスは罪の赦しを与えられました。なぜでしょうか。それは病気が癒されただけでは、人生に対する完全な保証にはならないからです。その人はまだ救われていないからです。

(3)わたしを信じるか
 それゆえ、イエスは地上で神の国を宣教しておられたとき既に、「ご自身に対する信仰」を要求されました。その信仰はイエスを救い主、メシアと信じることではなく、神の唯一の御子として、イエスは神であると信じることを要求されました。
 この点でマルコによる福音書は地上におけるイエスの態度を忠実に伝えています。マルコによる福音書では、十字架のイエスの前にいたローマの兵隊、百人隊長が、イエスの死の一部始終を見て、「本当に、この人は神の子であった。」と告白したことを、マルコによる福音書の頂点にしています。
 今や十字架の死によって人類の罪を贖い、復活によって天地の主権者となられた復活の主イエス・キリストは神としての権威をもって働き、名実ともに人類の救い主となられました。
 それゆえ、復活の主イエス・キリストは今や福音の言葉を通して、わたしたちと出会われるのです。しかも地上におられたイエスと同じ人格として、真の神にして真の人として、ご自身を示し、わたしたちにご自身に対する信仰を要求されるのです。
 それゆえ、信じる者の罪を赦し、ご自身の内にある霊的生命を与え、ご自身に従うように命じられるのです。



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