2017-01-08(Sun)

主による訓練 2017年1月8日の礼拝メッセージ

主による訓練
中山弘隆牧師

 モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である。
民数記20章6~13節


 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
ヘブライ人への手紙12章1~7節


(1)信仰のレース
 本日の聖書の箇所は、主イエスに従っていく信仰生活を具体的に印象深く教えています。神様は実に生きて働いておられる活動的な方です。決して怠惰な神様ではありません。わたしたちの信じる神は、わたしたちの信仰を鍛え、わたしたちが永遠の命に豊かに生きるように、そして主イエスの性質を映し出すように働きかけられる力強い方です。
 それゆえヘブライ人への手紙は、わたしたち信仰者を信仰のレースを走る選手に譬えています。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(12:1)
 ここで言われている競争とは、「マラソン・レース」のことです。原文のギリシャ語では「アゴーン」と言いますが、それはレースのことです。正月の恒例行事として首都圏にある大学の駅伝が行われますが、今年は青山学院が一位でした。コースの沿道で声援を送る人々に囲まれて必死に走って行く姿は、走者と観衆との一体感を強く感じさせ、正月の素晴らしいイベントであると、テレビを見て思いました。ランナーは目標を目指してまっしぐらに走ります。できるだけ身を軽くし、走ることに全精力を集中させ、最後まで完走することが必要です。
 しかし聖書の言うレースは、神の人類救済の歴史を通して行われていますので、観衆とは単なる見物人ではなく既にレースを走り終えた信仰の証人たちです。
 ここで信仰のレースを走るのに邪魔になるものを「重荷」といっています。それは障害物という意味です。言い換えれば、わたしたちの体に染みついている罪であり、聖書はそれを「絡み付く罪」と呼んでいます。それゆえわたしたちが主イエスに従っていく過程で障害になるものは、どれほど心惹かれ、絶ちがたく思えても、思い切って捨て去り、前向きに人生を考え、しかも忍耐と希望を持って、何処までも主イエスに従うことが大切です。
 それでは信仰の出発点はどこでしょうか。それはわたしたちが自分の人生について考える時です。わたしたちが自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのかを知ろうとすること、それが信仰の歩みの始まりです。求道者は聖書に導かれて、人生の根本問題の解決を見つけようとしているのですから、すでにそこで信仰の多くの証人に見守られながら、信仰の人生に向かって行くのです。
 このようにして人は生きる意味を探求する中で、主イエスと出会うとき、決定的な転機を迎えます。自分が今まで気づかずに求めていたものがここにあることを発見します。つまりそれは自分の創り主であり、救い主であり、しかも自分を探し求めておられた神様と出会うことです。
 ここから信仰生活のレースが始まります。そのレースの創始者は主イエスです。そしてレースの終着点は人間が神と共にいる永遠の御国です。そしてレースの導き手は主イエスです。
 それゆえ、信仰のレースに招かれたクリスチャンは最早アダムにおいて神に創造された古い人間として生きるのではなく、主イエスの救いの中に入れられている新しい人間として生きるのです。すなわちイエスが神の独り子として、生きられたように、神の子としてのイエスの性質をクリスチャンが映し出すために神が定められたレースを走るのです。
 そういう意味でクリスチャンは神の子とされています。しかし、それは御子イエスが神様であるように、クリスチャンも神となるという意味では決してありません。そうではなく、わたしたちはあくまで人間ですが、復活の主イエスがわたしたちの中に働かれるので、わたしたちは主イエスに似る者となり、神の性質を映し出す新しい人間となるという意味です。
 それゆえ主イエスの犠牲の死は、単なる人間イエスの死ではなく、神の御子ご自身の死であります。御子としての「永遠の霊」の働きによって、イエスの死は人類の罪を贖う力を持っているのです。言い換えれば、ご自身の十字架の死によって人類の罪を贖うことが、父の意思であることを知り、御子イエスは徹底的に父に従順であることにより、十字架の死を全うされました。それゆえにイエスの死は人類を罪から贖う神の力を発揮したのです。
       
(2)信仰の創始者であり完成者であるイエス
 次に、聖書は主イエスを見つめながら、自分に与えられた信仰の人生を最後まで完走しようではないかと勧めています。
 「信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥もいとはないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)
 ここで聖書はわたしたちの救い主イエス・キリストを信仰の創設者であり、完成者と呼んでいます。なぜならば信仰のレースのゴールは天にいます神の御前にあり、御子イエスが初めてゴールに至るまで完走されたからです。信仰のレースのゴールに達したのは、御子イエスです。
 そもそも信仰と祈りは神に造られた人間が持つべき最も大切な働きです。つまり人は信仰と祈りによって、神を知り、神に従う生活をするように造られています。しかし、旧約聖書の時代の信仰と祈りは確かに神から認められていますが、それは未完成であり、未だゴールには至っていなかったのです。
 それゆえ人間の中に信仰と祈りが正しく働くために、わたしたちの救い主である神の御子イエスは、わたしたちと全く同じ弱い存在となって、地上の生涯の中で、信仰と祈りを全うして下さいました。このことをヘブライ人への手紙は次のように言っています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです。」(5:7~9)
 正に人間としての弱さの中で、わたしたちと同じ誘惑と試練を受け、それに打ち勝ち、父なる神に従われたのです。その試練はわたしたちが受ける試練と同じ性質です。しかしそれ以上の試練でした。マタイによる福音書は8章20節で次のように言っています。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕をする所もない。」
 「人の子」とはイエスがご自身のことを言い表すために用いられた名称です。この言葉の含蓄は人類の罪の贖いの為に自己を犠牲にする使命が父から与えられている者、同時に将来天地の支配者としての主権を与えられる者という二つの意味があります。
 このような使命を御子イエスは試練の連続の中で、果たされました。実に、それはイエスが神の御子として持っておられる父に対するご自身の愛による従順と、信仰と祈りによってです。
 すなわち、それゆえイエスの信仰と祈りは神の御子としての働きです。言い換えれば聖霊による信仰の働きです。神は何でもできるという信仰による確信です。聖書はこの点を強調しています。
 「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(マルコ10:27)。このような父なる神への絶対的信頼による、信仰と祈りを持って、イエスは諸々の誘惑と試練に打ち勝ち、父の御心を実行し、自分に与えられた使命を果たされたのです。
 しかも、そのような歩みの中で、イエスの神への従順と信仰が完成したのは、人類の罪を贖うために、十字架の死を全うされた「時」です。これこそ、第一にイエスが神の本来的な御子として、父に対する愛による従順を果たされたのです。第二にイエスは全人類を愛し、ご自身を人類に十字架の死によって与えられたのです。このことにより、イエスの信仰は完成しました。
 ヘブライ人への手紙9章14節で次のように言っています。
 「永遠の霊によって、ご自身を疵のないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」ここで聖書は、主イエス・キリストは「永遠の霊」によって、罪を贖うことのできる完全な犠牲を献げられたと言っています。
 永遠の霊とは、主イエスが神の独り子として持っておられる「神としての性質と力」を意味しています。このようにして、実にイエスは信仰の創設者、完成者となられました。
 
(3)主イエスを見つめる
 次に、わたしたちが信仰の人生を歩むことがでるのは、信仰の創設者であり、完成者である主イエス・キリストを信じることによるのです。しかし、それだけでなく、聖書は「イエスを見つめながら、競争を走り抜こうではないか」と勧めています。
 つまり、主イエスは日々わたしたちに呼びかけ、わたしたちと出会ってくださる方ですから、わたしたちもイエスと出会い、イエスを見つめることが必要です。見つめるとは信仰による心の目で主イエスを見ることです。
 それゆえ、イエスは「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と仰せになりました。また「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:23)とも仰せられました。それゆえわたしたちの心が聖霊によって照らされ、絶えず明るくなっていることが必要なのです。
 そうすることにより、日々わたしたちは生ける神の霊的な現実に直面し、困難と試練の中で、主イエスに従い、主イエスの御言葉を実行し、主イエスの性質に似る者へと清められ、高められるのです。
 そのときわたしたちは主イエスの命と力を受けるので、アダムの子孫として常に自分の中に残っている罪の思いと業とに対して戦い、それを捨て去ることができます。この体験を日々繰り返すとき、復活の主イエスはわたしたちの中に働き、わたしたちを導いておられることが分かります。
 ドストエフスキーが、あるとき政治犯として逮捕され、投獄されました。そのとき独房の小さな窓が夜毎に開かれ、「兄弟よ、勇気を出しなさい。われらもまた苦しんでいる」という神秘的なささやきが聞こえて来たということです。信仰者は孤独の中でも主イエスの御声を聞いて勇気が与えられます。
 このことをヘブライ人への手紙は、「信仰の訓練」と言っています。訓練を受けることは神様がクリスチャンを神の子たちとして取り扱っておられる証拠であると言っています。クリスチャンはキリストを信じることにより、既に神の子の身分が与えられていますが、その実質は訓練の過程を経て成長します。
 訓練のコースは主イエス・キリストご自身が切り開かれた道です。永遠の神の御子がイエスとして地上の人生を歩み、十字架の死を全うし、復活されたコースです。その御子イエスの辿られたコースをわたしたちクリスチャンは主イエスに導かれて歩むとき、信仰の訓練を受けるのです。御子イエスが今や復活してわたしたちを導き、訓練されるのです。わたしたちが様々試練と困難に直面するとき、主イエスご自身が共に歩み、その試練と困難の中で働き、わたしたちに勝利を与えられるのです。その主に従って行く人生の終局が救いの完成です。勿論、この救いの完成はこの地上の信仰生活の延長線上の出来事ではなく、主イエスの再臨によって、既に神の御前に保存されている救われた者たちの世界が現れる時です。
 従って、救いの完成は最後の段階で、非連続ですが、その非連続を越えて、完成にクリスチャンを導く方が、主イエス・キリストなのです。その理由は、御子イエスが「時と永遠」の支配者、すなわち主であるからです。



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