2016-11-13(Sun)

律法を成就する愛 2016年11月13日の礼拝メッセージ

律法を成就する愛
中山弘隆牧師

 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19章17~18節
 

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙一13章1~13節


(1)律法の命じる愛とは
 主イエスは山上の説教で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と仰せられました。
 次いで、主イエスは神が与えられた律法を二つに要約して、次のように仰せられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)。これが第一の掟であると宣言されました。
 この命令は人間が神を愛するとは何であるかを示しています。すなわち、人は神に対して絶対的な信頼をおいて、神に従い、神の御心を実行すること、正にこれがクリスチャンの神への愛なのです。
 次に第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)であると仰せられました。この命令は人が隣人を愛するとは何であるかを示しています。
 それは隣人を自分と同じように愛し、隣人と共に生きることであると教えられました。
 ところで、福音とは神が主イエス・キリストにおいて、「実現される人間の救い」を語っています。特に、主イエス・キリストの十字架の死による人類の罪の贖いと復活による主イエスの支配について語っています。この神の事実こそ人間が神の救いの中に入れられていることの根拠です。しかし神の救いの目標は、人間が主イエスの性質を完全に映し出す者となって、永遠の御国に入れられることです。従って、救いの完成はこの世界の終わりに、主イエスが再臨されるときに実現します。
 従って、この救いの目的と働きによって、主イエスの支配の中で、クリスチャンが主イエスの性質を映し出す者へと聖化されていく過程が、クリスチャンの信仰生活であり、教会の使命なのです。
 このことを十分に考慮するときに、主イエスの教えの必要性が初代教会で認識されました。主イエスの教えは、主イエスご自身について教える言葉であり、主イエスの思いと性質を理解し、主イエスに従い、主イエスの性質に似る者となるためにどうしても必要です。その理由は初代教会で聖霊が与えられていることを誤解して、聖霊がクリスチャンに必要なことのすべてを教えるといい、また実際問題を聖霊が解決するという聖霊主義が教会を混乱させたからです。
 しかし、主イエスを信じ、聖霊を受けている者も、それだけでは主イエスの思いと行動の真意を知ることはできません。どうしても主イエスの言葉と教えが必要なのです。このことの重要性を最初のクリスチャンたちは認識しており、イエスの言葉を記憶し、それを後代の人々に伝えたのです。
 勿論、主イエスの言葉は主イエスと行動を共にしました使徒たちが伝えています。しかしそれは主イエスの教えの一部に過ぎません。もっと多くのことをイエスは教えられましたので、使徒たち以外のクリスチャンたちがそれを伝えました。このことは福音書の記事を見ても推測できます。主イエスが山上の説教をされたとき、多くの群衆がイエスの言葉に感銘し、その言葉を覚えていました。その様子はマタイによる福音4章25節に「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」と記されています。この群衆を見て、イエスは説教されたのです。ここで、群衆の中に多くの弟子たちがいて、イエスの教えを真剣に聞きました。その中には婦人の弟子たちもいました。特に婦人の弟子たちの中には、主イエスの宣教活動の全期間に渡り、主イエスに仕え、ガリラヤからエルサレムまで行動を共にした人たちがいました。
 そのような多くの人たちがイエスの言葉を保存し、伝えたのです。その伝承が初代教会の中で広く流布していましたので、その伝承を編集したのがキリストの使徒マタイであると言われています。
 そしてマタイによる福音書を書いたのはマタイであるとされていますが、他の福音書の中にはマタイの資料以外にイエスの言葉の資料が含まれています。それでも福音書の中に保存されている資料はイエスの言葉の全部ではありません。失われた言葉も多くあります。
 それにしても神様の摂理によって必要なだけ教会に伝えられたのです。このことは実に驚きであり、真に神の摂理の業です。
 この摂理を思いますとき、イエスの言葉はイエスご自身を知るために非常に重要なのです。それゆえ、わたしたちはイエスの言葉を重視し、よく理解することが信仰生活にとって不可欠です。
 次に、主イエスは「わたしが来たのは律法を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と山上の説教で仰せになっていますが、使徒たちも主イエスの教えに従って、この点をクリスチャンの信仰生活と教会活動の基本としています。
 従って、異邦人伝道に生涯をかけた使徒パウロは、信仰による義をクリスチャン生活の唯一の土台としましたが、その土台の上に立ってクリスチャンが聖化の道を歩むため、次のように言っています。 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである。」(ローマ3:31)と、この点を強調しています。
 このパウロの教えから見ても分かりますが、律法の命じる愛はユダヤ教のように生まれながらの人間に対する神の命令で、生まれながらの人間が自分の力で実行する愛ではないことが分かります。正にその反対で主イエスと結ばれた者として、主イエスの義と命と贖いと聖に生かされているクリスチャンが実行する神の愛なのです。

(2)愛の特徴 
 本日のコリントの信徒への手紙13章の4節から7節で、愛の持っている15の特徴が列挙されています。もちろんこれは愛の性質を定義しているのではありません。そうではなくクリスチャンの中に現れている神の愛の具体的働きの幾つかの例を挙げているのです。
 第一に、愛は忍耐強い。これは人から不当な仕打ちを受けたとき、復讐しようと思えばいつでもできるのですが、そうしない人のことです。このような忍耐強さは弱さから出るものではなく、愛の持つ力の強さの現れです。
 信仰者でも罪を犯しますので、神は常に赦し、信仰者にご自身を現わし、人を愛するようになるまで忍耐して導いてくださいます。
 神こそ、愛を持って人を育てるために、誰よりも忍耐深い方です。そのように神に愛されているクリスチャンは隣人に対して忍耐深くあるべきであります。
 親子の心理についてカウンセラーの金森浦子さんが次のように言っておられました。
 「先日、親による幼児虐待について討論するテレビ番組に招かれたとき、若い母親が『子どもなんて可愛くない』と発言するのを聞いて驚きました。こんな母親に育てられた子供の将来はどうなるのでしょうか。」と問題を提起し、ついで次のように言われました。
 「今、母親の世代によって子供に対する見方がはっきり違っています。わたしのような50代の母親は子どもを産んだと言うだけで可愛く感じます。40代では育ててみて初めて可愛いと感じると言います。また30代では子供がにっこり笑ってくれたとき可愛いと感じると言います。ところが20代では可愛くないと言うのですね。可愛くないから当然、自分の思い通りにならないときには、つねったり、殴ったり、折檻したりします。」と、言っておられました。考えれば、子供を育てる親は単なる母親の愛情ではなく、神の愛を持って忍耐して育てることが大切であると痛感します。
 第二に、愛は情け深い。情け深いと言う日本語は、思いやりの心を持っている、慈愛深いと言う意味です。キリスト教の愛の特徴は「すべての人にやさしく、親切にする」ことです。幼児に対しても、少年に対しても、老人に対しても、青年に対しても、壮年に対しても、同じように親切にすることです。そして自分の仲間でない人にも、外国人に対しても、同じように親切にすることです。
 フィリップ訳という英語の聖書では、この箇所を「愛は建設的な方法を捜す」と訳しています。非常に示唆に富んだ訳だと思います。
 主イエスは山上の説教の祝福の中で、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)と仰せになりました。「柔和」とは人に対して優しい、親切、謙遜と言う意味です。
 そのような人々は人を育て、共に生きる場所を造り出すと仰せになっています。
 第三は、愛は妬まない。他の人の良い面を見て羨ましく感じるのは、誰しも避けがたい感情です。羨んで意地悪をするとすれば相手に害を及ぼします。そのような思いを持った人がいれば、そこは非常に住みにくい場所となります。しかし、愛は他の人の良い面を率直に認め、それを自分のことのように喜ぶことができます。
 それは愛の持つ自由さから来ます。愛する人は自分自身に対して自由であるので、他の人の良い面を見て率直に喜ぶことができます。そこに交わりの豊かさがあります。溢れ出る喜びがあります。しかし、これは神から出る愛の特徴なので、クリスチャンに求められていることは神の愛を持って人と接することです。
 第四は、愛は自慢しない。わたしたちは神に愛され、その無限に大きい神の恵みである主イエスの中に自分の将来成るべき新しい存在を与えられておりますので、自分を誇らないのです。
 主イエスは「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と仰せられました。
 心の貧しいものとは、自分が神に絶対的に依存し、主イエスによって生かされていることを感謝し、喜んでいますので、自分の為す愛の業は、天に積む宝であり、自分の手元には置かないのです。自分の手元には何ら誇るべきものを持っていないのです。
 第五は、高ぶらない。主イエスの十字架の贖いによって、罪から解放され、神の子たちとされ、神との人格的な交わりを与えられているクリスチャンは、父・子・聖霊の交わりの中に働いている愛に生かされていますので、高ぶることはありません。
 なぜなら、子なる神は父なる神を愛し、父なる神を尊ばれました。栄光をすべて父に帰し、ご自分の栄光を求められませんでした。これが父を愛する御子の特質です。従って、御子の思いを自己の思いとしているクリスチャンは自分が人より優れていると思はず、他の人を自然と尊敬するようになります。これが新しい人間の特徴です。
 第六は、愛は礼を失しない。
 これは本当に人を尊敬し、人に対して謙遜であるからです。
 第七は、愛は自分の利益を求めない。
 これは神が徹底的にご自身を人間に与えられる方であるからです。それゆえ、神の愛は単なる賜物を人間に与えるのではなく、神は御子である主イエス・キリストにおいて、神ご自身を人間に与えられることに他なりません。この神の前で、人間は最早自分の利益を求めないのです。
 主イエスは教会と世界さらに被造物全体の主権者でありますが、人類の為に仕えられた方であります。
 それゆえ主イエスの中に新しい存在を与えられているクリスチャンは主イエスに倣って人に仕え、最早自己の利益を求めないのです。
 第八は、愛はいらだたない。この言葉の意味は、愛は人々に対して激怒しないと言うことです。あるいは愛は思い煩わないのです。主イエスの支配の中にあることを知り、感謝しているゆえです。主イエスにより万事が益とされることを確信しているからです。
 第九は、愛は恨みを抱かない。正に愛はこの反対で、愛は自分に不当なことをする者、敵対する者を恨まず、非難せず、赦すのです。
 主イエスは平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と仰せられました。平和を実現する人とは正に赦す人です。
 第十は、愛は不義を喜ばない。第十一は、愛は真実を喜ぶ。
 これは神の愛の創造的な力強さを表しています。その根拠は、神の義と真実が主イエスの中で、すべての人間に対して貫徹しているからです。
 主イエスは「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)と仰せられました。心の清いとは心の中を見通しておられる神の前で、裏表のない真実な一途の心を持った人です。
 そのような人は復活の主イエスの姿と心を信仰の目を持って見ている人です。義と真実を喜び、義と真実を実行するのです。
 第十二は、すべてを忍ぶ。第十三は、愛はすべてを信じる。第十四は、愛はすべてを望む。第十五は、愛はすべてを耐える。
 実に「すべてを信じ、望み、耐える」というこの「すべて」が特に強調されています。
 なぜなら神の創造的な力は、主イエスの支配を通して、例外なくすべての人々、すべての状況の中で発揮されているからです。
 その主イエスの支配に従っている人はすべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるのです。実に、わたしたちが主イエスの中で既に与えられている通りの自分になっていく秘訣がここにあります。



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