2016-10-30(Sun)

信仰による神の義 2016年10月30日宗教改革記念日礼拝メッセージ

信仰による神の義
中山弘隆牧師

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。
イザヤ書51章4~6節


 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙3章21~26節


(1)宗教改革の原点
 本日の礼拝はキリスト教会にとって非常に大きな意義を持っている宗教改革を記念する礼拝です。
 今から499年前の1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会のアウグスチヌス会の修道士マルティン・ルターが、ヴィッテンベルグ教会の扉に、カトリック教会が発行していました免罪符について95の論点を掲示し、公開討論を呼びかけました。これが発端で宗教改革の嵐はたちまちヨーロッパ全体に及びました。当時のヨーロッパの人々は一人残らず、自分はプロテスタントに属するか、それともカトリックに属するかの決断を迫られるようになりました。
 実に、ヨーロッパ全体に及ぶ宗教運動は、他方で社会的、政治的、経済的、文化的な面を巻き込んだ運動でもあり、宗教改革は100年余りの期間に渡ったのです。しかし宗教改革の中心はあくまでも信仰の問題で、人間の救いに関わるキリストの福音とは何か、信仰とは何かが真剣に問われたのです。
 今年は、宗教改革から499年が経過し、500年目を迎えますので、全世界のプロテスタント教会が宗教改革の500年記念礼拝を守っています。わたしたちは日本基督教団に属する諸教会が、この時に当たり、豊かな霊的生命に満たされ、感謝と喜びをもって、礼拝を守り、キリストの体としての信仰共同体を形成し、福音を力強く伝道することを切に願っています。そのために、わたしたちは宗教改革の中心点が何であったかを再認識し、その流れを受け継いでいくことが何よりも必要であると思います。
 従いまして、宗教改革の原点は神の御前での魂の平安を求めて、修道院に入り苦闘していたマルティン・ルターの体験にあると言えます。彼は聖書の研究を通してキリストの福音を再発見し、それによって神の与えられる魂の平安を体験することができたのです。
 彼は免罪符に関する公開討論を呼びかける数年前に、既にこの体験をしていました。彼はドイツで有名なエルフルト大学を卒業し、さらに父親の願いによって、エルフルト大学で法律学の勉強を始めた途端に、エルフルトにあるアウグスチヌス派の修道院に入りました。それは以前から自分の存在を破滅に陥れるような恐怖に襲われ、自分は闇の中をさ迷っているという不安を感じていたことがその原因です。つまり、ルターは自分が神の御前から締め出されていると考え、魂の平安を求めて、修道院に入ったのです。
 見習いの修道士になって間もなくヴィッテンベルグにあるアウグスチヌス派の修道院に移され、同時にヴィッテンベルグの神学校で神学を学びました。そこでは修道士として要求される仕事に励み、しばしば司祭のもとに行って罪を告白し、執り成しの祈りをしてもらい、罪の償いのために課せられる祈りと、奉仕と苦行を熱心に果たしましたが、魂の平安は得られず数年にわる苦闘が続いたのです。 
 その期間、友人の修道士や司祭たちの中でも特に司祭シュタウピッツはルターの魂の牧会者であり、ルターの心の闇の中に福音の最初の光をもたらした人です。自分の罪の自責と罪に対する神の裁きに苦悩しているルターに、シュタウピッツは自分の罪からキリストの功徳に目を向けるように勧め、律法から十字架の贖いに、業から信仰に、スコラ神学から聖書の研究へと、彼を励ましました。
 シュタウピッツはドイツにおけるアウグスチヌス派の修道院の副院長であり、神学博士であり、人はキリストの恵みによって救われると言うアウグスチヌスの教理に立っていました。彼の勧めでルターは24歳のとき司祭になり、29歳のとき神学博士の学位を取得し、聖書の講義をする教授の地位が与えられたのです。そのころ、詩編の講義、ヘブライ人への手紙の講義をしながら、魂の平安を求め続けたのです。
 ヴィッテンベルグの修道院の庭にある塔の一室が彼の書斎となっており、そこで1511~1512年にかけてルターはローマの信徒への手紙を研究しました。その中で、1:17節の言葉を熟慮しているとき、彼の心を啓示の光が照らしたのです。
 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
 ここで「神の義」という言葉を、これまで自分が理解していたのとは全く違う意味で聖書が語っていることに気づきました。なぜなら「信仰を通して神の義が実現する」という神の義は、ルターが考えていたように人間の罪を罰する「神の怒り」を意味しているのではなく、「罪人に与えられる」神の義であると気づいたからです。
 神の義とは主イエス・キリストが罪人のために、罪人に代わって、達成してくださった「神への従順による義」を意味していると確信したのです。その時ルターはローマの信徒への手紙の言葉を、信じる者に神の義が無償で与えられることとして理解しました。
 ルターは「二種類の義」と題した説教の中で、自己の善き業の功績による義とキリストの義とを対比しています。キリストの義とは、信仰者が自分の善き業によって獲得する自己の功績ではなく、キリストが「誕生から十字架の死に至るまでの生涯」において、神に対する徹底的な従順の歩みによって達成されたことによる「人間のための義」であると言っています。
 そして神はキリストを信じる者にキリストの義を無償で与えると、神の権威を持って最終的に決定されたので、人間は神のみ前で正しい者と認められるのである。それゆえ感謝と喜びを持って、神の命令を実行することができる。つまり人は信仰によってのみ、神の恵みによってのみ、救われると言っています。
 またそのような信仰について、次の譬えをしています。ルターは信仰とは結婚指輪に譬えられると言い、誰でも信仰によってキリストと結ばれるとき、自分の罪とキリストの義が交換される。すなわち自分の罪がキリストの罪となり、キリストの義が自分の義となると言いました。実にこのことを信じ、理解した時、ルターは長年求め続けた魂の平安を遂に見いだしたのです。
 実に、ルターは神の義をこのように信じたことによって、神ご自身がルターと出会ってくださったことを知りました。神はルターにご自身を示し、神の義を与え、恵みを与え、神の御前に生きるようにしてくださったことを体験したのです。
 それゆえ、聖なる神と出会い、神との人格的な交わりを与えるこの関係は、キリストの贖いによる絶対的な罪の赦しに基づいた不変の関係です。これこそ、救いの根拠です。実に、この確信こそ宗教改革の原点なのです。

(2)神の義の啓示
 それでは、本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙3章21~26節は何と言っているでしょうか。25節で次のように言っています。
 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
 ここで「罪を償う供え物」の原文は「ヒラステイリオン」と言うギリシャ語で、その意味は「罪が赦される手段」です。従って、ヒステイリオンは明らかに罪に対する神の裁きを意味しています。つまり、神が忍耐して罪を見逃すための手段ではなく、罪に対する神の究極的裁きにより、人間の罪を根本的に解決する手段であることを意味しています。
 ここにおいて、神は人間に対する主権者として、人類の罪を神の御子イエス・キリストにおいて、裁くことによって、人類から罪を根本的に取り除かれたのです。同時に神の御子イエス・キリストが神の裁きに徹底的に従順であったことによって、キリストにおいて人間に対する神の義が確立されたことにより、人間を神の御前に生きる根本的に「新しい人間」とされたこと、これが神の義なのです。
 神が人間の罪を裁き、人間に対してご自身の意志を貫徹されたことによって、人間を神の御前に永遠に生かされたのです。これが神の義であり、神の裁きの啓示なのです。
 ここで、神の義について重要なことは、神の義が「神の御子イエス・キリスト」の十字架の死と復活の中でのみ実現し、啓示されていると言うことです。言い換えれば、神の裁きは個々の人間のそれぞれの立場で執行されたのではなく、神の御子がすべての人間の代表となり、代理となって、執行されたのです。それゆえ、それは一回限りであり、究極的な裁きであり、永遠に有効な裁きなのです。
 このことにより、神は「ご自身が正しい方である」ことを明らかにされました。ところで、人間の救いにとって唯一の根拠で最も確かな保証は神が人間に対するご自身の正しさを貫徹されたことです。正に、この神の行動と決定によって、人間の救いが確かな事実となりました。それゆえ人間の救いは間違いなく完成するのです。
 このことを旧約聖書のイザヤ書51章4節が預言しています。
 「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」
 ここで重要なこととして、「神の義」が現れることと「神の救い」が現れることが表裏一体をなしています。「神の義」は「神の救い」であると言うのです。同時に、それは罪に対する究極的な裁きを通して現れると言っています。預言者イザヤは、神がご自身の権威と力の執行である御腕によって究極的裁判を執行されると預言しました。今やこの預言は主イエス・キリストを通し実現しています。
 さらに重要なことはこれが客観的な救いの事実で、すべての人間に関する事柄であると言うことです。同時に、その救いが個々の人間の事実となるのは、神の義を信じ、神の義そのものである主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと結ばれるとき、神の義と救いが信仰者一人一人の体験となるのです。
 もう一つ、重要なことは、旧約聖書の背景からすれば、「義とされる」と言う新約聖書のギリシャ語は、ヘブル語で、すなわち、イエス・キリストご自身が話されたアラブ語で言えば、「義の中に入れられる」、「義の中に置かれる」と言う意味なのです。
 人間はだれでも、十字架の死によって人類の罪のために裁かれ、人類を罪から解放し、同時に神の御前に生きるための人間の義を達成された復活の主イエスを信じる信仰によって、神の義を受領するのです。「イエスは主である」と告白し、「父なる神はイエスを死人の中から復活させた」と信じる信仰によって、人は神の義を「受領する」のです。実に、信仰は神の義と救いを受領する手段なのです。
 つまり「復活の主イエスの支配の中に入れられる」のです。そのとき、人は「神の御前に生きる新しい自分が主イエスの中で与えられている」ことを体験します。
 さらに信仰とは神が主イエスにおいて究極的に執行された「神の裁きと判決」を「受け入れ」、判決に「服従する」ことです。これが信仰です。この信仰により、人は自分が主イエスの義の中に置かれ、神の救いの中に置かれ、救いの完成に向かって、導かれるのです。そして完全に救われることが保証され、約束されるのです。実に、人間の救いの全行程は神の義の中にあます。
 人は信仰によって、神との人格的な交わりの中に入れられ、神の愛と喜びの対象とされ、神と共にいるのです。常に神と共にいる神の子たちとされるのです。このような主イエスとの交わり、導きの中で、主イエス・キリストに従い、神の命令を実践し、愛と善き業を行うことが、「具体的に」、「実質的に」神の御前で生きることです。
 さらに具体的で現実的な救の働きは救いの完成へと「前進する」のです。そこで信仰者は次第に主イエスの性質に似るようなる「聖化の過程」を歩みます。その終着点が救いの完成です。しかし、救いの完成は連続的にそこに至るのではなく、最後に、神が信仰者を復活させられる「神の独自の働き」による完成です。
 従って、信仰と愛とは別ですが、両者は不可分離であり、愛は信仰なしには働きません。救いの完成に対する希望も信仰なしには働きません。それゆえ信仰は愛と希望の基礎です。
 言い換えれば、信仰とは神の子とされた「クリスチャンの姿勢」であると言えます。古い自分と罪の思いと行動を後ろに投げ捨て、キリストに向い、キリストの思いと性質と行動を見つめて、前に進んで行く姿勢なのです。この信仰者の持つ特性を宗教改革者ルターは強調して、人は「信仰によってのみ救われる」と言いました。しかし、この点を誤解する人がいます。それはルターが信仰を強調する余り、愛の実践を軽視しているという誤解です。
 しかしルターにおいて信仰は正に愛の実践を可能とする推進力なのです。信仰は人を行動へと押しやる推進力であり、救いをもたらす神の力であります。重要なのは「愛の実践を伴う」信仰、すなわち「愛を通して働く信仰」であります(ガラテヤ5:6)。
 要約しますと、「信仰によって義」とされると言うことは、「信仰によって神との正しい関係の中に入れられる」、つまり「主イエス・キリストの支配と交わりの中に入れられる」ことです。



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