2016-10-16(Sun)

恵みの正しさ 2016年10月16日の礼拝メッセージ

恵みの正しさ
中山弘隆牧師

 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために/わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
イザヤ書57章15~19節


 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章6~16節


(1)神の愛のイニシャティブ
 本日の聖書の箇所でありますマタイによる福音書20章1~16節には神の国の譬えが記されています。イエスはこの譬を通して、今やイエスを通して開始している神の国の特質を教えられました。
 この譬話は、主イエスによる神の国の宣教について真っ向から反対していたファリサイ派の人たちに、神の国を弁明されたものと思われます。ファリサイ派の人たちは非常に熱心な信仰者であり、彼らの関心の的は正に神の国でありました。
 それゆえイエスが神の国到来を力強く宣べ伝えられたのを一応歓迎したのですが、その反面、猛烈に反対しました。その理由はイエスが罪人の友となられたことです。イエスは罪人と食事を共にし、罪人に神の恵みを与えられたからです。それに対して、ファリサイ派の人たちは神の国に入る者は、律法を守り正しい生活をしている者だけであると主張して、罪人とは食事を共にしなかったのです。
 当時のイスラエル社会では、エルサレムなどの都市部と、そこから遠く離れた地方とで、生活レベルの著しい格差があり、田舎の住民の生活は貧しく、朝早くから夜遅くまで働いても、やっと食べていける程度で、生活には少しも余裕はありませんでした。
 従いまして、彼らは神を信じていましたが、生活に追われて聖書を勉強する時間は全くなかったので、神の戒めを几帳面に守ることはありませんでした。そのような人たちをファリサイ派の人たちは「地の民」と呼びました。これは「田舎者」と言う意味で、全く差別用語です。
 それに対して、イエスの宣教の重点はイスラエル社会の失われた人たちを尋ね出して、彼らに神の救いを与えることにありました。イエスは神から遣わされた救い主として、自分に与えられた使命は、神の愛のイニシャティブをご自分の言葉と行動をもって示すことであると、確信しておられたのです。しかし、それは非常に勇気が要することです。イエスは神について教えられただけではありません。神の意志と決定をご自分の態度と行動を通して現されたのです。
 その結果、イスラエル社会における長い伝統によって、自分たちの考え方に権威を持たせている律法学者やファリサイ派と真っ向から衝突せざるを得ませんでした。正に、イエスは御自分の命にかけて、神の決断を具体的に示されたのです。その結果、病人は癒され、長年の苦しみから解放され、罪人は赦され、神の愛に生かされ、同時に神の愛を実行する新しい生活に招き入れられたのです。そこにはファリサイ派の人々が決して経験することのなかった感動と感謝と喜びとが満ち溢れたのです。
 確かに、ファリサイ派から田舎者と呼ばれ、差別されていた人たちの中には反社会的な生活をしている人たちもいました。例えば、徴税人たちがいました。彼らは必要以上に税金を取り立て、私腹を肥やしていましたが、イエスの話を聞き、イエスの行動に接して、自分は罪深い者であるにもかかわらず、イエスは心の底から赦してくださったことを知りました。同時に神様も罪深い自分をイエスによって赦してくださったことを信じたのです。
 まことに不思議なことですが、そのとき神の愛が彼らの心の中に働いたのです。それによって心の傷を癒す真の平安を体験し、彼らは根本的に変えられました。そして直ちに神の愛を実行する者となったのです。このように徴税人の頭ザアカイは神を信じました。このとき誰よりも喜ばれたのはイエスです。そして次のように仰せられました。
 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜しだして救うために来たのである。」(ルカ19:9~10)
 この状況を見たファリサイ派の人たちは、イエスに対して「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った。」(ルカ19:7)と非難しました。それゆえ、イエスがこの譬話をされたのは、ファリサイ派の人たちに福音を弁明するためでした。

(2)神の国の実体
 「天国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」(マタイ20:1)
 簡潔に言えば、この譬え話の内容は、神の国とは神の愛が働く所に他ならない、と言えます。ところで、これは譬え話でありますので、神様をぶどう園の所有者とし、またぶどう園を神の国として語っています。労働者とは人間を意味しています。
 当時の労働時間は太陽が東から昇る日の出の時刻から、太陽が西に沈み、空に星が見えるようになる夕暮れまででした。それは8時間労働ではなく、12時間労働でした。そして賃金は一日、一デナリオンでした。このぶどう園の主人は、朝早く労働者が待っている広場に出かけて行き、労働者と合意の上で、正規の仕事を与えました。しかし、それだけではなく、何度も広場に出かけて行って、まだ仕事がなく遊んでいる人々を自分のぶどう園に送って働かせたのです。
 いよいよ夕暮れになって、その日の賃金を支払う際に、この主人はたった一時間しか働かなかった者にも、気前よく一デナリオンを支払ったのです。それは一時間分の賃金しか貰えなければ、家で待っている家族の食費が賄えないことを情け深いぶどう園の主人はよく心得ていたからです。
 この様子を見ていた朝一番から働いていた労働者たちは、きっと自分たちはもっと多くの賃金がもらえると期待しました。ところが、手渡された賃金は一デナリオンだったのです。
 このことが分かったとき、彼らは憤慨し、主人の処遇は正しくないと激しく抗議しました。彼らは朝早くから夕暮れまで働き、しかも砂漠から吹いてくるシロッコと呼ばれる熱風に耐えて働いた自分たちを、たった夕方の一時間しか働かない者と、どうして同じ取扱いにするのかと抗議しました。それに対する主人の回答はこれです。
 「友よ、あなたには不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さを妬むのか。」(20:13~15)
 つまり、主人の釈明は一日一デナリオンの約束で働いたのであるから、一日働いて一デナリオンの支払いを受けるのは極めて正当なことであると言うのです。12時間働いた者にも、6時間働いた者にも、1時間働いた者にも一デナリオン支払うのは、支払う側の気前良さであるから、人は率直に喜ぶべきではないか、と言うのです。
 この譬え話では、一時間働いた者とは罪人を表しています。一日中働いた者とはファリサイ派の人々を表しています。一時間働いた者の受け取った一デナリオンは、労働に対する報酬ではなく、恵みとして与えられたのです。しかし、それだけでなく、一日働いたファリサイ派の人々の受け取った一デナリオンも実は報酬でなく、恵みなのです。
 この譬え話の眼目は、人が神の国に迎え入れられるのは、自己の業に対する報酬ではなく、神の与えられる無償の恵みであることを鮮明にしています。
 それに対して、ファリサイ派や律法学者たちは神の戒めを守ることによる自己の正しさによって、人は神の国に入ることができると主張して、神の恵みによってのみ、人は神の国に入ることができるという趣旨のイエスの譬え話を受け入れようとはしませんでした。 
 彼らも神の国について、譬え話を造っています。それは次のような内容です。ある王は多くの家来を持っており、その中の一人は二時間しか働かなかったのに、王は他の家来と同額の報酬を与えた。そこで他の者たちは王の処置は公正でないと抗議をした。すると王はこの者は二時間で、他の者の一日分の仕事をしたのであるから、他の者と同じ報酬を受け取ることができると言ったのです。
 ファリサイ派の譬えとイエスの譬えを比べるとその趣旨は異なっていると言うよりも全く異質であります。イエスが教えられた神の国とは、実に人が神の無償の愛に生かされ、人が神の愛を隣人に対して実行することであり、その現実が神の国であると言うのです。

(3)無尽蔵の宝である神の恵み
 要するに、神の国において人間が神の御前に生きると言う価値は、人間の労働の報酬として与えられるには余りにも大き過ぎるので、無償で与えられるのです。その訳は、神は人間を神の御前で生かすために、神の御子イエスを人間に与えられたからです。人間に対する神の御子の自己譲与の前に、最早人間は自己の功績を主張する根拠を失っているからです。
 なぜなら、人間が神の国で生きるためには、どうしても人間の罪が取り去られる必要があるからです。これは神の側から見ても、人間の側から見ても、必要なのです。そのために、神は罪の全くない御子イエスにすべての人間の罪を背負わせ、御子イエスをすべての人間の代理として、人間の罪を裁かれました。そのことによって、人間の罪が神の御前に完全に取り去られたのです。
 同時に人間が神の御前に生きるには、すなわち神を知り、自ら喜んで神に従い、神の命令を実行するためには、人間の義と命が必要なのです。そのことも御子イエスは父なる神の裁きの意味を心得、死に至るまで神の裁きに全く従順であったので、御子イエスご自身が人間のための義と命となられました。
 それゆえ、御子イエスを父なる神は死人のなから復活させ、神の国の支配者、すなわち「主イエス・キリスト」とされました。このようにして、神は御子イエス、今や神の国の支配者となられた主イエス・キリストを人間に、しかも罪人である人間に与えられたのです。この現実が神の無限の恵みであり、人間に与えられた無尽蔵の宝なのです。今や人は誰でも主イエスを信じるならば、神の国に生きることができます。
 言い換えれば、主イエス・キリストに結ばれて生きることです。すなわち、復活し、今や神としての力を持って働いておられるキリストが信仰者の中に住み、信仰者の中に働き、信仰者を導いておられことです。同時に、人はだれでも、自分の新しい存在を今やキリストの中に与えられているのです。正にこれが「キリストに結ばれて生きる」ということです。
 それゆえ、信仰者はキリストの義と命を受け、キリストに従い、神の命令を実行し、愛の業に励みます。キリストに祈り、キリストの力を受け、人を愛し、愛の労苦を自ら進んで担います。この生き方こそ信仰者が神の国に生きていることに他ならないのです。
 ここで注意すべきことは、愛の労苦をすることが人間の功績であると言う考えは、最早神の御前には通用しません。なぜなら愛の労苦は、そのことを通してキリストの復活の命が人間の中に働く機会であり、人間が神の御前に生きることに他ならないからです。そのことを心得ている者は、喜んで、自ら進んで愛の労苦を担うのです。これが神の御前に生きると言う霊的現実です。
 しかし、神の御前に生きるその働きの視点から見れば、人によって大小の差異があります。しかしそれにしてもそこに同じキリストの贖罪愛が働いており、同じキリストの性質を現していますので、同じように神の栄光が現れているのです。
 それゆえ、信仰者は喜んで愛の労苦をします。愛の労苦をすることが神の御前で生きることであり、最大の恵みであることを心得ているからです。従って、キリストと結ばれて生きる人生は、永遠の神の国と連結しています。歴史と時間の中で生きている人間が、永遠の神の国の実を結ぶのです。
 使徒パウロはコリントの信徒への手紙で言っています。
 「わたしの愛する兄弟たち、こう言う訳ですから、動かされないようにしっかりと立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(コリント一、15:58)
 このような生き方をする人は、自分に与えられた人生を精一杯に生きるのです。主イエスに結ばれて生きる者は、最早怠惰に日を過ごすことはありません。主イエスがわたしたちにご自身を与え、わたしたちを支配し、導いておられるのですから、自分の人生に与えられている時を無駄にせず、「主の業」に励むのです。ここに主イエスに結ばれている者たちの喜びと力があります。それゆえ、パウロはコロサイの信徒への手紙で次のように言っています。
 「そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべての者の内におられるのです。」(コロサイ3:11)
 実にキリストの恵みと働きは無尽蔵であり、キリストと結ばれて愛の労苦をする人たちの働きは、種々様々であり、一人一人の個性とそれぞれの人生の長短、働きの大小があります。それにしてもすべの者はキリストの性質を反映させ、神を賛美します。そこに愛による大きな調和があります。正にそれは神の恵みの豊かさです。



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