2010-11-21(Sun)

神と出会ったヨブ 2010年11月21日の礼拝メッセージ

神と出会ったヨブ
中山弘隆牧師

 ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記42章1~6節

 「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
使徒言行録26章12~18節


(1)問題の提起
ヨブ記は旧約聖書の中で、新約聖書の福音を模索している偉大な書物であると言えます。ヨブ記の主人公のヨブは実在の人物ではなく、ヨブ記の著者である詩人が、自分の実存の問題を追及するために、ヨブと自分とを重ね合わせながら、ヨブ記を書いたものと思われます。彼は紀元前500年代に生きていた信仰者であると推測されています。
この書は全部で42章に及ぶ大部の書物であり、古くから伝わっていた民話を材料としている序文と結びの言葉を除いた部分は、全部詩文です。この詩文は文学的な観点から見ても、不朽の名作です。しかし、単なる詩ではなく、ヨブの実存の問題を追及していく、粘り強さと、スケールの大きさのため、そこにはいろいろのテーマが展開されています。
それゆえヨブ記全体を貫いているテーマが何であるかを決めることは容易ではありません。その点につきまして、ヨブ記を読む人によって意見が異なります。ヨブ記は罪のない正しい人が苦しまなければならないという人生の謎、すなわち義人の苦難の問題と取り組んでいるという人がいます。あるいは神の正しさを弁証しているという人もいます。しかし、ヨブ記を実際に読みますと、義人の苦しみがどうして必要なのかという方向に議論が進められているのではありません。また、神の正しさを論証している部分は、ヨブ記の議論を展開する中で、一つの手段に用いられているに過ぎず、それが根本問題であるとは言えません。それでは何がヨブ記の中心テーマなのでしょうか。
ヨブは信仰深い敬虔な人生を歩み、あらゆる面で祝福された平穏な日々を送っていました。しかし、そこには信仰者の不信仰と利己主義という深刻な問題が隠されていました。この問題は、サタンがヨブを試すことを神様が許可されたときの事情によって提示されています。サタンはヨブを試すため神様に次のように進言しました。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。一つこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」(1:9~11)
ヨブの場合、敬虔であることが富と名声と安全を得る手段であると、サタンは洞察しました。従ってヨブの敬虔さはあくまで自己中心的な動機に基づいており、神様を神として崇める純粋な信仰に基づいてはいないと告発したのです。
その結果、サタンは略奪隊を遣わし、ヨブの全財産を奪わせました。そのうえ、ヨブの10人の子どもたち全員が集まり、宴会を開いていた最中に非常に激しい突風が吹いてきて、家の下敷きとなったヨブの子供全員が死亡しました。それにも拘わらずヨブは神への信仰を失いませんでした。次のように神を崇めています。
「ヨブは衣を裂き、髪の毛を剃り落し、地にひれ伏していった。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』」(1:20~21)
たしかにこの限りでは、ヨブは利己的でなく、神中心的な信仰を堅持し、ヨブの信仰は完全に正しいことを実証しました。しかし、あくまでもこれは問題の発端であり、その結論ではありません。
実はヨブ記のテーマはこの序文で提出されているのです。人はどうすれば実利的な信仰を乗り越え、神を神として崇め、信頼し、神に従う純粋な信仰に達することができるかという問題がヨブ記の中心テーマなのです。

(2)三人の友人との論争
次に、災難はヨブ自身にも及び、彼の姿は全く変り果て、以前の彼の敬虔な、そして威厳と優しさを兼ね備えた高潔な人物の面影はどこにもありませんでした。身体的な激しい痛み、夜も眠れない精神的な恐れと不安によって衰弱し、彼の精神は錯乱状態に陥り、今にも死んでしまいそうでした。この哀れな姿を見て、家の召使いたちにも忌み嫌われ、すべての人々から軽蔑の眼差しで見られました。
それゆえ、彼の友人である三人の賢人たちは彼に同情し、彼を慰め、励ますために、ヨブのもとに馳せ参じました。その時、ヨブは自分の心にたまっていることを吐き出し、先ず自分の人生を呪う言葉を発しました。
「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子を身ごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。」(3:3~4)
このヨブの呪いの言葉には、神に対する畏敬の念が少しもありません。それを聞いた友人たちは、ヨブを励ます意味で、ヨブの態度を叱責しました。三人の中で、先ず年長者のエリファズが話し始めました。
「神を畏れる生き方が、あなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことが、あなたの希望ではなかったのか。」(4:6)
「愚か者は怒って自ら滅び、無知なものは妬んで死に至る。」(5:2)
「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう。」(5:8)
「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。」(5:17~18)

これが最年長者であるエリファズの慰めと忠告の内容です。しかし、このことはヨブ自身も十分心得ていましたので、友人の忠告は彼の深い精神的な苦痛を和らげることはできなかったのです。
そのときヨブは友人に自分の苦しみを理解して欲しかったのです。友人に次のように懇願しています。
「考え直してくれ。わたしの正しさが懸っているのだ。わたしの舌に不正があろうか。わたしの口は。滅ぼすものをわきまえていないだろうか。」(6:29~30)
ヨブの立場は、自分は「神の御前に正しい者」であるという確信と誇りなのです。「神が自分の正しさを証明し、弁護して下さるだろう」という、神への信頼と、依存と希望なのです。このことを理解して欲しい、と友人に訴えたのです。
同時に、ヨブはこの災いが神から来ていることを信じており、神が全能の力をもって、ヨブを滅ぼそうとしていると考えています。神に対してなぜそのようにされるのかと抗議し、神の返答を要求しているのです。

次に、ビルダトが立ち上がり、ヨブを非難しました。
「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手に委ねられたのだ。」(8:3~4)
このように、彼は正統的な信仰の立場から判断を下しました。ヨブの苦難はヨブの子らが罪を犯したからである、というのです。従って、ヨブがこの苦難から助け出される唯一の方法は、神の憐みを乞うことであり、同時に自分が正しい人であることが必要だ、と次のように告げました。
「また、あなたが潔白な正しい人であるなら、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元通しにしてくださる。過去のあなたは小さな者であったが、未来のあなたは非常に大きくなるであろう」(8:6~7)
神は正しい者に報酬を与え、悪を行う者を罰せられるという正統的信仰の見地から、すなわち勧善懲悪の教理により、友人たちはヨブの苦難はヨブの罪に対する神の審判であると判断しました。しかし、ヨブはこの判断に決して承服しませんでした。
なぜならば、ヨブも正統的教理に立脚しているからです。しかもヨブは自分の正しさを確信しており、このことを神に認めさせようとしているのです。
確かに、道徳的な面で彼は何一つ欠点がありませんでした。モーセの十戒を守り、預言者たちが神の意志として要求している正義と公平、そして貧しいものに対する援助を完全に実行していました。すべての点で、ヨブは間違ってはいなかったのです。道徳的な面に関しても、そして祭儀的な宗教の務めに関しても、何ら手落ちはなかったのです。そういう意味で、ヨブは友人の賢人たちと同様に、否彼ら以上に正しい人でありました。
それでもヨブがこのような災難を受け、苦悩をしている現実から判断すれば、ヨブは神への知識と経験がまだ足りないのだと最年長者のエリファズは言いました。エリファズは「見よ、これが我らの極めたところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟がよい。」と自分たちの判断は、「我らの極めたところだ」(5:27)と言っています。自分の知識と経験はもちろんのこと、賢人たちの長い期間にわたる伝承によって確かめられているのだというのです。
それに対して、ヨブは自分が全く正しい人であると言い張り、神は理由なく自分を責め、自分の命を奪おうとしていると、抗議しました。

次に、ツォファルはヨブ自身が罪を犯したからであり、神はあなたを憐れんであなたの罪の一部を見逃してくださったから、あなたはまだ命が保たれているのだと言いました。
「神が隠しておられるその知恵を、その二重の効果をあなたに示されたなら、あなたの罪の一部を見逃していてくださったと、あなたにも分かるだろう。」(11:6)
そしてヨブに対して次のように忠告しました。
「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ、神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れと顔をあげ、動ずることなく恐怖を抱くことはないだろう。」(11:13~15)

ヨブの友人であるエリファズ、ビルダド、そしてツォファルは、正統的教理として、勧善懲悪の教理を語っただけでなく、神は憐み深い方であるから、罪を犯した人間が神に赦しを乞い、自分の罪から離れるならば、神は罪を赦し、悲惨な状況から助け出し、繁栄を回復されるという神の恵みの教理を語っています。このことがヨブに対する三人の最終的な忠告でありました。
他方、ヨブも神の憐みを信じていましたので、友人たちとの激しい論争の傍ら、ヨブ自身で神に祈っています。最初の祈りは7:7~21でなされています。
「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。わたしを見ている目は、やがてわたしを見失い、あなたが目を注がれても、わたしはもういないでしょう。」(7:7~8)
ここでは神の憐みに訴えて祈っています。ヨブの心に神がヨブを探しに来てくださるという思いが閃きました。しかし、時すでに遅く、ヨブはもういないでしょう、と言っています。また21節では、こう祈っています。
「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか。今や、わたしは横たわって塵に返る。あなたが探し求めても、わたしはもういないでしょう。」(7:21)
ヨブは自分の精神的な苦悩が死に至る恐ろしい力を持っていることを知り、そこから助け出されるように、自分の罪を赦してくださいと祈り始めました。しかし、ヨブは自分の罪の正体が何であるかをまだ分かっていないのです。悪人さえ赦す神は、まして正しい自分を赦してくださらない筈があろうか。なぜならば、人の罪を赦すことが神の務めであるからと、ヨブは考えていました。
しかし、自分の心の苦悩がますます激しくなり、彼の生命力が尽き果てようとしている限界状況に立たされ、それはヨブの罪に原因があるという友人たちとの論争の中で、次第にヨブは窮地に追い込まれ、彼の頭は錯乱状態に達しました。
しかし、暗闇のどん底で、彼の心に新しい思いが閃いたのです。それは、自分をこの窮地から贖ってくださる方が天におられるという信仰です。そのことは、19:25に記されています。
「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」

この告白は、前後の文章から理解すれば、ヨブは今神の手によって殺されるが、自分の死んだ後に、贖い主が現れ、ヨブはその方の前に身体を備えた人間として立ち、自分の目でその方を仰ぎ見る、という信仰です。これはヨブの方から神への道が全く閉ざされている現状を打開する唯一の手段として、神が贖い主を与えてくださる、という閃きなのです。自分の力では神の前に出ることのできないヨブが神の前に立つためには、どうしても贖い主が必要であるという閃きです。そういう形で、ヨブは贖い主であるキリストの必要性を知ったのです。

しかし、ここでのヨブの苦悩の深さは、まさに死に至る性質を持っていました。それではヨブの死に至る病の正体はなんであったのでしょうか。
それこそ正にヨブが「自分が義人である」という確信であり、自分の名誉にかけて、神がそれを弁護してくださらなければならないという思いでした。このために、ヨブは神との人格的な交わりから切り離され、神はヨブに対して全く沈黙されたのです。その結果、ヨブは暗闇の孤独の中に閉じ込められました。まさにそれこそ、虚無であります。
この苦悩と恐れの中で、なおヨブは神にどうしてなのですか、と叫び続けました。ヨブは神を信頼し、依存していましたが、その叫びはあまりにも絶望的でありましたので、ヨブの友人たちはヨブが神を冒涜する言葉を吐いていると言って、非難しました。

エリフは、三人の友人とヨブの対決を見ていたのですが、最後に次のように断言しました。この宇宙と人間世界の創造者であり、統治者である神は無限の知恵と力とを持っておられるだけでなく、正しくかつ恵み深い方であることを強調しました。
「理解しようとして、これに聞け。わたしの語る声に耳を傾けよ。正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方を、あなたは罪に定めるのか。」(34:16~17)
そしてヨブに対する最後の勧告として、次のよう言いました。
「誰が神の道を見張り、『あなたのすることは悪い』と言えようか。世の人は皆、御業を仰ぎ、はるかかなたから望み見ている。」(36:23~25)
実は、このエリフの厳しい言葉は、ヨブが神と出会うための準備となったのです。聖なる神との対面する聖なる場所の入り口となったのです。

(3)神の臨在と恵み
遂に、ヨブがひたすら求め続けた神様の答えが与えられたのです。神様ご自身がヨブのもとに臨在し、「我と汝」の人格関係の中で、ヨブと出会ってくださったのです。主の言葉をヨブが聞いた時、その出会いが起こったのです。それは38章以下に記されています。
「主は嵐の中からヨブに仰せになった。
これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯びせよ。わたしはお前に尋ねる。わたしに答えてみよ。」(38:1~3)
神の経綸とは、神様がご自身の計画を実現するために、この世界と人間を支配しておられることを意味しています。
それに対して、ヨブはこれまで、自分が神と同等の立場に立って、自分の正しさを語り、ヨブの正しさを神が弁明してくださることを期待していました。このことをご存じである神はヨブが男らしく神の御前に立ち、自分が神と同等の知恵と力をもっていることを証明せよ、とヨブに挑戦されたのです。
もちろんそれはヨブにできるはずはありません。ヨブの友人たちも同様のことを繰り返して語っていましたが、ヨブは納得できなかったのです。しかし今や神様ご自身がヨブに語ってくださったので、初めて神様の経綸を理解しえたのです。
そのときヨブは、「死に至る病」から解放されました。ヨブの精神を錯乱させた苦悩は、実は自己の正しさを主張することによって、ヨブは神様との人格的な交わりから切り離されていたことがその深い理由だったのです。
実に救いの先手を取ってくださった方は、神様ご自身です。神様がヨブに語りかけ、ヨブのもとに臨在されたことによって、ヨブは神様から自分が愛されていることが心の底から分かりました。
自己の義を主張することによって、神を冒涜するヨブの罪を神様が赦し、ヨブと直接に出会い、ご自身を示してくださったのです。
伝統的な宗教、そしてそれを受け継いで、実生活に適用している賢人たちの教理がいかに正しくても、それらは神様ご自身の臨在を与えるものではありませんでした。そこに伝統的な宗教の限界があります。
その限界の中で、ヨブは自分の正しさを主張し、自分の正しさに対する報酬を神に要求し続けました。つまり、自分の正しさによって、神は自分の祈りに答え、魂の平和と生活の安全を与えてくださると考えていたのです。
しかし今や、そのことが神に対する最も重大な罪であることをヨブは知ったのです。自分の最も大きな罪を赦して、神様がヨブに出会ってくださり、神の臨在の中にヨブを招き入れてくださったのです。ことによってのみ、ヨブは本当の意味で心に平安と喜びを見出しました。心底から神の御心に従い、神に仕えることを最大の喜びとしたのです。もはやヨブは自己の義と自己の名誉の回復を願わず、神への完全な献身として、悔い改めました。
従いまして、ヨブ記の頂点は、42章の結論の部分にあります。
「ヨブは主に答えて言った。----あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
ヨブはこれまで神についての教えを伝統的宗教によって聞いてきましたが、今この目であなたを仰ぎますと言っています。自分の目で生ける神を仰ぎ見るとき、神の偉大さと同時に神の愛、神の恵みが自分の心の中に、自分の存在の中に、与えられ、働く現実をヨブは体験しました。それゆえに、ヨブは悔い改めました。
最後に、ヨブは悔い改めたから、神の臨在が与えられたのでなく、神の臨在が与えられたから、ヨブは悔い改めることができたのです。
悔い改めとは、徹頭徹尾、神の恵みによって生き、自己の正しさと名誉を求めず、心から感謝して自分の全存在を神に捧げる献身を意味しています。
このことが死に至る苦闘の中でヨブに知らされた福音的信仰です。そういう意味で、ヨブ記は旧約聖書の中で輝いている一つの霊峰であると言えます。



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