2016-10-09(Sun)

自己を越えていく 2016年10月9日の礼拝メッセージ

自己を越えていく
中山弘隆牧師

 なぜ、わたしの痛みはやむことなく/わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り/当てにならない流れのようになられました。それに対して、主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら/わたしのもとに帰らせ/わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず/熟慮して語るなら/わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ。この民に対して/わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが/勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて助け/あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し/強暴な者の手から解き放つ。」
エレミヤ書15章18~21節


 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マルコによる福音書8章31~36節


(1)キリストのもとへ近づく
 人間は交わりを通してお互いに知り合うようになりますが、わたしたちがキリストを知るようになるときも同様です。そこで人がキリストへと導かれる場合にはいくつかの段階が考えられます。
 キリスト教について何らかの印象を持ち、普段はキリスト教について深く考えていない人でも、キリストのことが何となく気になっている人々がいます。例えば、友人の中にクリスチャンがいて、キリスト教はああ言うものかと遠くから眺めていたり、あるいはキリスト教の映画を見たり、音楽を聴いたりして、キリスト教について何らかの興味を覚えている人々がいます。このような人たちはキリストとの交わりの最初の段階にいると言えます。
 次に教会の礼拝に誘われたり、また自分から進んで礼拝に出席したりする人があります。それは自分の目と耳を通してキリスト教に直接触れると言う段階です。
 実はこういう段階にある人々のことが、聖書の中に沢山出てきます。従いまして、自分で直接キリスト教に触れたいと願う人は、聖書の中に出てくる人々の中でも、特に弟子たちの立場に自分を置いて、キリストの言葉を聞く必要があります。
 まず、聖書の中に登場する群衆は、主イエスの教えを聞いて非常に大きな感銘を受けました。主イエスは神様の意志を実に簡潔明瞭に語られましたので、神様はイエスによって、本当にわたしたちの所に「来られたのだ」という畏敬の念を抱きました。彼らの受けた感銘を聖書は次のように記しています。
 「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29)
 また、イエスが中風で長年苦しんでいる人を癒された時、先ず初めに、イエスは中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と語られた場面に居合わせた人々は大変驚きました。なぜならば、罪の赦しは神様だけが与えることのできる神の権能に属する事柄であるからです。
 しかし、イエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられると、不思議にもその人は、その通りになったのです。その様子をマルコによる福音書は次のように伝えています。「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことはない』と言って、神を賛美しました。」(マルコ2:12)。
 従って、このような段階にある人々は、主イエスに直接触れています。しかし、そこでは未だ主イエスとの人格的な関係には至っていません。そのためには、さらに一歩を踏み出す必要があります。この段階で主イエスはこのように仰せられるのです。
 「わたしの後に従いたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34~36)
 これは主イエスの中に神の力が働いていることを知り、また主イエスが語られる神の愛に心を惹かれ、慰められる者は、そのことだけで満足してはならないと言う意味です。救われるためには主イエスにどこまでも従う決意が必要であると言うのです。

(2)生ける神の子イエス・キリスト
 それゆえ、弟子たちはイエスの御声に聞き従って、イエスにどこまでも付いて来た人たちです。
 そのようにして弟子たちはイエスの言動と性質をよく見ることによって、主イエスの人格と出会い、この方は心の中が「真実」であり、神に対して全く従順な真実の人間であることが段々と分かって来ました。すなわちイエスは単なる人間ではなく、ご自身の内に父なる神との交わりを持っておられる真実な人間であることが分かって来ました。
 実際、イエスはわたしたち人間とは全く異なり、神をご自分の父として知っておられ、それゆえご自分を神の子として自覚し、この自覚をもって、語り、行動しておられました。この点をイエスは弟子たちにヨハネによる福音書の中で証されています。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」(ヨハネ14:10)
 このようにマリアから生まれたイエスは、父なる神と実に人智をこえた密接な交わりを持っておられるので、自分が神のもとからこの世界に遣わされた使命を知っておられました。
 つまり、神によって創造された人間が、神の愛に反抗し、神よりも自分の意志に従い、神から離れ去った罪深い人間を神はなおも愛し、神のもとに連れ戻されること、これこそ神の本意であると知っておられたのです。そのための唯一の有効な手段は、神が先ず罪人に赦しを与えることをイエスは洞察しておられました。これはイエスにとって非常に重要なことです。さらに神の主権がご自分に委任されていることを知り、イエスは「あなたの罪は赦された」と仰せになるのです。その結果、イエスの与えられる赦しが人を癒し、更生する命を与えたのです。それゆえ、弟子たちはイエスに対する信仰を次のように告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)
 しかし、イエスは神の愛と意志と働きを、ご自身の言葉と行動と性質を通して示すために、この世の多くの誘惑と試練に戦い、打ち勝っていかなければなりませんでした。それは苦難の道でした。この点を、ヘブライ人への手紙は証しています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自身を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7~8)
 このようにして、神の御子イエスは旧約聖書の真意を人々に知らせられたのです。その結果、この世の権威によって、律法の教師と任じている律法学者との論争が不可避となりました。
 律法学者たちは自分の考えによって律法を解釈し、律法の意味を曲げて、人間の様々な規則を作り、しかもその煩雑な規則によって、神の命令の本当の意味を不鮮明にしてしまいました。その現状は神に対する彼らの不信仰と不従順による彼らの欺瞞であることを、イエスは容赦なく暴露されました。
 他方、弟子たちはイエスの態度を見て、イエスこそ、人間に対する神の命令である律法の意味を完全に理解し、しかも完全に実行しておられる方であることを知りました。そのような方として、神の御子イエスこそ本当の意味で人間を生かす「命の源泉」であると、信じたのです。
 しかし、主イエスの教えが、伝統的なユダヤ教の教えとは異なっているので、イエスに従って来た多くの人がイエスは「メシア」であるかもしれないという彼らの期待を失い、イエスから離れ去りました。そのとき、イエスは弟子たちに対して、「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられましたので、シモン・ペテロは弟子たちを代表して次のように申しました。
 「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)
 このように十二弟子たちは主イエスに対して「あなたは永遠の命の言葉をもっておられる方です」と告白しました。それにも拘らず、弟子たちはこの時点ではまだ神の御子イエスの人格を十分には理解していませんでした。
 なぜならば、彼らはイエスを「主」と呼んでいますが、それは「先生」と言う意味で、先生に対する尊敬を表した呼び方なのです。イエスが人類を罪から贖うためのご自身の死を全うし、父なる神から復活させられ、神の主権を譲与され、神の全権を委任されたときに、イエスは初めて神の国の支配者となられ、神の御子イエスに「主」という称号を父なる神から与えられたからです。
 従って、そのとき初めて弟子たちは「イエスは主である」と告白することができたのです。言い換えれば、弟子たちが「イエスは主である」と告白した時点で、初めて父なる神からこの世界に遣わされた神の御子イエスの働きは完成したのです。
 今わたしたちがマルコによる福音書から知らされる神の御子イエスは、未だ主ではなく、父なる神から与えられた最大の使命である人類の罪を贖う十字架の死に向って行かれる過程のイエスの姿なのです。そのような方として、弟子たちに永遠の命に至る道を示し、「わたしに従って来なさい。」と命じられました。

(3)価値観と人生観の転換
 ここで、イエスは次のように仰せになりました。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)
 実に逆説的なこの命令は何を意味しているのでしょうか。人が神から与えられる「真の命」に生きる道を歩むために、次の点が必要であることを示しています。
 第一は、自分の価値観、自分の人生観を転換することです。人はそれぞれ自分の価値観、人生観を持っていますが、主イエスによって示された価値観、人生観を信じ、受け入れることです。
 人は皆それぞれの価値観と人生観を持っています。そして真の命を得ようとしています。言い換えれば自己達成を目標としています。しかし、その人生は有限であり、その終着点は死です。だれも死を越えて生きることはできないと言う厳然たる事実が、自己実現が不可能であることを示しています。
 それに対して、主イエスが示された価値観と人生観は、人間とこの世界の創造者であり、救済者である神の御心を知り、それを実行することによって、神の御前に永遠に生きることを可能にする生き方であるとイエスは仰せになっているのです。
 第二は、主イエスの命令はそれを実行することができる力をわたしたちに与え、わたしたちがその力を用いて、実行する環境を既に備えているということを知ることです。
 なぜならば、主イエスはご自分が行わないことを、人々に行わせようとは決してなされないのです。これは人々が従っていくことのできる指導者の特質です。ファビウスという有名な古代ローマの将軍は、困難な地点をどのように攻略するかを参謀たちと考えていました。ある参謀は一つの作戦を示して、これを行うためには数人の犠牲者を出すだけで十分であると言いました。そのときファビウスはその参謀に、「あなたが進んでその少数者になれるか」と問い糺したと言うことです。主イエスは、「一将功成りて、万骨枯る」というように、自分が背後の陣営にいて、部下の命を将棋の駒のようにもてあそぶような指導者では決してありません。
 主イエスに従う道はたしかに困難であり、犠牲を払うことが必要でありますが、それは真の命を得させる方法なのです。何よりも先ず主イエスご自身がその道を歩まれたからです。

(4)わたしの内に働く主イエス
 最後に、わたしたちは生まれながらの人間としての罪に束縛され、神に反するこの世の思いに生きていた者が、主イエスに従うことによって、自己を日々乗り越え、主イエスの性質を映し出す「神の子」としての思いと行いに生きることを日々体験するのです。
 このとき人は使徒パウロのように、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と、言えます。
 なぜならば、今やご自身の十字架の死による犠牲によって、人類の罪を贖い、復活し、父なる神の主権の委任を受けた主イエスは、地上で活動をしておられたときに、必然的に伴っていた人間としての制限から解き放たれ、神としての働きをすることが全面的に可能となりました。それゆえ今や主イエスは神としてわたしたちの中に臨在し、神として働き、わたしたちを導き、わたしたちが主イエスに従い、主イエスの復活の命を受けて、神の御心を実行するようにされるのです。
 それゆえ、永遠の命に至る人生とは、主イエスに従い、主イエスがその人の中に働き、導かれる人生です。要するに、永遠の命に至る道は、主イエスを信じて、主イエスにどこまでも従うことです。
 この道の終着点で、「人は誰でも、永遠の国に復活させられ、神と共に存在し、主イエスの義と命と聖とを授与され、主の性質を映し出す人間となり、神の栄光を賛美しつつ、永遠に生きる」のです。



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