2016-09-11(Sun)

モーセの召命 2016年9月11日の礼拝メッセージ

モーセの召命
中山弘隆牧師

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
出エジプト記3章11~15節


 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
ヘブライ人への手紙11章23~29節


(1)人格的な神
 本日の聖書の箇所には、旧約聖書で最大の預言者と見なされているモーセの召命について記されていますが、ここには聖書の信仰の特徴が明瞭に現れています。
 ある日モーセは羊を飼いながら、ホレブの山深くに入って来たのですが、辺り一面が岩場で、たまたまそこに生えていた柴の木が太陽の強い光を受けて燃え上がっているのを見つけました。ホレブの山ではそういう光景に時々出会うことがありまので、その地方の人々は余り気にしません。しかしそれとは違った反応を示す人がいます。普段よく目にする現象でも驚きと好奇心をもって注目します。 
 モーセの場合も同様でした。彼は柴の木が燃えているのに、なかなか燃え尽きないことを不思議に感じたのです。何か深い理由があるに違いないと思い、それを見極めようとして道から逸れて燃えている柴に近づきました。
 するとそれは些細な火事ではなく、特別の出来事であることが判明しました。神が炎の中からモーセに呼びかけられたのです。
 「主は道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の中から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。」(3:4)
 人は自分の名前を呼ばれることにより、自分と出会っている人を人格として自覚します。実に神が炎の中からモーセの名を呼ばれたことによって、モーセはここに神が臨在され、自分に話しかけておられることを意識しました。
 モーセはこの呼びかけに応答して、「はい」と答えました。そのとき神との対話が始まったのです。神はこの対話の中で、ご自身を「わたし」と呼び、モーセを「あなた」と呼んでおられます。明らかに「わたし」と「あなた」という関係がここに成立しています。
 この関係の中で、人は初めて自分が人格的な自由と責任を持っていることに気付くようになります。子供が自我に目覚めるのは、大人や周囲の人々との様々な関係を通して可能となります。しかし、人間同士の関係では、自分の都合の悪いことは隠して、自分の都合のよいことだけを語る不誠実な態度を取ったり、また故意に偽ったりするので、十分な人格的自覚が育ちません。
 利害の観点から、対人関係を見る者は、「我と汝」の関係でなく、「我とそれ」との関係です。哲学者マルチン・ブーバーは「我と汝」との関係は、「我とそれ」との関係と質的に異なると言っています。「汝」は「それ」を超えた独自の人格であると言っています。それにしても、人間を超えた真に人格的な存在である神から、人間は「我と汝」という関係を与えられる時に、人格的意識が生まれるのです。
 このようにわたしたち人間に対して、わたしたちを超えた絶対的な他者でありながら、しかも「我と汝」の関係のなかで語りかける方が生ける神であり、唯一の本当の神様です。

(2)アブラハムの神
 次に、5節ではこのように記されています。
 「神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』
 ここで足から履物を脱ぐということは、頭から帽子を取るのと同じように、相手に対する尊敬を表す態度なのです。乾燥し灼熱の太陽に照りつけられた砂漠では、帽子をとることは極めて危険なので、履物を脱ぐ習慣があります。今日でもイスラム教のモスクの礼拝堂に、人は履物を脱ぎ、素足で入ることになっています。
 要するに、ここで神は「聖なる方」であることが示されました。言い換えれば、神は人間を超えた存在であることを示されたのです。その最も基本的な要素は、神の力です。当時の世界を制覇し、イスラエルの民を奴隷として酷使していたエジプトの王の力を遥かに超えた力を持つ方、そしてエジプトの王が体現している神々の力をはるかに越えた力を持つ方であることを示されたのです。
 このことはモーセと出会われた神に、モーセが「あなたの名」を教えて下さいと願ったときに啓示されました。旧約聖書の信仰者は神のみ前に立つ時、自分の罪を意識し、罪深い自分は死ぬという恐れを感じました。ところで神の名とは神の本質と力と臨在とを示すものであり、神の名は最も神聖な現実なのです。それゆえ旧約聖書の神の名である「ヤーウェ」の正確な意味は今日まで伝わりませんでした。なぜならばヤーウェとはヘブライ語では四つの子音と四つの母音から構成されていますが、神様がモーセに啓示された「神の名」は余りにも恐れ多いので、子音だけの「聖なる四文字」として今日まで伝えられています。母音が付いていませんので、読み方は現在も分からないのです。
 従って、旧約聖書では聖なる四文字を、「主」(アドナイ)という別の言葉で「読み替える」ようにしています。主とは民と世界全体の主権者という意味です。
 他方、ここでは聖なる四文字の解釈がされています。
 「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ。』と言われた。」(3:14)
 それゆえ、「ヤーウェ」とは「自ら存在する者」であり、他の者によって存在しているのではない「絶対的な存在者」という意味です。従ってご自身以外の万物を無から存在へと呼び出す創造者です。このような人智を遥かに超えた知恵と力を持っておられる神様ですが、神の本質は愛であるので、人間を御心にかけ、恵みの対象として、ご自身を人間の「主」とされました。それゆえ、神様は人間の歴史の恵み深い支配者なのです。
 このような主権者である神が、ご自身をまた次のように言い表されました。6節で仰せになっています。
 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(3:6)
 今モーセにヤーウェとしてご自身を啓示された神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると仰せになりました。これはどういう事かと言いますと、ヤーウェは人類に対する恵み深いご自身の目的を持っておられ、その目的を実現するために、歴史を通して働いておられるという意味です。モーセに対して、わたしはこれまであなたたちの先祖のアブラハム、イサク、ヤコブを愛の対象とし選び、救いを約束し、彼らが神に従う「神の民」となるように導いて来たのだと仰せられたのです。
 なおヤーウェは同じ目的を追求し、さらに前進させ、ヤコブの子孫である「イスラエル」の主権者としてこれから行動するとモーセに語られました。

(3)神の救いと民の形成
 次にその御言葉が3章7~10節に記されています。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。----今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(3:7~10)
 ここで、神はエジプトにいるイスラエルの民の過酷な労働条件、彼らの痛み、呻きを知っておられ、彼らを救出し、彼らをご自身に仕える神の民とすることを決意されたのです。そのため神はモーセにご自身を現わし、彼を「神の事業の僕」として立てられました。 しかし、モーセは信じませんでした。彼は言いました。
 「わたしは何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」(3:11)これは自分がそのような神様の事業をするに相応しい者ではありませんという謙遜な態度ではなく、むしろ不信仰と挫折によるのです。と言いますのは、モーセは十数年も前に、同胞であるイスラエルの人々を救おうとしたのですが、彼の真意を同胞は少しも理解しなかったため失敗した苦い経験があるからです。
 それに対して、神はイスラエル救出の事業は、モーセの事業ではなく神の事業であるゆえ、事業を遂行するためにモーセは徹底的に神中心的でなければならないと教えられたのです。そこで、神はモーセに次のように仰せられました。
 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたがたはこの山で神に仕える。」(3:12)ここで、神がモーセと共におられるということが、神がモーセを遣わされることの印である、と仰せになっています。しかし神が共におられることは、神が人間の目に見えない方ですから、見て分かるという事柄では決してありません。それではどういう意味でしょうか。
 それはモーセが出エジプトという歴史的事業は神の事業なのだと信じること、そしてどのような困難な事態が起ころうとも信じ通すこと、自分は神の道具に過ぎないことを心に銘記しながら、忠実にその務めを果たそうと努力する限り、神が共にいてくださるという意味です。見えない方を見ているように神の働きを信じ、どこまでも忍耐して、従っていくことです。
 モーセはこのことがようやく理解できましたので、神の命令に従って、エジプトの王ファラオと対決することになりました。そのクライマックスは14章に記されている「葦の海」での奇跡でした。
 夜間エジプトを脱出したイスラエルの民は、ファラオの軍隊に追跡されましたが、葦の海に来たとき夜が明け、もう逃げられないという危機的状況の中で、神は強い東風を吹かせて、海水を沖に押しやり、そこをイスラエルの民が徒歩で渡りました。他方、エジプトの軍隊も同じように干上がった海の中まで追跡しましたが、重装備のエジプト軍は泥に戦車の車輪がはまり、立往生をしてしまい、引き返そうとしました。しかし時すでに遅く、海水が逆流してきてファラオの軍隊は全滅したのです。そのようにヤーウェは、全能の力を発揮し、イスラエルをエジプトの奴隷から解放し、神に仕える神の民とされました。
 これは歴史的事実であり、神の主権が力を発揮した事件でした。ここにヤーウェは全人類と世界史の主権者であることが啓示されたのです。実にこれこそ聖書の信仰の中心点です。

(4)シナイ山における神の顕現と律法の授与
 次に神の強力な御手によって、エジプトの王ファラオの奴隷から解放されたイスラエルの民はシナイ山に到着し、聖なる神と出会いました。そのときシナイ山に神が降り、山頂に臨在されました。山頂は火山のように火が空高く燃え上がり、雷鳴が轟き、周囲は黒雲に覆われました。そのとき神はモーセに山へ登ってくるよう命じられ、モーセは山頂に登り、そこで神の言葉を聞きたのです。
 それが十戒を中心にした神の命令です。信仰的、道徳的、社会的規定です。さらに礼拝に関する規定です。これらは出エジプト記20章以下に記されています。
 ところで、モーセが旧約聖書における最大の預言者であると言わる理由は、モーセは神の御前に出て、神が彼の心に直接御言葉を語られ、彼がその御言葉を理解したことです。出エジプト記33章11節に次のように記されています。
 「主は人がその友に語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」と述べています。これは幻や徴によってではなく、心に直接神の言葉を語られたのです。
 しかし、モーセだけではありません。他の偉大な預言者たちも、神との人格的な交わりの中で、神の言葉を聞き、理解し、神の言葉を語りました。その深い理由は、モーセを初めとして預言者たちには神の霊、すなわち聖霊が働いたからです。
 但し、旧約における預言者たちに聖霊が働いた期間は、彼らが預言者として活躍した間だけに限定されていました。

(5)応答としての信仰生活
 最後に神がイスラエルに与えられた契約はイスラエルを神の民とするという内容であり、同時に契約の中で律法が与えられました。従って、律法は神の恵みに応答する民のあり方を命じています。しかし、決して律法主義的な戒律ではなく、あくまでも神が与えられた救いと神との人格関係の中で、民が恵みに応答することを欲する神の命令です。
 さらに応答を本当の意味で可能にするため、神は究極的な救いを与えられました。それが、神の御子イエスの十字架の死と復活によって、父なる神がご自身の主権をイエスに授与され、イエスは主イエス・キリストとなられたことです。その結果、神の民が神に従う生き方が可能となりました。
 その深い理由は、主イエスを通して、聖霊がキリスト教会に与えられたからです。それゆえキリスト教会が旧約聖書で約束されていた神の民となったのです。



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