2016-09-04(Sun)

心の戸を叩く主 2016年9月4日の礼拝メッセージ

心の戸を叩く主
中山弘隆牧師

 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
サムエル記上3章6~10節


 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
ヨハネの黙示録3章14~22節


(1)黙示録の性格
 今朝はヨハネの黙示録から、御言葉を聞く者でありたいと思います。そこで、先ず注意しなければならない点は、ヨハネの黙示録は他の黙示文学と呼ばれる書物のように理解しがたい比喩や暗示を沢山に使用していますが、ヨハネ黙示録の考えは、黙示文学的思想ではないということです。なぜなら、黙示文学の世界観によれば、今の時代はサタンとその勢力がこの世界を支配しているが、サタンの勢力が打ち破られ、神の直接統治される永遠の国が、今にもすぐに実現するというのです。そこで、この試練の時代に信仰を堅持する者が永遠の国に入ることができるという主張です。
 それに対して、ヨハネの黙示録の目的は十字架の死と復活によって、主イエス・キリストが今や既に、全世界と全人類に対する唯一の主権者となられたことを、告白し証することです。
 当時のローマ帝国は、自己を絶対化して、ローマ皇帝カイザルを神として礼拝することを国家権力によって強制した暗黒の時代でした。その暗黒の時代において、主イエスは唯一の主権者であるゆえに、主に従う信仰の歩みを堅持するように励ましているのがヨハネ黙示録なのです。
 従って、ヨハネ黙示録の著者は使徒ヨハネではなく、信仰のためにパトモス島に島流しの刑を受けたクリスチャンであり、初代教会の時代に活躍した預言者たちの一人であったと見られています。
 この点についてヨハネは1章9節で証しています。
 「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証のゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」
   
(2)ラオディキア教会への手紙
 ここに小アジア(ローマ帝国のアジア州)にある七つの教会の一つ、ラオディキア教会に宛てられた手紙があります。
 「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くもなく冷たく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っているが、自分が惨め者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』」(3:14~17)
 これは死人の中から復活し、神の右に坐し、神の力を持って教会と世界の諸国家を支配しておられる主イエス・キリストの言葉です。言い換えれば、復活の主イエスが聖霊を通して語られた言葉です。
 それゆえ、聖霊を通して主イエスの御言葉を聞いたので、ヨハネは小アジア州の諸教会で預言者として認められていました。
 次に、「アーメンである方」とは「真実な方」という意味です。
 なぜならば、人間に対する神の真理が御子イエスの中で有効に働き、人間に対する神の目的が最後まで貫徹しましたので、御子イエスは「真実な方」なのです。それゆえ、神の真理の啓示者であり、神の証人なのです。
 次に、主イエスが「神に創造された万物の源である方」と呼ばれています。「源」というギリシャ語は「起源」または「支配者」という二つの意味があります。起源と言う意味ではすべての被造物が「神の言葉」である神の「御子」を通して創造されたことを表しています。それゆえ御子・主イエスは万物の源なのです。また、「支配者」と言う意味では、復活の主イエスが罪と死に対する勝利者として、天上で「神の支配」の座に着いておられることを表しています。
 この主イエスがラオディキアにある教会に、あなたがたは自分の信仰生活に満足しているが、霊的な面では非常に乏しい状態であることに気づいていないと厳しく警句しておられるのです。
 聖書註解書の説明では、当時ラオディキアの町は、黒い光沢のある羊毛の織物業が盛んであり、またフリギア・パウダーから造った目の塗り薬で有名であったそうです。さらに銀行業務の発達していた商業都市でありました。このためラオディキアの人々は自分たちが神様から祝福を受けているという高慢な考え方をしていたのでしょう。しかし、そのような自己満足は信仰の面からすれば虚偽であり、彼らの霊的な状態は非常に危険な兆候を示していました。
復活の主は「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と厳しい警告をされています。生ぬるい水は吐き気を誘うように、生ぬるい信仰に主は我慢できないのです。「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と言われるのです。
 これはどういうことでしょうか。信仰が実質的に働かず、居眠りをしているのに、自分は神を信じているので、神の祝福を受け、生活が安泰であると自己満足していることです。それは神の御心に従うことを一番の喜びとし、そのために真剣に努力する態度とは程遠い状態です。
 クリスチャンが道徳的な面で神から教えられ、実行を命じておられる事柄に対して熱心であっても、「自分の力と努力」によって、ほどほどに実行しているならば、次第に神との人格的な交じりが疎遠になり、霊的な事柄が理解できなくなってしまいます。そこには神の働き、霊的現実、聖霊を通して働く主イエスの恵みが欠如したいわば「塩気のなくなった」塩と同じ状態になってしまいます。そういう状態からクリスチャンが目を覚まし、主イエスとの人格的な交わりの中で与えられる霊的な命を受けて、真剣に主イエスに従う生活へと呼び戻そうとされているのです。そこで復活の主はこのように仰せになりました。
 「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(3:18)
 この火で精錬された金とは、人間を本当の意味で豊かにするもの、「霊的な命と賜物」を意味します。また迫害に耐え抜く「熱い信仰」を意味しています。このような霊的な命と熱い信仰はわたしたちが自分の力では持つことができないのですが、復活の主イエスはわたしたちにそれを与えてくださると約束し、主に求めなさいと勧められるのです。
 「わたしから買うがよい」とは、ただで買うという意味で、わたしたちが真剣にしかも喜んで主に求めるならば、主は喜んでお与えになるのです。また、身に着ける白い衣とは、迫害に勝利した信仰者が永遠の国で身に着ける衣を表しています。ヨハネの黙示録はこの白い衣を「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血(イエスの十字架の血)で洗って白くした」と説明しています(7:14)。
 さらに復活の主イエスは、信仰者に訓練を与えられる恵み深い支配者であることを、ここで明らかにされました。これはクリスチャンにとりまして非常に意義深い御言葉です。
 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に務めよ。悔い改めよ。」(3:19)
 しかし注意すべきことに主イエスは「生ぬるい信仰者」でも愛しておられると言うのです。それゆえ信仰者を鍛えようとしておられるのです。「だから熱心に求めよ。悔い改めよ。」と仰せになるのです。要するに試練において神はわたしたちの信仰を訓練し、信仰が生きて働くようにしてくださるのです。
 ヨハネの黙示録の時代は、先ほども説明しましたように、主イエス・キリストだけを礼拝し、ローマ皇帝カイザルを主として礼拝しなかったクリスチャンが迫害を受けた時代です。実に迫害が約二百年に及んだ嵐の時代でした。そのとき復活の主イエスがクリスチャンに信仰を堅持するため悔い改を命じられたのです。
 ところで「悔い改める」というと自分の罪を自覚し、神に懺悔し、罪の赦しを祈ることだと考えている人が多いと思います。それは確かに間違ってはいないのですが、それだけでは不十分です。
 ハイデルベルグの信仰問答では次の二点を強調しています。
 「問88:人間のまことの懺悔、悔い改めは、いくつのことから、成り立っていますか。答え:二つからです。古い人が死滅することと、新しい人が復活することです。」
 「問89:古い人が死滅するとは、何ですか。答え:心から罪を悔い、神の御心に反する行いから脱出することです。」
 「問90:新しい人の復活とは、何ですか。答え:キリストによって、心から神に従い、喜んで善い行いをすることです。」
 さらにこの二つのことは、クリスチャンが信仰の生涯を歩む限り絶えず繰り返す必要があります。言い換えればそれが「信仰の訓練」なのです。このようにして、わたしたちの信仰が強められ、わたしたちは聖化され、キリストの性質を映し出す者となって行きます。

(3)クリスチャンの中で働かれる主イエス
 最後に、復活の主は絶えずわたしたちの身近におられます。信仰の戦いの戦場の只中におられます。そして復活の主はわたしたちを外から包み、わたしたちの目を開かせようとしておられるのです。
 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)
 わたしたちの戸口に立って叩いておられるとは、わたしたちの中にはおられないけれども、主イエスはわたしたちと対面し、わたしたちの中に入るため、わたしたちが主に対して心を開き、主を心の中に迎え入れるように呼びかけておられるのです。
 この呼びかけを聞き、心の扉を開けるならば、復活の主イエスは神としての働きを通して、わたしたちの中に入り、内住されます。
 そのとき主がわたしたちと共に食事をしてくださいます。これは比喩的な表現ですが、主イエスとの人格的な交わりにより、主イエスの義と命がわたしたちの心に豊かに供給されることを意味しています。さらに主イエスの考えと行動の仕方が、聖霊を通してわたしたちの心に直接刻み込まれるのです。石の板ではなく心の板に、単に文字ではなく、生ける主イエスの言葉と思いが伝達され、理解されるのです。
 そのとき、主イエスの思いがわたしたちの思いとなり、わたしたちは心から喜んで、主に従い、主の命令を実行することだけを自分の最大の願い、唯一の目標とします。そのとき、主イエスの命と自由がわたしたちの中に豊かに働きます。
 そのようにしてわたしたちの決断と行動とを通して、わたしたちは主イエスの御足の跡に従うことができるのです。言い換えれば、これは「わたしたちの信仰の戦いと神に従う人生の中」で主イエスご自身が働いておられると言うことです。
 これが「キリストにあって」歩むということです。新共同訳聖書ではこのことを「キリストと結ばれて」歩むと訳しています。ともかくこれが聖霊を通して与えられる主イエスとの人格的な交わりの中で生きるクリスチャンの生き方です。さらに「キリストにあって」とは「聖霊にあって」とも言われます。
 それはわたしたちの魂が主イエスの支配される霊的な領域に入れられる時、そこに充満している霊的生命をあたかも空気を吸い込むように魂が吸い込むという意味です。ヨハネの黙示録はこのことを主イエスと共に食事をするという比喩で表しています。
 さらに聖霊の働きは、主イエスが父なる神の栄光の現れることだけをひたすら求め、父なる神の意志を喜んで実行されたように、「わたしたちは喜んで主に従うことです。わたしたちが主の思いを持っている。喜んで主に従っている。喜んで主の命令を実行している。」これが聖霊の働きなのです。つまりわたしたちが主の中に既に与えられている「新しい人間として生きること」が聖霊の働きなのです。
 実にこのことはキリスト教会がローマ帝国の激しい迫害に耐え、勝利した秘訣です。それ以前の時代では、聖霊についての理解は様々な霊的賜物に重点が置かれていました。しかしヨハネの黙示録時代になって、使徒以後の指導者が多く殉教しましたが、異言を語ることやその他の奇跡を行うことは「殉教の力」になりませんでした。
 実に迫害に耐える力はクリスチャンの中に働く主イエスの義と命と自由であり、愛であり、道徳的な力でした。それが聖霊の働きとして理解されるようになったのです。このようにしてクリスチャンは信仰の訓練を受け、主イエスの主権を体験し、主を賛美しました。



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