2016-08-28(Sun)

キリストの証人 2016年8月28日の礼拝メッセージ

キリストの証人
中山弘隆牧師

 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
イザヤ書44章6~8節


 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
ペトロの手紙一 3章13~16節


(1)礼拝において主と出会う
 クリスチャンについて先ずいえることは、主イエスと結ばれて、神から自分が愛されていることを知っている者たちです。新共同訳聖書では、「主イエスと結ばれて」と表現されている元の言葉は、「キリストにあって」という意味ですが、これはキリストとの存在的な深い関係で結ばれていることを表しています。
 ペトロの手紙一の1章8節で、使徒ペトロはクリスチャンについて次のように言っています。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
 ここで、クリスチャンが言葉では言い尽くせない喜び、素晴らしい喜びに満ち溢れているとは、神の栄光を反映させる輝かしい喜びを抱いているというのです。それは主イエスを信じることによって、魂の救いを与えられているからであるとペテロは言っています。
 魂とは「身体的な命」という意味がありますが、ここでは「自分自身」「人格」「人の一番奥にある存在」という意味です。自分の振る舞いや理解の点ではキリストの救いはまだ十分に現れていなくても、その人自身は救われているという意味です。
 人間として一番内部で救われているという霊的な現実、リアリティは主イエスに愛され、自分も主イエスを愛しているということです。但し、聖書でクリスチャンが主イエスを愛するというのは、自分の思いと力で愛するのではなく、主イエスに心から従っていることです。主イエスに対する従順、これこそクリスチャンが主を愛することです。その時、主イエスの愛が心からあふれ出て、周囲の人々に向かって、クリスチャンの隣人愛として働くのです。このことを宗教改革者ルターは流れ出る主の愛と呼び、絶えずそのことを経験していました。クリスチャンが主イエスに愛されているということは、クリスチャンが自分の中に働いている神の愛を以て隣人を愛することです。
 このような神の愛とは、神の御子イエスが全人類を罪の束縛から解放するために、ご自身を十字架の死において全人類に与えられた贖罪愛です。今やイエスは復活し主となられたことにより、イエスの愛がクリスチャンの心の中から溢れ出るようになったのです。
 それは真に父なる神が御自身の主権を復活された御子イエスに譲与されたからです。主とは神としての働きと支配を表す言葉です。勿論イエスは誕生のときから神でした。人間となられた神でした。しかし、神の主権がイエスに授与されたのは、父なる神がイエスを復活させ、イエスを神の右の座に着かせられたからです。
 このことによって、御子イエスが地上の生涯において人類の罪を贖い、ご自身の義と聖と命を人類に与えることによって、救いを達成されたその救いが、初めて有効となったのです。効力を発揮したのです。正に、これが御子イエスの地位と働きの決定的転換点です。
 この転換点を、使徒ペトロはペンテコステの日に行った福音宣教の中で明らかにしています。それは使徒言行録2章36節です。
 「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 正に、このことを信じるのが信仰であり、誰でも人は信仰によって救われるのです。それゆえ、主イエスは今や神の全権を授与されて、いつでも、どこにでも、臨在し、ご自身を現わされ、信仰者と出会われます。但し、神として出会われる主イエスの姿は、御子イエスの神性の背後に隠れていますので、人間の目には見えません。それでも神として出会われる主イエスは地上におられたイエスと同じ方です。このことが救いの根拠です。それゆえ目に見えない主イエスを信じて、主イエスと出会うことを喜ぶのがクリスチャンです。
 従って、今や神の主権をもって働いておられる主イエスは仰せになっています。マタイによる福音書18章20節の御言葉です。
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 従いまして、クリスチャンが自分一人ではなく、皆で集まるところに主は来られ、臨在し、語り、恵みを与え、出会い、命令されます。その出会いによって、クリスチャンは主イエスに従う人生を日々歩み続けることができるのです。
 ところで、初代教会のクリスチャンは礼拝に集まって、マラナ・タ(主よ、来てください)と祈りました。その時主イエスは来て、ご自身を示し、ご自身の恵みを与え、主に従い、御言葉を実行するように命じられたのです。勿論、主イエスの臨在と働きは人間の目には見えませんが、確かにそこに出来事として生起しているのです。正にそれこそ神の働きで、ここに礼拝の最高の喜びがあります。
 それでは、わたしたちが礼拝において、主イエスと出会うとき、何が起こるのでしょうか。使徒パウロは次のように教えています。
 「兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)
 ここで体とは身体という意味ではなく、現実に人間として生きている具体的な自分という意味です。自分の思いは手足を使うことによって、実行できます。また行為が自分の思いから出ているときにその行為によって自分を現しているのです。そういう意味でパウロは自分のすべてを神に献げなさい、それが礼拝であるというのです。
 従いましてわたしたちは礼拝の中で、主イエスと出会って、自分の思いと態度が常に主によって正されることが重要です。この世の思いに染まっている自分が、主イエスの思いと行動と性格に見習うことにより、何が神の御心であり、何が善あるかを知るようになることです。つまり、礼拝によって自分が新しくなり、自分が変革され、自分の全体を神に献げるのです。
 ここから、主イエスに従い、神の御心を実行する生活へと遣わされるのです。ところで礼拝が生活とつながっていなければ、礼拝の意味は分かりません。繋がっていれば、クリスチャンの心の中に主イエスの愛が沸き起こり、隣人に向かって神の愛を実行し、隣人と共に神を賛美するのです。他方、このような主イエスの働き、恵み、支配、導きは目に見えない神の働きです。しかしその現実、リアリティをクリスチャンは信仰によって、聖霊によって認識するのです。
 それゆえ、わたしたちは喜んで礼拝に共に集まるのです。喜んで熱心に祈るのです。わたしたちは主よ、来て下さい。わたしたちに主の御心を教えて下さい。主よ、わたしたちに命令を実行させてくださいと祈り、そして喜んで実行するのです。つまり、わたしたちは、喜んで祈り、喜んで主の御言葉に聴き、喜んで主の命令を実行するのです。
 そのとき十分でなくても実行できることを感謝し、神の恵みを一層深く知り、神の愛がわたしたちの中に働いていることを知り、神を賛美するのです。これが復活の主イエスと結ばれているクリスチャンです。

(2)主イエスに対する告白と従順
 次に、主イエスはクリスチャンの心と生活の中に働き、心と行動と性質を支配しておられる方です。この点が主イエスの働きの第一の点です。しかし、それだけでなく、神の主権を授与された主イエスは、この世界と諸国家の主です。これが主イエスの働きの第二の点です。二つの支配が初代教会のクリスチャンの確信であり、信仰の試練の中で大きな力と慰めをそこから受けた所以です。
 具体的に言えば、クリスチャンはローマ皇帝カイザルを拝まず、主イエスを礼拝したことです。ローマ帝国は当時の世界を統一し、支配していました。その結果、ローマ帝国に属する諸民族が元来持っていた宗教と礼拝に対して寛容な政策を取っていました。但し、諸民族が礼拝する諸々の主に対して、カイザルはそれらすべての主の上に立つ主であることを認める限り、寛容でした。それに対して、キリスト教だけが、絶対にカイザルを主と告白せず、カイザルを礼拝しませんでした。そのため、多くのクリスチャンが殉教しました。なぜならば、主イエスの支配は主イエスに従属する諸々の主を通して働くいわゆる位階制ではなく、ご自身が直接支配されるからです。
 西暦155年に、異教徒からも尊敬されていた小アジアのスミルナ教会の監督ポリカルプスは86歳で殉教しました。彼は使徒ヨハネの弟子であり、ヨハネと20数年の交わりを持っていました。彼を処刑したローマの総督は愛に満ち、有徳のポリカルプスを大いに尊敬し、何とかしして彼を助けるために言いました。
 「この際、カイザルは主であるというだけで、すでに悪いことなのか。」とポリカルプスに尋ねました。ポリカルプスは「わたしがこれまで仕えてきた主イエスから体験したことは恵みと憐れみ以外の何物でもなかった。わたしは主イエスを裏切ることはできません。」と言って死に赴いたのです。
 彼は喜んで火刑に処せられ、燃え盛る炎のなかで、主はわたしを主の苦難に与るに相応しい者と見做してくださったことを感謝します。聖霊によって主はわたしを復活させられますと言って、神を賛美して死にました。このように初代のキリスト教徒は主の主権を信じ、証ししたのです。
 それに対して、明治以来、日本のクリスチャンはイエスの主権を本当の意味で告白しませんでした。勿論天皇が神でないことを知っており、天皇を礼拝することはなかったのですが、国家が強制する儀礼的な宮城遥拝を、教会の礼拝において行いました。そして天皇に対する主の助けを祈り、敵国に対する勝利と国家の繁栄を祈ったのです。そのため非国民という非難を免れましたが、これは主の主権を理解していない証拠です。
 主の主権の範囲は二つの同心円です。内部の円が教会であり、外部の大きな円が国家なのです。教会は救いの秩序の中で、主の主権が行われている信仰共同体です。国家は神の創造の秩序の中で、主の主権が行われている社会的共同体です。主イエスの十字架の贖いにより、国家の中に働いている可視的及び不可視的な神に反抗する諸勢力は打ち破られ、その支配権を失っています。その現状は目に見えない諸勢力はまだ国家の中に残っているにも拘わらず、既に主イエスの支配下に置かれているということです。従って、教会は主の主権を告白し、国家が創造の秩序の中で、与えられている使命を果たすように祈り、主の主権を証しなければなりません。

(3)クリスチャンの希望を証する
 最後に、ペトロはローマの迫害が迫る中で、クリスチャンに勧めています。3章15~16節で次のように言っています。
 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」
 この世の人々は、自分の目的を果たし、自己実現したことを誇り満足していますが、死によって終わる人生の厳しい現実の前で、自分が空しいと感じています。それは永遠の世界に生きる希望がないからです。それに対して、主の主権を信じ、主の主権の中で、主に従っている者は極めて明確な希望を持っています。
 終わりの日に神によって復活させられ、主イエスと出会い、主イエスを目の前に見る希望です。同時にその希望は万民が主イエスの救いを受けて、神の御前に永遠に生きるということです。さらに国家や社会、すなわち創造の秩序のもと人間が労苦した業も清められ、神への感謝の献げ物となって、永遠に存在するということです。
 クリスチャンの希望とは自分たちの思いと力による達成ではなく、神が人間の中で働き、人間の思いと行動を支配されることによって、完成する救です。すべての人間と世界が、救われ、主イエスの義と命に満たされたものとして、神の栄光を賛美することです。
 これが人間と世界の究極目標です。キリスト教は未来に開かれた宗教で、その絶対的未来とは主イエスであり、神ご自身です。



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