2016-08-21(Sun)

新しい人間として 2016年8月21日の礼拝メッセージ

新しい人間として
中山弘隆牧師

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31章33~34節 


 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章4~10節


(1)神の愛の対象としての人間
 本日の聖書の箇所を通して、わたしたちは神がわたしたち人間に対していかに深い愛と大きな恵みをもって、行動し、判決を下し、人間が神の御前に、神と共に生きる道を備えてくださったかを、今日もまた改めて知らされたいと願います。そして全身全霊をもってこの恵みに答える者でありたいと思います。
 人間は他の被造物とは異なり、自分自身が何であるかを知ることのできる唯一の被造物です。この点で、人間は「神の似姿」に創造されたと聖書は言っています。
 「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)
 このことは人間の願望による推測ではなく、神の御子イエスの生涯と十字架の死と復活によって明らかになりました。実に御子イエスこそ、神のもとからわたしたちの世界に遣わされた方であり、人間となられた神であります。この御子イエスによる人間の救いを通して、神はいかなる方であるか、そして神の愛の対象とされている人間はいかなる者であるかが明らかになりました。
 エフェソの信徒への手紙1章4~5節で、神様は人間に対する永遠の目的を主イエス・キリストの救いを通して啓示されたと言っています。
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛し、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(1:4~5)
 ここで神様はわたしたち人間を愛し、天地創造の前から、人間を主イエスにおいて、御心に適う「聖なる人間」にしようと欲し、かつ選ばれたのだと、聖書は言っています。
 但しこのような認識は、主イエスの救いの光の中で、過去を振り返り、創造の原点に立って、神の永遠の目的が人間をご自身との交わりの相手として選ばれることであった、と言えるのです。

(2)神との和解
 次に、そのような神の愛と永遠の目的による人類の救いは、神の御子イエス・キリスト、すなわち真の神であり、真の人間である方を通して実現した神との和解の中にあります。このことについてはエフェソの信徒への手紙2章が語っています。
 但し、神の究極的な救いは歴史を越えた永遠の世界において初めて完成する性質のものであり、歴史の中では完成しません。しかしそれだけでなく神様が与えてくださった「現実的な救い」は歴史の中ですでに開始しています。そのことを聖書は、神の御子イエスを通して実現した神との和解であると、2章16節で言っています。
 「(キリストは)十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架を通して敵意を滅ぼされました。」
 この聖句はイエス・キリストが人類を神と和解させられたことにより、人類の中で最も深刻に対立していたユダヤ人と異邦人とが和解し、両者が共に神の民とされたことを強調しています。
 この発言は、救いの歴史と関連しています。すなわち、救いの歴史は旧約聖書の時代に始まり、新約聖書の時代に完成しました。つまり神と民との関係について言えば、旧約聖書の時代は律法による古い契約に基づく関係であり、それは神とユダヤ人の関係でした。新約聖書の時代はキリストによる「神と人類との和解」に基づく新しい契約の関係であり、それは神とキリスト教会の関係です。
 それゆえ、聖書は異邦人であるギリシャ人に対して、2章13節で次のように言っています。
 「あなたがたは、以前は(神から)遠く離れていましたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって(神に)近い者となったのです。」
 これは、キリストの十字架の死と復活を通して、人間が神と和解させて頂いたことによって、キリストを信じる者はだれでも「神との人格的な交わり」の中で生きることを意味しています。それゆえ「神に近い者」とは神を礼拝し、神と出会い、神の恵みの中で、神に従う新しい生き方をしている者たちです。

(3)死から命へ
 次に、聖書はキリストによって人間に与えられた神との和解の内容を「死から命への移行」という視点から語っています。
 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。--わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(2:1~3)
 ここで「神の怒り」とは神の愛の反作用で、焼き尽くす火を意味しています。それは神との交わりから締め出された状態です。人間は自己中心的で高慢な者となったため、神との交わりから締め出され、自分の欲望のままに振る舞い、さまよっている状態です。
 これは人間の「肉体的な死」ではなく、「精神的な死」を意味しています。言い換えれば「肉や心の欲するまま」に行動することです。因みにパウロが言う「肉」とは肉体というのではなく、「神に反する人間の思いと振る舞い」を意味しています。悪い考えと行動です。
 問題は世間に蔓延している悪い思いや振る舞いそれ自身が善良な人々を堕落させ、悪の奴隷にするのではありません。そうではなく、 自分もやってみたいと思うとき、その誘惑が自分の心の中に入り、心に居場所を作るので、悪い思いと行動が自分の思いと欲望となります。自分もそうすることを喜ぶ人間となります。自分の良心では悪いことをしているのではないかという不安の念があっても、人の目を避けて悪を行うことを喜んでいます。その段階で、人はもう悪の力に束縛されているのです。
 しかし、助けは人間の中から来たのではなく、神の方から与えられました。実に神が主イエスの十字架の死と復活によって、人間をご自身と和解させられたことがその助けなのです。
 エフェソ人への手紙は2章4~7節でこのように言っています。
 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、--あなたがたが救われたのは恵みによるのです。キリスト・イエスと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
 御子イエス・キリストが神・人として、人類と連帯化し、人類の罪を負い、人類に代わって神の裁きを受けられ、御子イエスにおいて人類に対する神の裁きが完全に執行されました。その結果、神の御前で人間の罪は取り去られました。さらに、ご自身の真理と義を貫徹される神の裁きに対して、死に至るまで従順であった御子イエス・キリストによって、神の御前に生きる人間の義と聖と命が達成されました。それゆえ神は御子イエス・キリストを復活させ、天地万物の主とされました。同時に神は主イエス・キリストの中に神の御前に生きる人間の新しい存在を与えられたのです。新しい人間とは、言い換えれば、主イエスの義と聖と命を与えられた人間です。
 なお留意すべき点は、イエス・キリストの十字架の死によって、確かに神の御前でわたしたちの罪は取り去られましたが、わたしたちの中には罪が依然として残っているという事実です。それにも拘らず、神はわたしたちがイエス・キリストに結ばれて、新しく生き道を備えられたのです。これこそ神の与えられた和解の現実です。
 その結果、主イエスを信じる者は、罪に束縛され死と滅びに向かって歩んでいた道から、神の御前に帰る道へと方向転換を行うのです。この方向転換をして、神の御前に帰る道を歩むことが、実に神との和解の中で生きる人生の内容です。
 神が罪人を愛し、罪人を神の御前で生かすために、神様ご自身が御子イエスにおいて、このように人間と深く関わり、人間のためにご自身を与えられたのです。つまり、自分の罪に束縛されている罪人が罪に打ち勝ち、神に従い、善き行いと愛の業を行う人間として生きるために、神は主イエスの中で、人間を根本的に新しい人間とされたのです。この霊的な事実が神の愛であり、神の恵みです。
 次に、神の恵みを受領し、その中で神に従う道は主イエス・キリストを救い主として信じることによって開始します。同時に、主イエスを信じる者に聖霊が与えられます。聖霊によって人は主イエスと結ばれるのです。聖霊を通してクリスチャンは主イエスの中にある新しい人間として生き始めるのです。
 ここで新しい人間の働きは「信仰と愛と希望」であると言えますが、「愛と希望」を人は実行できても、いつまで経ってもその実行は不完全なままです。それに対して「信仰」は完全です。信仰は信じるか、信じないかのどちらかで、極めて単純であるからです。つまり神が主イエスの十字架の死と復活の出来事を通して宣言された神の判決を受け入れ、服従すること、これが聖霊による信仰です。
 従って、エフェソの信徒への手紙は、2:8節で、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。」と言っています。これこそクリスチャンが拠って立つべき「救いの岩」です。

(4)善き業のために
 最後に、2章10節で聖書は次のように言っています。
 「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、イエス・キリストにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです。」
 ここで、わたしたちは神によって造られた新しい人間である。しかも新しい人間は「イエス・キリストにおいて」造られていると言っています。さらに、わたしたちは主イエスの命令を聞いて、それを実行することができるために、その善い業も主イエスの中で既に準備されています。しかし、そのことはわたしたちが主の命令を聞いて、それを実行するならば、実際に実行できるということです。これを体験するとき、わたしたちの行う善い業は既に用意されていたのだと分かります。従って、わたしたちは神がすでに備えられた道を歩み、既に備えられた善い業を、実行すると言えるのです。
 これは何と言う幸いでしょうか。何という大きな恵みでしょうか。これこそ、日々新しく生きることです。そのことによって、主イエスの働き、主イエスの恵みをわたしたちは体験するのです。そして体験によって神の愛が分かるのです。これが主イエスに従うクリスチャンの生き方です。これが主イエスの支配の特徴なのです。
 それゆえ、愛の業はわたしたちの功績では決してありません。愛の業によって救われるのではありません。愛の業は神の恵みに対する「純粋の感謝と喜び」なのです。もしそれ以外の思いが愛の業にまといついているなら、それは愛でありません。つまり愛の業によって自分が救われていることを証明できると言った考えは愛に反することです。愛とは信仰者が神の前に“生きる”ことそれ自体です。
 要するにこのようにしてわたしたちは主イエスの思いと行動に見習い、段々と主イエスの性質を映し出す者へと聖化されて行きます。
 このことを使徒パウロはコリントの信徒への第二の手紙3章17~18節で、次のように言っています。
 「ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて行きます。これは主の霊の働きによることです。」
 ここで、主は霊であるという“霊”とは「神としての働き」を意味しています。従って、復活の主はクリスチャンの中に神として働き、クリスチャンの思いと行動を支配し、導いておられるという意味です。他方、“主の霊”とは主イエスがクリスチャンに与えられる“聖霊”のことです。従って、わたしたちが復活の主イエスの栄光を見つめることができるのは、聖霊の働きによるのです。
 さらにわたしたちが主に従い、主の性質を映し出すようにする働きは、復活の主イエスご自身の働きと聖霊の働きの両方なのです。この二つの働きをパウロは「これは主の霊の働きによる」と言っています。この表現の注意すべき点は「主」と「霊」とが同格であることです。従って、「霊である主」の働きによるという意味と、「主の霊である聖霊」の働きによるという、二重の意味を持っています。 ここに、わたしたちが神と和解された人間として、主イエスに従い、主イエスの性質を映し出す者へと導かれることの霊的現実が語られています。
 このようにしてわたしたちは常に古い自分を後ろに投げ捨てながら、主イエスに従い主イエスにある新しい人間として生きるのです。



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