2010-11-14(Sun)

立ち上がり、歩きなさい 2010年11月14日の礼拝メッセージ

立ち上がり、歩きなさい
中山弘隆牧師

 弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
イザヤ書35章3~6節


 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
使徒言行録3章1~10節


(1)神殿において
 本日の聖書の箇所で、イエス・キリストの弟子であり、使徒として立てられたペトロとヨハネが足の不自由な人を癒したことが記されています。当時はまだキリスト教はユダヤ教の神殿における礼拝を受け入れ、それに連なっていましたので、ペテロとヨハネはユダヤ教で定められていた午後3時の祈りのときに神殿に行き、そこで祈ろうとしていました。これらの事情は、2:46、47から伺うことができます。
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」
しかし、この時の彼らの信仰と言動は、ユダヤ教とは異なるキリスト教の最も中心的な事柄とその力を見事に示しています。
 それは何かと申しますと、神の臨在と神の働きを示したことです。もちろんユダヤ教もキリスト教と同じく旧約聖書から由来する宗教です。従いまして、彼らは旧約聖書が証している唯一の神を礼拝していました。しかし、彼らの礼拝には神の臨在とその力が不明瞭であったのです。それに対して、キリストの使徒たちは今や旧約聖書の長い時代において約束されていた神の救いの時が来たことを確信し、神の臨在とその恵みを身近に感じていました。

(2)全人格的な癒し
 「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきた。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。」(3:3)
 この人は自分の人生を懸命に生きようと考えた時期もあったのですが、なにしろ生まれながら足が不自由なため、自活する道は全く見つからず、大人になっても人から施しを乞うて命をつないでいました。その日暮らしの生活を強いられました彼は、もはや人生に何の望みも持たず、惰性によって人から施しを乞う毎日で、自分でも情けないことをしていると感じていました。
 そこへ自分の人生に本当の意味を発見し、活力に溢れている人間が現れたのです。それは主イエスの弟子であり、今や主イエスの復活の証人となったペトロとヨハネでした。彼らは自分たちも主イエスと出会う以前には、今目の前で物を乞うている人のように、全く哀れな人間であったことをよく知っていました。しかし今は主イエスによって生かされ、その力強さをひしひしと身に感じていたのです。それゆえ、大胆に、率直に、自分のすべてを開け放して、この人と出会おうとしました。
 ペトロとヨハネは正面からまともに彼を見つめて、「わたしたちを見なさい」と言いました。
 彼らは自分たちの良きものを出し惜しんだり、あるいは実際以上に良く見せようとして、わざと威厳を装ったりしないで、ありのままの姿で、彼の前に立ちました。いうなれば、自分たちの命を彼の前にまっすぐに立てたのです。そして彼の目を見つめ、心の奥まで共感できるような出会いをしました。これはなんという印象的な出会いであったことでしょうか。そこでペトロは口を開きました。
 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)

 確かにこの場合、この人がペトロやヨハネに期待したものはわずかばかりの金でした。しかし本当は金銀を求めていたのではありません。生ける屍のような毎日を送らざるを得ないので、祈るために神殿に来る人たちから仕方なく憐みを乞うていたのです。それゆえ、彼の願いは別のところにあった筈です。もし自分が癒され、逞しく生きることができれば、自分は幸いになれるのだが、という思いは非常に弱められていましたが、それにもかかわらず消えてはいなかったのです。

 その人は、「わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。」というペテロの言葉を聞いて、これはどういう意味かと驚き怪しみながらペトロの顔をしばらくの間見つめていました。
 するとどうでしょう。人間はどんな状況にあっても、自分の人生を受け入れ、喜びと確信をもって生きることができるのだ、という気がしてきました。もちろんそのように強くなれるのは、自分の力でなく神の力によるのだ、ということもわかるように思われました。
 そこで一心にペトロを見つめていますと、主イエスがペトロを生かしておられることが分かり、今ペトロを担っておられる主イエスがこの哀れな自分を担ってくださると感じたのです。これは直観で、そう思ったのです。
 そのとき、ペトロはぐんぐんと迫る気迫をもって、彼の手を取りました。温かい大きな手で、彼が立ち上がるのを助けようとしました。彼はペトロの手の強い握力を感じながら、同時に「主イエスご自身」が彼に決断を促しておられるように直感しました。
 その瞬間、彼は自分が歩けるような気がし、思い切って歩こうと決心したのです。すると、どうでしょう。たちまち彼は歩けたのです。これは全く不思議なことです。
 彼は主イエスの使徒たちとの出会いを通して、「主イエスご自身」が彼に語りかけ、彼を追い求め、彼に直面しておられるのを経験したのです。その出来事の中で、彼は主イエスに対して自分の心を開き、自分のすべてを委ねたとき、神ご自身が自分を抱き、自分を愛していて下さることが分かったのです。
 そして、神様が主イエスによって、主イエスにおいて、わたしを愛していてくださるということこそ、何物にも勝る価値ある尊いことだと確信しました。このようにして、神の恵みの中に、彼は自己の人生の意味を発見しました。

さらに、神が共におられ、自分の人生を担ってくださるならば、自分の人生がどのような結果に終わろうとも、たとえ平凡な、いな今後も貧しくて苦しみの多い人生であったとしても、それは非常に意義ある人生だと、思えたのです。ここに彼の心に無限の感謝の念が生まれました。
 それゆえ、癒された彼は神を賛美しながら、神殿の境内を歩き回りました。さらに喜びにあふれて神に感謝するうちに、今後は神の愛に応えて生きようと決意することができたのです。その時、彼は不自由な足が癒されたというだけでなく、自立して生きることができるようになったのです。ここに神の癒しはそれだけで終わらず、全人格の癒し、言い換えれば救いを与えるのです。

(3)イエスの御名によって歩む人生
 この驚くべき癒しの奇跡を目の当たりにした人たちは、ペトロやヨハネが何か特別の力、超能力、神通力をもった人のように考えました。しかし、ペトロは彼らに次のように語りました。それは3章12節と16節に記されています。
「イスラエルの人たち、なぜこのことで驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。-----あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるのです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」
ここで、ペトロははっきりとこの人を歩けるようにしたのは、自分たちの力やその信心によるのではない。自分たちの敬虔さによるものではない、と断言しています。
ひとえに、この人を癒し、救いを与えたのは、「イエスの名」である、そしてイエスの名を信じる信仰を通して、この人は癒され、立ち上がり、自分の足で歩けるようになった、と強調しています。この人を救った威力、すなわち霊的な現実は、イエスの名である、と宣言しています。

聖書において、「名」とは単なる名称ではなく、その名前が付けられた人格そのものを意味しています。「生ける人格」を意味します。従いまして、イエスの名とは生きて働いておられる主イエスご自身です。すなわち、死人の中から復活された主イエスなのです。

「復活の主イエス」こそ、人間であるわたしたちのもとに与えられている「神の臨在」なのです。
神様は天地万物の創造者であり、永遠なる方ですから、被造物である人間のもとにはおられません。神は万物を超越しておられる方であり、人間の目には見えない方です。しかし、神様は万物の支配者であり、神の裁きと恵みの働きはこの世界の中に満ちています。
それでも、神様が信仰者と共にいまして、信仰者と神様ご自身が出会い、人格的に交わってくださるとき、その神様は超越者でありながら、人間に近い方となられます。神様が御言葉をもって直接人間の心にご自身の意志を知らせ、人間の心の中に神の愛を注いでくださるとき、神様が人間のもとに臨在されるのです。

旧約聖書では、預言者や特別の人たちが、そのような神の臨在を経験し、神を賛美し、心から神に従いました。しかし、そのような体験は旧約の民の実情からすれば、一部の恵まれた人たちに限られていました。
従って、「神の臨在」は神の救いが到来する終わりの時に起こる出来事として約束されていたのです。救いの歴史の中で、時が満ちるに及んで、人間のもとに臨在される神は「インマヌエル」と呼ばれると、預言者イザヤは語りました。
「インマヌエル」とは「神われらと共にいます」という意味です。

実にこの預言が主イエスによって、神の御子・主イエスの受肉と宣教活動と十字架の死と復活と昇天により成就しました。復活し昇天された主イエスは今や名実ともに、全人類のメシアすなわちキリストとなり、聖霊を通して、信仰者の中に、心の中に、人格の中に、臨在し、働かれるようになったのです。このことにより「インマヌエル」は「イエス」という具体的な名前を持ったのです。そして御子の受肉、十字架の贖い、復活、昇天の中で首尾一貫して働いている明確なパーソン(人格的主体)として現れたのです。
この主イエスの臨在の霊的な現実が、「イエスの名」なのです。人は「イエスの名」を信じることにより、聖霊によって主イエスが信仰者の心の中に臨在し、信仰者の中に働かれるのです。
そのことにより、主イエスを通して、神と人格的に交わり、神の愛と力とを直接自分の心に受けるのです。
このことこそ、何にも勝る幸いです。ここに信仰者一人一人が自分の生きる意味を発見するのです。神を賛美し、神の御心に従い、御心を実践することが自分の人生の本当の意義であることを知るのです。

実に、神は主イエスにおいて、わたしたちと人格的に出会われるのです。わたしたちが聖書を読むときに、神は主イエスを通して、わたしたちの心に霊的な力を与え、神の御心を理解させ、喜んで神の御心を実行させてくださいます。また、わたしたちが祈り、あるいは黙想するときに、主イエスを通して、神様がわたしたちの理性と意志に、そして情緒に、光を与え、喜びと認識と決意を与えてくださいます。 
他方、わたしたちは自分自身の力ではそのような光や認識を持つことはできませんので、世俗の事柄に埋没して多忙な日々を過ごしていますと、次第に力が枯渇して、どうしたらよいか分からなくなります。これが被造物であるわたしたち人間の実態です。
しかし、そのような人間に恵み深い神様が絶えず新たなる認識と霊的な力を供給してくださるのです。わたしたちの渇ける心に愛を注いで潤し、弱った心を強めてくださるのです。神様はそのようにして信仰者が自分に与えられた課題と取り組み、忍耐して課題を果たし、その過程で隣人を愛するようにさせてくださいます。
このような人生こそ「イエスの御名」によって生きる人生です。言い換えれば、主イエスに従う人生です。主イエスはこの世の生活においてわたしたちを導いてくださいます。否、それだけでなく、死を越えて、人生の究極目的地であります永遠の天国にわたしたちを導かれる方です。
地上から天国に至るすべての過程で、常にわたしたちの人生の中に臨在され、わたしたちの中に働いてくださいます。この主イエスこそ、わたしたちの「命の源」です。
この恵みの中で、わたしたちは喜びをもって生き、わたしたちを本当の意味で生かす神の御心に従うことを、最大の目標とするのです。

世間でもてはやされている理想的な生き方は、往々にしてショーウインドーに飾られた最新の服を着たマネキンのようなもので、見た目には輝いて見えますが、汗を流して働いたり、弱ったり、悩んだり、それでも希望を失わず、長い期間を忍耐して、困難を打開していく、実際の命がそこには宿っていません。人生とは人間の達成した成果ではなく、自分の人生を歩むことに意味があり、全生命を注ぎ込むことに意義があるのです。
わたしは道端に太陽やそよ風を受けて咲いている草花や、山の中で見かける野の花に心を惹かれることがあります。そこには生命があるからです。花が美しいというだけでなく、わずかな場所で精一杯に咲いていることが、なんとも言えない美しさを醸し出しているからです。この点は人間も同じではないかと思います。
要するに、自分の人生を受け入れ、自分の運命を受け入れ、そこで精一杯に生き抜くとことが人生の価値であり、それは他のいかなるものにも代えられない尊いものであると思います。
しかし、それができるのは、神様がわたしたちの人生の中に絶えず臨在し、霊的な命を供給してくださるからです。そういう意味で、神が主イエスにおいて、わたしたちの人間存在の中に働いてくださる人生こそ、本物の人生なのです。これこそ「イエスの御名」によって歩む人生です。まことに、貧しい罪深いわたしたちの中に、神様が主イエスを通して臨在してくださる人生なのです。



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