2016-07-24(Sun)

荒野での誘惑 2016年7月24日の礼拝メッセージ

荒野での誘惑
中山弘隆牧師

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記8章2~3節


 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
マタイによる福音書4章1~11節


(1)誘惑する者とは
 わたしたちの人生には様々な試練と誘惑があります。初心を貫いて最後まで努力することは非常に難しいことです。その理由は人には誘惑が多いからです。目に見える誘惑には良く抵抗することができましても、目に見えない誘惑には非常に弱いからです。
 しかし、絶えず目を覚ましていて、誘惑に打ち勝つのでなければ人生の目的を達成することはできません。それでは誘惑に勝利するためにはどうしたらよいでしょうか。人間だれしも、自分の力で誘惑と戦っても打ち勝つことはできません。その唯一の方法は、誘惑に完全に勝利された主イエスの支配のもとに自分が置かれることであり、そのような者として、祈り、誘惑と戦うならば、勝利することができます。
 実に救い主としてのイエスの使命は、人間としてわたしたちと同じ弱さを持ち、わたしたちと同じ誘惑を経験し、しかもその誘惑に勝利することでありました。しかし、口で説明するのは容易ですが、日々の人生の歩みの中で達成することは他のいかなることよりも難しいのです。まことに至難の業です。
 最大の理由は、人を誘惑する者がなかなかその正体を現さないことです。人間を誘惑する者は人間や環境ではなく、その背後に潜んでいる神に反抗する霊です。しかも神に反抗する霊はわたしたち人間の罪と離れて別個に存在しているのではなく、人間の罪の原点なのです。

(2)救い主の使命
 次に神の御子イエスがこの世に遣わされた目的は、罪のために神から離れてさまよい、行き倒れ、悲惨の中にある人間を神のもとへ連れ戻すことでした。人間を神のもとに立ち帰らせることでした。
 しかし、この使命を果たすために、イエスは神の御心に従ってどのような仕方で取り組むべきかを熟慮する必要がありました。イエスには自分の取るべき行動の基本方針をよくよく考える必要があったのです。そのためイエスは一人で荒れ野に行かれました。そこはだれも住んでいない全く孤独の世界です。
 エルサレムと死海との間には、長さ57キロメートル、徒歩で14時間の距離で、幅は24キロメートル、徒歩で6時間の距離です。このような広大な荒れ野が広がっています。しかもそれは高原地帯で、黄色い砂地と石灰岩でできています。一面に小石が転がっており、ごつごつとした岩肌が至る所に露出しています。そこを歩くと、靴の音と馬の蹄の音が反響し、辺りにうつろに響きます。そうした高原が死海まで続き、そこから一気に380メートルも下降する恐ろしい絶壁になっています。
 イエスはこの淋しい、恐ろしい世界の中で、ただ一人自分自身と対面し、神の使命を果たすために自分の進むべき道について熟慮されました。わたしたちも自分の人生の曲がり角に立った時、自分一人になってすべてのことよく考える必要があります。
 普段は仕事や雑用に追われて見失っている自分を見いだし、自分のすべての問題を神の御前に置くためには、一人にならなければならないのです。孤独に耐え、自分一人でよく考える機会を持たなければなりません。そのようにして自分の人生を直視するとき、自分に対する神の意志や計画を知らされるようになります。

(3)イエスの受けられた試練
 それではイエスの受けられた誘惑は何であったのでしょうか。本日の聖書の箇所に、次のように記されています。
 「四十日間、昼も夜も断食し後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(マタイ4:2~3)。
 四十日の断食とは誇張された言い方でしょうが、たとえ一週間あるいは二週間であっても、それは事実なのです。ここでは「空腹を覚えられた」となっていますが、それは「飢えられた」、すなわち餓死の危険に直面されたという意味です。
 また聖書では「誘惑する」という言葉は「ペイラゾー」と言いますが、この言葉は「テストをする」という意味もあります。人が神に用いられ、役に立つようになるため「鍛える」という意味もあります。金属が純粋になるため精錬されなければならないように、人も試されなければなりません。神がアブラハムを試されたのも、彼が神に対して忠実な者となるためでした。
 神の与えられる試みは、人を悪くするためではなく、良くするためです。試みとは人間に対する刑罰ではなく、それは神が御用のために用いようとする者に与えられる試練です。ここに人が神の目的に沿う者となるためには、試練を受けなければならないという崇高な真理があります。荒れ野において誘惑を受けられたイエスの体験は、このような意味での試練であったと見ることができます。
 そこで、悪魔の誘惑は第一にパンの問題でした。今イエスは長期間の断食によって痩せ衰え、飢えのただ中で苦しんでおられたのですから、パンを得ることは最も切実な問題でした。できることなら、石をパンに変えて食べたいとの思いがイエスの脳裏に浮かんできたことでしょう。その機会を捉え悪魔はイエスの耳に囁きました。
 「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ。』」
 「お前が神の子である」というからには、この石がパンとなるように命じて見よ、と悪魔はイエスを誘惑したのです。なぜならば、イエスは神を「ご自分の父」として知り、父との人格的な交わりの中で今まで歩んでこられた方でありますので、ご自分が「神の子である」という明確な自覚を持っておられました。
 特に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時、天から父の御声が聞こえて来て、イエスに向かって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)と父なる神が仰せになりましたので、イエスには御自分は神の御子であるとの自覚が不動の確信となっていました。
 そこで悪魔はイエスが神の御子であるからには何でもできる筈である。それゆえこの石に命じてパンに変えよと誘惑しました。しかし、そのように考えることは御子の性質に反します。なぜならば父に対してどこまでも従順であることが御子の本質であるからです。
 イエスは父なる神が全能であることを信じておられましたが、その信仰とは父なる神が自ら欲せられるは何でもできるという信仰でありました。反対に神が自ら欲せられないことは、不可能であると言う信仰です。従ってイエスは父なる神が石をパンに変えることを欲しておられないことを知り、悪魔の要求を拒否されました。
 それゆえ、イエスは聖書に「『人はパンだけで生きる者ではない』と書いてある」と言って、悪魔の誘惑を退けられたのです。これは申命記8章3節の言葉「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」の引用です。
 要するにイエスが仰せになった意味は、だれでも神の言葉を聞くとき「内的な生きる力」が与えられる、同時に全能の力による神の摂理によって、人が自分で働き「糧を得る道」が必ず開かれるという意味なのです。
 これが人はパンだけで生きるのではない、神の言葉によって生きるのだとイエスが仰せられた意味です。このように御子イエスは言葉と態度をもって、父の摂理の御手に対する信頼と父の御心に対する徹底的な従順を示されました。
 次に悪魔は聖書の言葉を引用してイエスを挑みました。
 悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、もちろんこれもイエスの心の中でそのように思わせたのですが、神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」と言い、詩編91篇11~12節の聖句を引用しました。
 「『神があなたのために、天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4:6)と、サタンは言いました。
 これはイエスが大いなる奇跡を行うならば、すべての人間はイエスを神から遣わされたメシアであると信じると悪魔は誘惑したのです。実に、これは信仰の問題であり、イエスにとって重大な意味を持っています。
 実際イエスが神の国の宣教に従事されたとき、常にこの誘惑の危険に晒されました。なぜならばイエスがメシアであることを証明する天からの「しるし」をユダヤ人が求めたからです。それに対してイエスは心の深い嘆きを感じ、次のように仰せになりました。
「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マルコ8:12)
 なぜならば人がイエスを信じるということは、神がイエスの中に内住して働き、イエスの言葉、行動を通して父なるがご自身を人間に啓示しておられることを信じることであるからです。それは信仰によってだけ、理解できる事柄です。言い換えれば、「しるし」によって信じる信仰は本当の信仰ではないのです。
 聖書の言葉を引用して、イエスに挑戦する悪魔に対して、イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(マタイ4:7)(申命記6:16)と返答されました。
 従ってイエスは人間がイエスの救いの業をどのようにして信じるかということに関しては、一切を父の御手に委ね、自分は父に従い、救い主としての使命を果たすことだけに専念されました。

(4)主イエス・キリストの義
 実に、イエスの父なる神に対する徹底した従順を前にして、悪魔の仕掛けた誘惑の計画は遂に頓挫したかに見えました。しかし、最後の誘惑が一つ残されていました。それは何であったのでしょうか。
 「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらをみんな与えよう』と言った。」(マタイ4:8~9)
 ここで、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国を見せたというのは、国々の権力や富を実際に目で見えるようにしたのではなく、イエスの心に映るようにしたのでしょう。それでも実にそれは壮大な感動的光景であったに違いありません。
 外面的に見ればすべての人々は国の権力者と富に服従しているように見えます。もし救い主がそのような絶大な権力者ならば、人々に神を信じさせ、神に従わせることが容易にできるように思えます。
 事実、ユダヤ人はそのような政治的権力と軍事力を兼ね合わせた救い主が出現することを待望していたのです。もしイエスがそのような権力を持った救い主になりたいと思うならば、悪魔はわたしを拝みなさい、そうすればあなたの望み通りにさせてあげようと、イエスを誘惑したのです。
 悪魔はこのとき、非常に強調した言い方で、「あなたはわたしを拝みなさい」と命令しました。このときイエスは悪魔の本質を見抜かれたのです。そして悪魔に対して究極的な返答をされました。
 「退け、サタン、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 これは出エジプト記20章1~6節までの要約です。ともかく、サタンの本質とは、世界の諸国家の権力と富は自分の所有物であると見せかけ、自分を拝むならば、世界の権力と富をすべて与えると偽り、人間に神でないサタンを礼拝させ、仕えさせること、正にこのサタンの本質がここで露呈されました。このようにイエスはサタンの最大の誘惑を退け、人は皆、真の神、唯一の神、主のみを礼拝し、仕えるべきであると仰せられました。
 しかし、人間は最初のアダム以来、この誘惑に捕らえられており、悪魔に仕えることは現代世界と諸国家の深刻な問題となっています。そこに人間の罪の実相があります。
 それに対して、主イエス・キリストは人間の救い主として、徹底的に父なる神に従順でありました。父なる神への従順によって、イエスは救い主としての使命を果たされたのです。
 人類の罪を贖うために、イエスは十字架の死に至るまで従順でありました。その従順によって、人間に対する神の義が確立し、啓示されました。その結果、父なる神はイエスを復活させられたのです。
 復活の第一の意味は、父なる神が御子イエスの正しさを復活によって実証されたことです。ユダヤ教の指導者たちは神を冒涜する者としてイエスを十字架につけました。ローマ帝国はイエスをローマに反乱を起こそうとしているユダヤ人のメシアとして十字架につけました。それに対して、神様は正にこのイエスを死人の中から復活させて、イエスが「正しい方である」と宣言されたのです。
 勿論父なる神の証明は冤罪によって死んだ人の名誉回復と言う次元の事柄ではありません、正に死んだイエスを復活させ、永遠の支配者とすることによって、イエスの正しさを神は証明されたのです。
 実にイエスの従順こそ、御子の栄光であり、人間を救う神の力です。それゆえ父なる神は御子イエスを死人の中から復活させ、天地の主権者である「主イエス・キリスト」という名を授与されました。



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