2016-07-10(Sun)

御声に聞き従う 2016年7月10日の礼拝メッセージ

御声に聞き従う
中山弘隆牧師

 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
詩編23篇1~6節


 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
ヨハネによる福音書10章1~14節


(1)良き羊飼いと羊たち
 本日の礼拝において、わたしたちの信仰生活にとって最も身近な切実な問題として、復活の主イエス・キリストとわたしたちとの交わりが何であるか、その霊的な現実を聖書から知ることを願っています。主イエスはヨハネによる福音書10:14で次のように仰せになっています。
 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
 ここで、主イエスは御自分とクリスチャンの関係を、羊飼いと羊の比喩を用いて話しておられます。そこには羊飼いと羊との間に、最も確かな信頼関係があります。羊飼いは自分の羊の各々を知っており、また各々の羊も羊飼いを知っているのです。
 羊飼いは、各々の羊に名前を付け、その名前を呼ぶと、羊は自分が呼び出されていることを知り、羊飼いのもとに集まるのです。そのようにして、羊飼いは朝になると羊の囲いから、羊を呼び出し、羊が揃ったのを見届けて、きょう一日の食物を得させるために、牧草のあるところへ、先頭に立って羊たちを導きます。
 「羊飼いは自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついていく。」(10:4)
 羊たちは、羊飼いに全幅の信頼を置いて、先頭に立って行く羊飼いの後に従います。従って行くことにより、羊たちは牧草と水のある場所に辿りつくことができ、憩いと豊かな命を得ることができることを、羊たちは体験を通して良く知っていました。
 ところで、わたしたち人間と羊とは大きな違いがありますが、それにも拘らず、共通している点があります。それは羊たちにとって、憩いと命を得るために羊飼いの導きが必要です。同様にわたしたち人間も心の平安と命を得るために、それを得させてくださる主イエスの導きが必要です。
 イエスに従った弟子たちは、皆イエスに見出され、イエスに招かれて、イエスのもとに集まって来た者たちです。彼らはイエスに従うことによって、イエスが命の言葉をもっておられる方であることを知り、イエスを信頼し、尊敬し、イエスに従いました。
 しかし、そのうちに弟子たちの中でもイエスから離れていく者が多く現れましたので、イエスは十二人の弟子たちに「あなたがたも離れていきたいか」と尋ねられるとペトロは次のように答えました。
 「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)
 このような弟子たちが良き羊飼いを知っている羊であると言えます。ここで、ペトロはイエスを「主よ」と呼んでいます。しかしこの呼び方は命の言葉の所有者である敬愛する教師に対する尊敬を表す言葉なのです。従ってそれはまだ、復活のイエスを「主イエス」と呼ぶ深い意味を持っていませんでした。それでも、この時点でイエスは単なる教師ではなく、弟子たちにご自分に対する絶対的な信頼と従順を要求されましたので、弟子たちは敬愛する教師に対して「主」と呼んでいました。

(2)主イエス・キリスト
 それでは、弟子たちがイエスを神として信じ、イエスを「主イエス」と呼び、主イエスに向かって祈るようになった転機はいつどこで起こったのでしょうか。それこそ、イエスが十字架の死によって人類の罪を贖い、復活して弟子たちの所に現れ、最後の晩餐のときのように、パンを裂く食事において、弟子たちをご自身との交わりの中に決定的に、最終的に招かれた出来事です。
 先ず、疑い深いトマスに復活のイエスは現れ、次のように仰せになりました。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)。この時トマスはイエスに対する信仰告白を致しました。20章28に記されています。
 「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」
 この時初めて、トマスはイエスを「主よ」と呼んでいます。同時に「神よ」と呼んでいます。今やイエスは神としての力を持って支配しておられる主権者であることを知り、イエスを「わたしの主」と告白しました。これが転機であり、キリスト教信仰の開始点です。
 他方、この出来事は弟子たちにとって、十字架の死によって途絶えたイエスとの人格的な交わりの回復を意味しました。そこに弟子たちの驚きと聖なる恐れの念に満たされた喜びがあります。その交わりにおいて、イエスは今や神として、神の主権を行使する支配者として、弟子たちに絶対的な従順を決定的に要求され、そこに主イエスと弟子たちとの交わりが確立したのです。しかしこの交わりは以前とは異なり、全く親密な関係であり、霊的な関係であり、全存在と関わる内的関係で、命の溢れた関係で、死においても廃止されない永遠の関係となりました。
 さらにこの関係は主イエスの名によって集まり、聖餐式を中心とした礼拝をする都度、命に溢れた出来事として、繰り返して生起するようになりました。この点に関して、新約聖書学者のオスカー・クルマンが説明しています。彼はコリントの信徒への手紙一、16:22をその根拠にしています。
 「マラナ・タ(主よ、来てください)」
 この短いアラム語は、主イエスに対する祈りの言葉です。イエスや弟子たちは皆アラム語を話していました。しかし、キリストの福音を当時の世界に伝えるためには、イエスの言動、使徒たちの宣教、キリスト教の信仰告白など、そしてイエスの教えや使徒たちの教えは皆ギリシャ語で表されました。その中で、祈りの言葉だけがアラム語で伝えられました。それはクリスチャンにとって、祈りの言葉が一番大切であるからです。アラム語で残された祈りはたった二つです。マラナ・タの他にもう一つは「アッバ(父よ)」です。
 この「マラナ・タ」は聖餐式のために、集まっているクリスチャンたちが共に、そして熱烈に「主よ、来てください」と祈った言葉です。その意味は、終わりの日に到来する主の再臨に対する祈りであり、また同時に、この聖餐式を行なっているわたしたちの所に来てください、と言う祈りなのです。
 そのとき復活の主イエス・キリストが臨在されました。神の主権を行使するイエスが神として、聖餐式の場に臨在されたのです。彼らはこの主イエスの「臨在の現実」とその確かさを体験し、主イエスの恵み深い支配と導きを受け、感謝と喜びと命に満たされ、主の命令に従う日々を送りました。但し、主イエスは神として働いておられるので、その姿は見えませんでしたが、それでも主イエスの存在と働きの生ける現実を知って、確信と力に満たされました。実に、このことの繰り返しの中で、彼らは主イエスの御言葉に従う生活を続け、前進させたのです。
 もう一つ重要なことは、聖餐式に臨在される主イエスは神的支配者であり、教会を支配し、導かれる方であると同時に、全世界の主権者であり、支配者であると言うことです。それはクリスチャンが主イエスの支配の現実に直面し、主イエスと対面して、この方は教会だけでなく、世界全体の支配者であることを知ったからです。
 勿論、主イエスの支配の仕方は教会に対する働きと世界全体に対する働きとでは異なります。全世界に対する支配は、全知全能の神としての支配であり、それは人智を超えた神秘です。しかしその支配の結果は、歴史の中に起こる様々な状況を通して、そこに神の意志と目的が働いているのが理解できるので、主イエスの主権を信じることができるのです。

(3)主イエスの命令を実行する
 次に、復活の主イエスはわたしたちに対して、「わたしに従って来なさい」と命じ、わたしたちを導き、先頭に立って歩んで行かれます。この状態をヨハネによる聖書は次のように描写しています。
 「羊飼いは羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
 これは弟子たちと共に過ごされた地上におられたイエス・キリストの姿を羊飼いの比喩を用いて語られていますので、現在の主イエスの支配と導きとは形態が異なります。しかし、霊的な内容は同じです。復活の主イエスは今や神として働いておられるのでその姿は見えません。しかしそれゆえに今や主イエスはわたしたち信仰者の存在と人格の中に臨在して働くことができるようになりました。実にこれは神としての主イエスの働きの特徴なのです。
 このようにして主イエスはわたしたちを導いておられるのです。つまり、主イエスが地上で歩まれたご自分の人生を、自分とは異なるクリスチャンの中で、しかも異なる時代や環境のもとで生活しているクリスチャンの中で、繰り返すことによって、わたしたちを導いておられるのです。さらに、それはわたしたちの中で働かれる主イエスの歩みを、主イエスに従うわたしたちの歩みと結び合わせておられるのです。しかし、結合と言っても機械的な結合ではなく、信仰により、わたしたちが自ら主イエスの導きに喜んで従うわたしたちの応答を通して実現する結合です。
 この点について、神学者バルトは次のように説明しています。わたしたちが主イエスの導きに従うこととは、まず主イエスがわたしたちの中で、働き、わたしたちを導いておられる霊的現実を信仰によって直視し、わたしたちは主イエスが父なる神に従われたその歩み、主イエスの思い、態度、行動、性質を見習い、自分でも体験し、主イエスの歩みを模倣することである。その際そうすることのできる可能性として、主イエスの命と自由がすでに与えられている。それゆえに、わたしたちは今主イエスから与えられている自分の能力の限界内で、全身全霊を投入して行動するのであると言っています。 
 さらに、そのような主イエスの歩みに応答し、見習い、模倣し、体験することは自分の人生の可能性のすべてである。これ以外には自分の人生と行動の可能性はない、と言っています。そのような方として、復活の主イエスの働きは、わたしたちの人生を神の恵みと主イエスの命に生きる人生としてくださるのです。実に、主イエスは先行する神の愛と認識と決意と行動によって、わたしたちを知り、わたしたちの人生を導いてくださっています。

(4)聖霊の働き
 最後に、このような教会の頭である主イエスの主権とその働きを認識するのは、信仰によるのですが、人間の力と意志による信仰ではなく、聖霊の働きとしての信仰です。実に聖霊は聖餐式の中に臨在され、支配し、ご自身の命を与え、命令を与え、教会を導かれる主イエスの現実を信仰者に理解させる方です。
 さらにクリスチャンの中に働く主イエスの導きに応答し、クリスチャンが喜んで、自ら進んで主イエスに従うのは聖霊の働きなのです。クリスチャンがキリストに従い、キリストの命令を実行し、互いに愛し、隣人を愛し、愛の労苦を喜んでするのは、クリスチャンの中に働く聖霊の働きです。それゆえ、クリスチャンに主イエスの支配と導きに応答する生活をさせるのは聖霊の働きなのです。
 従って、聖霊は主イエスの救いをクリスチャンの中に有効にするために、主イエスと共に働かれる方です。人間の救いに関して言えば、聖霊は人間の救い主である主イエスの協力者なのです。
 ところで聖霊は神です。それに対して主イエスは神であり、同時に人間です。それゆえ、わたしたちが復活して神の国に入るとき、主イエスの姿を見ることができるのに対して、神の国においても聖霊は人間の目には見えません。しかし、聖霊はわたしたちに信仰を働かせ、愛の業を実行させ、救いの完成と主イエスの再臨を保証し、その希望を与えられる方なのです。
 さらに注目すべき点は、聖霊を主イエス・キリストが人間に与えられるのです。なぜなら、十字架の死によって、人類の罪を贖い、復活して、神の右に坐し、神の国の支配者となられた主イエス・キリストは、今や聖霊の所有者となられましたので、主イエスは御言葉を通して人間と出会われる場合、必ず聖霊を人間に与えられるのです。そしてクリスチャンは主イエスの働きを聖霊によって理解するのです。
 それゆえ、聖霊に関して主イエスは仰せられました。
 「その方(聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:14)
 主イエスはひたすら父なる神の御心が行われ、父なる神の栄光が現れることを願い、自らの栄光を少しも求められませんでした。聖霊もまた栄光を主イエスに帰し、自らの栄光を少しも求められない方です。
 このように主イエスも聖霊も自らを誇ることの決してない方で、神の愛と平和と一致の充満した方であります。そこに神の栄光が限りなく現れています。



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