2016-07-03(Sun)
聖霊の働き 2016年7月3日の礼拝メッセージ
聖霊の働き
中山弘隆牧師
そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。
イザヤ書44章1~5節
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
ガラテヤの信徒への手紙5章16~25節
イザヤ書44章1~5節
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
ガラテヤの信徒への手紙5章16~25節
(1)福音の自由
本日の聖書の箇所でありますガラテヤの信徒への手紙5章13節には、次のように記されています。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
この聖句は非常に短い言葉ですが、福音主義的信仰を見事に表しています。勿論この自由とは人が自分の欲するままに何をしても構わないという自由ではなく、人が神の御心に従って善い行いをするために、その障害となっている罪の束縛から解放されて、自ら進んで善い行いをすることができるという自由なのです。
第一はユダヤ教の救いの教理からの解放です。
ユダヤ教は、神様と律法を信じていますが、主イエスの救いを信じていません。従いまして、ユダヤ教では人間が神を信じて、律法を実行することによって救われると教えています。その際に人間は自分の意志と力とによって、律法を実行するならば、律法の実行は自分の功績になると主張しています。つまり人は自分の功績によって救いを獲得するというのがユダヤ教の教理です。
それに対して、キリスト教は、ユダヤ教と同じく、唯一の同じ神を信じています。しかし、同じ神をユダヤ教の抽象的な神概念ではなく、神様が主イエスを通してご自身を啓示された事実に基づいて、ご自身の内に父・子・聖霊の交わりを持っておられる神として信じています。神は決して孤独な神ではなく、ご自身の内に父・子・聖霊の交わりをもっておられる神様です。同時にこの交わりの中で父から出る神の意志と力とが唯一の意志と力として働いているのです。このような父・子・聖霊の交わりの中にある御子が人間となられた方をクリスチャンは主イエス・キリストと信じています。真の神は御自身を主イエス・キリストによって示されているのです。この点を信じることがキリスト教とユダヤ教との決定的な違いです。
要約すれば、クリスチャンは主イエス・キリストを信じて、聖霊を受け、聖霊を通して主イエス・キリストと結ばれ、主イエスの命と自由を与えられ、主イエスに従い、神の御心を行う者たちです。
従いまして、クリスチャンが神の律法を行うのは、自分の功績を積むためではなく、キリストの恵みに感謝するために、喜びをもって行うのです。
第二はパウロがここで言っています「自由」とはキリスト教内に侵入してきているユダヤ教的な律法主義からの解放です。ユダヤ人で、主イエス・キリストを信じて、クリスチャンとなった者たちの中には、クリスチャンになっても、割礼を受け、ユダヤ教の律法を忠実に実行しなければ、救われないと言って、クリスチャンを惑わしました。それゆえ、パウロはユダヤ教の扇動にクリスチャンが惑わされないため、断固とした態度と処置をとりました。
5章の1~4節で次のように言っています。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるならば、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」
このような扇動はキリスト教をユダヤ教の一派にしてしまう危険をはらんでいました。この危機の本質を、当時正確に見抜いた者は、使徒たちの間で、パウロです。それには深い理由があります。彼は熱心なユダヤ教徒であり、若い律法学者として、キリスト教を迫害していたのですが、その最中に復活のイエス・キリストに出会って、主イエス・キリストから直接に福音宣教を命じられました。
そのときパウロはキリストに敵対している自分が実に盲目的で罪深い者であることが分かったのです。キリストが自分に現れてくださったのは、律法の業を実行している自己の功績によってではなく、全く神の憐みであること、そして罪人に対する神の無限の愛によることを知らされたのです。それゆえ彼は神の救いは純粋にキリストの恵みによることを確信しました。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
この聖句は非常に短い言葉ですが、福音主義的信仰を見事に表しています。勿論この自由とは人が自分の欲するままに何をしても構わないという自由ではなく、人が神の御心に従って善い行いをするために、その障害となっている罪の束縛から解放されて、自ら進んで善い行いをすることができるという自由なのです。
第一はユダヤ教の救いの教理からの解放です。
ユダヤ教は、神様と律法を信じていますが、主イエスの救いを信じていません。従いまして、ユダヤ教では人間が神を信じて、律法を実行することによって救われると教えています。その際に人間は自分の意志と力とによって、律法を実行するならば、律法の実行は自分の功績になると主張しています。つまり人は自分の功績によって救いを獲得するというのがユダヤ教の教理です。
それに対して、キリスト教は、ユダヤ教と同じく、唯一の同じ神を信じています。しかし、同じ神をユダヤ教の抽象的な神概念ではなく、神様が主イエスを通してご自身を啓示された事実に基づいて、ご自身の内に父・子・聖霊の交わりを持っておられる神として信じています。神は決して孤独な神ではなく、ご自身の内に父・子・聖霊の交わりをもっておられる神様です。同時にこの交わりの中で父から出る神の意志と力とが唯一の意志と力として働いているのです。このような父・子・聖霊の交わりの中にある御子が人間となられた方をクリスチャンは主イエス・キリストと信じています。真の神は御自身を主イエス・キリストによって示されているのです。この点を信じることがキリスト教とユダヤ教との決定的な違いです。
要約すれば、クリスチャンは主イエス・キリストを信じて、聖霊を受け、聖霊を通して主イエス・キリストと結ばれ、主イエスの命と自由を与えられ、主イエスに従い、神の御心を行う者たちです。
従いまして、クリスチャンが神の律法を行うのは、自分の功績を積むためではなく、キリストの恵みに感謝するために、喜びをもって行うのです。
第二はパウロがここで言っています「自由」とはキリスト教内に侵入してきているユダヤ教的な律法主義からの解放です。ユダヤ人で、主イエス・キリストを信じて、クリスチャンとなった者たちの中には、クリスチャンになっても、割礼を受け、ユダヤ教の律法を忠実に実行しなければ、救われないと言って、クリスチャンを惑わしました。それゆえ、パウロはユダヤ教の扇動にクリスチャンが惑わされないため、断固とした態度と処置をとりました。
5章の1~4節で次のように言っています。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるならば、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」
このような扇動はキリスト教をユダヤ教の一派にしてしまう危険をはらんでいました。この危機の本質を、当時正確に見抜いた者は、使徒たちの間で、パウロです。それには深い理由があります。彼は熱心なユダヤ教徒であり、若い律法学者として、キリスト教を迫害していたのですが、その最中に復活のイエス・キリストに出会って、主イエス・キリストから直接に福音宣教を命じられました。
そのときパウロはキリストに敵対している自分が実に盲目的で罪深い者であることが分かったのです。キリストが自分に現れてくださったのは、律法の業を実行している自己の功績によってではなく、全く神の憐みであること、そして罪人に対する神の無限の愛によることを知らされたのです。それゆえ彼は神の救いは純粋にキリストの恵みによることを確信しました。
(2)律法の成就者であるキリスト
それでは、キリストの福音は律法主義を廃止することによって、律法そのものを廃止したのでしょうか。否、そうではなく正に律法を成就するのです。福音は律法についてこのように総括しています。
「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という、一句によって全うされているからである。」(5:14)
従って、クリスチャンは隣人を自分自身のように愛することによって律法を本当の意味で実行するということになります。ところで、主イエスは律法全体を一番大切な二つの律法に総括されました。マルコによる福音書12章28節に記されています。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はない。」
ここで見逃してならない点は、御子イエスは律法を与えられた神様の意志を完全に理解して、父なる神に完全に従われました。この意味ですべての人間の中で主イエスだけが律法の成就者なのです。
それゆえ、律法の成就者である主イエスであればこそ、『隣人を自分のように愛しなさい。』という命令を言い換えて、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。』(ヨハネ15:12)と隣人愛の実践を内容的に規定されました。
他方、「神の恵みの現実にそぐわないユダヤ教の礼拝に関する律法と様々な儀式的な律法」を廃止されました。このように、主イエスは神の律法の成就者として、霊的な真の礼拝に関して、また信仰者の生活に関して神様の本当の命令を律法として確立されたのです。
従いまして、クリスチャンが自由にされているということは、本当の意味で神の命令を実行された主イエスの自由が、聖霊を通してクリスチャンの中に働くと言うことです。クリスチャンは主イエスの命令を実行するとき、与えられている自由を使用することによって、自由の真価を体験するのです。それゆえ自由は正しく使用するために与えられているのです。
この点に関して、プロテスタントの代表的な神学者カール・バルトは、キリストにあってクリスチャンに与えられている自由は自分で獲得したものでなく、与えられたものであり、これまで自分で一度も使用したことがない自由である。従って、クリスチャンは自由を使用する勝手が分からない状況の中にある。そこで与えられている自由を使用するためにはどうしてもキリストの手引きが必要である。その手引きが正にキリストの命令である、と教えています。
こう言う訳で、キリストの命令とは聖書に書かれた文字そのものではなく、聖書の言葉を聖霊によって理解して、キリストの命令が何であるかを認識し、その認識を与えられている自由を使用して実行に移す行為であると言えます。
また主イエスにより与えられている自由について、宗教改革者カルヴァンは次のように教えています。律法は主イエスの十字架の死による贖罪により、もはやクリスチャンを裁かない。すなわち律法を実行しない者を律法はもはや罪人と定めない。それでは律法の役目は何であるか。あくまでも律法の役目は主イエスによって与えられた神の救いに「感謝する生き方」を具体的に教えることであると言っています。
「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という、一句によって全うされているからである。」(5:14)
従って、クリスチャンは隣人を自分自身のように愛することによって律法を本当の意味で実行するということになります。ところで、主イエスは律法全体を一番大切な二つの律法に総括されました。マルコによる福音書12章28節に記されています。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はない。」
ここで見逃してならない点は、御子イエスは律法を与えられた神様の意志を完全に理解して、父なる神に完全に従われました。この意味ですべての人間の中で主イエスだけが律法の成就者なのです。
それゆえ、律法の成就者である主イエスであればこそ、『隣人を自分のように愛しなさい。』という命令を言い換えて、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。』(ヨハネ15:12)と隣人愛の実践を内容的に規定されました。
他方、「神の恵みの現実にそぐわないユダヤ教の礼拝に関する律法と様々な儀式的な律法」を廃止されました。このように、主イエスは神の律法の成就者として、霊的な真の礼拝に関して、また信仰者の生活に関して神様の本当の命令を律法として確立されたのです。
従いまして、クリスチャンが自由にされているということは、本当の意味で神の命令を実行された主イエスの自由が、聖霊を通してクリスチャンの中に働くと言うことです。クリスチャンは主イエスの命令を実行するとき、与えられている自由を使用することによって、自由の真価を体験するのです。それゆえ自由は正しく使用するために与えられているのです。
この点に関して、プロテスタントの代表的な神学者カール・バルトは、キリストにあってクリスチャンに与えられている自由は自分で獲得したものでなく、与えられたものであり、これまで自分で一度も使用したことがない自由である。従って、クリスチャンは自由を使用する勝手が分からない状況の中にある。そこで与えられている自由を使用するためにはどうしてもキリストの手引きが必要である。その手引きが正にキリストの命令である、と教えています。
こう言う訳で、キリストの命令とは聖書に書かれた文字そのものではなく、聖書の言葉を聖霊によって理解して、キリストの命令が何であるかを認識し、その認識を与えられている自由を使用して実行に移す行為であると言えます。
また主イエスにより与えられている自由について、宗教改革者カルヴァンは次のように教えています。律法は主イエスの十字架の死による贖罪により、もはやクリスチャンを裁かない。すなわち律法を実行しない者を律法はもはや罪人と定めない。それでは律法の役目は何であるか。あくまでも律法の役目は主イエスによって与えられた神の救いに「感謝する生き方」を具体的に教えることであると言っています。
(3)霊と肉との戦い
次に、5章16、17節でこのように言っています。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなた方は、自分がしたいと思うことができないのです。」
ここで注意が必要なことは、パウロの言う肉とは「肉体」という意味ではなく、「生まれながらの人間」を表しています。それは罪に支配されている人間です。それに対して、「霊」とは聖書では、神様の存在と働きの現実を表現する言い方なのです。従って基本的に「復活の主イエス・キリスト」と意味しています。パウロはコリントの信徒への手紙二、3章17節で次のように言っています。
「ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」
このように、「霊」と言う場合に復活の主イエスご自身を指しています。また「主の霊」と言う場合には主イエスが与えられる聖霊を指しています。従いまして、霊に導かれている者とは、復活の主イエスに導かれている者であり、同時に聖霊に導かれている者です。そのような者がクリスチャンです。キリストの十字架の贖いにより、罪が赦され、自由が与えられている新しい人間です。そのような人間を聖書は「霊的な人間」と呼んでいます。しかし、クリスチャンはこの世で生活をしている限り、アダムの子孫としての自己中心的な人間が自分の中にまだ残っており、生きています。そして日々罪と悪の誘惑に負けてしまう弱い人間です。それをパウロは「肉的な人間」と言っています。
この現実を良く考えますと、クリスチャンの状況は、「霊的な人間」と「肉的な人間」が争い合う場です。しかし、クリスチャンはキリストに結ばれている霊的な人間でありますから、霊肉の戦いの中で、霊の勝利をもたらすことができます。
その戦いの中で、クリスチャンは自己中心的な古い自分、この世の悪に染まった自分を捨て去り、キリストの思いと行動に従うために、自分でもキリストの思いを自分の思いとすることを決意し、それを実行するのです。その決意と行動によって、日々新しく生きるのです。この体験を通して、わたしたちはキリストの支配と導き、聖霊の働きを知るのです。そのようにしてクリスチャンはキリストの性質に似る者へと絶えず聖化されていきます。
その際に、主イエスに従うために、わたしたちを励まし、決意と行動へとわたしたちの背後を押してくださる方が聖霊なのです。また、パウロは聖霊を通して与えられる主イエスの思いについて次のように言っています。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6)
クリスチャンは霊肉の戦いの日々を過ごすとき、肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であることを体験します。なぜならば、クリスチャンが一方で、この世の思いと自己中心的な思いを抱いているならば、その思いは暗く、心は闇に閉ざされ、自分の内的生命は枯渇し、クリスチャンは思い煩いと不安と恐れの中にあります。
他方、クリスチャンは主イエスの御顔を聖霊によって見つめます。
主の思いを自分の思いとする決断をするとき、心の霧が晴れて、自分の心が神の御前で清められ、何の後ろめたさもなく、公明正大に生きることができ、心の中に自由の風が吹く環境の中を、新しく日々歩むようになります。
そのようにして、わたしたちの中に臨在し、わたしたちを導いておられる主イエスの栄光の姿を、聖霊を通して常に直視しながら、霊肉の戦いを自分自身の中で行う歩み、これこそクリスチャンが主に従うことです。従って、わたしたちが隣人を愛し、社会のために良い業をしたすべての働きは、自分の功績と誇りではなく、すべては主イエスの恵みのみ業であることを告白し、感謝の供え物として、神に献げるのです。パウロはわたしたちの神への献げもととして聖霊の結ぶ実を5章22~23節で列挙しています。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
このように、わたしたちは主に従うことによって、結んだ聖霊の働きの実を、感謝の供え物として礼拝において神に献げるのです。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなた方は、自分がしたいと思うことができないのです。」
ここで注意が必要なことは、パウロの言う肉とは「肉体」という意味ではなく、「生まれながらの人間」を表しています。それは罪に支配されている人間です。それに対して、「霊」とは聖書では、神様の存在と働きの現実を表現する言い方なのです。従って基本的に「復活の主イエス・キリスト」と意味しています。パウロはコリントの信徒への手紙二、3章17節で次のように言っています。
「ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」
このように、「霊」と言う場合に復活の主イエスご自身を指しています。また「主の霊」と言う場合には主イエスが与えられる聖霊を指しています。従いまして、霊に導かれている者とは、復活の主イエスに導かれている者であり、同時に聖霊に導かれている者です。そのような者がクリスチャンです。キリストの十字架の贖いにより、罪が赦され、自由が与えられている新しい人間です。そのような人間を聖書は「霊的な人間」と呼んでいます。しかし、クリスチャンはこの世で生活をしている限り、アダムの子孫としての自己中心的な人間が自分の中にまだ残っており、生きています。そして日々罪と悪の誘惑に負けてしまう弱い人間です。それをパウロは「肉的な人間」と言っています。
この現実を良く考えますと、クリスチャンの状況は、「霊的な人間」と「肉的な人間」が争い合う場です。しかし、クリスチャンはキリストに結ばれている霊的な人間でありますから、霊肉の戦いの中で、霊の勝利をもたらすことができます。
その戦いの中で、クリスチャンは自己中心的な古い自分、この世の悪に染まった自分を捨て去り、キリストの思いと行動に従うために、自分でもキリストの思いを自分の思いとすることを決意し、それを実行するのです。その決意と行動によって、日々新しく生きるのです。この体験を通して、わたしたちはキリストの支配と導き、聖霊の働きを知るのです。そのようにしてクリスチャンはキリストの性質に似る者へと絶えず聖化されていきます。
その際に、主イエスに従うために、わたしたちを励まし、決意と行動へとわたしたちの背後を押してくださる方が聖霊なのです。また、パウロは聖霊を通して与えられる主イエスの思いについて次のように言っています。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」(ローマ8:6)
クリスチャンは霊肉の戦いの日々を過ごすとき、肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であることを体験します。なぜならば、クリスチャンが一方で、この世の思いと自己中心的な思いを抱いているならば、その思いは暗く、心は闇に閉ざされ、自分の内的生命は枯渇し、クリスチャンは思い煩いと不安と恐れの中にあります。
他方、クリスチャンは主イエスの御顔を聖霊によって見つめます。
主の思いを自分の思いとする決断をするとき、心の霧が晴れて、自分の心が神の御前で清められ、何の後ろめたさもなく、公明正大に生きることができ、心の中に自由の風が吹く環境の中を、新しく日々歩むようになります。
そのようにして、わたしたちの中に臨在し、わたしたちを導いておられる主イエスの栄光の姿を、聖霊を通して常に直視しながら、霊肉の戦いを自分自身の中で行う歩み、これこそクリスチャンが主に従うことです。従って、わたしたちが隣人を愛し、社会のために良い業をしたすべての働きは、自分の功績と誇りではなく、すべては主イエスの恵みのみ業であることを告白し、感謝の供え物として、神に献げるのです。パウロはわたしたちの神への献げもととして聖霊の結ぶ実を5章22~23節で列挙しています。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
このように、わたしたちは主に従うことによって、結んだ聖霊の働きの実を、感謝の供え物として礼拝において神に献げるのです。
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