2016-06-19(Sun)

絶えず祈る 2016年6月19日の礼拝メッセージ

絶えず祈る
中山弘隆牧師

 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
詩編107篇28~31節


 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ルカによる福音書11章5~13節


(1)祈りの必要
 祈りはクリスチャンが主イエスと繋がって、生きるために非常に重要な働きをしています。信仰者は祈らなければ神様との関係の中で生きているという意識が薄れ、霊的生命が弱まってしまいます。死人の中から復活して、今や救い主として働いておられます主イエス・キリストの臨在とその現実を体験できるのは、聖霊による信仰を通してでありますが、またそれは祈りを通してです。
 そういう意味で、使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙一、5章16~18節で次のように言っています。ところでこの手紙は新約聖書の中で、一番古い文章であると見られています。パウロの伝道によって設立されたテサロニケ教会がユダヤ教徒による激しい迫害の中で、聖霊によって、福音を堅持し、霊的力の湧き出る信仰共同体であるために書かれた手紙ですが、その秘訣は祈りであることを明らかにしています。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ一、5:16~18)
 激しい迫害と困難の中でも「いつも喜んでいなさい。」と言う勧めは一見、無理な要求であるように思えます。しかし、クリスチャンは神の愛、計画、力の中に置かれ、神に守られ、キリストの導きを実際に具体的に受けているのですから、喜びと神に対する感謝がクリスチャンの心の中に湧き出で、心を満たすはずです。 
 ただ問題はクリスチャンが神の愛、神の支え、キリストの導きの「霊的現実」を果たして自覚しているかどうかです。自覚していなければ喜びは感じられません。それゆえ、パウロはその霊的現実に気づきなさい、そうすれば「いつも」喜んでおられると言うのです。
 そして、絶えず祈りなさいと励ましています。パウロは一週間の中で、時々思い出したように祈る程度ではなく、毎日祈りなさいと強く勧めます。また、「絶えず」とはわたしたちと関係するどんなことについてもと言う意味が含まれています。祈りは実にわたしたちと主イエスとの人格的な交わりの手段です。
 また詩編107篇28~31節の聖句は、明治以前に来日した宣教師ハミルトン・バラ夫妻がこの言葉通りの体験をしました。1865年に横浜に到着しましたが、彼はそれまでニューヨークの港を出発して、大西洋を航海し、アフリカの喜望峰を回って、中国の上海に到着し、そこで僅か156トンの帆前船に乗り換え、日本に向いました。とこが紀州灘で暴風に遭遇し、沈没寸前の状態が丸一日続き、乗客はパニック状態に陥ってしまいました。そのとき、バラは詩編107編、特に21節~30節の御言葉を沈思黙考しました。そして祈りました。
 「神よ、この船を守りたまえ。もし港に無事着岸することができれば、わたしは誓って身命を惜しまず、忠実に励み、伝道の使命を全うします。」
 このように真剣に祈りました。彼は横浜港に到着した時、この聖書の御言葉が真実であることを知り、以来、力の限りを尽くして日本の伝道のために働きました。キリスト教禁制の中で、英語学校を開設し、日本の各地から集まった青年に英語を教え、1872年に日本最初の教会である「日本基督公会海岸教会」を設立しました。その後伝道が急速に進展し、海岸教会は大きな教会になりました。さらにバラは徒歩で日本の各地に出かけて伝道しました。福音伝道のために、50年間にわたって粉骨砕身の努力を惜しまず、文字通り全生涯を伝道に献げました。バラ宣教師の日本に対する深い愛と伝道の熱意と行動力の源泉は、実に祈りと聖書の御言葉でした。
 さらに、わたしたちが神の性質と御心を思いめぐらし、熟慮する場合も、神は聖霊を通してわたしたちの心を照らし、わたしたちを教えられます。従って聖書の御言葉に聴くことも、また神の御心を思いめぐらし熟慮することも、神との交わりの手段です。
 それにしても、祈りはわたしたちが神の御前に出て、神と対面し、神に自分のすべての状況を報告し、わたしたちの願いを直接神に語ることができる機会です。その場で人間の目に見えない神はわたしたちが祈ることを喜んで聞いておられるのです。それゆえわたしたちは神に一生懸命で祈らなければならなりません。
 全知全能の神はわたしたちを主イエスと結ばれた者として、言い換えれば主イエスの内に、わたしたちの存在の中心が移された者として、神の愛と恵みの対象としてくださり、わたしたちが主に従って、御前に生きるようにしてくださる方であります。
 それゆえわたしたちは自分のすべての面を神に祈りによって報告し、わたしたちの具体的な願いを神に申し上げなければなりません。
そうするならば、神様の御心を知らされ、神様の命令をしっかりと聞きくことができます。これが神の御心であると確信するとき、わたしたちは自分の思いをすべて捨て、神の思いを受け入れ、神の御心を実行することを自分の唯一の願いとすることによって、主イエスと人格的な交わりが生起します。そのときわたしたちは神に応答し、わたしたちの決心を神に申し上げ、自分を献げるのです。
 後は神様の御心が実現しますようにという思いを持って行動するならば、わたしたちは「自分の行動」が神の御心に適うように調整されます。わたしたちは神の導きを受け、「正しい方向」と「正しい姿勢」を保つことができるのです。
 そうすることによって自分はこれでよいのだ、神が万事を益とされる方向に導いてくださるとの「確信」と「安心感」が与えられます。同時に主イエスに従い、主と共に歩んでいるという自覚が与えられ、大きな感謝と喜びが沸き起こります。
 立つか倒れるか、生きるか死ぬかの試練の期間に、神を信頼して、心に平安が与えられる者は、霊的力を得ることができます。このことに関して、偉大な預言者イザヤがイスラエルの危機の最中に声を大にして叫びました。イザヤ書30章15節の有名な言葉です。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』」(イザヤ30:15)
  
(2)神の約束
 本日のテキストであるルカによる福音書11章1節は、主イエスの祈っておられる姿を見て、弟子たちが受けた強烈な印象を語っています。弟子たちは、イエスこそ真実の祈りのできる方である。イエスの祈りを神は常に聞き入れられるという思いを強くしました。そこで、彼らは主イエスにどのように祈ればよいか教えてくださいと、お願いしました。その時イエスは弟子たちに「主の祈り」を祈るように教えられたのです。これが教会の礼拝で用いられている一番大切な祈りです。ところで主イエスが弟子たちに与えられた主の祈りは、父なる神に対する御子イエスの祈りです。
 御子イエスが父に祈られるとき、父は御子イエスを愛し、御子イエスにご自身の意志を祈りの中で示されます。そうすることによって、ご自身がイエスの中に働かれるのです。それゆえ、御子イエスは父を知り、父の愛がイエスの心に働くのです。他方、御子イエスは祈りにおいて、ご自身を父なる神に献げ、父の意志に従い、その命令を実行されます。このことによって、御子イエスは父の中におられ、御子の愛が父の中で働きます。
 このように、主イエスの祈りは、父なる神に完全に依存し求めることであり、父に対する完全な信頼と従順です。否、主イエスは父に対する信頼と従順そのものです。従ってわたしたちにとって、主の祈りは神を「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の性質を与えられるときに、初めて可能なのです。
 そのため、わたしたちは主イエスを信じるとき、聖霊が与えられます。その聖霊によって、わたしたちの心に、主イエスの父に対する信頼と従順が与えられるのです。言い換えれば、信仰と聖霊によって、わたしたちが主イエスと結ばれるとき、主の祈りが可能となります。
 さらに、イエスはどのように祈るべきかについても教えられました。それが5節以下に記されています。
 「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(11:9~10)
 ここで主イエスが用いられました「わたしは言う」というギリシャ語は、「エゴー レゴー」です。普通に「わたしは言う」というギリシャ語は「レゴー」だけで十分です。それなのに「わたしは」という意味の「エゴー」を付け加えるのは、特に強調した言い方で「他の者ではなく、このわたしが言う」という意味です。
 この特別の言い方は、イエスが神について語られるときか、或いは神から与えられたご自分の使命について語られるときか、また主イエスを通して、神様が信じる者に与えられる恵みについて語られるときに使用されています。
 このように、神様は恵み深い方であり、万物を生かし、支配しておられる正しい善なる方ですから、そしてすべての良い賜物と命の所有者ですから、神を信じて、求めるならば、そして執拗に求めるならば、神は必ずお与えになる、と仰せになりました。
 これは神様がどういう方であるかを示す言葉であり、それゆえ神を信じて真剣に、一生懸命に求める者には必ず与えられるという神様の約束です。
 しかし、「求める者は受ける。」「探す者は見つける。門をたたく者は開かれる。」とは単にわたしたちの求める物事を受け取ることができるというのではなく、願っているものを受けるに至るまでに、神様との人格的な交わりが与えられることを示唆しています。
 実に祈りはそのような神との交わりに入る門を叩くことであり、門が開かれるとはその交わりに入れられることです。探す者は見つけるという意味も、神様を尋ね探す者に神様が出会ってくださるという意味が込められています。
 ここで13節に、主イエスは「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」と仰せになっています。つまり、祈りにおいて神が与えてくださる賜物は聖霊であると、仰せになっています。
 これはどういう意味でしょうか。人間が求めるもの、それは神です。探すもの、それは神との出会いです。門をたたく、それは祈りです。祈りが答えられるとき、わたしたちは神様と出会うのです。すなわち、わたしたちが復活の主イエスと出会うのです。
 実に私たちの罪のために、十字架の死において、神の裁きを受けて死に、その死の虚無に呑み込まれるまで、父の意志に従順であった神の御子イエスにおいて、神の義、神の真理が人間の中に実現し、父なる神は主イエスを人間の受けるべき義と命と贖いと自由として、死人の中から復活させ、神の主権を主イエスに与え、主イエスを神の国の支配者とされました。今や、主イエスはそのような救いと神の力と権威を持って働き、救い主としてわたしたちと出会って下さいます。

(3)生ける主イエスの確かさ
 この主イエスの現実と働きを知ることが、信仰です。しかも、それは人間の業としての信仰ではなく、聖霊の働きとしての信仰なのです。聖霊の働きである信仰によって、わたしたちは生ける主イエスと出会い、人格的な交わりの中で、常に罪の赦しを受け、主イエスの義と命と自由を受け、神の御前に新しく生きるのです。
 この測り知れない大きな恵みに満ちた現実を聖霊による信仰によって、わたしたちは認識し、体験し、主イエスに感謝の応答として、自分自身を献げるのです。
 わたしは自分が信仰を与えられ、洗礼を受ける決意をしたのは、祈りによって、生きて働いておられる復活の主イエスの霊的現実を信じることができたからです。それまでは、主イエスを信じ、すべてを主イエスに委ねて主イエスに従うためには、その確かさを保証する印が必要であると思っていました。
 しかし、福音書で主イエスは、いかなる印も与えられないと仰せになっています。人間が納得できるような印は色々なものがあるでしょう。奇跡のようなものとか、人間の考えうる最高の知識とか、探せば限がありません。しかし、それらは神に対して全く通用しないと主イエスは仰せになっています。それゆえ聖書を読んで、祈り、主イエスの御言葉と性質と行動の確かさを信仰によって与えることだと分かり、それからはひたすら聖書を読み、祈りました。そのように二、三か月ほど経ちましたとき、主イエスの生ける現実を確信することができました。一旦この確信が与えられると、信仰とは実に単純で幼子のように喜んで信じ、主を受け入れ、主にすべてを献げることであることも分かりました。その結果、教会の礼拝の中で洗礼を受け、信仰共同体である礼拝を中心とする教会に属することで、主イエスの恵みの豊かさの中で、常に罪を赦され、常に自分が新しくされることによって、主イエスの命に生かされることが段々と分かって来ました。
 目に見えない復活の主イエスが御言葉と祈りと聖霊によって、出会い、導いてくださっているこの確かさが、救いの根拠であり、救いの岩です。



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