2016-06-12(Sun)

溢れ出る神の愛 2016年6月12日の礼拝メッセージ

溢れ出る神の愛
中山弘隆牧師

 何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書6章6~8節


 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章29~37節


(1)わたしの隣人とは誰か
 本日の聖書の箇所において、主イエスはわたしたちに隣人とは誰であるかを教えられました。ここで先ずユダヤ教のある律法学者が、神の定められた律法をどのように解釈するかについてイエスに論争を仕掛けたことが記るされています。
 律法学者はイエスに向かって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と議論の火蓋を切りました。イエスはそれを受けて立ち、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といって、問いを相手に返されました。これは律法の根本目的は何かという問いであります。
 それに答えて、律法学者は律法全体を二つの戒めによって総括しています。すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と聖書に書いてある、と答えました。
 この第一の戒めは、敬虔なユダヤ教徒たちが毎日唱和している信仰告白である申命記6章4節と5節に含まれています。すなわち「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という聖句の後半の部分です。
 また第二の戒めである「隣人を自分自身のように愛しなさい」という聖句は、レビ記19章18節の引用です。事実、レビ記には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と書いてあります。
 律法学者がこの二つの戒めの上に律法全体は立脚していると答えたのを見て、主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と仰せられました。
 イエスのこの言葉から分かりますことは、永遠の生命は「神と隣人とを愛する」ことに他なりません。神と隣人とを愛する者は、終末において到来する神の国の生命を、その先取りとして今すでに地上にあって生きると、イエスは仰せられました。ここには実に深い意味が秘められています。
 しかし、律法学者は隣人に対する愛について、条件を付けることによって実質的に隣人愛を拒もうとして、次のように言いました。
 「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたのです。
 これは隣人愛の範囲を制限することによって、隣人愛の義務を軽減しようと意図したのです。しかし、彼らの意図は律法を与えられた神の御心に反しています。

(2)溢れ出る愛
 これに対して、主イエスは善きサマリア人の譬え話をされました。ところで、この譬え話は例話であますので、人がその通りに実行すべき性質の物語です。
 ここでイエスが示された隣人愛は、民族の枠を越えて働く愛です。「あなたの助けを必要としている者は、どの民族に属していようとも、あなたの隣人である」と言われたのです。すなわち、イエスは「与えられた時と場所で、活きて働く愛によって、あなたが助けることのできる者は、誰であっても、あなたの隣人なのだ」と教えられました。
 30節で「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追い剥ぎに襲われた。追い剥ぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」と話されました。
 この種の事件は当時頻繁に起こりました。エルサレムの町からエリコの町までは、約30キロの急な下りの坂道です。徒歩で約8時間も掛かかる長い坂です。しかも岩ばかりの荒涼とした坂がどこまでも続いており、追い剥ぎが出没する悪名高き道路でした。それでも幹線道路なので人々は危険を冒してもそこを通らねばなりません。
 31節、32節で祭司とレビ人が登場してきます。彼らは神殿での当番が終わり、次の当番まで郷里で過ごすため、エルサレムから下って行ったのだと思われます。ちょうどそのとき追い剥ぎに襲われて、半殺しになって倒れている人の傍を通りました。
 祭司は神殿で民衆に律法を教える立場にある宗教家です。それゆえ隣人の災難には誰よりも同情の念が厚いだろうから、きっと自分を助けてくれるに違いないと重傷を負ったユダヤ人は期待しました。それにも拘わらず祭司は見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎていきました。彼は自分の身に危険が迫ってくることを感じ、足早に立ち去ったのです。また、神殿に仕えているレビ人も同じように、通り過ぎてしまいました。
 その時、サマリア人の旅人が近づいてきました。彼は商人でエリコからエルサレムへ上る途中でした。残念ながら強盗に襲われたユダヤ人にすれば、サマリア人から助けを期待することはできません。 
なぜなら、サマリア人はユダヤ人がバビロンに捕囚されていた時期に、祖国に残ったユダヤの貧民階級で、その間に他の民族と混血してしまったからです。
 彼らは神と旧約聖書の最も重要な部分を信じていたにも拘わらず、ユダヤ人が捕囚から解放されて帰国したとき、ユダヤ教の教師エズラによって、サマリア人は純粋のユダヤ人でないという理由で、ユダヤ教から追放されたのです。それ以来、ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲で、互いに敵対していたのです。
 「ところが、旅をしていたサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(10:33)
 このサマリア人は普段自分たちを軽蔑し、差別しているユダヤ人が瀕死の状態で倒れているのを見ると、人ごとのように思わず、深い同情を覚えました。この人は災難に遭った人の立場になってその苦しみを自分自身の苦しみとして痛感したのです。
 「憐れに思い」というギリシャ語は、実に深い意味があります。それは「心の一番奥から出る感情」に突き動かされ、人の災難を自分自身の災難のように思い、同情することです。しかもその人を助けることを「自分で決心する」という自発性は心の最も重要な働きです。これは人間の行う高貴な尊い決意でありますが、そこには人間のレベルを超えた神の働きがあります。
 さらに、翌日宿屋の主人にデナリオンの銀貨二枚を渡し、介抱してくれるように頼みました。この額は数日分の宿屋の料金に相当すると言われています。さらに、もし余分に掛かった費用は自分がエルサレムを出発するときに支払いますと約束しました。
 考えてみれば、このサマリア人の献身ぶりは、並大抵の親切ではありません。損得を計算しない、実に溢れ出る愛です。しかも無償の愛です。出し惜しみする施しではありませんし、ひも付きの援助でもありません。心の中から溢れ出る豊かな愛です。このとき助けられた人にとって、サマリア人を通して、復活の主イエスが出会って下さったといえます。勿論この譬え話をされた時点では、主イエスはご自分の気持ちを例話の中で、憐み深いサマリア人として表現しておられます。
 それでは、人がなぜそのような愛を実行できるのでしょうか。それは決して単なる義務感から実行しているのではありません。神様がわたしたちを愛して下さっていることを知っているからです。
 クリスチャンは主イエスがわたしたちを救うために、十字架について死に、ご自身の尊い命をわたしたちに与えて下さったことを、知っているからです。そして神様は聖霊を通して主イエスの愛をわたしたちの心に注いで下さるからです。

(3)神の愛に応答する隣人愛
 とこで、人間に対する神の意思であり、命令である律法は先ほど律法学者が正しく答えたように、神を愛することと隣人を自分自身のように愛することです。神を愛するとは、神に従うことです。
 ここでの問題は神様が人間に実行不可能な厳しい命令をお与えになったのではありません。神様が人間を愛して下さったので、人間が神の愛に応答するならば、実行できる命令なのです。その点が律法の本質であります。
 しかし、人間は何事でも自分本位に考える罪深い性質を持っていますので、神様の救いを得るために、神様の命令を実行しようと考えました。それがいわゆる「律法主義」です。それは律法を実行しなければ神の裁きを受け、救いから排除されることを恐れるからです。他方、律法を実行することを自分の功績と考え、その報酬として救いを獲得しようとするからです。そのような態度は神の御心に反するので、自己中心的な人は律法を守ることはできません。
 しかし、神は御自身に反抗している罪人を愛されました。罪人を救うために、神の御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人間の罪を贖って下さいました。その結果、神は主イエス・キリストによって人間の救いを達成されたのです。さらにその救いを主イエスの中に保存し、主イエスを救い主とされました。
 そのような方として、復活の主イエスは福音の言葉を通して、日々わたしたちと出会い、同時に聖霊を与え、聖霊による信仰を与え、信仰によって主を認識させ、喜んで主に従うようされるのです。
 このような先行する神の愛と救いによって、主イエスを信じるとき、わたしたちは神の命令を喜び、自発的に命令を守るのです。神に感謝して自発的に隣人を自分自身のように愛するのです。なぜならば主イエスは御子として父なる神に徹底的に従順な方で、そのイエスの性質を聖霊が信仰者に与えられるからです。それゆえ聖霊による信仰を持つ人は、御子イエスのように神への従順と自発性をもって神の命令を実行するのです。
 また、聖霊が神の愛を信仰者の心に注ぐからです。しかしその愛は主イエスの贖罪愛です。それゆえ宗教改革者ルターは聖霊の働きによる信仰は、神の愛に応答して、隣人を自ら進んで自分のように愛する行為となって働くと言っています。このような自発的な愛はキリストを信じる信仰と連結しており、同時発生的であると言っています。ルターは聖霊による信仰は活力があり、行動的で、力強い信仰で、常に「行為」を生み出す。ちょうど炎から光と熱を分離できないように、信仰から愛の業は分離できない、と言っています。
 それゆえ、本当の信仰はわれらの内に働く神の業であり、それはわれらを神の力により、清め、再生させる。われらの中にある古いアダムを殺し、われらを聖霊によって刷新された心と能力と自由のある新しい人間とする。従って、信仰が善いことのために絶えず働いていないということは、そもそも不可能であると言っています。

(4)キリストを代表する隣人
 最後にルターは隣人がキリストを「代表」していると言っています。それはわたしたちが信仰の友、あるいは隣人と出会うとき、隣人を通してキリストご自身がわたしたちと出会われるという意味です。なぜなら、わたしたちが主の愛に応答するとき、わたしたちの主に対する愛は隣人を通して主に献げることを主は求められるからです。それゆえ、わたしたちは主を愛し、主の御心を実行するためには、主にわたしたちの愛と従順を献げる思いで、隣人に愛の行為をしなければならないのです。この意味で、ルターはわたしたちが隣人において主に出会うのだ、と教えています。
 隣人がいかなる人であっても、信仰者でも、信仰者でなくても、主はその人のために死に復活されたという無類の恵みの中で、人間は人格の尊厳が与えられています。そゆえ、わたしたちは出会う隣人を無条件で尊敬するのです。たとえわたしたちの目が隣人の罪を認めても、自分は主によって罪を赦されている者として、隣人を赦し、隣人の弱さを認めても、同様に自分の弱さを自覚し、隣人のことを自分自身のことのように愛し、助けるのです。
 このように、わたしたちは聖霊による信仰によって主イエスと結ばれ、主を通して、隣人と出会い、隣人を自分自身のように、自ら進んで、喜んで愛し、共に生きるのです。このとき、神の愛が言い換えれば主イエスの贖罪愛がわたしたちの中に働き、隣人愛となり、わたしたちを通して、隣人に向かって流れて行くのです。
 このようにわたしたちは神の愛の流れるチャンネルとして、神の愛を伝える神の道具とされます。またそうなることによって、わたしたちは利己的な自分から清められ、高められ、主イエスの性質に似る者となり、主の中にある復活の命を隣人と共に生るのです。



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