2016-06-05(Sun)

神の真実に従う 2016年6月5日の礼拝メッセージ

神の真実に従う
中山弘隆牧師

 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
出エジプト記17章1~7節


 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
コリントの信徒への手紙一10章1~4節


(1)歴史の事実による神の選び
 出エジプトの歴史的な出来事は、エジプトの奴隷階級であったイスラエルを神様がご自身の民として選ばれた神の愛の啓示です。
 このことが聖書の信仰の原点です。神様は歴史の事実の言葉を以て語り、ご自身を啓示される方です。実にこれが聖書の神です。出エジプトの一連の事件のクライマックスは出エジプト記14章と15章に記されています。夜間に乗じて脱出したイスラエルの民を連れ戻そうと追跡して来たエジプトの王ファラオの精鋭であった戦車部隊が、逆流してきた海の波に呑み込まれて、ファラオの目の前で一瞬のうちに全滅したことです。それは自然現象をも支配される神の強い御手の現れでした。
 ここに、イスラエルにご自身を現わされた神が人類の歴史を支配される主権者であることが明らかに示され、さらに神は天地万物の主権者としての絶対的な自由をもって、イスラエルを愛し、彼らをご自分の民に選ばれたことが啓示されたのです。この神の行為とそこに働いている神の恵み深い意図を信じ、理解し、神に従うことが聖書の信仰です。
 神はイスラエルの民を選び、その民の歴史を通して、神の救いを全人類に及ぼそうと決意し、そのように定められました。この神の意図と計画については、申命記7章7~8節が次のように説明しています。
 「主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
 従いましてイスラエルは自分の価値のためではなく、ただ神の先行する愛によって選ばれました。その目的は人類の歴史を支配する神の知恵と力と神の愛とを証するためです。これが第一の目的です。
 第二の目的は、イスラエルが人智を超えた神の愛に感謝し、神を信頼し、神に従い、神の命令を実行することです。つまりそのようにしてイスラエルが神の性質を映し出す神の民となり、全人類に神の救いを証するためです。
 なぜならば、もしイスラエルが強力な民であったとすれば、人間は高慢で自分本位の考え方をしますので、出エジプトの事業は自分たちの勇気と努力によって達成したのだと考え、歴史を支配する神の力を知ることはできなかったでしょう。
 同時に絶対的な自由をもって、イスラエルを選ばれた神の愛の深い性質も理解できなかったでありましょう。つまり、神の愛に対して心から感謝し、自ら進んで神に従う以外の生き方は最早ありえないと悟り、その生き方を幸いとする体験はできなかったでしょう。

(2)信仰を要求する一連の事件
 次に、出エジプトの事件は最初から最後まで信仰を要求する事件です。言い換えれば、神様が歴史の中の行為を通して語られる神の言葉を聞くためには先ず信仰が必要でした。この観点から見ますと、神の目的は不信仰との絶えざる戦いの中で実現したのです。その代表的な一つの事件が出エジプト記17章に記されています。
 「民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ。』と言うと、モーセは言った。『なぜわたしと争うのか。なぜ神を試すのか。』(出エジプト17:2)
 ここで、「争う」とありますが、それは単なる喧嘩ではありません。そうではなく神が任命されたモーセの指導者としての地位を否定したのです。長い旅に疲れ果てやっと辿り着いた宿営地に水が全くありませんでした。水がないと言うことは致命的です。突然の破局に直面して、モーセに対する不満が一気に爆発しました。しかしたとえモーセを石で打ち殺しても民はこの窮地から脱出することはできません。それは絶望から発する理由なき反抗です。そしてその絶望は神への不信仰が原因です。
 それに致しましても、これまでもイスラエルの陣営では信仰的な見方をする人たちと、不信仰な見方をする人たちとの間で、激しい意見の対立が繰り返されてきました。
 困難に遭遇すると、不信仰の側が優勢になり、出エジプトの意義を根本から否定しました。
 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしたちも子供たちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」(出エジプト17:3)
 そしてエジプトの生活を思い起こして恋しがったのです。今や自由の身となった民の食事は、エジプトの奴隷であったときの食事と比べると、はるかに劣っていました。食べ物についての彼らの嘆きは大きかったのです。出エジプト記の並行記事である民数記11:4~6節で次のように書いてあります。
 「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。』」
 このように、神の与えられる粗末なマナよりも、エジプトの食事がどれほど良かったかを今更のように思い出し、イスラエルの神よりも、楽な生活をさせるエジプトの神々を信じたのです。その原因は彼らが生活の安楽だけを考えていたので、天地万物の主権者である生ける神に愛され、選ばれたにも拘わらず、自分たちの人生を貫いている神の恵み深い目的に少しも心を向けていないからです。
 どのような事態になろうとも変わらない神の選びと神の愛を見つめながら日々を送っていないから、絶望し、神を捨てたのです。

(3)主権者である神の愛の性質
 次に、旧約聖書で最も特徴的なことは、神の愛の性質です。神はイスラエルを愛してご自身を民と連帯化されたのですが、それは決して自然的な結びつきではありません。連帯性を保つ中で、神は神であり、人間とは異なる主権者です。神の主権とは、人間を支配し、人間が神に従うことによって、神の御前に人間を生かすことであり、同時に、神を信ぜず、神に背く人間を裁くことです。
 従って、神はイスラエルを選ばれましたが、イスラエルの罪を見逃し、そのままにして置かれることはありません。イスラエルに対する神の愛を裏切るとき、神の愛は怒りとなって、イスラエルを破局に遭遇させられました。それゆえ、罪を罰する神の怒りはイスラエルにとって、恐るべき力でした。
 しかし神の怒りは神の愛が違った形で現れたのであり、イスラエルの罪を焼き尽くす愛の炎でした。それゆえ、民が神の怒りを受けるとき、それでもなお神を信じ、信頼し、悔い改めることが、神に選ばれた民の信仰なのです。本当の信仰は神様の愛の鞭を受け、自分の高慢と利己的な生き方を改めることです。
 海外医療協力会から派遣され、ネパールの結核の治療と保険事業に従事された岩村昇先生はネパールでは信頼が厚く、国王の車に一緒に乗せられる厚遇を受けられました。先生がネパールに行っておられた期間の或る時期に先生の母上が所沢武蔵野教会に出席されていましたので、先生をお呼びしてネパールのことを伺いました。その話の中で、先生は明るい笑顔でこのように仰いました。
 「神様はわたしが高慢になっていると、拳骨を一つわたしの頭上に落とされます。その時、自分は『ああ痛い、神様有難うございます。』と神様に感謝します。」
 このように話された先生の姿をわたしは今でも覚えています。その時、教会員の皆様にネパール語で、「神は愛である」とのサインをしてくださいました。
 イスラエルの民が出会った試練は神への信頼と服従の問題です。不信仰と反逆のために神の裁きを受けた、イスラエルは自己の存続の危機に直面しました。そこで神はモーセに仰せになりました。
 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」(出エジプト17:5~6)
 モーセは神の命令に従い、ホレブの山の岩を杖で打ちました。するとどうでしょうか。驚いたことに、たちまち新鮮な水が湧き出て、民は命を保つことができたのです。この深い意味を民数記20章13節が示しています。実にその所で神は御自身が「聖なる方」であることを啓示されたのです。
 「これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主がご自分の聖なることを示された所である。」
 メリバとはヘブル語で「争い」の意味です。出エジプト記17章7節では「果たして、主は我々の間におられるかどうか」と言って「モーセと争い、主を試したからである」と説明しています。つまり神を試すことであり、それは「不信仰」を意味しています。
 しかし、それにも拘わらず、神は不信仰で反逆する民を救い、助けられました。その唯一の根拠は、神が「聖なる方」であることです。それゆえ、民数記20章14節にあるように、この場所はその後「カデシュ」と改名されました。「カデシュ」とは「聖なる場所」と言う意味です。
 ここにおいて神は「聖なる神」としてイスラエルの民にご自身を啓示されました。民が神を疑い、神に反抗しても、神から離れ去っても、神は民を愛し続け、民を見捨てず、民を選ばれたご自身の目的を実現される真実な神であります。神がご自身とその目的に忠実であること、これが神の真実であり、その真実が人間の救いとなって現れること、これこそ神が聖なる方として、信じられ、崇められ、神の栄光が現れるのです。
 それゆえ、聖なる神は不信仰で、神に反抗する民を裁かれますが、その裁きを通して、民を霊的な新しい命に生かし、民が神を信じ、信頼し、神に従順で、神の命令を喜んで実行する者へと変えて下さる真実なる神なのです。
 この事件において、民だけでなく、モーセも動揺し、信仰が揺らぎました。民の指導者として神に任命されたモーセも罪を犯したのです。それゆえにモーセも神の裁きを受けました。それにも拘らず、否それゆえに、モーセと民は神の御前に新たに生きる道と命が与えられたのです。それでは、わたしたちクリスチャンはどうでしょうか。困難に直面して、信仰が揺らぐことがないでしょうか。その結果わたしたちの心が神様から遠く離れていることはないでしょうか。モーセの場合を考えるとき、わたしたちは常に神様に立ち帰ることの必要性を痛感します。

(4)イスラエルと共におられた霊的主キリスト
 最後に、新約聖書はコリントの信徒への手紙一の10章1~13節で、「その岩こそ、霊的主キリスト」であったと証しています。
 「皆、同じ霊的な食べ物、皆が同じ霊的な飲み水を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(コリント一、10:3~4)
 もちろん新約聖書の言う霊的キリストとは、神のロゴスであるキリストであり、神のロゴスがイエスとなる以前のキリストを指しています。しかし、今や神のロゴスである御子が父なる神のもとから人間の世界に派遣されイエス・キリストなり、その地上の生涯を通して、殊に十字架の死と復活を通して、主イエス・キリストとなられたとき、主イエスにおいて、神の聖なる栄光が現れ、主イエスの従順により、人間に対する神の真実が貫き、主イエスにおいて、人間の救いが成就したのです。
 従って、主イエス・キリストを信じることによって、わたしたち罪人は主イエス・キリストと結ばれ、主イエスの支配と導きの中で、神の御前に生きるのです。正にそのような信仰は聖霊の働きによるのです。聖霊がわたしたちの中に働き、わたしたちに主イエスを信じさせているのです。
 それゆえ、わたしたちは聖霊による信仰によって、いかなる場合でも、主イエスを信じ、主イエスに求め、主イエスに従うのです。すなわち、わたしたちは信仰と行動を堅持することができるのです。それゆえ信仰と従順を堅持しなければならないのです。
 この状況が主に結ばれたクリスチャンの実体です。要するに、主イエス・キリストを信じ、従う者は、どのような試練の時も、神は聖なる神であり、真実でありますので、神を疑わず、その試練を通り越していくことがでます。パウロは同じコリントの信徒への手紙一、10章13節で次のように言っています。
 「神は真実です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」



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